エヴェリーナの砂時計

染井由乃

エヴェリーナの砂時計

 世界でいちばん大好きな人の幸せは、私と共にある限り、きっとやってこない。


 何百回の悲劇の末に辿り着いたのは、とても単純で、残酷な答えだった。


♦ ♦ ♦


 始まりはいつだって、王国シュタールの第六王女である私と、若き青年伯爵ギルベルト・クレイの婚約式の朝だと決まっている。


 私を「リナ」と愛称で呼ぶギルの声、柔らかな黒髪から覗く優しい碧の瞳、私に触れる温かい手、その全てが、私は大好きだった。立場上、王女である私が彼を見初めて結ばれた縁談だったけれど、彼も私を宝物のように大切にしてくれた。


 でも、大好きでたまらないギルとの婚約式を、心躍らせて迎えていたのはせいぜい三度目くらいまでだ。


「……これは、何回目なのかしらね」


 王家の特徴である淡い白金の髪を掻き上げて、私はベッドの上で一人溜息をついた。




 砂時計をひっくり返すように、私は何度も同じ時を行き来している。


 ギルに出会った15歳の春から、死が二人を分かつ18歳の冬までを何度も、何十回も、何百回も。私たちの最期は、いつも決まって真っ赤な血に染まっていた。


 一度目の人生。大好きな彼に群がる女たちが邪魔だったので殺したら、巡り巡って私に破滅がやって来た。


 二度目の人生。一度目とは同じ失敗はしないようにしようと、彼に纏わりつく女たちを放っておいたら、彼を自分だけのものにしようとした女の歪んだ愛に飲み込まれて、今度は彼が殺された。彼が亡くなったその瞬間に、何の因果か私の心臓も止まった。


 三度目の人生。そもそもこんな危ない世界の中で、彼を自由にさせておくこと自体愚かなことなのだと悟って、彼を城の地下室に監禁したら、衰弱して死んでしまった。やっぱりこのときも、彼の死から間もなくして私も息を引き取った。


 四度目の人生。王都で暮らすのがいけないのかと思い、身分も財産も捨てて二人で海辺の町へ逃げ出したら、賊に襲われて二人とも殺されてしまった。


 五度目の人生からはもう、記憶が曖昧だ。


 何度も何度も逆行しては繰り返される三年間の中で、どうにか二人で愛を育んでいこうと思うのに、三年目の冬にあっさりと、死神が私たちを引き裂いてしまう。


 ただ、どうにかして彼を幸せにしようとしたことだけは確かで、二人で18歳の冬より先の世界に行けることを信じて、信じて信じて信じ続けて、何百回でも二人を分かつ悲劇に耐えた。


 いつか二人で、愛し合って幸せになれるのなら、このくらいの痛みも絶望も、なんてことない。そう、自分に言い聞かせて。


 私が死んで、彼が死んで、二人で死んで、また残酷な結末に二人は引き裂かれて、目が覚めたらいつも決まって同じ朝。


 もっともっと頑張れる、二人で、寿命を全うできるまで諦めるものかと、ずっと粘って来たけれど、何百回目かの繰り返しの今朝、ふと、糸が切れたような感覚に陥った。

 

 ああ、私、多分、もう無理なんだわ。


 その事実を受け入れた途端、すっと胸が軽くなり、ぽたぽたと涙が零れ出した。ああ、泣いたのなんて何百年ぶりだろう。


 どうにかして、彼と一緒に幸せになりたかったけれど、もう、無理だ。頑張れない。


 自分が死ぬのも、彼が死ぬのも、うんざりなのだ。痛いのは嫌、彼が傷つくところを見るのはもっと嫌。


 どちらかの死の間際、彼はいつも決まってこう言った。


「リナ、僕はもっと君と一緒に生きたかった」と。


 その言葉が、もう一度頑張ってみよう、何とかして二人で幸せになれる道を模索しようというきっかけになっていたことは確かで、いつからかその言葉はまるで呪いのように私の心を縛っていたけれど、彼の切実な願いを前にしても尚、私はもう限界だった。


 残念だけれどきっと、私と彼は結ばれる定めに無いのだ。結ばれてはいけない二人だから、神様がこうして邪魔をなさっているのかもしれない。


 もう、諦めよう。私がいなければ案外、彼はあっさりと幸せになれるかもしれない。もともと独占欲が強い私だったけれど、今となってはもう、彼が笑っていてくれるのならば、彼の隣に立つのが私でなくとも構わなかった。

 

 悲しいけれど、今回の人生で、彼とはもう決別しよう。幸いにも今日は二人の婚約式。式の直前になって気分が変わったと言い張る我儘な王女を演じて、彼を、私から解放してあげよう。


 何百回の繰り返しの中で、私は彼に酷いことをたくさんした。彼を薄暗い地下室に閉じ込めて衰弱死させたことに始まり、どこにも行けないよう彼の足を潰したり、あの綺麗な碧の目にもう誰のことも映さないよう視界を奪ったりもした。


 すべて愛ゆえの行動だったけれど、愛が免罪符になるなんて思えない。ごめんなさいを言うのもおかしいけれど、私の胸の内は彼への愛と同じくらい、罪悪感で一杯だった。


「……大丈夫よ、ギル。これできっと、いたいことも、くるしいことも無くなるわ」


 世界の何より愛している人との決別を前に、未練がましくぽたぽたと涙が流れ続けたが、私の決意は揺るがなかった。


 私は今日、別れを告げるのだ。何百年の繰り返しを共にした、誰より愛しいあの人に。


♦ ♦ ♦


 婚約式は、王国でいちばん立派な大聖堂で行われる。国王であるお父様と、お父様の側近、大神官、色とりどりのドレスを纏ったお姉様たち。何百回も見た光景だけれども、私のために用意された婚約式はとても美しかった。


 その輝かしい景色の中で、一際目を引くのは、狂おしいほどに愛しいあの人だ。


 黒の礼服に身を包んだギルは、神聖さすら思わせるほどに、綺麗だった。


 少し癖のある柔らかい黒髪も、どんな宝石より美しい碧の瞳も、すらりとした手足も、優しい温もりを帯びた肌も、安心する爽やかな香りも甘く微笑む横顔も心地の良い穏やかな声も吐息も鼓動も涙も血も長い睫毛が生み出す影すらも、私には全部ぜんぶ愛おしい。ただ息をしているというだけで彼は、この世の何より尊い存在なのだ。


 叶うなら、私が幸せにして差し上げたかった。彼が人生でいちばん幸福だと笑う瞬間に、隣にいるのが私であればよかった。


 でもそれは、もうどうやったって叶わないらしい。何百回と私たちを引き裂いた悲劇が、何よりの証人だった。


「エヴェリーナ様、間もなく式を開始いたします」


 従者の声にはっと顔を上げれば、何百回と見た光景と同じように、お父様やお姉様たちが祭壇の傍に用意された椅子に優雅に座り始めていた。婚約の宣誓の立会人である神官も、祭壇の傍で準備を整えている。


 そして、私の目の前では、優し気な微笑みを浮かべたギルが私に手を差し出していた。


「行きましょう、リナ。僕らの婚約式が始まりますよ」


 声を聞くだけで、愛しさが溢れる。大好きだ、と叫びたくなる。


 でも、駄目だ。今生の私は、彼の優しい手を取らない。そう、決めたのだから。


 最後に一度だけ、大好きなギルの姿を視界に収めて、私は祭壇の傍に腰かけたお父様に向かって高らかに宣言した。


「……何だか気が向かなくなっちゃったわ。お父様! やっぱり私、彼との婚約を取りやめたいです」


「エヴェリーナ……! 一体何を……?」


 お父様よりも先に、お姉様方が口々に引き留めようとする声を上げる。


 それも当然だろう。婚約式当日に婚約を破棄するなんて、いくら何でも我儘の域を過ぎた横暴だ。


「エヴェリーナ、お前がどうしてもと望んで結んだ婚約ではないか」


 駆け付けたお父様が、どこか焦ったように私を宥めようとする。お父様の後ろに並び立ったお姉様方も同様だった。


 彼らは皆、亡きお母様の生き写しである私に甘い。溺愛というにはあまりに過保護だ。多分、養育者としては間違った愛の向け方だった。


 だからこそ私は、自分の思い通りにならないことが腹立たしくて、一度目の人生では目障りな女をことごとく殺したし、ギルに酷いことも出来てしまう人間に育ってしまった。


 お父様やお姉様を責めるのはお門違いだと分かっているけれど、もう少し彼らが私に現実を教えてくれていたのなら、間違えることも少なかったのかもしれないとは思う。


 だが、我儘もこれが最後だ。ギルを解放したら私は、ひっそりと彼の幸せを見守るだけの人生を送ろう。私が関わるとろくなことにはならないから、一切手出しはしないと心に誓っていた。


「嫌になってしまったものは嫌なんです!」


 わざとらしくぷい、と彼らから顔を背ければ、お父様が悩まし気な溜息をつくのが分かった。


 このまま、大聖堂から逃げ出してしまおうか。そう目論んでいる最中、ふと、茫然とした様子のギルと目が合った。


 彼は、裏切られたと言わんばかりの絶望を碧の瞳に宿していた。それもそうだろう。彼からしてみれば、私は婚約式当日に婚約破棄を言い渡すとんでもない王女なのだから。


 何百回も悲劇を繰り返してきた私たちだが、彼はいつだって私を大切にしてくれていた。その麗しい見目のために、周りに寄ってくる女性は絶えなかったが、それでも愛人の一人作らず私だけを見ていてくれた。


 今だってきっと、私を愛するための一歩を誠実に踏み出そうとしてくれていたのだろう。それを、私は裏切ったのだ。


 私たちが繰り返した悲劇を知る由もない彼の目には、今の私はとんでもない悪女に映っているに違いない。

 

 でも、それでいい。もう、それでいいから、どこかで、私の知らない誰かと、幸せになってほしい。


 彼の笑顔がこの国のどこかにあると思うだけで、私は十分生きていける気がするのだ。


 最後の最後に、私は彼の碧の瞳にそっと笑いかけた。数百年分の、愛を込めて。


「……さようなら、ギル」


 隠しようのない悲しみに染まった声を不審に思われやしないか不安だったが、どうやら彼らは気づかなかったらしい。


 私はそのまま彼らに背を向けると、ドレスを摘まんで大聖堂の外へと走り出した。


♦ ♦ ♦


 一見すれば花嫁衣裳のようにも見える純白のドレス姿の私は、人の目を引くようだった。誰にも見つからない場所を探すように、重たいドレスを引きずって必死に走り続ける。


 大聖堂の周りに咲き乱れる真っ赤な薔薇の庭園を抜ければ、レンガ造りの時計塔が見えてきた。


 王都の真ん中にあるような豪華な時計塔とは違い、人々から忘れ去られたような少し古びたこの時計塔が、私は好きだった。


 ……ギルと出会ったのも、確かこの辺りだったわ。


 あの日、背の高い生垣の中、辺りには真っ赤な薔薇が咲き乱れていて、漆黒の外套に身を包んだ彼は、どこか寂し気な後姿を私に見せたのだ。


 まだ幼かった私は、寂しそうに時計塔を見上げる彼を放っておけなくて、思わず話しかけたのだっけ。


 ――どうしてそんなに寂しそうにしているの?


 私の呼びかけに、彼はゆっくりと振り返った。今よりもずっと陰鬱な表情をしていた彼は、やっぱり綺麗だったけれど、怖いくらいの威圧感を伴っていた気がする。


 ――満たされないんだ。どれだけ生きても、繰り返しても、この渇きが癒されることはない。

 

 何かを切実に求めるような彼の声が妙に鮮烈で、私はますます彼に興味を持った。


 ――何が欲しいの? リナはお姫様だから、何でもあなたに差し上げられるわ!


 この頃の私は、自分が手に出来ないものがあるなんて疑ってもみなかった。だからこそ、何かを希求するを私ならば助けられると思ったのだ。


 ――本当に? 何でもくれるの?


 彼は、縋るような眼差しを私に向けた。今よりずっと暗く翳った碧の瞳は、それでも尚美しかった。


 ――ええ、何でも言ってちょうだい!


 自慢げに胸を張る私に視線を合わせるようにして、彼はそっとしゃがみ込む。


 ――……じゃあ、愛をちょうだい。僕が満たされるだけの、深い、愛を。


 彼は笑うように強請った。僅かに見えた真っ赤な舌がやけに鮮やかで、幼い私はどうしてか息を呑んだものだ。


 ――そんなものがほしいの? 簡単よ。私はたくさん持っているから、あなたのこと、いっぱい愛してあげる!


 一瞬感じた恐怖にも似た緊張を飲み込んで、私は彼に満面の笑みを向けた。その笑みを受けた彼はどこか意味ありげに微笑むと、そっと私の手を取って恭しく手の甲に口付けたのだ。


 ――約束だよ、お姫様。……僕の望みが叶うまで、絶対に離してあげないからね。


 時計塔の鐘が鳴り響く。こんなにも衝撃的な出会いの場面を、どうして今まで忘れていたのだろう。


 どくん、と一度心臓が跳ねたのを機に、脈が早まって仕方がない。


 彼の意味深な言葉の数々も気にかかるけれど、もっとも私を戸惑わせていたのは記憶の中の彼の姿だった。


 ギルは、私と同い年なのだ。それにもかかわらず、記憶の中の私はまだ幼い少女、彼は今と変わらぬ青年の姿をしていた。


 何百回と悲劇を繰り返すうちに、記憶までも歪んでしまったのだろうか。そんなことがあっても不思議はないけれど、どくどくと早まった鼓動はなかなか静まってくれない。


 ……ああ、どうしてかしら、私、もっとたくさんの大切なことを忘れているような気がするわ。


 途端に、途方もない不安に駆られた。何百回の悲劇を繰り返した私にとって、頼れるものは自分の記憶だけだと言うのに、その根幹が揺らぐ気配を感じる。


 ざあ、と風が木々を揺らしながら吹き抜けた。庭園に咲き乱れる薔薇の花弁が舞い上がり、流れる風に攫われていく。まるで血飛沫のような赤だった。


「リナ?」


 突如背後から響いた愛しい人の声に、私ははっとして振り返った。


 そこには、大聖堂から私を追ってきたらしいギルの姿があった。


「……ギル」


「……先ほどの言葉は本気ですか、リナ。僕との婚約を楽しみだと言ってくれていたのは、嘘だったのですか?」


 しょんぼりと肩を落とすギルの姿に、思わず表情を歪めてしまった。愛しい人が傷ついた姿を見るのは何より辛い。


 さりげなく視線を逸らして、彼を視界の外に追いやりながら、私はあくまでも威勢良く告げた。


「……ええ、そう、嘘よ。何だかもう嫌になっちゃったの。あなたとは顔も合わせたくないのよ」


 本当は、四六時中眺めていたいくらい好きだ。彼が息をして生きているというその事実だけで、いつまでも彼の姿を見ていられる気がする。いや、恐らくはきっと、彼が息をしなくなってしまっても、私はいつまでも彼を見つめていられるのだろう。


「そんな悲しい顔で言われても信じられません」


 ギルの手が私の頬に伸びたかと思うと、そのまま視線を合わせるように誘導された。彼の手から逃れようにも、すぐさまもう片方の手で腰を引き寄せられてしまったので敵わなかった。


「僕との婚約を破棄したいと言うあなたの言葉が、本当のことだとはどうしても思えないのです。一体、何があなたをそうさせるのですか?」


 間近に迫る愛しい人の顔を前に、思わずぎゅっと目をつぶって耐えた。


 こうなったらギルの前では言い逃れできない。何百回やり直しても、ギルに誤魔化しが通用した試しがないのだ。


 私は最大限に彼から顔を背けたまま、声を絞り出すようにして本音を告白した。


「……っ駄目なの。私といると、あなたは幸せになれないの。私たち、きっと、結ばれる定めにないのだわ」


「僕らが、結ばれる定めに無い……?」


 怪訝そうな彼の声に、私はただ頷くことしか出来なかった。


 どうか訳は訊かないでほしい。私が何度も逆行を繰り返しているなんて、まともに考えれば信じてもらえるはずもないのだ。仮に正直に告げてみたところで、私たちが悲劇を繰り返すことに変わりはない。


 彼はしばらく黙り込んだかと思うと、やがて、どこか面白がるようにふっと溜息交じりの笑みを零した。


「……ああ、そっか、そういう方向に考え始めちゃうわけか」


 明らかに、彼の態度が変わったのが分かる。こんな風にどこか嘲笑を交えた笑い方をする彼は、長い繰り返しの中でも初めてだ。


 思わず窺うように彼に視線を戻せば、彼の美しい碧の瞳は、見たことも無いほどに暗く昏く翳っていた。


「駄目だよ、僕から逃げ出そうだなんて。……約束、したよね? 君は、僕に愛をくれるんでしょう?」


「……ギル?」


 笑うように私との距離を縮める彼を前に、どんな表情をしていいか分からなくなる。いや、それどころか、彼の心が、彼自身が分からなくなり始めていた。


「酷いな、忘れちゃったの、リナ。あの日からずっとずっとずっと、僕は君だけに愛を注いできたのに」


 ギルの手がそっと私の手首を掴む。まるで、逃がさないとでも言わんばかりに。


 ひどく翳った目で私を見下ろすギルの姿は、遠い記憶の中の彼の姿にそっくりだった。


 ああ、やっぱり何かがおかしい。


 ……彼は、私の世界で一番愛しい人は、一体、何?


 突如として湧き上がった疑念とともに、私は先ほど感じた違和感を口にした。


「ねえ、ギル……笑わないで聞いてね。私の記憶の中ではね、幼い私があなたに出会ったときも、あなたは青年の姿をしていたのよ」


 思えば、彼の幼少期の姿を少しも思い出せない。それは、もしかしてそもそも彼の幼少期など、私は知らないからなのではないだろうか。


 ギルは、私の問いかけを興味深そうに聞いていたが、やがてごく当たり前のことを告げるような調子で穏やかに笑った。


「そうだろうね。僕はもう、ずいぶん長いことこの姿のままだから」


「……え?」


 私の手首に纏わりついたギルの指に力が籠められる。目を瞠るようにして目の前の綺麗な愛しい人を見つめれば、彼はやっぱり笑うように告げた。


「王国シュタールの時計塔には、時を操る化け物が棲む。お伽噺みたいな迷信だけど、当然君は訊いたことあるよね?」


 それは、有名なお話だった。子どもに対しては「悪い子にしていると時計塔に棲む化け物が、お前の時間を食らってしまうぞ」という脅し文句と共に躾をするという話を聞いたこともある。


 ギルは、慈しむようにそっと私の頬を撫でると、恐ろしいほどに整った笑みを見せた。


「それが、僕だよ、リナ。この国が出来たころからずっと、僕はここで人を、街を、時を、見守って来たんだ」


「っ……」


 彼が、時計塔に棲む化け物。


 今しがた告げられた衝撃的な真実を心の中で繰り返しながらも、どうしてか私は、彼の正体よりも、彼が過ごしたという途方もない時間に思いを馳せていた。


 それは、人間が想像するにはあまりにも果てしない時間だった。この国が出来たころと言えば、もう数百年も前の話なのだ。


「退屈はしなかったけど、僕はいつでも渇きを覚えていた。何で満たされるのかも分からないのに、何かを常に求め続けるという感覚は、まるで身を焼くようで辛かったよ」


 言われていることは何もかも現実離れしているのに、不思議と抵抗なく受け入れている私がいた。ぞっとするほどの翳りを帯びた彼の目を前に、彼の言葉を疑うなんていう選択肢は残されていなかったのだ。


「でも、そんなときに君に出会ったんだ、リナ」


 どこまでも甘く、愛を囁くような調子で、彼は笑った。


「ここで初めて出会ったとき、幼い君は僕に愛をくれると言ったね」


 あの日の出会いを再現するように、彼は軽く私の手の甲に口付けた。触れられた部分がまるで焼けるように熱い。


「僕が満たされるだけの、深い、愛。それこそが、何百年もの間ずっと、僕が求めていたものだった」


 淡々と、滑らかに、彼は言葉を紡いでいく。私はただ、彼に捕らえられたまま、じっと耳を傾けることしか出来なかった。


「あの日から、僕は君を、君だけのことを考えて生きるようになったんだよ。数百年の孤独のうちに生まれた渇望をすべて愛に変えて、君だけに向けるようになったんだ」


 頬に添えられた彼の指先が、私の存在を確かめるように顔の輪郭を、耳を、髪をなぞる。ぞわりとした寒気は、その感触に呼び起されたものなのか、彼の言葉によるものなのかもうわからなかった。


「このまま君と愛し合えたら、どれだけ満ち足りた気持ちになるだろう。それを考えただけでも、どうしようもない幸福感に酔いしれたものなのに……」


 ふっと、彼の表情が翳る。先ほどまで、翳りつつも慈しむような色を帯びていた彼の瞳が、一気に責めるような眼差しに変わった。


「君の愛は、足りなかった。とてもじゃないが、僕が君に向ける愛とは釣り合わなかったんだ」


 そんなことない、と言い返したかったが、数百年の渇望の末に向けられた愛と同等の愛情を彼に向けられていたのかと問われると、自信を持って頷けない。数十年の限られた時の中で生きる人間からしてみれば、抱いて当然の躊躇いだっただろう。


 彼は責めるような眼差しのまま私を見下ろして、一層距離を縮めた。


「ねえ、リナ、君は僕と約束したよね? 僕が欲しいものをくれるって。僕の心が満ち足りるほどの深い愛を、君がくれるんだって」


 彼は、縋るように私を見ていた。とても無視はできない、歪んだ熱を帯びた瞳だった。


「僕を幸せにするために、何度も何度も奮闘する君を見るのはとても楽しかったよ。すごく、幸せな気分になったんだ。どれだけ痛くても、苦しくても、二人が幸せになれる道をひたむきに探し続ける君が、愛おしくてたまらなくなった。もっともっと君が頑張る姿を見たいから、僕は必ず三年目の冬に破滅を招き寄せたんだ」


 恐ろしいほど整った顔立ちに恍惚の表情を浮かべて、彼はそっと私と額を合わせた。慈しむような仕草なのに、私の心を占めるのは愛しい彼への恐怖ばかりだった。


「君がどんな方法で僕を幸せにしようとしてくれるのか、いつも楽しみだったけど……僕から離れようとするのは、ちょっと違うかな。そんなのは許されないよ、リナ。だから、もう一回だ」


 翳った瞳のまま彼が笑ったのを機に、ずきり、と心臓に鋭い痛みが走る。死を覚悟するほどの衝撃と痛みに、ふっと体から力が抜けていくのが分かった。


 地面に崩れ落ちる前に、彼の手が私を抱き留める。尋常ではない痛みは、早くも今生が終わることを示唆していた。


 思わず、縋るように彼の碧の瞳を見上げてしまう。


「……これは……一体いつまで続く悲劇なの?」


 彼は幸福感に酔いしれるように悩まし気に息をつくと、そっと私の指先に口付けて笑った。


「僕が君に向ける愛と、同じだけの愛を君が返してくれるまでだよ。まだ全然足りない、あと何回、何十回、何百回繰り返せば、僕は君の愛で満たされるんだろう」

 

 私の手のひらに頬をすり寄せて、彼は物欲しそうに私を見ていた。


 果たして、彼の渇望が満たされる日は来るのかしら。


 ひしひしと絶望に心が蝕まれていく気配を感じる。でも、この絶望には覚えがあった。


 きっと、私は何度も彼とこんな会話をしてきたのだろう。次の繰り返しが始まれば、不思議と忘れてしまう、大切な記憶。私と彼を結び付ける、歪んだ真実。


 次の私もまた、それを忘れてやり直しの日々を歩み始めるのだ。誰より愛しい彼を、ただ幸せにするために。


「……愛しているよ、リナ。次の君がどんな風に僕を愛してくれるのか、楽しみにしているね」

 

 ああ、私は、人の身では愛してはいけない怪物を愛してしまったのだ。


 それを悟ったとき、どうしてかふっと笑みが零れて、同時に涙が頬を伝っていった。


 その感覚すらも次第に曖昧になって、私は霞む視界の中で愛する人の姿を目に焼き付ける。


 でも、私も大概なのかもしれないわね。


 最期の力を振り絞って、私は震える手で彼の頬を撫でた。


 これだけの歪みを見せつけられても尚、まだ私は、彼を愛しいと思っている。彼の渇きを満たして差し上げたいと思っている。


「……案外、お似合いなのかもしれないわ、私たち」


 僅かに揺らいだ碧の瞳を射抜いて、私は笑った。


「ね、あなたもそう思うでしょう……?」


 私たちの恋は、きっと、終わることのない悲劇の物語だ。



♦ ♦ ♦


 始まりはいつだって、王国シュタールの第六王女である私と、若き青年伯爵ギルベルト・クレイの婚約式の朝だと決まっている。


 ああ、また、私たちの悲しい恋の繰り返しが始まったのだ。


 朝の光に満ちた広いベッドの上、王家の象徴である白金の髪を掻き上げて、私は疲弊しきった心で、誰より愛しいあの人のことを想った。


 どうしてこんなにも疲れているのか、何もかも諦めてしまいたいような気持ちになるのか、よくわからないけれど、それでも私の望みは変わらなかった。


「ふふ……今度こそ、幸せにして差し上げる、私の大切な大切な愛しいギル」


 殆ど脅迫観念に近い思いから独り言ちれば、ぽたぽたとと透明な涙がシーツに零れ落ちた。その光景に、理由もわからない笑いが込み上げてくる。


「ふふ、ふふふ……あははははははは」


 何が悲しいのか、何がこんなにもおかしいのかもよく分からない。私の心にはただ、誰より愛しいあの人の存在だけが刻まれていた。


 いいわ、もう、何度だって繰り返してあげる。あなたが幸せになるのなら、あなた以外の誰が苦しもうが痛みに泣き叫ぼうがもうどうだっていいの。


 仕えている王女の哄笑に慌てて駆け付けた使用人たちが、青ざめた顔で私を見ている。それでも尚、涙と笑い声を止められることは無かった。


 豪奢な部屋の片隅では、誰が返したとも知れない金の砂時計が、さらさらと小さな音を立てて新たな時を刻んでいたのだった。

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