武蔵野の草はすべて愛おしいものと見える。
真崎いみ
刻印
古今和歌集にある歌がある。
『紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる』
現代語訳を、『紫草のその一本のために武蔵野の草はすべて愛おしいものと見える』
吉祥寺駅、中央口を出て右手に行く。真っ直ぐ道なりに歩き、専門学校の角を曲がって、手前に小さなビルが存在し、その三階に腕時計の工房があった。高校生の頃にたまたま雑誌で見かけた小さなブランドで、店主が一人で腕時計を作っているという。
私は心臓の鼓動を高めながら、狭く急な階段を上っていた。かつん、かつんと靴が床を蹴る音が響く。「OPEN」の看板と共に、わずかに開けられた扉の隙間を私はそっと覗いた。
石油ストーブの上にやかんが置かれ、シュンシュン、と軽やかな音を立て湯気を吐き出している。暖かな室内は適度な湿気が満たされて、居心地良さそうだった。外気温との差から生まれた結露で白く染まった窓からは、花火が開く前の逆再生をするかのように露が垂れた。その窓際で、店主は静かに読書をしていた。私の視線に気が付くと、目を細めて「いらっしゃい。」と声を掛けてくれた。その声音に背中を押されて、私は扉のノブに手を掛けた。
工房兼、店内は不思議な空間だった。
完成された時計がきれいに並び、時を刻んでいた。腕時計の他に、掛け時計、置時計、懐中時計が鎮座している。まるで呼吸をするように刻む時に耳を澄ませると、ひどく心が落ち着いた。様々な秒針の音に、時空の狭間にいるのではと錯覚するようだった。
私は室内を見渡していた視線を、ようやっと店主に向ける。店主は私の様子を優しく見守ってくれていた。
「あの、この腕時計なんですけど。」
その今までに身に着けていた腕時計を外して、店主に見せる。店主は腕時計を受け取って、まじまじと見た。
「これは…、僕の作品だね。来店は初めての方だから、ネットサイトでご購入いただけたのかな。」
私は頷いた。この腕時計は高校生の頃にお小遣いを溜めて購入した大切な代物だった。
「ちゃんと動いてはいるね。今日は、どうしましたか?」
「この腕時計の裏蓋に数字を刻んでほしいんです。」
「ああ、刻印だね。いいよ。なんて、刻もうか。」
私は告げた数字は、ある人の生年月日だった。店主はメモに数字を控えて、すぐに準備に取り掛かってくれた。
「これは、生年月日のようだけど。あなたのものではなさそうだね。年上の人に思える。」
「…わかりますか?」
「まあね。」
店主は口元を緩ませて、朗らかに笑う。私は苦笑しながら、店主の手元を見つめていた。
チリチリと金属を削る音が響いて、腕時計に消え褪せることのない数字が刻まれていく。
「好きな人の生年月日なんです。」
「へえ。ロマンチックだね。」
「そんな、すてきなものではないですね。」
「と言うと?」
私は目を伏せて、あの人のことを思い出した。
ミルクのように真白い朝霧が辺りに立ち込めていた。金色の光の粒子が降り注ぎ、青々と茂った木々を柔らかく照らす。くーくー、と番いのキジバトが寄り添って鳴いていた。
場所は山中にその学び舎が位置する、母校である大学の構内だ。
静かで、見知った人間だけで形成された世界はまるで、隔離されているみたいだと思った。
誰もが眠気に襲われる午前4時30分。学生が30分の合間の仮眠をとる中、私と彼は二人起きていた。
彼は陶芸科の指導員だった。
彼の扉を開け放った指導員の部屋で静かに次の授業で出す予定のレジュメをまとめている様子が、私の記憶に残る印象深い姿だ。薄いレースのカーテンの引かれた窓から金色の朝日が差し込み、とても静かな時が流れていた。
紙をめくる微かな音。控え目に叩かれるパソコンのキーボード。時々香る、苦いような甘いような不思議な香りのする煙草の紫煙。
彼はいつだって優しく、朗らかでそれでいて少し困ったように眉を下げて笑った。そして、声を荒げることがなかった。それは一つの愛の証のようだった。彼を生んで育んでくれたご両親、周りの人たちと環境は愛に満ち溢れていたのだと思った。
私は大机に突っ伏して眠るふりをしながら、彼の様子を盗み見ていた。
好きで、好きで、好きで。只々、愛おしい彼は、この春に私の友人と結婚をする。
「自己満足なんです。彼の生年月日だけでも腕に刻まれていたら、私はそれだけで生きていける。」
「…そうか。武蔵野の草はすべて愛おしいものと見えるんだね。」
「?」
「戯言だよ。」
『紫草のその一本のために武蔵野の草はすべて愛おしいものと見える』
意味は―…。
一つの人、あるいは一つの物が愛おしいためにそれに関係するものまでに愛情を感じる。
了
武蔵野の草はすべて愛おしいものと見える。 真崎いみ @alio0717
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