一部 四章 夜明け前のこと


 先代を破損申請し代わって支給された新しい端末。

同じモデルでスペック的に何も変化した部分は無い、しかし新品ゆえの不自然な小綺麗さからだろうか、なんだか落ち着かなかった。

画面を見ると着信通知が一件、いつもと同じく送信元の名前は無い。

代わりに、かつて存在したという麒麟という生き物の、首から上の簡略なモノクロイラストがアイコン表示されている。

それだけが分かれば充分だった。そのまま画面を消してロッカーに投げ込んだ。


 クラスメイトたちはとうの昔に演習の汗を流し終えた後で、故にシャワールームはわたし達以外誰も居なかった。通信ノイズのような水音が身体と床面に弾けて、匂いと汚れを洗い流してくれる。パーテーションで区切られた一人用のスペースは、当然だけれど二人で入るには手狭だった。

うなじの辺りと腰椎の辺り、鈍色の接続端子のカバーをそっと触れる。それ以外の生身の部分に浮く、痣やブーツの痕に触れるのは気が引けたから。

三つ編みを解いたヒナコの髪は腰のあたりに届くほど長く、だからウォッシュ・ジェルを脇のノズルから多めに手に取る。彼女の髪をこうして洗うのは、かなり久しぶりだ。少し前まではよくやっていたけど、最近はとんと機会に恵まれなかった。ジェルの香りは施設の頃に使っていたそれと変わらず、わたしの指の間をこの白い髪がすり抜けて行く、くすぐったい感覚を上塗りしていった。

「いつもとおんなじ、身体は自分で洗ってね」

髪を傷めないように梳くように洗う

返事はなかった。大人しいのは疲労からだ、疲れると極端に口数が少なくなるのだ。

しかしややあって、僅かに頭が左右に揺れる。

「痛かった?」

「…ちがう」

溺れそうなほど、小さな声だった。

「じゃあ、なに?」

言葉はなく、壁に手をやってふらつく身体を支えながら振り向く。

俯いたまま、前髪が目元を隠すせいでその瞳の色は見通せない。

支えの為に着いた手がパネルに触って、水流が止まった。

排水溝に吸い込まれる泡が弾ける。騒雑とした水音から解放されて、まるで静寂を纏ったみたいに彼女は目の前に立っていた。

「…いつもと同じ、それ本気で言ってるの?」

その言葉の真意が、まるで分らない。

「本気も何もそうだけど。いつも通りに髪洗うんだからさ」

「ちがうのッ!」

じん、と彼女の声がシャワールームに響く。

「ちがう、ちがうのよ…ユリカ」

自分を掻き抱く、傷だらけの小さな肩が震えていた。

そして顔を上げる。怒り、悲しみ、分からない。様々な色彩が混ざった瞳だ。

それがただひたすらにわたしを貫くように差し向けられている。

背筋に怖気が走って、わずかに一歩後ろに下がる。

がしかし、伸びた手がわたしの掌を握った。

恐怖と共にその瞳が綺麗だと思った。

「ねえユリカ、いつからそうなっちゃったの?」

この幼馴染は何を言っているのだろう。

「この前玄関で跪いて、アンタは何を抱いていたの?」

なるほど、合点がいった。

「ああそれ? 突然どうしたかと思ったら、その話なの」

ヒナコになら、言っても良いと思った。


「「あの娘はね、わたしの宝物なの」」


 暗い部屋。靴で踏み抜いた樹脂の欠片が砕ける。

宝物とはいったい何か、と問う。誰も答えを言ってはくれない。

毎日、ベッドへとたどり着く前に床に崩れ落ちる。手の中にあった端末が滑り落ちて、硬質な音を響かせる。メアリスの髪を撫ぜる感触と、ヒナコの髪が指の間をすり抜けていく心地よさが同質のものだと気が付いて、はらわたが締め上げられたように苦しくなった。

「…やってきた幸せの青い鳥は、いつか飛び去る。この手がその鳥籠を開けるのだ」

苦しい、ああ苦しい。

一度だけ読んだことがある。「施設」に回収された子供の誰かが隠し持っていた絵本。色褪せてカドは擦り切れて、強い風に吹かれたならきっと頁がバラバラに散ってしまっていただろう。幸いにも風の無い廊下の片隅で、開かれたまま落ちていた。

孤独な少女リズの元に舞い降りた一人の女の子。それはいつも空から少女を見守っていた青い小鳥だった、本当の姿という秘密を背に隠して。想い想われ、優しさに満ち足りた生活はしかし彼女の秘密とその自由の羽根を見てしまったことによって終わる。祈りと願いを抱いた少女は自身という鳥籠の鍵を開けて、遂に別れを選ぶ、そんな話だった。

握ったヒナコの手の温かさに反して、紙に宿っていた持ち主の体温が徐々に抜けていったのをよく覚えている。

「メアリス」

そして、少女にとって何物にも代えがたい青い鳥を手放すという選択をどうしても飲み込めず、かといって捨てる事もできずに今日まで抱えて生きている。

「メアリス」

宝物。

「メアリス」

自分にとって何物にも、そして何者にも代えられない大切なもの。

「メアリス」

己の生命と等価値、いやそれ以上だと信じられるもの。

「メアリス」

……、…


 耳朶を打つこの声が、自分の喉から発せられたものと気が付くのに数瞬の間を要した。

メアリスの名をずっと唱えていたらしい。膝を着いて手を合わせて。

何時間が経っただろうか。跪いた身体は冷え切っていて、ヒナコはもう姿を消していた。

膿んだ空気が滞留するシャワールーム。

匂いとかではないもっと感覚的なイメージが澱んで溜まっていく。わたしの肉体を成す薄皮一枚内側に充填されているのは、案外そういった虚無と極めて近似した何かなのかもしれない。いやもっと薄い煙草の煙のようなものかも。

いつからか感じ始めた渇きは、何に対しての渇きなのか未だに分からないままひたすらに疼く。けれど最近少しだけ分かってきた。

「宝物」

違う。もっと、もっと本質的なもののはずだ。

肩の力が抜けて床に手を着いた。


「ほんとうの、さいわい」


自分の中にある知識(タワー)の中で、一番近い語彙はこれ以外に見当たらなかった。

しん、と膿んだ空気が震える。

 バン、と電気系統が切り替わる破裂音がした。ブザーと共に灯りが赤色に落ちた。

それから数秒後に不意に瞬いた白い光で切り裂かれて、喉奥から薄い呻きを吐いた

視界の調光が一瞬で補正される。光源は跪いた真下、落とした携帯端末の画面。

二件の着信。

虹彩を認識して端末のロックが解除される。社内警戒レベルの引き上げと、そして麒麟のメッセージだ。社内の方はどうでもよい、麒麟の方が重要だ。

メッセージを開く。

いつもの通り長い空白の果てに二次元コードが表示される。その筈だった。


〈 ―お持ちなさい、あなたの望んだその星を― 〉


文章が直接打ち込まれているのは初めてだった。

赤い闇の中、排水溝に澱んだ水がくぐもったうめきを上げて流れ始める。

闇の中心でメアリスが白い髪をなびかせながら影もなく立っていた。

幸せという言葉は実際に声に出してみると案外安っぽい、そんな事に気が付きたくなかった。



この麒麟という生物はどうやら首の長い生き物だったらしく、アイコンでもそのように描画されている。長い首にある九つの五芒星型の模様が印象的だった。

だからこの送信者をアイコンイラストのまま麒麟と勝手に呼んでいた。

しかしながら実在したという麒麟とやらは、本当にこんな模様を首に散りばめていたのだろうか。

薄暗い部屋で眩いのは画面だけだった。

本能に任せて動かした身体は内側から蝕む炎症のように芯から熱を放っている、そんな気がした。

「…何を、見てるんだ?」

蒸れたシーツが擦れる、後ろにいる彼がこちらの手元を覗き込まんとしているので画面を消す。なんでもないから、と呟くとそれに納得したのか応えもせず、訓練と快楽の疲労でシーツに再び倒れ込んだ。


「フウ…」

再度画面を点ける、輝度は最低に設定しておく。

視線に追従しメッセージウィンドウが開く。

文面は白紙。だが麒麟は毎回最後に画像リンクを張り付けてくる。

今回もそうだった。

長く数秒はスクロールしただろうか、やっとリンクが出てきた。

画像は変わらず古めかしい二次元バーコード。しかしそれを視線でなぞると、視界の中でリンクが直接ポップした。自身の電脳を防御する数十層から成るウォールの最外縁にリンク先の圧縮ファイルをダウンロードする。すぐに削除できるように。

脱ぎ散らかした互いの衣類のその下から男の端末を拾い上げて、直接首元から伸ばしたケーブルを有線接続する。ややあってファイルの転送が完了すると、すぐさま解凍に移った。


 葵ユリカという人間に興味を持つようになったのは一カ月ほど前からだと思う。

だが今日までに降り積もったえも言われぬ黒々とした感情は、それよりも遥か昔から抱いていたようにさえ思える。

 素肌を流れ落ちる冷水は、熱に浮かされた思考と下腹部の穢れを洗い落とし、かわりに明瞭さを起立させていった。

「嫌い、私は葵ユリカが嫌い…」

言語は意識無意識を問わず、流れ続ける思考に形を与える。それが発声を伴って物理的な性質を得た時、元となった思考への執着を増幅する。

何倍、いや何十倍にもだ。

脇のアメニティラックから新品の剃刀を一本抜き出す。外袋を破り捨てて刃のキャップを外す。剥き出しの刃がシャワーのしぶきを受けて、浴びている冷水の冷たさのそれ以上に鋭い輝きを見せる。

あの同級の男とセックスをするのは今回が初めてでは無かったが、別に彼との子供を臨んでいる訳ではなく、また好いているというような感情も欠片程さえ有してはいなかった。強いて言うなら憂さ晴らしに行うスパークリングと、打ち込むクッションの関係に似ている。彼も同じ認識だろう。

握った剃刀の刃を、左の手首から肘に向かって十五センチ遡ったちょうど下腕の中間地点、そこにあてがう。そのまま押し付ける方向へ四十パーセント、右方向へのスライドに六十パーセントという割合で力を込める。


― 警告 左腕に裂傷発生 


― 警告 左腕当該箇所に出血の発生を検知


― 警告 今すぐ全ての行動を中止し、左腕当該箇所を処置せよ


 視界に赤字の警告文が踊る、朱い筋が生まれた後、一呼吸置いて背筋を駆け上がった痛みはすぐさま電脳の防護機能でシャットアウトされる。

シャットアウトの度合いはある程度自身の裁量で決定できるが、その度合いを最大に設定しているのは紛れも無く自分の意思だった。

無意味で無益なのは百どころか万まで承知である。

これは単にシャットアウトを最低値にしているユリカへの当て付けだった。いやそれだけじゃない、あの同級生とセックスをするのも幼馴染と親密にしている彼女への当て付けのそれであるし、昼間の演習後に男を使ってその幼馴染を傷めつけたのもやはり根底に沸き立つ嫌悪の感情がそうさせた。全ては嫌がらせであり、敵視の結晶であり、それが自身の快楽なのである。

ナノマシンの働きで患部に治癒被膜の薄皮が形成されていた。

警告表示は消え、完治まではあと十数時間と言ったところだろうか。医療的な処置を行えばもっと早いだろう。


 ひとつだけずっと閉まったままのパーテーションを過ぎて、赤灯に染め上げられた社員共用シャワールームを出る。

脱衣所のパネルで医療用の貼付パッドを請求すると、受領口からパッドのボックスが転がり出た。開封し貼面のフィルムを剥がして傷口に貼る。

ロッカーの前で下着を手に取ったとき、脱衣所の出入り口が開く音がした。エアカーテンの風量が強くなった。

(なんでここにいる)

喉元から出そうになる声を、何とか堪えた。

深夜、もう訓練生はもう来ないとばかり考えていた。

しかしそこに葵ユリカが居た、あの閉まったままのパーテーションに居たのか。

その表情は得も言えぬ虚に満ちていて、瞳はただ正面を反射するだけ。

一瞬こちらを視留めるが、すぐに視線を外して自らの着替えを入れたロッカーに向かった。

 こちらはシャットアウトが働いているとはいえ、血液を幾らか失った身だった。

何も纏わずに濡れていれば寒気を感じるものである。ざっとタオルで拭って支給の衣類に着替える。

 そのままゆっくり外に向かう、これ以上ここにいる理由は無かったが、じっくりと嘗め回すように着替える葵ユリカを見つめながら足を運ぶ。

彼女の背後を通過する一瞬、背面のホックに遣っていた手がだらりと落ちた。唐突だった。

「…悪趣味」

独り言のような声量だが、明らかに背後のこちらを意識していた。

煩く風を吐き出していたエアカーテンが止んだ。

それでも頬にふわりとした風を感じて、湿度と心地の良い香料の香りを感じたのはユリカが振り向いたからだ。

彼女の視線が手にしているパッドのボックスを認めて、そのまま左腕に流れる。

「人の傷跡を探して見るそっちも大概だと思うケド?」

ふん、と鼻を軽く鳴らして答えると、すっとそのボックスを指さす。

「一枚くれないかしら?」

わかった、と言いたくなかったから無言で適当に一枚を取り、差し出す。

すると彼女は首を横に振る。

「もっと小さいのを頂戴、顔に貼れるようなサイズのを」

ボックスの中のパッドはS、M、Lの三種類が入っており、今差し出したのはLサイズ。しかし彼女が欲しがっているのはどうやらSサイズらしい。

所望のパッドを改めて渡す。

受け取った彼女は眼前に持ち上げて、記載された僅かな注意書きを読み込んでいる。

しかし顔に貼れるようなサイズと言っても、葵ユリカは特段怪我をしているようには見えなかった。すらりとした体躯は下着だけになっている今だからこそよくわかる。それに整った目鼻立ち、紅い瞳。赤いリボンで結わえられた黒髪も今は降ろされている。真一文字に結ばれた口元はどこか煽情的で、もし噛んだら良い具合に血の味がしそうだなと思った。笑うよりも不機嫌で居る方がきっと美しい女なのだ。いやそれは、自分自身の好みの問題か。

と彼女を品評していると、不意に視線がこちらを捉えた。

「…やっぱり悪趣味」

否定する気もさらさらなかったから、口端で笑って見せた。

すると、ずいと一歩こちらに寄った。

そのまま流れるように右手が持ち上がって、勢いをつけるが如く後方に振れる。鞭のそれのようなしなりと筋力、腕自体の質量が迫る。乾いた音がまるで他人事に聞こえたが、その一撃は己の顔面に直撃した。

視界が一瞬の更に半分くらいの間、途切れた。

不意だった。

殴られたと即座に理解したが反撃するつもりも無かった。

痛みは無い、シャットアウトされているから。ただし衝撃は殺せないので後ろによろめいた。

視線を上げると葵ユリカはたった今人を殴ったとは思えない、涼しい顔をしている。

「昼間、ロッカールームで着替えを待たせたお返しだから」

いけしゃあしゃあと語る。

「あとこれはおつりね」

すっと延びてきた手にあるのは、さっき渡したパッドだった。

「どういたしまして」

再び私に戻ってきたパッドを握る。

ほのかに彼女の体温で温められたそれが、なぜか愛おしく感じた。


*


 社の緊急警戒体制は数日が経ってなお解除されていなかった。

メアリスに朝の挨拶をして、部屋を出て、社の高機動車が街道を往くのを眺めながら街のストアでコーヒーを買う。

前は全然だったけれど最近飲めるようになったのだ。

砂糖もミルクも入れていない黒々とした液体の入ったカップを片手に、ストアと隣のビルの隙間、奥に繋がるアクセス通路へと進む。ストアのバックヤードにも繋がる場所だ。

最近は晴天続きだったのもあり、気候調整のためなのか今日は曇天。

細長い建物の間で切り取られた細長い空は濁っていた。

通路の最奥にたどり着く。

ひとくち、コーヒーを啜る。相当に古びた空調室外機にそのカップを置くと、鞄に手を入れて煙草の箱を出した。

中層に降りた時に入手したコレも残り僅か、そろそろ調達しないと。

火をつけた細筒の紫煙を飲み込んで、吐き出す。

煤けた壁面にもたれて再びコーヒーを煽る。

ニコチンとカフェインの作用で心が微かな昂揚を湛えながらもゆっくり凪いで行くのを感じた。

紙筒が半分ほど灰になった頃合いで足下に落とし踏み消す。室外機の傍に集積されたまま忘れ去られて久しいストアが出したと思しきゴミ袋があった。

通路奥の配電アクセス端末に歩み寄る。これもストア側の給電に繋がるものだった。

センサーに視線を合わせると端末が起きた。

電脳の最外縁、擬似的に電脳内のネットワーク状況を距離に置き換えて表現した場所。そこにプロテクトを掛けて保存しておいた麒麟からのコードを打ち込む、今日の作業はこれだけ。

コードのデータとメールそのもの、あと保存と削除を行なった昨晩から今現在までのログを強制削除しておしまいだ。

ついでにストアへの給電量を弄っておく。


お持ちなさい、あなたの望んだその星を


脳裏に浮かぶのはあの一文。

手を伸ばさなければ何も掴めない、そんな当たり前のことにずっと今まで気が付かなかった。

「待ってて、メアリス」

今歩いてきた方向に向かうように、放水車と緊急車両の車列がサイレンを鳴らしてすれ違った。

煙の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。

朝のコーヒーを、もうあのストアでは買えない。

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Nemesiss:Code 葵ユリカについて [終編]永遠の物語 @Lilyly082280

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