意志の勝利
ゴシック
意志の勝利
これから読者諸君の目にかかる文章はひどく非現実的なものに思えるだろう。私だってあのような惨劇が現実であったことを認めたくはない。しかし、あの惨劇を実際に体験してしまった以上はしっかりと向き合い、それで得た教訓を世界に伝える義務が私にはある。
いいか、読者諸君。あれは、どこにでも、誰にでも起こり得る事なのだ。いや、もしかしたら既に起きているかもしれない。
1948年11月15日 トーマス・ウィルソン
1945年8月15日
目が覚めた。
「……」
面白くない。実に面白くない。9日前や6日前の夢も悪夢だったが、今日はとびぬけて酷い夢見だ。
私は額の寝汗を手で拭い、おもむろに重い体をベッドから起こした。
これほどまでに酷いと今日一日を平和に過ごすことができなそう……だが、9日前も6日前も何も起きなかった。ならば、今日も何も起きないだろう。
そんなことを心の中で呟きながら、私はベッドから降りた。その際、この使い古した木製のベッドがギイィと軋んだがいつものことだ。私はカーテンを勢い良く開き、そのまま窓も開けようとした。しかし、そこで大量の日光が私の目に駆け込んできたため、思わずカーテンを閉めてしまった。
「……ふぅ」
今度は目を半開きにしてカーテンをゆっくり開き、徐々に目を慣らせていった。そして窓を開放すると、夏風と共に小鳥のさえずりが飛び込んできた。気持のいい朝だ。いつも私はこの一連の動作によって朝が来たことを実感している。
さて、次に私は一階のリビングに降りた。そこでは妻が水曜日の朝食を準備していた。
「おはよう」私は声をかけた。「おはよう」それに笑顔で妻は返事をしてくれる。私は幸せな男だ。
私は朝食の席に着く前に洗面所に行き、洗顔やらなんやらを一通り済ませ、再びリビングに戻ってきた。
朝食の席に着くと同時に私は口を開く。
「アクセルの分が無いが……まだ起きてないのか?」
「もう、学校へ行ったわよ。だからあなたの分はアクセルと分けて作ったのよ」
アクセルというのは私の息子だ。それはともかく、この町に学校が出来たのはつい最近のことなので、アクセルが私よりも早起きになったことを忘れていたのだ。私は「すまないな、明日からはアクセルと同じ時間に起きるよ」と妻に言った。
「そうね、よろしく」妻は笑いながら言った。
私は朝食を食べると、寝巻きから職務用の服装に着換え、出勤の準備をし、玄関に向かった。
「じゃあ、行ってくる」私はリビングにいるであろう妻に向かってそう言った。すると「待って!」という声が返ってきた。そして、あわてて私のところに駆けてきた妻は「今日の晩御飯はローストビーフよ」と言った。
「ほぉう、どこでそんなものを?」
私は顎に手を当てながら聞いた。
「お隣のクレイマンさんからよ。この間のお礼ですって」
「なるほど、そいつは夜が楽しみだな。まぁ、とにかく、行ってくる」
私は「行ってらしゃい」と言う妻を横目にドアを開き、愛しのホームの外に出た。そして勤務先へ向かう。
ところで、私の仕事はそんなに難しいものではないが、誰にでもできるというわけでもない。簡単に説明すると、毎日午前10時から11時にかけて本国とこの町のお互いの情報を交換し、次に行政長(この町はヘイブン人による強い自治権が認められている)に報告し、最後に本国の情報を新聞紙風の記事に編集して街の中央広場にある掲示板に載せるというものだ。
ただ、情報交換の際に使う電信という技術を扱えるのがこの町に私を含めて二人しかいないので、誰にでもできる職ではないのだ。
私はこぢんまりとした職場に到着した。そして早速気分を害した。何せ、遅刻魔である同僚ハイドリヒが我が物顔ですでに席についていたからだ。昨日は無断で欠勤していたくせに……。
出来る事ならばハイドリヒがいない職場に移りたいものだが、前述したとおりの理由がその道を阻んでいる。全く、どうしたものか。
私はハイドリヒに挨拶もせずに10時から始まる情報交換の準備を始めた。そして、丁度準備が終わるころ、本国から情報が送信されてきた。
さあ、今日は一体どのような情報が来るかな。ここのところ、連合国との戦勝報告ばかりだったが、今日もそのことだろうか? まぁ、なんにせよ、ここの皆が興奮するような話題だったらなんでもいいが。
私は送られてきた電文に目を通し始めた。
『昨日8月14日、陛下の御前で行われた護国大会議において、連合国側に対し無条件降伏をすることが決定。つきましては、我が国ヘイブン帝国は今次大戦に敗北しました。本日の通信はこれにて終了、また次の通信は未定。』
私は心臓をえぐられたような感覚に襲われた。電文を持つ手をわなわなと震わせ、そのまま放り投げた。そして、過呼吸になっている口を手で覆った。
「き、昨日まで、戦勝報告しかなかったじゃないか! なのに、手のひらを返したみたいに、負けましただと⁈ だったら、今までの戦果は全部嘘だったってことか。ふざけるな!」
私は横暴にそう言った。そして、この部屋からハイドリヒが出ていく姿を視認したので、一人になった私はさらに声を荒げた。
「大体、私達の偉大なる祖国が負けるなどあり得るのか? いつも祖国は言っていたじゃないか、連戦連勝の栄光の帝国軍と!」
そこで私は拳を握り締め、昂る気持ちを理性で押さえつけ、心を落ち着かせた。そして、しおれた花のようにうなだれ、静かに目を閉じた。
本国の電報に、私は怒りを覚えたのではない、深い悲しみと共に呆れを感じたのだ。連合国との戦争が始まって約4年、戦勝報告と「移民の皆さんも本国の勝利を信じて精力的に頑張ってください」という文句を重ねてきたくせして、結果的に短文で負けましたなど……。この約4年間、私はここの人々の戦意を絶やさないように掲示板でスローガンを投げかけたりしていた、時折訪れるウルップ共和国の人に白い目で見られているのも気にせずに。ならば、私は本国の噓を皆に真実と伝えてきたということか⁈ 私はなんと愚かなんだ!
とにかく、一刻も早く皆に本国の真実を伝えなければならない。敗戦というのは余りにも悔しいが、それ以上に、自分たちが愛している国に愛されていなかったという事実は絶対に皆が知るべきだ。となると、まずは行政長の下へ向かおう。
そうして、私は電文を拾い、ふらつく足で行政長がいる庁舎へと向かった。
庁舎に来た私は行政長に、電文を見せるとともに自分の気持ちを情熱的に語った。すると、行政長は開口一番にこう言った。
「そんな冗談はよせ、ウィルソン。ブラックジョークにもならんぞ」
行政長に適当にあしらわれた、と感じた私は語勢を強めて反駁する。
「冗談ではないですよ! 今の今までこの電文だけが本国との架け橋と皆で信じてきたじゃないですか!」
「ならっ、今までの戦勝報告も全部本当のことだな」
行政長が笑いながら言った。
「い、いや、それは私達を騙すための嘘で……」
私がたじろぎながらそう言うと、行政長は私の双肩に両手を置いた。
「いつもお前が本国が優勢だと言うから皆そう思っているのに、そのお前がいきなりどうしたんだ? なにか相談でもあるのか?」
その時、思わず私ははっとし、行政長の言葉に沈黙で返答してしまった。
「……まあいい、とりあえず、今日は一旦家に帰れ。そして、お前の美人な女房にゆっくり話でも聞いてもらうと、少しは頭を冷やせると思うぞ」
行政長は私の肩から手を降ろし、そのまま執務に戻った。しかし、私は行政長の意見を無視して、庁舎から職場に戻ることにした。
職場に戻ってきた私は、乱暴にドアを閉めながら入室した。
そうだ、そうなのだ。私が広めた嘘のせいでここの人達は噓を噓と見抜くことができないのだ。
私が庁舎であまり反論せずに帰ったのは、自分の行いがいかに愚かだったかということを先程痛感したため、行政長の言葉がずぶりと刺さったからだ。
だが、私は「ただ過去の自分を嘆くばかりでは話は何も進展しないぞ、ウィルソン」と自分で自分を励まし、いつも通りに、電文を掲示板に載せるための編集をすることにした。
数時間後、本国が敗戦したという短いながらも極めて重要な意味を持ったこの言葉を私は1万2000文字の文章に仕立て上げた。
そして、掲示板にその記事を張りに行き、また職場に戻ってきた私は、職場の清掃や電信を行うための機器の点検をしながら記事を読んだ町の人々の反応を想像していた。
すると、突如、私の職場に数人の老人がばたばたと駆け込んできた。
「ウィルソン! トーマス・ウィルソン、ここにいたか!」
一人の老人が声を張り上げて言った。
「い、一体、なんなんですか⁈」
いきなりのことに動揺した私は、両手を挙げながら言った。
「なんなんですかはこちらのセリフだ!」
もう一人の老人が言った。そして、私もよく知っている老人が奥から現れ、私が書いたぼろぼろの記事を見せつけながら、口を開いた。
「このことをゆっくり説明してもらおうか、ウィルソン情報官」
「あっ、あぁ……」
その老人はこの町で大きな発言力を持つ退役軍人レナード元大佐だった。しかし、今の私にそんなことを気にする余裕はない。
「君は今までちゃんと職務を全うしていたので私も君の記事を楽しんでいたのだが……まさかこんなでたらめな記事を掲示板に貼るとはな」
レナードはドスの効いた声で言った。
「な、なぜ、真実を伝えた記事をそんな風に……」
「なにが真実だ! はやく噓を書いた理由を言え!」
私にヤジが飛んできた。
「……噓ではない、嘘ではない! あなた達は今まで私の記事を信じてきたのに、なぜ今日のだけ嘘になるんだ!」
私は言った。
「偉大なる帝国が連合国ごときに負けるわけないからだ!」
レナードがそれに強く反論した。
「帝国軍が無敵だなんてのただの神話で、現実は違ったんだ! どうしてそれがわからないんだ!」
しかし、私は反論に反論をぶつけた。すると、私の言葉がレナードの逆鱗に触れたようで「貴様ぁあああ」と声を荒げながら、私に詰め寄ってきた。
「今の君の言葉は全帝国軍人を敵にするものだぞ! 撤回しろ!」
一瞬私はビクッとなったが、直ぐに怒りの感情が湧いてきたので言い返す。
「なんだ! あなた達は自分にとって都合のいい情報だけが知りたくて、自分にとって都合の悪い情報h」
私がそこまで言いかけたその時、レナードは私の右頬を拳で殴りつけた。私は机に思いきり倒れ込んだ。
「もういい、らちが明かん! みんな、帰るぞ!」
レナードは私に吐き捨てるようにそう言うと、老人達は満足したような笑みを浮かべながらがやがやと帰っていった。
しばらくして、私は立ち上がり、椅子に腰をどすんと下ろした。
「彼らが間違っているのか、それとも私が間違っているのか、一体……」
私は、空っぽになった頭に湧いた言葉をそのまま宙に放った。そして、おもむろに自分の左頬をつねった。
私が家に帰りつく頃には既に日は落ちていた。その道中、町民から他民族を見るような目で見られたが、晩御飯のローストビーフのことを考えたらそんなことは全く気にならないうえ、心の中で私は花園をスキップしていた。
そして、私は愛しのホームに入った。
「ただいまー」
私はそう言ったが、何も声は返ってこない。私はそれを不審に思い、そっとリビングに近づいた。リビングの食卓には妻が座っており、そこにローストビーフは無かった。
「た、ただいま」私は恐る恐る近づきながらもう一度そう言った。そして妻が口を開いた。
「どういうこと?」
この一言に私は泣きたくなった。行政長やレナード元大佐一行、そして町民が私の行動はおかしいと捉えていたが、心のどこかで妻は大丈夫だとずっと思っていた。しかし、そんな淡い希望はかき消された。
「どういうことって……、私はいつも通りの仕事をしただけだよ」
「そんなわけないじゃない。第一あなたがいつも言っていたことでしょ、偉大なる祖国が負けるわけないって」
そのことをつかれるのはさらに心が痛い。
「違うんだ、あれは全部嘘だったんだ。私はあの電報に書いてあることが真実だと信じている。だから、あの電報が負けたと言うということは、今まで私達は騙されていたんだ……」
「じゃあ、私のことやこの町の皆のことは信用してないってこと⁈」
妻の声のトーンが跳ね上がった。
「い、いや、そういうわけじゃないが……、お前たちは実際に本国から真実を聴いているわけじゃないだろ?」
「違うわ! 祖国が負けるわけない、ずっとそうやって教えられて育った。だから、私達皆にとっての真実はこれなの! でも、気づいたらあなただけは変わってしまった。ねぇ、教えてちょうだい。一体、何が起きたの?」
今度は、妻の表情が今までにないほど険しくなった。
私には妻が何を言っているか理解できなかった。妻達が真実だと思えているものは電報の裏付けがあって始めて成立するものなのに、なぜか狂信的に裏付けのない真実を信仰しているからだ。
「いや違うんだ、聞いてくれアリッサ。お前は論理的におかしいことを言ってるんだ。いいか、電報が、あの電報が負けたといってるんだ。お前たt」
「おかしいのはあなたよ! もしかして、あなたは祖国に負けてもらいたいんじゃない? だからそn」
「黙れ!」
その瞬間、ヒステリックかつ食い気味に口を開いた妻にかっとなった私は、つい手を出してしまった。
すると、私から引っ叩かれた妻は茫然自失し、私に町の人々と同じ目を向けると静かに自分の寝室へ行った。一方で私は泣いた。
どんな言い訳も言うつもりはない。私は妻に暴力を振るった。それが変えることのできない真実としてここに存在している。こんなことをしていて、私は夫を名乗れるだろうか? いや、名乗る資格などあるわけがないだろう。きっと、夫が妻に暴力を振るうというのはその覚悟があるということなのだ。もちろん、私にはそんなものるはずがない。あぁ、神よ、私はなんと愚かな人間だろうか……。
長い間私がその机で泣き崩れていると、玄関でドアを叩く音がふと聞こえた。居留守を使おうかとも考えた、レナード元大佐の一件もあったものなので。しかし、私は憔悴しきった顔で客人を迎えた。
「どうも」
家にやってきたのは茶髪で小柄な眼鏡をかけた男性と、仏頂面で黒人の大男だった。
「一体、どんな用事があってここに?」
私は重い声で聞いた。
「私はウルップ共和国の使節シーザー・アイデンです。こっちはボディーガードのレイブンです」
二人は同タイミングでお辞儀をしたので、私も返した。
「情報官のあなたは既にご存知と思いますが、昨日ヘイブン帝国は連合国に対して無条件降伏を表明しました」
私の顔が明るくなった。
「そして、私達はそのことのこの町の皆さんに伝えに来ました」
私は二人を喜んで家に入れた。
今日の波乱万丈な出来事のせいで、段々と自分に対して疑いの芽が芽生えていたが、この2人が来てくれたおかげでその芽は潰された。さらに、やはり自分は間違っていなかったんだという思いに仲間が増えたという喜びが重なって私はすっかり舞い上がった。しかし、妻との一件が尾を引いていることもあり、手放しには喜べない。
ちなみにこういった外客の宿泊所は私の家である。そのため、私の家はこの町の税金で建てられたうえかなり広い。
「いやぁ、今日一日は大変だったんですよ」
私は三人分の食事を用意しながら言った。
「そうでしょうね、中々信じてもらえなかったでしょう」
シーザーは、レイブンと共に荷解きをしながら言った。
「ふふっ、もっとひどいですよ。誰にも信じてもらえませんでした。今日の町民からの扱いは、まるでカトリックの異端審問ですよ」
シーザーやレイブンはそれに対して、何も返事をしなかった。恐らく、自虐で笑いを取ろうとした私が実は精神的にかなり傷ついてるということを、頬の傷から見越したのだろう。
「私達の祖国はどうなってますかね?」
私は話題を変えた。しかし、シーザーは余計に顔を悪くしてそれに答える。
「残酷なものですよ、都市は空襲で徹底的に破壊されて土埃と瓦礫の山と化し、田舎では食糧不足で飢餓が流行っています。それに加え、二つの大都市に新型の巨大爆弾が投下されて、この世のものとは思えない惨状になってるとか。しかしですね、一番可哀想なのは前線の兵士ですよ。自殺と同義の突撃が敢行されたり、銃弾の補給すらままならなかったりで……」
「そうですか」
やはり、か。戦勝報告は全てうそで、実際は本土失陥すら危ういような状況だったのか……。しかしまぁ、私達に嘘の報告をしてくる動機もなんとなくわかる。
「まぁまぁ、ローストビーフが三人前出来上がったのでどうぞ召し上がり下さい」
妻の作り上げのローストビーフを私が完成させ、食卓に並べた。
「突然の訪問なのにこんな豪華なものをありがとうございます」
シーザーはそう言い、レイブンと共に再びお辞儀をした。そして、私達は食卓についた。
「で、具体的に町民にどう伝えるんです? あの人達に敗戦を理解させるのは難しいですよ」
私は聞いた。
「安心してください。ヘイブン人に口だけでそれを信じさせるのは難しいと思って、あるものを沢山持ってきました」
シーザーは言った。
「あるもの?」
私は気分を一気に高揚させて聞き返した。
「新聞です。ヘイブン帝国のものではありませんが、そこにはヘイブン帝国の国王陛下が降伏宣言を行う様子の写真が載っています」
「ほ、本当ですか⁈」
私は我を忘れて立ち上がった。
「ええ、国王陛下に絶対の忠誠を誓っているあなた方には効果覿面でしょう」
私は光り輝く目で何度も頷いた。そして、シーザーの手を握り「それなら、きっと皆納得してくれます!」と力強く言った。
「明日の11時に出来る限り全町民が中央広場に集まるように指示するよう行政長に既に伝えています。私達はそこで町民に新聞を配ろうと思っています」
私に反してシーザーは冷静に答えた。だが、私は興奮を抑えずにシーザーにある質問をした。それは「私もそれに参加していいですか」というものだ。無論、シーザーは快諾してくれた。
その後、食事を食べ終わったので明日のことやお互いの国について談笑し、2人を客人用の寝室に案内して私も眠りにつこうとした。しかし、その前に妻の寝室に寄ったり、息子の寝室に寄ったが、2人とも私の言葉を無視した……。問題ない、明日には全部解決するはずだ、きっと。
こうして私は今日一日を終えた。
1945年8月16日
夜が明けた。それと同時に私はベッドから勢いよく体を起こした。
「早いものだな……」
起きたばかりだが私の意識ははっきりしており、臨戦態勢を整えていた。そして、私は朝が来た事の確認などせずに昨日の妻の姿を思い浮かべながら、真っ先に一階に降りた。しかし、そこにいたのはシーザーとレイブンだった。
「あぁ、おはようございます」
私は目の挙動のおかしさを除けば、至って普通に挨拶をした。
「おはようございます……、残念ですが、私達が起きたときにも奥さんの姿はありませんでした」
シーザーは私のことを気遣いながら言った。
「大丈夫ですよ、あの新聞さえあれば何とかなります」
私はそう冷静に言い、二階に上がって戦争の準備を始めた。
そして、遂に11時がやってきた。私達三人が中央広場に来るとそこは大量の人間がひしめいており、この燦々と陽光が降り注ぐの中でよくもと思う人数が立ち尽くしていた。
恐れることは何もない。皆に新聞を見せて、ヘイブン帝国が敗戦したことを伝える、ただそれだけだ。やろうと思えば、子供にだってできる。だが、唯一懸念があるとすれば、今日の夢は悪夢だったことだ。
私達は中央広場の掲示板の前に立ち、聴衆に顔を向けた。すると、聴衆のざわめきが段々と静まり返って行き、最終的に辺りは自然の音だけが存在するようになった。
そこで、シーザーが口を開いた。
「私シーザー・アイデンと彼レイブンは皆さんに重要なお知らせを伝えにウルップ共和国からやってきました」
シーザーの声が辺りによく響く。聴衆がまだ静かなままだからだ。
「いいですか、皆さん。あなた方の祖国ヘイブン帝国は連合国との戦争に敗れました」
シーザーがそう言うと、流石にこれには「引っ込め、外国人!」などと、老人からヤジが飛んできた。しかし、シーザーはそれをものともせずに話を続けた。
「ここにはその証拠がある!」とシーザーは声高らかに言い、新聞を持つ手を高く振り上げた。
「この新聞にはあなた方の国王陛下が降伏宣言を行う姿の写真が載っています!」
その時、聴衆に明らかに大きなどよめきが発生した。さらに、シーザーがレイブンに目で合図を送ると、レイブンは手に抱えた大量の新聞を聴衆に配り始めた。
それを興味深々にもらう者や嫌々もらう者など様々な人がいたが、彼らは総じてレイブンに圧倒されながら受け取っていた。まぁ、それも当然だろう、黒人で背がおおよそ2メートル以上ある男など恐ろしくてたまらない。
「これでもう分ったでしょう。あなた方は惜しくも敗戦してしまったんです! しかし、私達はそのk」
「こんな茶番は終わりにしろ! この外国人と売国奴!」
ヤジが飛んできた、レナード一行からだ。
「わ、私が売国奴だと⁈」
私はレナード一行から売国奴呼ばわりされたことに鋭い目つきで反駁した。
「あなた方の国王が降伏宣言をしている写真がそこにあるのに、なぜ敗戦をしたことを信じないんですか⁈」
シーザーは声を張り上げて言った。それの応酬は「捏造だ!」や「プロパガンダはやめろ!」といった根拠のない批判だった。そして、遂にレナード元大佐が口を開いた。
「大体、あんたらウルップ共和国は中立を表明していたはずだ! なぜ連合国に肩入れしているんだ⁈」
この言葉はシーザーが持ってきた新聞を完全に否定するものだった。シーザーはレナードに反論を試みようとした。しかし、それよりも先に聴衆の一人が「黙れ、レナードのじじい! 陛下が降伏宣言を行ってるのに、それを噓をというのは不敬だぞ」と言った。
これにレナードは「なんだと! 帝国の勝利を信じないお前はヘイブン帝国の人間じゃない!」と言い、そのあとすぐに周りの人が「そうだ、そうだ!」と喚いた。
それがきっかけで中央広場は完全に動物園と化した。シーザーとレイブンや新聞のおかげで、ヘイブン帝国は敗戦したという主張に耳を傾ける人はそれなりにいたが、それ以上にレナード一行といった非敗戦派の声が大きいため、私達は主張は完全には浸透できなかった。
私は、飛んでくるヤジに向かって逐一反論するシーザーや聴衆に揉まれながらも新聞を配るレイブンのように何か行動を起こそうと考えた。そして、辺り一帯を見回した。すると、私の目にハイドリヒの姿が留まった。
そうだ! 昨日職場にいたハイドリヒなら私と同じ電文を読んでいるはずだし、ハイドリヒの実家はこの町一番の富農なので発言に影響力がある。だから、ハイドリヒにもヘイブン帝国が敗戦したことを主張してもらえば、もっと多くの人が私達の味方になってくれるかもしれない。
そこで私はハイドリヒに向かって、言葉を大声で投げた。
「ハイドリヒっ! お前もあの電文を読んだろう? だから、真実をみんなに教えてやってくれ」
私がそういうと、聴衆の目の多くがシーザーとレナードからハイドリヒに移る。私の言葉を受けたハイドリヒは一瞬目を丸くすると、すぐに何か考え込むような態度をとった。そして、少しほくそ笑んだかのように見えると、口を開いた。
「ええ、そうですね。彼ウィルソンの発言は紛れもない噓です」
ハイドリヒがそう軽く告げた瞬間、私の心と反対に聴衆は湧きたった。
「なっ、何を……」
私は完全に青ざめ、夏だというのに空気が冷え切った。
「昨日の電報はいつも通りの戦勝報告でした。敗戦? 何の話ですか? よくもそんな嘘が堂々と言えますね、私だったら耐えられません。いい加減、話題性のために善良な町民に噓をつくのはやめたらどうです? それとも何ですか、あなたは敗北主義者かなんですか?」
ハイドリヒの言葉によって、聴衆の私達に対する敵意が高まっていくのを感じた。
「まったく、過去のあなたと今のあなたはどうしてこうも違うんでしょう。あ、もしかして連合国に洗脳されたとか! なら、そこのお二方は連合国の工作員でしょうかねぇ」
ハイドリヒがそういい終わると同時に、聴衆からはヤジの暴風雨が吹き荒れ始めた。「裏切り者」「失せろ」「売国奴」「スパイ」「工作員」「国民の敵」「黙れ」「悪魔に魂を売った」「死んでしまえ」「敗北主義者」「地獄に落ちろ」などと、もはや彼らに私達の話を聞く耳はなく、この私も次第に「気づかないうちに洗脳されているだけなのでは」と思い始めた。
そして、レナードが「売国奴とスパイをこのままにしていいのか⁈ 突撃しろぉ!」と言うと、号令がかかったかのように一斉に聴衆が私達に向かってきた。私は直感的に死を悟った。
ところが、聴衆の中から獣のように飛び出してきたレイブンは私とシーザーの手を引いて聴衆からそそくさと離れていった。
私達は家に帰ってきた。勿論、そこに妻や息子の姿はなく、私は二人の前で再び泣いた。ただひたすらに泣いた。
事態が好転するどころか町民からの信頼を完全に無くしたうえ妻と息子が自分の下にいつ帰ってきてくれるのかがわからないことがたまらなく悲しかった。
もう、勝ったか負けたかの真実なんてどうでもいい! 仮に、敗戦していないことが真実だと認めたらいつも通りの生活を送れるのなら、私はいくらでも認めよう! 国王陛下だろうが、神だろうが、悪魔だろうが、誰だっていい。頼む、誰か私の日常を返してくれ!! うぅ……アリッサ、アクセル。
その後、私達はまたこの家で一夜を明かし、明日は町民に「一度、敗戦してるか否かを調査する」と言うことでとりあえずの安全を確保する事にした。
そしてその夜、私の眠りが最高潮に達している時、私はレイブンにゆすり起された。
始めはレイブンが私を起こしたことを鬱陶しく感じたが、周りの物がよく見えるようになってからすぐにその気持ちは変わった。なんと、私の寝室で煌々と炎が燃え盛っていたのだ。私は仰天して飛び起きた。さらにレイブンがついに喋った。
「この家、燃える。シーザー、死んだ。俺、お前、逃げる」
片言だったので聞き取りづらかったが、レイブンは身体から炭の臭いを発しながら今の状況を話してくれた。
「なっ、シーザーが……はっ、妻は? 息子は?」
なぜか私はこの騒ぎに妻や息子が駆け付けたのではないかと思い、レイブンに聞いた。すると、レイブンは悲しそうな顔で「んっ」と言って、私の枕元に置かれていた紙を指した。私は直ぐにそれを掴み、読んだ。
『私の元夫へ
死んでしまえ、この売国奴。永遠にさようなら。
あなたの元妻より』
ここまでくると、もう私の目からでる涙は残っていなかった。しかし、その代わりに私の目から世界の色が抜け落ちた。私はおもむろに紙を裏返すと、その紙が昨日の電文であることに気づいた。
「は、はははははっ」
そして私は電文をポケットに入れ、ベッドに倒れ込みながら笑い始めた。
そんな私をレイブンは行動不能と見たのか、私を抱き寄せ、両手で抱えると、助走をつけて窓へ飛び込んだ。窓ガラスの破片が私の身体やレイブンの顔に波のように押し寄せ、次に外の茂みの中へと落下していった。枝や草などが衝撃を和らげたとはいえ、レイブンが地面に降り立った瞬間私の肋骨が折れそうになるほどの衝撃が押し寄せたが、レイブンが上手く着地してくれたおかげでそうはならなかった。
そして、レイブンは私の腕を引っ張って走り出す。もちろん、その際も私は笑っていた。すると、私の家を囲っていたであろう鍬を持った町民の一人が「逃げたぞ! 追え!」と大声で叫んだ。
レイブンは危険を察知し、足をもっと早く動かそうとするが、昼間の時ほどのスピードは出なかった。恐らく、先の脱出に原因があるのだろう。そして、数十メートルほど進むと、レイブンは私を突き放した。
「お前、逃げる、早く!」
レイブンは言った。しかし、なおも私は笑っていた。すると、レイブンは私の顔をはたいた。
「……っ!」
「お前、逃げる! 新しく、生きる!」
レイブンはそう言うと私の体をもう一度押した。私はレイブンにたたかれたことで多少は理性が戻ってきたが、下手に現実を認識してしまったため、一種の錯乱状態になり、奇声を上げながらレイブンが突き放した方向へ走り出した。その時、レイブンが多数の農具を持った町民の方へ走り出した姿が頭に焼き付いた。
そうして、満天の星空の下、私は走った。
意志の勝利 ゴシック @masyujpn
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