吸涙鬼
真崎いみ
吸涙鬼
この人は才能に殺されるんだ、と思っていた。
彼の名前は太宰治。
私は彼と住むアパートメントを武蔵野で探した。互いの利便性がよく、居心地の良い場所。少し狭いけれど、立地条件はよく駅から近い。アパートのニ階、角部屋。ささやかなベランダと時々、猫付き。互いの荷物は少なくて、思いの外早く部屋の中は片付いた。同棲初日の夜は穏やかに更けていった。
肩が布団の布地に触れ、微かな重みを感じた。顔の横には太宰の手が置かれていた。右手で優しく私の輪郭をなぞるその手つきは、慈しみに満ちている。その指に私も自身の指を絡めた。高い体温が、触れる歓喜を物語っていた。
彼は優しく布団の上に彼女を下ろす。私は微笑んで両手を広げて、太宰を招いた。それに応じるように彼もまた、毛布を被り包み込むように私の隣に潜り込んだ。そして甘えるように私の頭を抱きかかえ、腕枕をした。私は太宰の耳裏に鼻先を持っていき、すん、と呼吸をした。
「ふふ。」
「何だい?」
「ん、同じ香りがするなと思いまして。」
「同じ石鹸を使っているからだろう。」
「そうじゃなくて。なんて言うか…、同じ空気を吸って、同じものを食べて、同じ時間を過ごしたからによる家族の香り、みたいな。」
私はあむあむと太宰の頬を食んだ。
「わかってるよ。」
はは、と笑って彼は私の頬を食む代わりにむにっと摘まんだ。
カチコチと時計の秒針が時を刻む音が響く。カーテンを閉めた窓の外からはぽつぽつと雫が窓を叩く音が聞こえる。どうやら、雨が降り出したらしい。しとしとと降る雨の中、繭のように毛布の中に一緒に包まっていると世界はたった二人だけのような感覚に陥る。温かく、柔らかく、呼吸、互いの気配しか感じられない愛しい世界。
「―…、」
唇を唇で塞がれて甘い疼痛にも似た痺れが足の爪先からピリピリと伝わった。愛しくて、ただ愛しくて。このまま食べてしまいたかった。
「…?」
熱い吐息を零しながら、太宰はそっと顔を上げる。私はそれを熱で潤んだ瞳で見上げた。彼女の鎖骨付近に、すり、と太宰は頬を寄せた。
「君の肌。温かくて、気持ちいいね。」
そのきめ細やかで、滑らかな肌を味わうように。または、獣が自らの獲物にマーキングするかのように、太宰はすりすりと頬ずりをするのだった。その刺激に私は笑い転げる。
「ふふふ、いやです。くすぐったい。」
「逃がさないよ。」
じたばたと足をばたつかせて身をよじる私を捕まえて尚、太宰は肌に執着した。
たっぷり唾液を溜めて、じわりと嬲るように肌を吸う。ちゅっと音を立て唇が離れると、そこには真っ赤な花びらのような痕が残った。いくつもいくつも、花を咲かせるのだった。
夜明け前の一番暗い時間。私は、先ほど彼が呟いた言葉を反芻していた。
―…いっそ、死んでしまおうと思う。
その時の瞳が忘れられない。深い海を称えたかのようにしんと静かで、まるで光が届かずそのまま柔らかい海底の泥に着地したかのようだった。
なんて可愛くて、可哀想な男なのだろう。
隣で眠る太宰は穏やかに寝息を立てている。静かで深い呼吸を真似すれば、こちらも穏やかな心持ちに至った。
あなたが死ぬのなら、私は、
自ら死を選び、召されようと思ったとき。君は、共に、と言ってくれた。
君の名前は、富栄。
一緒に住んでいた部屋を綺麗に片付ける作業は、人生を整理しているようで楽しかった。富栄に宛てた恋文が大切そうにビスケットの缶に収められていたのを見たとき、僕は羞恥心と誇らしい気持ちがないまぜになって思わず笑ってしまった。
「何故笑うの。好いた方の文を大事に取っておくのは、当然のことでしょう。」
そう言ってツンと鼻をそっぽに向けて、さらに頬をむくれる君が、愛おしくて思わず抱きしめる。恥じ入るように少しの抵抗を見せて、それでも僕の腕の中で大人しくしてくれた。その蝉の羽のように軽やかで、透き通って見える髪の毛を梳く。朝寝髪のまだ前の段階、まとめ髪を下ろした富栄の髪の毛は少し猫っ毛で柔らかい。指で梳いていると段々と肌になじむ手触りが心地よかった。
好いていた指をうなじから、肩。二の腕をなぞるように撫でると、くすぐったそうに富栄は身をよじらせた。色っぽい反応に気をよくして、腰を抱こうとすると君は怒って僕の手の薄い肌をつねるのだった。
片付けを再開し、万年筆や原稿用紙。インク壺を整えて、木の小箱に入れる。ありがとう、と、さようならを込めて最後に一度撫でて蓋を閉めた。
富栄の方は、髪飾りやレースのハンケチなど実に女性らしい品物が並んでいた。わずかに感じ取ることのできる白粉の香りが、慎ましやかな君を彷彿とさせた。
カチコチと鳴る時計の秒針の音を聞きながら、遺影にと二人の写真を机の上に並べてみる。綺麗に片付いた部屋に並ぶ写真は、潔く柔く、電灯の光を浴びて輝いていた。富栄と二人、満足してその光景を眺めた。そして遺書を写真の前に置く。この手紙は一体誰が最初に見つけてくれると思う、と富栄に問うてみた。
「大家さんかしら。ううん、編集部の方かもしれないわよ。」
「富栄のご家族だったら、僕の遺書は破り捨てられてしまうかもしれないな。」
大事なお嬢さんをそそのかして、心中に連れ添わせたのだ。そのぐらい、いや、それ以上の仕打ちを受けるのは当然のことだった。
「お父さまなら、やりかねないわね。」
当のお嬢さんは、ころころと鈴の音のように笑う。その無邪気な笑い声は、これから死に逝くとは思えないほどだった。
「…さて。そろそろ、行こうか。」
時刻は深夜。誰もが寝入る時間帯。しんとしてとても静かで、凪いだ心持ちで出発が出来そうだった。
僕が富栄に手を差し出すと、富栄は微笑んでその手を取ってくれた。
「はい。」
富栄の手は子供体温のように熱く、しっとりとしていた。乾燥していて、武骨な自分の手とは正反対の手だった。
アパートメントの階段をかつん、かつん、と二人分の音を響かせて下る。近所の家の庭に繋がれた犬と目が合った。まるで「何をしているんだ」とでも言いたげな瞳に、富栄と二人でしぃと人差し指を唇に当てて見せた。大人二人で、子供がいたずらを企てるような仕草は可笑しかったが、犬は空気を読んだのか、または興味が失せたのか自らの根城と戻っていった。
「行きましょ。」
富栄はくすくすと笑いながら、僕の手を引いて先を歩く。死に場所は決めていた。アパートメントから歩いて数分も掛からない、玉川上水だ。
今夜は明けるのが惜しいほどの夜、可惜夜だった。月が青白く木々の影を色濃く落とし、今は銀色に染めている。さわさわと温かい風が吹いて、植物を騒がせた。
君が口ずさむ鼻歌は、戦後に流行った歌謡曲。華やかな旋律は星が瞬く夜空に溶けていく。
「…富栄。」
思わず、君の名前が口から零れ落ちた。富栄は僕を見る。
「何でもない。」
本当は、ありがとう、ごめん…、愛してる、口にしたい言葉が沢山あった。紡げなかったのは、きっと僕に意気地がなかったからだ。
やがて到着した、玉川上水の土手。どちらか一人が助からないように、固く手を握った。
富栄の表情を盗み見ると、驚くほど穏やかな表情をしている。その表情を見て、僕は場違いにも綺麗だと思ったのだった。
そして、二人。玉川上水の中るみへと歩を進める。足が、水に浸る。一歩、一歩進むたびに沈んでいく。心は穏やかで、何も怖くなかった。水を掻き分けるように深みへと行く。やがてどちらかの足が急流に取られて、共に流された。
消えゆく意識、肺に水が満ちる感覚。深い、深い水の底に堕ちていく。光が閉ざされていく。
水底の草に招かれて、絡みつかれてきっともう意識は浮上することはないだろう。
それなのに君は私を追って目の前で微笑むから、言葉にならない。
この胸を震わせた、富栄の言葉。
私の心を射止めた、太宰の思い。
君というインクに染まった最期。ここで、僕は愛という名の万年筆でピリオドを打つのだ。
了
吸涙鬼 真崎いみ @alio0717
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