わたしはきみの心臓の一欠片

伽藍井 水惠

スペクター スペクター

 私が瞼を開いては閉じ、閉じては開き、降り注ぐ蛍光灯の真っ白な輝きをぼんやりと眺めていると、何かが柔らかな布の上に落ちる音がした。

 くぐもった音が上がったほうに視線を這わせると、洗濯されすぎて色褪せたシャツを纏った背中が見える。それはこの部屋の主で、まだ若い女性で、私がずっと見守り続けてきた背中だった。

 その背中の持ち主たる彼女は、なぜか膝を抱えて俯いている。もとより快活な性質ではない彼女だが、ここまで静かなのは珍しい。そう思った私は、いつもの定位置に戻ることにした。即ち、彼女の背後である。蛍光灯の光の粒子を数えるのはいつでも出来るが、彼女を見つめる一瞬は何にも変え難いのだから。


 そうして、私はもうどれくらい彼女を見つめているのだろう。


 草臥れたベッドの上で、彼女は未だにじっとうずくまり、小刻みに震えている。かさかさに乾いた膝小僧に額を押しつけているせいで、私からは彼女の顔は見えない。

 彼女が暮らす小さなアパートの小さな部屋の中には、彼女が生きていく上で必要になる家具だけが押し込まれている。ベッド、衣装ケース、小ぶりな本棚、折りたためる机――その全てが、彼女の生活の証しであり、彼女がまさにここで息づいている証拠でもある。あらゆる命の証拠に囲まれながら、彼女は静かにうずくまり、凍えた幼子のように震えていた。

 肌に薄氷が貼り付くような冷気が、天井にも床にも四つ角にも満遍なく満ち満ちた部屋の片隅で、柔らかく優しいぬくもりを与えてくれるはずの布団にくるまることも無く、彼女はただ膝を抱えて息を殺している。

 本来ならば、彼女は既に布団の中にいて、安らかな寝息を零しながら、脳のどこか奥、もう使われていない原初の部位で、彼女本人も意識しないままに明日の訪れを期待したり呪ったり恨んだりしている時刻だった。

 それがこの有様だ。彼女は長いこと自分の膝を抱えて動かず、灰色の影がわだかまる壁にかけられた時計の針だけが、何度も何度も文字盤の上を行き来している。まるで呼吸まで失ってしまったかのような彼女の姿に、私がどれほど恐怖したか。

 恐怖に戦いた私を慰めたのも、また彼女だった。正確には、彼女が喉の奥を微かに震わせて、世界に放つささやかな吐息だ。隠しきれない命の証し。それが彼女の体内から漏れ出していることに、私がどれだけ安堵したか。

 その終わりが喉から這い出るとき、ほんの少し、僅かに震えているのを聞いて、私は肋骨の内側をかきむしりたくなるほどの焦燥にかられる。


 寒いんじゃないの、そんなところでもう何時間そのままでいるの。


 腹の一番やわらかいところを必死に守るように、足を折りたたみ、腕を回し、小さく小さくなっていた彼女が、ほうと息を吐きながら身じろいだ。視線の先にあるのは、手のひらには少し余る大きさの電子機器だった。ある程度整えられた布団の上に放り投げられた、無機質で薄っぺらい、だというのに人間一人分の情報をその身の内に潜ませている、おそろしくアンバランスな機械――スマートフォンだ。

 着信でもあったのかな、と、私は彼女の背後からその画面をのぞき込む。洗い晒しのまま放って置かれた髪が、乾燥に耐え切れずにわずかに跳ねているのを愛らしく思いながら、彼女の肩口からスマートフォンの画面を凝視する。予想が外れていたことはすぐに知れた。

 彼女が膝を抱える直前に放り出したスマートフォンの画面は沈黙したまま、無機質な天井をつややかな画面に映し出しているだけだったから。

 彼女もそれを認めたのだろう。ぎしぎしと音がしそうなほどにぎこちなく頭を動かし、また額を膝小僧に押しつけてしまう。

 やがて、潮騒よりも緩やかに震える吐息に、ほんの少しの異音が混じる。引き攣れる嗚咽と、洟をすする音が。

 スマートフォンを放り出す前、彼女は誰かと電話をしていた。彼女の心臓の片隅に手ひどい一撃を食らわせたのは、その電波の向こう側で言葉を紡いでいた誰かなのだろう。そしてその言葉に傷ついて、心臓どころか不可視の心まで撃ち抜かれて、彼女はとうとう泣き出した。


 ああ、どうか泣かないで。


 私が伸ばした手は彼女に届かないし、彼女も私がここにいることを知らない。私と彼女は双方向に繋がってはおらず、私が一方的に彼女を観測しているだから、それは当然の事実なのだけれど、こうして背中の一つも撫でてやれない自分のことを恨めしく思う。

 たとえ彼女がうずくまるのをやめたとしても、私は彼女の涙を見ることが出来ない。私は彼女の背後から離れられないのだから。

 だが、それ以前に、彼女自身がこの世の全てから隠れたがるように、自分のあらゆるものをどこかに仕舞い込もうとしているのだ。情けなく大声で喚いてくれるならまだ良いのに、彼女はそれすらしようとしない。

 ただ敗北感と罪悪感と劣等感を胃の奥にぎゅうぎゅうに詰めこんで、本当は一秒だって生きていたくないんだと、背中に悲鳴を貼り付けて、ひとりぼっちで泣いている。その涙が一体どこからやってきたのか、私にはもうわからない。以前であれば知れたのかもしれないが、こうして彼女の背後に貼り付いている今となっては、涙とは疎遠になってしまった。最早縁切れた現象だ。涙の引き金の位置もその感触も忘れてしまった。あれは冷たかったのだろうか。それとも指が溶け落ちるほどに熱かっただろうか。

 何も思い出せない私は、きっと、彼女の涙は彼女の心臓が生み出したのだろう、と勝手に思うことにする。


 涙はいのちがもたらすものだから。

 心臓はいのちを巡らせる場所だから。


 胸の奥から沸いた涙が、血に乗って血管を巡って、呼吸を乱して喉を詰まらせ、鼻を刺激し、眼球の奥にたどり着き、身体の外に漏れ出しているのだ。

 ベッドの上でうずくまる、名も知らぬ憐れな彼女の為に祈る腕も持たず、呼吸も持たず、いのちも持たない私はそう信じることにする。

 だけれども、祈りたい、とも思う。

 小さな四角い部屋の隅で、明日に怯えて昨日を呪い、今日を生き抜く彼女のために。人はその繰り返しを人生と呼ぶのだろうから、なおのこと。

 かつて私が持っていたものを持つ彼女は、未だに泣いている。

 この数年、背後に貼り付いて見続けてきた彼女が泣くのはなんとも心苦しいから、祈りたいと思うのだ。


 縁もゆかりもないのに、ただ背格好が自分と似ていたからという理由だけで彼女の背中に貼り付いた背後霊に――幽霊スペクターに祈られたとて、彼女は迷惑かも知れないが。

 背中を撫でて、だいじょうぶだよと言いかけて、私は私の手の無力さに怯える。空を切るヒトの腕の形をした虚無、それが今の私の手だ。いつかこの手が、彼女にとって見えるものspectralになればいいと願う。

 

 わたしは彼女の背中の幽霊specterでしかないけれど、その日が来たなら、きっとわたしは彼女の正面に立てるのだ。そして、微笑みながら彼女の涙を拭って、指先からそっと世界の中に融けて消えて逝けるのだ。

 

 

 

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わたしはきみの心臓の一欠片 伽藍井 水惠 @nushi04

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