僕らは帰宅部。放課後は廃墟で会おうよ。
藤 夏燦
……
帰宅部の僕には家に帰る前に寄る場所がある。学校の裏山。小高く盛られたちっぽけな山に僕は学校が終わるたびに登る。登ると言っても、そんな大それた山ではない。登山道は中腹までアスファルトで舗装されているし、その先も所々に階段があって、ほんの三十分もあれば頂上までたどり着ける。それでもこのちっぽけな頂上からこの小さな街を見渡すだけの高さは十分にあった。
頂上には潰れた遊園地がある。遊園地とは言ってももう回らないコーヒーカップともう廻らない観覧車、それに空へと螺旋状に伸びる展望台があるだけである。かつてこの場所は市民の憩いの場であった。しかし郊外にできた大きなショッピングセンターが徐々に客足を奪っていき、七、八年ほど前に潰れた。市民から忘れられ取り壊されることすらなかった遊園地は今もこの場所に残り続けている。
しなびて意味を成していない黒と黄色のロープをまたいで、僕はいつも通り「入園」した。割れたアスファルトから顔を出した草木を風がなびかせる。さらに少し遅れて僕の髪とカッターシャッツを涼しげになびかせた。
そうして螺旋階段の展望台へと向かった。寂れた遊園地の寂れた真ん中へ、ちっぽけな裏山のちっぽけな頂上へと向かった。階段の一段目を踏むと籠った高い音がして静寂が解かれた。でしゃばりすぎた展望台は風雨に晒され、色がはげ落ちていた。初めて来た時、手すりに手をかけたことがあったが、剥げ落ちた色が掌に絡み付いてきたため、それ以来触れていない。そもそも手すりを使わずとも登れる。なんてことない螺旋階段だ。静寂への配慮も二段目からはいらなかった。籠った高い音をリズミカルに響かせながら進んだ。僕はこの瞬間が好きだ。忘れ去られた高台から、忘れ去った街に向かって、鐘を鳴らしている気がして心地がいい。
階段は二周ほど渦を巻いていた。二周半回った頃には街を見渡せる高さになった。頂上に着けば鐘は鳴り止む。この場所には人っ子一人こない。そう思っていた――。
渦巻いた螺旋の終わりへと登りきった時、彼女は既にそこに座っていた。白の薄汚れたスニーカーの爪先をすり合わせ、橙に薄汚れたスカートの膝皿をすり合せながら、身を縮めるようにしてそこに。彼女は夕日を見ていた。泣いているようにも見えた。
「遅いよ……」
木枯らしの合間を探していた僕に、木枯らしの中彼女は言った。
「ごめん、今日、委員会があったからさ」
「待ってたのに」
空気を読んだ木枯らしが止んだが遅すぎた。後には沈黙と彼女の言葉の悲しい余韻だけが残った。
「でも委員会がある時には帰れない」
その沈黙と余韻を利用して、逆に僕は仕掛けてやった。
「……そうだね、ごめん」
彼女は申しわけそうな顔して黙り込む。沈黙と余韻の持つ悲しさは、今は僕の物だ。木枯らしが再び吹き始めたタイミングを見計らって、僕は彼女の隣に座った。身を縮めるほど寒くはないのだが、なんとなく同じ座り方をした。
僕の幼馴染、神名かえで。小学校の頃から仲良しで、よく一緒に遊んだ。学校が終わると僕についてきて、よく一緒に帰った。僕が何かすると、かえでもすぐ真似た。僕にとって彼女は妹みたいな存在だった。そんなかえでが不登校になったのは中学に入ってすぐらしい。クラスが分かれていた僕がそれを知るのは少しあとだった。僕がある日いつも通りここに寄ると、どこからかあとをつけてきたかえでが僕に泣きついた。コウくん。かえでは昔変わらない呼び方で僕を呼んだ。僕が、どうしたの? と聞くとかえでは、学校で居場所がないのだと縋った。それ以来学校が終わるとここで待ち合わせ、かえでに勉強を教えている。
「後期の委員なんだけどさ、たぶんかえでも美化委員」
「なんでわかるの? クラス違うのに」
「一組の女子の委員が三回も委員会欠席してるから。かえで一組だよね?」
「うん一組……。私美化委員なんだ。じゃあコウくんと一緒だね」
「一組の男子の委員、一人で仕事大変そうだったぞ!」
「え? その子のためにも私が頑張らなきゃね……」
冗談交じりの僕の言葉に、今日はじめてかえでが笑った。愛想笑いのようではあったが。
「うん。早くかえでが復帰できるように、おれも頑張るよ」
そう言いながら僕は手元に置いた鞄からノートを取り出す。みんなと差がつかないように、今日習ったとこだけでも教えるようにしている。彼女は学校に行かなくても常に制服だったので、まるで学校にいるような心地がした。僕が先生だ。
「ありがとう。まずは数学?」
そう言いながらかえでも鞄からノートと筆箱を取り出す。
「そう、昨日の続きで今日はここから」
僕はノートを開き、今日の授業の内容を事細かに解説していく。
「で、放物線の範囲が、あっ」
左手でノートを持ち、右手を指して解説しようとした途端、木枯らしが邪魔をした。ものすごい勢いでページがめくれようとする。
不意にそれが収まった。かえでが右手でノートの右端をつかんでいた。
「これで大丈夫だよ。続けて」
僕は左手をノートの左端へ持っていった。一つのノートを二人で開いた感じだ。かえでが僕に頭を寄せ、僕はかえでに肩を寄せた。そうして解説を続けた。お互いの手が茜に染まっている。解説を終えると、僕はそのことに見とれていた。かえでもそうだったかは知らないが、少し時が止まったようだった。しかしその間も木枯らしはせっせと吹き続け、彼女の髪と夕方の匂いを僕へ運んでいた。
再び時が動き出した時、静かに僕と目を合わせたかえでは、いつものように僕のノートを写し始めた。展望台の鉄床に二冊のノートを置き、身を丸めて。筆箱を文鎮替わりに、茜を明かり代わりにしながら。
僕はその間、西の空を見ていた。日は既に沈んだ。それでも明るいのは真っ白い薄雲に茜が染みこんでいるからだ。白は染められやすい。そこでふと、かえでを見遣った。真っ白い制服の丸まった背中に茜が染みついていた。やはりかえではどこからどうみても普通の女の子だ。彼女がなぜ学校に行けなくなったのか。詳しい理由を僕は知らない。前に聞いてみたことはあったのだが、深く口を閉ざしてしまった。
それなら誰か他の彼女を知っている人に事情を聞けばいいと思うかもしれない。しかし僕の友人でかえでを知っている者は皆無だった。一組の名前も知らないかえでのクラスメイトに直接聞く勇気はない。でも何としてもかえでの事情を見つけ出したいと思った。学校へ行けない問題があるのなら解決しなければならない。なぜなら受験はもう目前なのだ。最近はこうした彼女との時間も淡い焦燥感にさいなまれた。そうしてそれは日を追うごとに濃くなっていくのがはっきりとわかった。西空の薄雲やかえでの背中から茜が抜け落ちていくのを見ている今この瞬間も――。
「ねえ、かえで」
「ん?」
丸まったまま彼女は返事をした。
「もし学校で何かあるなら言ってほしい。おれも協力する」
沈黙が返事をした。かえでが答えを出さなかった証だ。
その間に木枯らしが頬を撫でた。その爽やかな後押しが僕に核心へと迫る勇気を与える。
「かえで。このままじゃさ、同じ高校いけないかもしれない」
同じ高校というのには当てがあった。幼馴染の僕らが、まだこの遊園地が閉園する前に、この展望台の上で交わした約束だった。
「あの約束。覚えてるよね?」
木枯らしの後押しが、僕の頭に浮かんだ言葉を外に連れ出したようだった。かえでは黙ったままだ。
「おれ、かえでと一緒に北高に行きたい」
それは木枯らしに引っ張り出された僕の本音だった。頭の中の焦燥感まで絡み付いてきてしまったため少し早口になった。
「うん。私もコウくんと一緒に行きたい」
少し間が開いて、かえでは丸まったままそう返してきた。彼女のそれも頭の中の悔しさや切なさを絡み付けたように潤んでいた。
「学校のことはね……」
かえではそう続けて、そこで詰んだ。
「行きたくないわけじゃない。学校に行っていた頃、私どうしてかわからないけど、無視されてた。ちゃんと席について授業も受けたし、給食だって食べた。でもね、みんな、誰一人、私はまるでいないかのように」
詰まりながら吐き出されたかえでの言葉は、詰まるたび潤いが増していった。
「嘘じゃないんだよ。ほんとにほんと……。なんで、なのかな……」
誰に問いかけるわけでもなく、かえでから言葉が滲み出た時、彼女の悔しさや切なさや僕が想像もできない思いが、一滴となってノートの上に落ちた音がした。
「え?」
僕には戸惑いが訪れた。さっきまでの木枯らしの後押しは消えていた。そうしてお互い黙り込んだ。しかしそれは沈黙ではない。ノートへ落ちる滴の音だけが時を刻んでいた。刻まれた音だけが僕らの間にある。それはとても穏やかな戸惑いの余韻だった。僕はとっさにかえでの背中を摩っていた。茜が抜け落ちていくその背中が無性にいとおしく感じられた。彼女が時を濡らしながら刻むリズムに合わせ、その一滴一滴を受け止めるかのように――。
やがて青白い光が茜の後を継いだ。白に白を重ねたかえでの背中は、今は輝いている。
「もう、大丈夫」
かえでがそういったので僕は摩る手を止めた。丸まった背中がむうっと起き上がる。かえでは左手で左瞼を、右手で右瞼を交互に拭いながら、
「ノートぐちゃぐちゃになっちゃった」
と言った。語尾に笑いが混じっていたようだったが、彼女の両手と長い髪のせいで表情はうかがえなかった。
僕は黙って微笑んだ。安堵と愛想から来た微笑みだった。それからかえでの背中に置いていた右手を彼女の髪の上へと持って行き、静かに撫でてやった。顔を近づけると、さっき木枯らしが運んできた匂いがした。
「大丈夫。おれのノート貸すから」
そういった後、かえでと目があった。赤くかすんだようにも見えるそれは、青白い薄明りに反射してやはりよく見えなかった。しかし
「ありがとう」
と微笑みを含めながら言ったその表情は、さっきの僕の微笑みと似ている気がした。
「あの約束のこと。忘れたことないよ」
微笑みの名残の中、かえでは続けた。
「ちょうど、ここだよね?」
そうここだ。この展望台。季節は秋でちょうど今頃だっただろうか。今と同じようにこうして二人で座り、今と同じように薄明りの中、その約束は交わされた。
幼稚園の頃、僕はよく母親とこの遊園地に来ていた。かえでも彼女の母親とよくここに来ており、気づけばと仲良くなっていた。そうして週末になると僕らはここで遊んだ。それが僕とかえでの出会いだった。コーヒーカップ、観覧車、展望台。幼い僕らにとってはすべてが煌びやかで新鮮に映った。特にこの展望台はお気に入りで、ある時は未開の地にそびえ立った塔、またある時はお姫様の住む中世のお城に姿を変えた。僕らは日が沈むまで、時を忘れたかのように遊び、日が沈むと決まって展望台のてっぺんにいた。
昼は遊び場だったこの場所も、夜には本来の役目を果たしていた。僕とかえではてっぺんの床に寝そべり、いつもきまって星空を眺めていた。冷たい鉄床に寝そべると、星空にまるで包み込まれたようだった。今思えば視界の淵から青白い街明かりがわずかにかすんでいた気がする。でもテレビゲームも携帯電話も持っていなかったあの頃の僕らには、星々の光が何よりも輝いて見えた。
アルニラム、アルニタク、ミンタカ。子どもの頃は読み込みがよく、どんなに難しい単語や用語でもすらすらと頭に入ってきてしまうものだ。(まあたいていは意味を理解していないのだが……)僕とかえでの場合は星の名だった。僕の家にあった図鑑で名前を調べてはここに来た時にそれがどこにあるのか、どれくらいの大きさでどんな色をしているのかを確認した。まるで学者にでもなった気分だった。自分たちは星のことなら何でも知っていて、それが何よりも得意気だった。やがて図鑑にあった通り星が少しずつ動いていることまでも僕らは確かめた。そんな頃だろうか。僕がこの街の北高校には天文台があり、もっと深く星空を眺めることができるのを知ったのは。
その日の夜は特別だった。星々が瞬く星月夜だったような気がする。僕は北高の天文台の話をかえでにしていた。話し終えたとき、かえでの目はどの星よりも煌びやかに輝いて映った。そのことだけははっきりと覚えている。僕が初めて星よりも輝くものをみた瞬間だったのだから。
既に天文学者気取りだったかえでは頷いて、一緒に研究しようと言った気がする。
「約束だよ。ゆびきり」
僕はそう言って、小さな小指を差し出した。かえでは笑って小指を差し出したはずだ。
「ゆびきった」
ませた天文学者たちの学者らしからぬ行動。これが僕とかえでの間にある「あの約束」だった。所々曖昧なのは僕の頭の中で何度も繰り返されたせいだろう。繰り返すたびに思い出せない部分が想像で補われ、頭の中の小さなイメージとなっていた。
「うん。忘れもしない」
かえでの問いかけにそう答えた。僕は少し嘘をついた気分になった。あの約束のことだって忘れた部分はある。ただ僕は小さなイメージを反芻しただけだ。それは記憶とは呼べない。一番大事な記憶が、一番曖昧なのは、一番思い出し、一番反芻したからだ。そう自分に言い聞かせ、かえでと向き合う。
「コウくんの気持ち。すごくよくわかった」
薄明りに溶かされたかえでの髪が揺れる。彼女は肩を落とし、いじらしい姿をして続けた。
「明日、頑張って学校いこうかな」
そのいじらしさに僕は堪らず抱きしめていた。かえでの背中が。それにまとわりつく髪の毛が。一瞬のうちに僕の腕の中にくる。僕らの間に木枯らしを入れまいと強く強く抱きしめる。
「かえで――」
僕は耳元で声にならないくらいに叫ぶ。ここまでが長かった。焦燥感に苛まれてからずっと押しつぶされそうだった。かえでと僕が同じ高校生活を送れない最悪のシナリオが頭の中を闊歩し続けた。その安堵と彼女への愛が一層腕に力を入れる。
かえでも黙ったまま静かに身を寄せた。言葉にするまでもなかった。僕らがこうして両想いなのはあの約束の前から分かりきっていた。分かりきっていたからこそここまでこれた。ここまでこれたからこそ言わなければならない気がした。僕の言葉で。
「かえで。好きだ」
今度はこれまでの思いを絡めて、微妙に湿らせる。少ししてかえでも
「うん。わたしも」
と僕の目を見つめて言った。初めてはっきり見たその瞳に僕は吸い込まれる。もっとも明かりなどなかったのだが、距離が近かったためだろうか。瞳の奥に映った自分の瞳さえ捉えることができた。
「やっぱりちょっと怖いな」
かえでは一度目を逸らして僕に言った。
「じゃあ明日、一緒に学校に行こう」
「え?でもコウくんが……」
かえでは僕と正反対の場所に住んでいると言っていた。
「明日の朝。公園前の道で待ってる」
公園前まで行くということは僕が少し早起きをしなければならなかった。けれどもかえでのためならばそれもいとわない。
「うん。ごめんね。ありがとう」
僕の目を見て、かえでは頷いた。
次の日、かえでは学校に来なかった。僕は公園の前で三十分待ち続けたあげく遅刻した。かえでに裏切られた絶望と焦燥でその日の授業は耳に入らなかった。学校が終わると僕は裏山へ急いだ。いつもはのんびりと歩く坂道も自然と早足になる。その間、あの日の約束や昨日の告白が綺麗なイメージのまま頭を反芻した。かえではどんな顔で僕を待ち構えているのだろうか。また縋られる気がして頭の中で構えてみる。僕はかえでが好きだ。誰よりも大切だ。そしてこのままじゃいけないと一番わかっているのも僕だ。かえでの将来のため。僕たちの将来のため。今日ははっきり言おう。そう決意すると喉元に怒りが絡んだ。
頂上に着くと僕は愕然とした。しなびて意味を成していない黒と黄色のロープは撤去され、代わりに大きな黒とオレンジの壁が遊園地を囲んでいる。それはロープとは異なり、しっかりと進入禁止の意味を成していた。奥には重機がちらほら見え隠れし、騒がしい声をあげている。遊園地の解体が始まったのだ。人っ子一人こなかったこの場所にたくさんの重機と解体業者が駆けつけている。忘れ去った街が、今更ここを思い出し、完全に記憶から消し去ろうとしているようだった。もうここを縁にしているのは僕とかえでだけなのだ。
僕はどうすることもできずかえでを待った。しかしどれだけ待っても彼女は現れなかった。ここの有様を目の当たりにして、先に帰ってしまったのだろうか。かえでが学校に行かなかったのなら、先に来て僕を待っていたに違いない。やがて重機の咆哮が響くと展望台の鉄パイプが悲鳴をあげた。この壁の向こうで、これから僕とかえでの思い出がくしゃくしゃに潰される。そう思うともうここにはいられなかった。
僕は街を回り、かえでを探した。学校。公園。コンビニ。かえでが行きそうな場所を万遍なく。それでも彼女を見つけることはできなかった。やはりかえでの家へ直接行こう。そう思ったところで僕は躊躇した。かえでの家。そういえば引っ越してから一度も行ったことがない。記憶の断片からかすかな手がかりを得ようとしても叶わなかった。家の場所どころか、どの方角に家があるのかすら曖昧なのだ。思えばあの廃遊園地以外でかえでと会ったことなどなかった。あの場所は本当に僕とかえでの縁であった。
そうやって街をさ迷い歩いていた時、ふと古びた団地が目に付いた。高度経済成長の波と共に郊外に作られた団地。その一角に僕は懐かしさを感じる。なんだろう。何度も反芻したイメージの先にその答えはあった。かえでだ。かえでの家だ。僕はここを訪れた最後の瞬間を思い出そうとする。イメージではなく、記憶として。
「コウくん。さようなら。また、あえるといいね」
記憶の中でかえでは僕に手を振った――。
すでにもう日は沈んだ。僕は廃遊園地に戻っていた。一日目の作業を終えた解体業者は撤収し、黒とオレンジの壁が無言で立ちふさがる。それでも中に何とか入ろうと僕は抜け道を探した。僅かばかりだが小さな隙間があり、僕は身を縮めて中に入り込む。
中は変わり果てた有様だった。コーヒーカップは手つかずだったが、観覧車と展望台は既に取り壊され跡形もなかった。何もない頂上に木枯らしがいやらしく吹き付ける。その中にかすかにかえでの髪の匂いが混じっているのを僕ははっきりと感じた。
「かえで?」
縋るように呼ぶと、
「……コウくん?」
とコーヒーカップの裏から声が聞こえた。僕はすぐさま回り込んむ。
かえでは昨日と同じ格好でそこに座っていた。スニーカーの爪先をすり合わせ、スカートの膝皿をすり合せながら、コーヒーカップの運転台にもたれ泣いていた。
「遅いよ……」
かえでは昨日と同じセリフを吐いた。しかしそれは涙で濡れていた。
「ごめん」
僕はそう言って隣に座った。
「待ってたのに」
かえでは再び同じセリフを吐く。木枯らしの後押しはなかったが、僕は口から言葉を絞り出す。かえでに聞きたいことが山ほどあるのだ。
「かえでの家ってさ。どこだっけ?」
かえでは不思議そうな顔をして
「え? 元町の団地だけど……」
と言った。
やっぱり――。僕は胸に穴が開き、木枯らしが抜けたのを感じる。
僕がさっきかえでの家、元町の団地を訪れた時のある憶測が確証に変わった。人気はなく雑草が生い茂ったそこは既に廃墟と化していた。この遊園地と同じように街から忘れ去られた空間。そんな場所にかえでは住んでいる。正確には住んでいた。かえでは、神名かえではもうここにはいない。僕が小学生の時どこか遠くの街に引っ越していた。目の前にいる涙目の女の子は僕が反芻し続けた末、まるで意志持つかのように動くようになったかえでのイメージだった。彼女が学校に行けなかったのも、無視されていたのも、僕に縋るようになったのも、僕をずっと好きでいるのも、全部僕の頭の中のイメージだったからなんだ。
突然黙った僕をかえでが見つめる。昨日と同じ吸い込まれるような瞳がそこにある。
「今日、約束破ってしまってごめんなさい」
沈黙の重みの上にかえではそっと言葉を載せていく。
「学校に行こうとしたら、急に怖くなって。あの日のこと、思い出して」
「うん」
僕の相槌がその上に重なる。
「登校中に同じ制服の人を見つけて。とっさに逃げ出したて。公園の近くで犬に吠えられて。横断歩道を渡ろうとして、車に轢かれそうになって。もういっそ跳ねられようかなんて思って。でも学校に行かなきゃって思って。コウくん怒るだろうなあって……」
最後の言葉は沈黙の上に情けなく沈む。僕は何も言い返すことができず、更地になった展望台跡へと逃げるように歩む。かえでに背を向けて。
「コウくん待って!」
背中へ吹き抜けた木枯らしにかえでの声が混じった気がした。気がしただけだ。更地に立ち振り向くとかえではついてきてなかった。コーヒーカップの運転台の裏にもたれたままだ。
ここが無くなれば、かえでも消える。はっきりとわかった。この街がここを忘れ去ろうとしていることとは反対に、僕は忘れまいと必死にしがみついていた。かえでに。幼いころの思い出に。その結果が今背後にいるかえでだ。
更地になった高台から街を見下ろすと、随分様変わりしていたことに気が付いた。地平線に立ち並んだ高層マンションの光が空へとこぼれている。郊外にできた大きなショッピングセンターは勝ち誇ったようにこの時間帯でも活気に満ちていた。その姿がどことなく許せない僕は、空を仰いでいた。
透き通るような夜空はあの頃と変わらない。ただそこに星の輝きはなかった。オリオン座も明るい星々だけが微かに瞬くだけだ。ここにはもう僕がしがみつく物はほとんど残っていないのだ。
木枯らしが止んでから振り向くともうかえではいなかった。そうして二度と会うことはなかった。次の日にもここは完全に解体され、再開発として分譲住宅に生まれ変わるらしい。僕がここに来ることもそれ以来なかった。
成績も優秀だった僕は無事北高に合格する。そうして迎えた入学式の日。僕は忘れ去り続ける街の通学路を一人で歩いていた。木枯らしはもう春風に姿を変えている。
公園の近くで犬に吠えられると、飼い主の男性が僕に頭を下げ愛犬を叱りつけた。横断歩道を渡ろうとすると、中年女性の乗った白い軽自動車が僕に道を譲った。同じ制服を着た北高生が、緊張気味の僕を追い抜く。こうした小さなきっかけが街を意識だったものにしていると気づいたのはいつ頃だったのだろう。僕もまた街そのもので、その意識のきっかけの一つなのだと。
そんな足取りで校門までたどり着くと、すでにいくつかの部活が勧誘活動を行っていた。僕は迷うことなく天文部のビラを受け取る。話を聞こうと足を止めると、春風が忘れ去った匂いを運んだ。斜め前でビラをもらった女子も足を止めたのだ。天文部の先輩を囲むようにして立つと、彼女と何気なく目があう。見覚えのあるその顔に僕は何もかも思い出さずにはいられなかった。彼女もまた驚いたような顔をして僕を見つめる。
「……コウくん?」
「……かえで?」
ずっとずっと忘れていた忘れたくない約束が、今叶おうとしている――。
僕らは帰宅部。放課後は廃墟で会おうよ。 藤 夏燦 @FujiKazan
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