Ⅱ 男爵は娘に結婚を申し込む

 娘の希望と予測は外れ、男爵はその後も何度か粉屋のおやじ相手に結婚の申し入れに訪れた。


 それが続けば続くほど、領民が粉屋父娘に白い目を向け始めだした。次第に娘が挨拶をしても声を返さず、さっと散り散りに去り行くようになる。そんな領民の目は、言葉よりも雄弁に娘への非難を投げつける。

 

 あの立派な男爵様のせっかくの申し入れを袖にする、罰当たりな娘が今日も来たよ?

 気性の荒い不器量な娘だってのに、分不相応な高望みをして。

 自分たちのような者の頭には滅多に降ってこない幸運を独り占めできるっていうのに。

 それの何が不満だっていうんだろうね?


 この冷たい目――村に住む領民たちからの白眼視。これが娘のもっとも恐れていたものだった。

 黒い森の傍らの水車小屋で働く自分たち父娘は、村に暮らす者たちとは一見ほがらかで気持ちのよい関係で繋がりあっているようにみえる。しかし、村の者たちは粉屋の父娘を自分たちと同じ仲間に勘定してはいなかった。

 ともに領民であることは間違いないが、半分は獣や妖精に怪物や夜盗が潜むとされるあの深くて黒い森の住民であるとも思われていたのである。なぜならば、あの森のすぐそばで暮らし、働きもしているから。バカバカしいが、それが村人たちの総意なのである。

 村にすむ者たちのふとした言葉などから、粉屋の娘は幼いうちにうっすらそれを感じるようになった。普段は気のいい村の住民たちではあるが、ふとした時に彼らの目は光るのである。「お前たち父娘は真っ当な人間でない、勘違いするんじゃない」、そのように眼光で釘をさすのだ。

 そんな中で、彼らの意に染まぬことをしてしまえばどうなるか?

 少なくともしばらくは今まで通り、単なる粉屋として穏やかに過ごせまい。

 それは困る。大変に困る。

 粉屋の娘は、男爵の奥方になることよりも、平穏無事に当たり前に暮らせる身分を失うことを一番おそれていたのであった。

 

 しかし、世の中とは得てして悪い予感ほど的中してしまうものである。まるで神様が世界を七日でお作りになる際に「悪い予感は当たる」という仕掛けを内緒で用意なさったのかのように。

 残念ながら粉屋の娘が怖れていたことが起きてしまうのは、思っていたよりもすぐのことであった。


 ある日を境に、村に住む者たちが粉屋の父娘に辛く当たりだす。

 挨拶を返さないどころか、話しかけても無視をする。買い物をすると一目でわかるような粗悪品をつかまされる。抗議をすると舌打ちをする。子供たちから「粉屋の娘は身の程知らず 不器量娘の恩知らず」と節をつけて歌われる……等々。

 働き者の性質たちらしく辛抱強くもあった娘は、村人たちからどんな目で見られようと、挨拶を返されなくても、「渡した小麦の量からすれば粉の量はもっと多い筈だ。量をごまかしやがっただろう。この泥棒」と難癖をつけられても黙って耐えた。意味の分からない男爵のお戯れさえ済めばそれで終わる筈だと、歯を食いしばってガマンした。

 粉屋のおやじにいたっては、ツケがたまっていることを建前になじみの酒場から追い出されるようになった。飲み代をためているのは自分だけではないと言い募ったところ、口の減らないおっさんだと店主になじられ、用心棒代わりの破落戸ごろつきにしこたま殴られ、蹴られ、半死半生の身になって、おいおいと小僧の様に泣きながら帰ってきた時は、娘も言葉を失くした。

 当然、そんな日はあちこちが痛むばかりで仕事になぞなるわけがない。寝床から起き上がれず、全身の痛みにウンウン唸りながら、口元に粥を匙で運んで食べさせる己が娘にすがるような、情けない声を出す。


「なあ、いつまでもガキじみた意地をはってねえでよぉ、男爵様のお話を受けてはくんねえか? 一体なんで、何がどうして、よりにもよって、あの方がお前なんぞをお気に召したのか未だにわからねえが、好いた女房のお願いだってなら我儘だってちったぁ叶えてくださる筈だぜ? いいじゃねえか、あの御屋敷で毎日愉快に過ごせばよう」

「父さんは、前の奥方のお葬式に出たときのことを忘れたの? 私は小さかったからよく見えなかったけれど、棺桶に花を手向けた村のおばさんたちはみんな言ってたわ。奥方様の様子の酷さったらどうだって。旦那様に愛されて可愛がられた方が、あんな様子で亡くなるものかって」

「バカ、お前の声はいちいちデカいんだよ! 大体、前の奥方さまはおっとろしい病気で可哀そうに苦しみぬいてお亡くなりになったんだ。ウンウンお苦しみになったんだから人相だって多少変わってもおかしかねえだろが」

「骸骨みたいにやせ細った上に、髪がばさばさに抜け落ちて、顔や体のあちこちが殴られたみたいに痣だらけになって、やけどみたいな爛れまでできる病気ね。ああ本当におっかない」

「お前っ、あの時棺桶の中はよく見えなかった今さっき言ったろうが!」

「よく見えなかったわよ。周りのおばさんたちがそうヒソヒソ囁いてたのを聞いただけ。綺麗だった奥方があんな惨い様子になっちまってまぁ――って」

「とにかく、だ! 男爵様が前の奥方が病気で亡くなったってんならそれは病気なんだ! 村の連中だって結局それで納得してるだろうが。お前だけだぜ、いつまでもしつこくこだわってんのはよウ」


 粉屋のおやじは、娘が差し出す匙の粥を舐めるように食べながら、どこか申し訳なさそうにこう口にする。


「怖がるのも無理はないが、お前さえ首を縦にふりゃあ、父ちゃんも村の連中もみんなそれで丸く収まるんだ。いいじゃねえか、お前が後添いになるって決めただけで、村の連中から死ぬまで感謝される上に、しがない粉屋の娘が玉の輿にのったあげくの男爵夫人に成りあがれるんだ。大出世じゃねえか。死んだら天国で母ちゃんに自慢できるぜ? ――なぁ、最後に一つ孝行をするとおもってよぉ、男爵様が今度お見えになったら『はい』って言ってくれねえか? 頼む、この通り!」

「死んで棺桶に入らないと館の外に出してもらえない、そんな窮屈な身の上のことを男爵夫人っていうなら、私はそんなものにならなくたっていい。父さんや村の人達には悪いけど、男爵様のご命令には従えません」


 匙で粥を掬って口元へ差し出す己が娘を恨めしそうにながめるものの、大人しくそれを咥えて味わい、飲みこみながら、諦めてはいるが未練がましく粉屋のおやじはぐちぐち呟く。


「あ~ああ、まあ父ちゃんも、お前がおれの頼みをなんにも言わず聞き入れる、素直で親孝行の感心な娘だとは思ってなかったがよう。知らねえぞ? これからどんな目に遭っても?」


 泣き言とも警告ともつかないこんな繰り言も黙って聞き流し、娘はかいがいしく父親の世話を焼いた。

 次の日から、動けないおやじに代って普段の倍かけて水車小屋で働き、不機嫌な父親の介抱もこなした。へとへとのくたくたになるまで働いて、バタンと眠る日々は数日続いた。

 今さえ我慢すれば、今さえ耐えれば、こんなくだらない毎日はすぐ終わる。ぎりぎりと歯を食いしばりながら娘は耐えて忍んだ。


 しかしそんな娘にもついに限界が訪れる。


 最初に結婚の申し入れがあった日からぴったり十日が経った日であった。

 村を訪れた娘が道を歩いていた所、頭の上から足元めがけて水のようなものを勢いよくぶっかけられたのだ。

 驚いた娘が真上を見上げると、左手側にあった家の二階の鎧戸がちょうどバタンと閉じられた。そして足元から鼻がもげそうな臭いが立ち上ることに嫌でも気づかされる。

 改めて石畳の上を見た娘は、自分の歩みがもう少し速ければ頭からかぶることになっていたものの正体を知った。茶色に汚れた石畳に砕け散った糞の欠片が転がっている。となれば石畳を濡らしているのは水ではなく当然小便ということになろう。左隣に立っている家の住人が、二階からおまるの中身を自分めがけてぶちまけたのだ。

 娘のスカートの裾は、跳ね返ったおまるの中身のしぶきがかかって汚れている。さしものことに顔色を失う娘に、そばに居る領民たちはクスクスケラケラ無遠慮に笑いだす。神様から授かっためったにない幸運を無碍にするような恥知らずで罰当たりなアマっ子に相応しい恰好になったと手を叩き、鼻をつまんでくさいくさいとはやし立てる。

 呆然と立ち尽くす娘の胸に、様々な思いが押し寄せた。


 自分たちは、黒い森の傍にある村はずれの水車小屋でせっせと働く粉屋の父娘であった。

 あの男爵さえ妙な気さえ起こさなければ、善良な領民父娘として問題なく過ごせていたのだ。

 

 娘のガマンはついに限界に達した。その場で踵を返すなり、来た道を駆け足で通り抜ける。領民たちは、いままで泣きも喚きもしなかった娘がついに尻尾をまいて逃げ出すのだとばかり思いこみ、去り行く背中をはやし立てる。ひどいものになるとリンゴの芯だの鶏肉の骨などといったゴミクズを投げつけだしたが、娘は一切合切無視をした。自分と父親を、一方的に理不尽と屈辱の日々に陥れた、男爵への怒りだけが頭と胸の中でゴウゴウと燃えさかっていた。


 村を通り過ぎ、川沿いを歩き、なつかしい水車小屋までつかつかと娘は歩く。安堵からほおっと息をついた娘だが、すぐさま眉尻をつりあげてさっきより速くづかづかづかづかとほぼ駆け足になるはめになった。水車小屋の戸口のそばに、立派な鞍をつけた毛並みの艶やかな栗毛の馬がつながれているのが見えた為だ。

 空を駆ける神馬めいたあのような馬に跨るような人物は、ここいらには一人しかいない。言わずと知れた男爵だ。また性懲りもなく父の元を訪れて、娘御を奥にしたいと申し入れに来たのだと、瞬時に娘は読み取った。自分たちつつましい父娘の身に何がおきているのかも知らずに! 

 いきりたちながら娘は勢いよく古びたドアを開けた。


 予想通り、家の中には立派な着物を召した男爵がいた。

 

 そしてまだベッドの上から出ることが適わない粉屋のおやじになにごとかをにこやかに語りかけていた。ドアの開く音にあわせて振り向いた男爵の顔は、娘をみるなり笑顔になる。そして、たくましい両腕を大きく広げて怒る娘を抱きしめようとする。

 きらびやかな男が優雅に自分の元へ近づくのをみて、娘はぶるりと一瞬身を震わせた。頭の中が怒りの炎で燃えさかっていなければ、悲鳴を上げて逃げ出してしまう所だった。――逃げ出さずに済んだので、二階の窓から娘の足元へおまるの中身をぶちまけた村の住民に一瞬だけ感謝をささげる。


「ああ、ようやくお前の顔をみることが出来た。我が愛しい花嫁。父上から話を聞いたよ? ここ数日ばかり災難続きだったそうじゃないか?」


 劇場の歌手も裸足で逃げ出すような美声を轟かせて、男爵は娘のそばに迫る。


「父上の哀れな御姿を目の当たりにして血の気がひいたぞ? 仕様のない村人達だが、お前もお前だよ? とんだじゃじゃ馬の頑固者だ。その上父上を泣かせる情け知らずの親不孝者ときた。私の真心からの言葉を疑うことをせず、素直に頷けば、痛く辛い目にも遭うことは無く、父上にご心労をかけずにすんだというのに」


 鳶色の髪とハシバミ色の瞳をもつ男爵は、口元に微笑みをたたえたまま娘の手を取り、甲に唇を寄せる。とっさに娘はその手を乱暴に振り払い、触れられた右手を背中へ回した。

 悲鳴を押し殺し、娘は男爵を睨んだ。腰から上を起こしたおやじが娘の無作法を叱責したが、もちろん耳に入れはしなかった。睨まないと、怒りと恐怖でわあわあ叫びながら、手当たり次第につかんだものを男爵に投げつけてしまいそうだったからである。そして娘の胸の中では、ある言葉がどろどろと渦巻いていた。


 ――家から出ていけ、この悪党! ニヤニヤ笑いの人殺し!


 そんな悪態が、気を抜くと口から飛び出しそうになってしまう。辛抱づよくてガマンの得意な娘は、それを辛うじてこらえた。口元をひきつらせたおかしな顔つきになり、なんとか体裁を取り繕う。


「さきほど男爵様が仰った通り、私はじゃじゃ馬の頑固者な上、情け知らずの親不孝ものです。そのような者が奥方様になるなんて滅相もない」

「ああそこは遠慮せずともよい。お前のそういう性分に私は惹かれてやまぬのだ。それに、水車小屋の乙女を一端の貴婦人に磨き立てるもまた一興」


 気色の悪さから毛を逆立てた猫のようになった娘である。睨みながらも大人しくしているのをいいことに、男爵はその肩を抱いた。さきほどの無作法を一切責めず、そして甘い声で囁いた。


「父上を支えながらの粉屋稼業、さぞかし大変だったことだろう。でも、そんな苦労と苦難の日々はもうおしまいだ。今晩からお前は私と一緒に館で暮らすのだから」

「ご冗談を! 私は父の世話をせねばなりませんので旦那様とご一緒できかねます」

「案ずることは無い。父上のお世話には館から使用人を寄こそう。食事も用意させよう。無論、お医者さまだって連れてこよう――お前が私とともに館に来ると承知しさえすれば、父上のお体はじきに元通りだ」


 ハシバミ色の瞳で村に住む若い娘を簡単にまどわす男爵は、とびかかりたくなるのを必死にこらえる娘に迫る。役者のように歌うように告げた。甘い言葉とは裏腹に、その瞳は娘を射抜く。



 お前があくまでも意地を通すつもりなら、お前の父親はもうしばらくベッドの上で心細く愚痴をを吐くだけの毎日をすごさねばならぬ。

 お前が私の申し出に対して首を縦に振らない限り、村人から妬みと蔑みをぶつけられる日は続く。

 つまり、お前が我儘を通せば通すほど、お前たち父娘の苦しむ期間が延びるのだ?

 それでもお前は意地を張り通すうもりかね?

 それなならそれで構わない。どこまで意地が保つのか見物するとしよう。



 娘の目をのぞき込む男爵の瞳は、陽気でも気さくでもなかった。ひたすらに冷たく、淀んでいた。下卑ているとすら言っても良かった。かつて娘だけが垣間見たことのある本性を、否が応にでも思い出させる目つきだった。

 その忌まわしさに叫びたくなるのをなんとかこらえて、娘は最低限の礼節を保ちながら一歩後退する。そのままじりじりと下がって壁に突き当たると、男爵を睨んだまま壁に沿って立たせていたものを掴んで姿勢を正す。そして、ぐっと目を閉じ覚悟を決めて賭けに出た。


「そこまで仰るなら、その話お受けいたします」


 何と! と声をあげて父親はベッドから身を起こし、男爵は口元に満足気な笑みを湛える。頑固娘が素直になったという手ごたえに満足したような表情を睨みながら、娘は一つ条件を出した。


「ですが一つ賭けをしていただきます。男爵様がそれにお勝ちになれば私は貴方さまに従います。ただし私が勝った時は、この話を一切なかったことにしてくださいませ」


 また突拍子もない事を言い出した、とばかりにうなだれた額を支える父親とは逆に、男爵の顔は愉快気なものに変化する。面白い余興だと言い出しそうな顔つきだった。


「分かった。我が花嫁の言う通りにいたそう」


 〝我が花嫁″という言葉にぶるり震えてから、娘は手に持ったそれを突きつけた。それを目の当たりにした男爵は一瞬怪訝な表情を浮かべる。

 娘がつきつけたもの、それは、父親が履いている長靴だ。年季が入ってボロボロで、あちこちから水がしみこむやら、空いた穴から遠慮なく泥水が入り込んでくるやらで、脚をぬらさずに守るという働きを忘れてしまったくたくたの長靴だ。

 そんなものを突き付けられて、ただ苦笑する男爵を前に娘は言い放つ。


「では男爵様、お願いです。この長靴一杯になみなみと水を汲んできてください。よろしいですか、なみなみと、ですよ? 底から水をもらすことなくここまで持ち運べたら男爵様の勝ちです。結婚話、ありがたくお受けいたしましょう。ただし、その長靴で水を汲むことが適わなければ私の勝ちです。この話は無かったことにしてください」


 またこの頑固娘はおかしなことを言いだした、とでも言わんばかりに父親は頭を抱えるし、男爵は困ったように笑いながらも長靴を受け取る。


「お安い御用だ、わが花嫁」


 寒気に身震いする娘の手からぼろぼろの長靴片方を受け取って、男爵は戸口から外へ出た。水車を回す川のほとりにでも向かう気だろう、足音が徐々に遠ざかる。

 男爵の気配が十分去ってから、娘は一気に大量の息を吐きつつ勝利を確信してにんまり笑った。あの長靴には足底に大きな穴が空いたまま、修繕が後回しになっている。水を汲もうとすれば、その穴から水が漏れる筈だ。あの長靴を水でいっぱいにするなんてどだい無理だ。

 自分の勝ちが決まっている賭けを振ることで、何をどうしても愛することが出来ない男を伴侶にしなければならない危機から逃れたという安堵と人生の危機を自らの手で遠ざけたという気持ちで浮かれそうになる娘が、ふんふんと鼻歌を奏でる。それを呆れた視線で見るのは、ベッドの上の粉屋のおやじだ。


「ホレみろ。なんだかんだで結局、男爵様の申し入れを受け入れるんならよお、最初から素直に〝はい″って言やあ、おれもお前も詰まらねえ目に遭わずに済んだんだ。それが出来ねえで、ゴネ倒したあげく、こんな芝居がかった真似までするったあ、どこまで言ってもひねくれた娘だぜ。お前はよ」

「何言ってるのよ。角が立たないように断ったんじゃない。あのボロ靴いっぱいに水なんて汲めるわけないって父さんも知ってる筈じゃない」


 さあ今日の夕飯の用意をしよう、といそいそと竈へ向かう娘の背中へ、寝台の上の父親は告げた。


「なんでぇ。気が付いてなかったのかい? お前にしちゃあ珍しく粗忽なマネをしたもんだな」


 父親の言葉に不吉な気配を感じ取った娘は、竈の前でゆっくりと振り向く。父親はというと一切悪びれることのない表情で、けろりと言い放った。


「あの長靴の穴なら今朝方おれが修繕して塞いじまったぜ? まだ体は本調子じゃねえが、手ぐらいなら動かせるからな」


 いくら節々が痛むったって日がな一日寝ころんでばかりいるのも落ち着かねえからよゥ、と奉公に出された子供のころから働き尽くめだったのでゆっくり休むことが性に合わない不憫な身の上になってしまった父親の呟きの意味を飲みこんで、徐々に顔色を青くしてゆく娘の耳に、足音が忍び寄る。

 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ――という、地べたをさっそうと歩く足音だ。その主が誰なのかを疑う必要はない。

 開け放たれた戸口から、ひょい、と顔をのぞかせて入ってきたのは無論男爵である。


「ああ、待たせたね我が花嫁。お前の言った通り、長靴いっぱいに水を汲んできたよ? これで十分かな?」


 その手には水にぬれたくたくたの長靴の縁を掴んでぶらさげていた。娘が渡した時にはボロボロのぺたんこだったそれが、今ははちきれそうなほどにふくらんでいる。勿論、その中身は水である。なみなみ、満々と汲まれた水の表面がゆれて、ぽたぽたと雫が床の上に落ちた。

 娘はよろめき、危うくまだ熱の消えない竈に背中をぶつけそうになった。


 黒い森の彼方に陽が沈み、赤い夕焼けに照らされながらも一帯は徐々に暗くなりつつあった。

 粗末な戸口の傍に立つ、男爵の顔は影がさしてよく見えないが、娘の退路を断つように水の汲まれた長靴をぶら下げてみせた時の声は、娘の全身を総毛立たせるに十分なものだった。


 ――昔々、先の男爵夫人が健在だった時、幼かった娘が黒い森の奥深くに迷い込んでしまった時に、耳にした声と全く変わらない声である。


 がたがた震えだしそうになるのを必死にこらえる娘に、戸口から差し込む夕日のせいで顔がよく見えない男爵は、ひと際甘い声で囁いた。


「これ以上わがままを口にしては困るよ、我が花嫁。それにしても今日はもう遅い。今から出立すれば館に着くのは真夜中だ。知っての通り、近在には人さらいも出るからね。今晩はここに泊めていただこう。よろしいかな、父上」


 若かりし頃に強盗を捕まえた武功で先代男爵に取り入った男爵は、ぬけぬけとそうのたまった。無論、しがない粉屋である父親には男爵の言葉をはねのけることなど出来はしない。こんなあばら家でよければ、と、娘の様子を伺いながらそう口にすることしかできなかった。



 

 次の朝、お日様のてっぺんが黒い森からようやく覗きだした頃合いに、娘は父親と慣れ親しんだ水車小屋に別れを告げることになる。


 自分の身の上に、よもやまさか、と言うしかない程とんでもないことが起きてしまったせいで、一睡もできなかった娘は男爵の愛馬に座らされる。目の下に隈ができた娘を逃がさぬように両腕の中に閉じ込めて、男爵も鞍に跨った。


 急な上、貧しいこともあり、汚れたままの着物一つで嫁がねばならない。

 その上、毒虫のように嫌ってやまない男の花嫁という身分になってしまった娘の顔は、凄まじい仏頂面だった。

 

 生きていた中で一番ひどい目に遭ったと思った思ったら、さらにもっとひどい出来事が待ち受けていた。泣きっ面に蜂とはこのことだ――と、腹立ちとくやしさに焦げそうになる腹を抱えて押し黙る娘を無視し、男爵は粉屋のおやじとにこやかに挨拶を交わす。おやじは涙声で餞の言葉を送ったが、それに無言で応じる娘だった。この時ばかりは粉屋のおやじも、娘を親不孝者だとなじりはしなかった。


 黒い森にもすこしずつ明るい日の光が差し込みだした頃にようやく、手綱をとった男爵は栗毛の愛馬の腹を軽く蹴った。二人を乗せた馬はかろやかに歩き出す。



 このようにして粉屋の娘はみすぼらしいが花嫁として、男爵の館へ向かうこととなった。

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黒い森の男爵と消えた花嫁(仮) ピクルズジンジャー @amenotou

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