2ー29.約束

 薄明の中、空の色が移り変わる。

 朝焼けの光がゆっくりとカーテンの隙間から入り込んで、リオレイルは目を覚ました。ぼんやりと霞んでいた視界がゆっくりと鮮明になっていく。


 目の前には愛しいひとの姿。

 白いシーツに癖のない艶やかな銀糸を散らしている。長い睫毛が頬に薄く影を落とし、寝息の度に影が震えた。

 露になったままの華奢な肩に曙色の光が映える。あまりにも美しいその姿は多少なりとも目の毒で、リオレイルは薄掛けを肩まで引っ張ってやった。温もりが心地よいのか、グレイシアの唇が幼く綻ぶ。ふ、と笑ったリオレイルはグレイシアの頭を優しく撫でてから寝台から降りた。


 寝着のズボンだけを纏い、喉の乾きを潤す為にベッドテーブルの水差しに手を伸ばす。グラスに氷を生み出してから水を注ぐと、温かったそれが急激に冷えていく。一気に喉に流し込んで、小さく息をついた。


 グラスを手に、ベッドの端に腰掛ける。

 肩越しに振り返り、眠るグレイシアを見つめると、胸の奥に様々な感情が沸き起こっていく。

 愛しいのはもちろんの事、幸せにしたいという気持ち。危険から遠ざけて、柔らかな繭の中で過ごさせて甘やかしたい。しかしそれと同じくらい、自分の欲望でどろどろに汚したくなってしまう。醜い感情にリオレイルは苦笑いをして蓋をした。


 大切にしまっておきたいのに、彼女はきっとそれを是としない。

 自分の隣に並んで、時には剣を握ってでも共に在ろうとするだろう。


 守りたいのに、きっと彼女は自分の背には隠れてくれない。

 だがそれでいいのだと、矛盾を承知で自分が笑う。自分はそんな彼女に救われ続けてきたのだから。

 十二年前も、そして今も。

 そうだ、自分は彼女を守りたいだけじゃない。彼女の隣に並び立ちたいのだ。誰よりも高潔で美しい、愛しい妻の隣に。



 感傷的になっている自分に気が付いて、リオレイルは眉を下げた。グレイシアを抱き締めてもう一眠りするだけの時間はあるだろう。

 グラスをテーブルに戻そうと、体をそちらに向けた時――背中に触れる優しい温もりがあった。


 肩越しに振り返るとグレイシアと目が合った。紫紺色の瞳は未だ眠そうにぼんやりとしている。常よりも幼いその様子さえ愛しくて、リオレイルの口元が綻んだ。

 手を伸ばしてテーブルにグラスを置くと、グレイシアの隣に体を横たえる。グレイシアの頭の下に腕を滑り込ませて枕とした。


「どうした? まだ眠っていていいんだぞ」

「……傷、だいぶ薄くなったわね」


 リオレイルの言葉に返ってきたのは、会話にならないものだった。リオレイルはそこで、先程のグレイシアは自分に残る忌傷いみきずに触れていたのだと気付いた。


「ああ、君のおかげだ」

「きっともうすぐ消えるわ。……そうしたら、あなたは楽になる?」

「楽に?」

「……それは、十二年前の忌まわしい記憶の残滓だから」


 グレイシアの瞳に意思の光が戻ってくる。寝惚け眼がいつもの高潔な瞳に移り変わった。

 リオレイルはその瞳の光に見惚れるも、グレイシアの言葉にゆっくりと首を横に振った。


「この傷は――歩むはずだった君との時間が奪われた証でもあるが、君を守れた俺の勲章でもあったんだよ」

「バカね、そんな勲章……わたしは、あの時の事を思い出すとやっぱり怖いわ。あなたを失うなんて考えたくもないくらいに」


 グレイシアの声が微かに震えた。

 それに気付かない振りが出来る程、リオレイルは優しく在れなかった。グレイシアを両腕で抱き締めると、自分の胸に強く引き寄せた。


「何者にも負けない力を身に付けたつもりだが……今回はそんな力もほとんど役に立たなかったな。だから、俺には君がいないとだめなんだ」


 グレイシアがリオレイルの背に手を回した。指先が背中に縋りつく。そこには既に爪痕が赤く残っていて、グレイシアが触れる度にちくりとした痛みが走った。


 自分が、”穢れ”に触れていなくなる事を、今回グレイシアは体感してしまった。それは過去の傷に出来た瘡蓋かさぶたをむりやり剥がされるようだったかもしれない。その恐ろしさを理解していなかった自分を、リオレイルは殴り飛ばしてやりたくなった。


「俺が君を守るから、俺に足りないところは……君が俺を守ってくれると嬉しい。こんな事を頼むのも情けないんだが」

「情けないなんてとんでもないわ。わたしにもあなたの為に出来る事があるなら、そんな嬉しい事は他にないのよ」


 言葉通り、グレイシアは嬉しそうに笑った。

 その笑みが十二年前の幼い彼女と重なって、リオレイルは胸の奥が締め付けられるのを自覚した。



「……ねぇ、リオン。約束を叶えてくれてありがとう」

「お嫁さん?」

「そう。ずっとわたしを想ってくれて、わたしの願いを叶えてくれてありがとう」

「俺の願いでもあったからな」

「それだけじゃないの。昔見た、流星群を覚えている?」

「もちろん」

「わたしね、その時に……リオンとずっと一緒に居たいって、そう願ったのよ。それもあなたが叶えてくれた」


 穏やかに紡がれる言葉に、リオレイルが目を細める。抱く腕の力をそっと緩めて、肩にかかる銀髪を指に絡めた。


「これからもわたしの願いを叶えてくれる?」

「君の願いなら何でも。星や月を願ったとしても、必ず叶えるよ」

「ふふ、それも素敵ね。でもわたしが今願うのは……これからもずっとわたしと居て、わたしを愛してほしいの。わたしの愛も受け止めて、ずっとこうして触れあってほしい」

「……随分と可愛らしい願いだな」

「そうかしら。ずっとなのよ?」

「君が願わなくても俺はそうするつもりだから、願いの内に入らないな」


 低く笑ったリオレイルは、グレイシアの額に唇を寄せた。擽ったさにグレイシアが肩を揺らして、甘えるように胸元に頬を擦り寄せた。柔らかな肌の温もりと、鼓動さえ重なる距離にリオレイルは息を吐いた。


「あなたはわたしに甘すぎるわ」

「可愛い妻の願いは何でも叶えてやりたいのさ。他に望みはないのか?」

「望みというより……約束してほしいの。いなくならないって」


 小さく紡がれた言葉は、リオレイルの胸に刺さった。

 何を言えば彼女の不安を溶かせるのか。何をすれば信じてもらえるのか。考えても答えは見つからなかった。


「約束する。俺はいなくならない」


 悩んだ末に出た言葉は飾り気もない、ただグレイシアの言葉を繰り返したような稚拙なものだった。

 それ以上の言葉が見つからなかったのだ。だから誓いのように、心を籠める。


 グレイシアはまっすぐにリオレイルを見つめていた。紫紺がリオレイルの心内こころうちを晒していくような、そんな視線だった。見定めたように視線が穏やかな色に変わる。それと同時にグレイシアは嬉しそうに笑った。


「……ありがとう。わたしもいなくならないって約束する。それから……もう、一方的に怒ってあなたの傍から離れないことも」

「グレイス……」

「大きなものも、小さなものも。沢山の約束を繋いでいって、その先に幸せって形どられていくのかなって、今なら思うのよ」


 ふふっと軽やかな笑い声が、リオレイルの胸元を擽った。

 その笑みが余りにも優しくて、リオレイルはまたグレイシアをきつく抱き締めた。片手を頭に、片手を腰に回して引き寄せる。グレイシアは苦しい、と言いながらもその細腕をリオレイルの背に回した。


「愛してる」


 その言葉を紡ぐだけで、リオレイルの鼓動は跳ねる。それを耳にするだけでグレイシアの胸に光が灯る。

 二人は互いの額を寄せ合わせ、間近な距離で幸せそうに笑った。



 窓向こうの朝焼けは既にその波を引いて、美しい青に染まっている。

 今日は寝坊をする事に決めた二人は、ゆっくりと目を閉じた。


 絡め合った小指をしっかりと繋いだままで。

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追憶の果て、約束を繋いで 花散ここ @rainless

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