ひとすじの、教科書

 4月某日。


 その日は、私、遠山ユミが入学する高校の入学式がある日だった。


 だけど私は、入学式の前日から高熱を出してしまい、寝込んでしまった。


 体は最高にだるいけど動くことはできるし、せめて入学式には参加したいとママに言った。


 すると、普段は温厚なママが、珍しく大声で叫んだ。


「ダメ!寝てなさい!」


 泣きそうな、悲しそうな表情で私に訴えているのを見て、ママが本気で私を心配していることを感じた。


 私はそれ以上駄々をこねず、ゆっくり寝た。


 結局、私が初登校したのは、寝込んでから数日後のことになった。


 朝のホームルームの時間に軽く自己紹介をさせてはもらえた。


 ただ、特にユーモラスなことも言わず、ただ淡々と名前と好きなものを言っただけの自己紹介だった。


 数日遅れで来た生徒というのが目立ったのか、自己紹介前はクラスの雰囲気が少しだけ盛り上がっていた。


 だけど、面白みもない自己紹介に冷めてしまったのだろうか。


 笑われることも、いじられることもなく、特に言葉を掛けられることはなかった。


 少し周りを見回しても、クラスメイト達はすでに、それぞれ仲良しグループを作っているようだった。


 とは言え、私は特別寂しく感じることはなかった。


 中学校時代にも友達はいたし、ウチは家族も全員仲がいい。


 とりあえず少しの間は、ちょっと退屈になるかな?という程度の認識だった。


       ♪


 しかし、そんな時に、私はピンチに陥っていしまった。


 それは、入学してから一か月ほど経った日だっただろうか。


 現国の教科書を持ってくるのを忘れてしまったのだ。


 私はいつも置き勉をせず、全ての教科書を持ち帰っていた。


 復習のためという理由もあったが、なんとなく机に置きっぱなしにするのがなんだかだらしなく感じたからだ。


 けれど、その日はうっかり現国だけ教科書を用意するのを忘れてしまった。


 しかも間が悪いことに、現国の先生はかなり真面目で厳格で、おまけにちょっと時代錯誤な指導をする人。


 教科書を忘れてしまったことがバレれば、説教と反省文数ページのコースは確実だろう。


 実際に、クラスメイトが教科書を忘れてしまい、先生にそれらのコースをするように指導されているところを見た事がある。


 ……友達がいれば、こんな時に教科書を借りるなり、一緒に見るなりすればいいのだが。


 友達を作らなかったことが、ここに来て足かせとなってしまった。


 今は休み時間。先生が教室に来るまであと5分。


 先生が教室に来るまでに正直に告白した方が、まだまたな処置になるだろうか。


 そんなことを悩んでいたら。


「……あ、あの」


 突然、隣の席に座っているクラスメイトから声をかけられた。


 心臓が飛び跳ねた。


 声が出ないようにするのに必死だった。


 私はこの一か月、クラスメイトに話しかけられた覚えが無いため、余計に驚いてしまった。


「えっ、な、何?」


 隣の子への返事も、上ずった声になってしまった。


 正直、恥ずかしい。


「あっ、えっと、ね?何か、困ってるみたいだったから、ちょっと気になった、の」


 隣の子も、何故か声が上ずっていた。


 かなり気の小さそうな印象を受ける子だ。


 ……そんな子がわざわざ声をかけるくらい、私は分かりやすく悩んでいたのだろうか?


「ああその、現国の教科書、忘れちゃって、さ」


 恥ずかしいので、私の悩んでいたポーズには触れず、正直に悩んでいた事について話した。


「えっ、現国の?」


 隣の子は驚いていた。無理もない。


 先日、クラスメイトが先生にまったり叱られたばかりだからだ。


 みんなが見ている中でもお構いなしに、教壇の上で本気で怒っていた。


「そう、現国の。だから、どうしようかなって悩んでて」


「そ、そうだよね……先生怖いもんね……」


 隣の子は、ウンウンと静かにうなずいていた。


 とても真摯に話を聞いてくれているように感じる。


「……そ、そうだ、あのね、もしよかったら……」


 すると、隣の子はおもむろにかばんから何かを取り出した。


 現国の教科書だ。


「これ、読む?」


 そして、取り出した教科書を私に差し出してきた。


「えっ、いいの?」


 私と隣の子は、今まで特に面識がなかったはず。


 それなのに助けてくれようとするその心意気に、少し驚いた。


「うん、その、一緒に……見よう?」


 隣の子は、薄く微笑みながら言った。


 この一か月、何となく教室を見回して観察していたけれど、隣の席に人が集まったり談笑しているところを見たことはなかったように思う。


 友達の有無はともかく、恐らく隣の子は積極的に人に話しかけるタイプではないのだろう。


 私に声をかけるには、相当な勇気が必要だったに違いない。


「ありがとう。助かるよ」


 私は今こそ友達のいないぼっちではあるけど、人の心情が少しも分からない薄情者でもない。


 私は、隣の子の好意をありがたく受け取った。



       ♪



 とはいえ、先生に何も言わないというのはマズイと思ったので、先生に教科書を忘れたことは伝えようと思った。


 私は職員室の扉をノックし、中に入った。


「失礼します。1-Bの遠山です。現国の後藤先生はいらっしゃいますか?」


 先生は割とすぐに入口まで来てくれた。


「遠山か、どうした?」


 私は正直に、教科書を忘れてしまった事、今日は隣の子に教科書を見せてもらう事を伝えた。


 先生は、教科書を忘れた話をした辺りで、少し眉をひそめていた。


 ただ、教科書を見せてもらう事を伝えた後、少しホッとしたような仕草を見せ、嬉しそうに笑った。


「そうか。よかった、よかった!」


 私の右肩をポンポン叩きながら先生は喜んだ。


「えっ、よかったって……?」


 先生の反応は正直拍子抜けだった。


 私はてっきり怒られるものだと思っていたからだ。


「実はな遠山、ここだけの話……」


 先生は、周りに響かないようなひっそりとした声で続けた。


 実は、私がクラスで孤立していることは、担任の先生を通じて先生方の間にも共有されていたらしい。


 授業態度は悪くなく、真面目に取り組んではいるが(先生談。私は普通にやっているだけ!)、あまりクラスメイトと話している様子が見られず、先生方は心配していたそうだ。


「入学時に色々あって先生方はみんな心配していたんだが、よかった!遠山にも友達ができたんだな!」


 先生達も安心だ!と言いながら私の肩を叩いた。


「えっ、友達?」


 つい言葉が引っかかってしまい、声に出てしまった。


「えっ、友達じゃないのか?」


 先生はきょとんとした顔で私を見た。


「その、隣の人の方から見せてあげようか?って言ってくれたので、まだ友達になったかどうかは……」


 なんとも情けない話だが、事実だからしょうがない。


 すると先生は、私の両肩をつかんだ。


「うぇっ!?」


「なら、チャンスじゃないか!新しい友達を作るための!」


「ち、チャンスですか?」


「そうだ!」


 先生は大真面目にそう言った。


「せっかく向こうから歩み寄ってくれたんだ!このチャンスを逃すんじゃないぞ!」


「は、ハイ」


 あまりの圧力に、ハイという言葉しか出てこなかった。


 ……とはいえ、先生の言葉は正しいとは思う。


 素直に先生の言葉に従って、あの子と友達になるのもやぶさかではない。


 今時の先生にも、ここまで生徒に真摯になってくれる人がいることに、心の中で感動していた。


 昔気質で怖い先生である、という先生の評価を見直す必要がありそうだ。


 そんな事を考えていると、先生が聞いてきた。


「そういえば、教科書を貸してくれるっていう生徒は誰なんだ?もしよければ先生にも教えてくれ!」


「えっ、ですから隣の……」


「その子の名前は?」


「名前?……あっ」


 そういえば、まだ名前を聞いてなかった。



       ♪



 こと、村田ヤコと出会って3年後。


 となって、別々の土地に住むようになって一か月ほど経ったある日。


「ねぇ、そろそろ会いたいな」


 ヤコが、チャット中にそんなことを言い出した。


 別々の大学に入って離れ離れにはなったけど、私たちはメールやボイスチャットでマメにやり取りはしていた。


 ただ、それでも我慢できなくなったらしく、どうしても面と向かって会いたいと聞かなくなった。


 出会った頃は大人しい感じの子だったのに、友達になってからは、随分と積極的な子に変わった。


 会うと決まった時には、ヤコが私の住んでいるアパートに遊びに行くと決めてしまった。


 私が何かを言う前に。


 それでも、私は嬉しかった。


 私の方からでは、とてもじゃないが会いたいだなんて言えなかっただろう。


 あの時と同じように、ヤコはまた、私に手を差し伸べてくれたのだ。



       ♪



「ユミちゃん、どうしたの?」


「ん?って、うおっ!?」


 机の向かい側に座っていたヤコが、身を乗り出して顔をのぞき込んできた。


 ……ああ、そうだった。私とヤコは今、私の部屋でケーキを食べていた。


 その途中で私は、ふとヤコとの出会いを思い出していたんだ。


 私に教科書を見せてくれた、あの時の事を。


 物思いに更けていてボーっとしていたせいか、ヤコに心配されていたらしい。


「ユミちゃん?」


「ヤコ、その、近い……」


 ヤコの顔は、私の鼻先まで近づいていた。


 流石に、少し気恥ずかしかった。


「あっ、ごめんね、ユミちゃん」


 ヤコはあわてて遠ざかった。


「それで、どうしたの?急にボーっとして」


 ヤコは少し首を右に傾げながら言った。


「ああ、思い出してたんだ。ちょっと昔のこと」


「昔のこと?」


 ヤコはそう言いながら、今度は首を左に傾けた。


「うん、昔、高校で出会った時のこと」


 私の返答を聞いて、ヤコは首の位置を元に戻した。


「それって、ユミちゃんが教科書、忘れた時の事?」


「そうそう」


 そうなんだ~、といいながらヤコは頷いた。


「……ふふっ、あの時のユミちゃん、分かりやすかったなぁ」


「……そんなに?私、そんなに表情に出す方じゃなかったと思うんだけど……」


 昔から、表情が硬くて何考えてるのかよくわからない、と周りの人や親に言われてた。


 ……それなのに、初めて話すヤコが、私が困っているって分かったのかな?


「えと、その、笑わないで欲しいんだけど……」


 ヤコは手に持っていたフォークを置いて、少しうつむきがちにもじもじとし始めた。


「笑わないよ。ヤコの事は」


 ヤコは私の親友だ。


 この子が真剣に話したいのであれば、私は何を話しても馬鹿にしないつもりだ。


「おおっ……キリッっとなってる……カッコイイ」


「……ヤコ? 」


 ヤコの顔が少し赤くなってる。


 ……最後の方はよく聞き取れなかった。


「あっ、ごめんごめん、それでなんで分かったかっていうとね、」


 ヤコは熱くなったのか、手でパタパタと顔を扇いでいる。


「私もね、中々友達作れなかったから。だから、ずっと周りの人を観察してたの」


 私はちょっと驚いた。


 そもそも、私が周りをうかがっていたことは特に話したことはなかったハズだ。


「知ってたんだ、ソレ」


「……私は、高校の前からあまり友達作れなかったから。同じようなこと、昔からやってたの」


 ヤコは少しだけうつむいた。


「恥ずかしがる事なんてないよ、ヤコ」


「ひゃいっ!? 」


 私はヤコの手を取って、両手で包みながら真っすぐ見つめた。


 この子が恥じる事なんてない。だって、


「私、本当にヤコに感謝してるんだ。そんなヤコが、勇気出して私に教科書みせてくれたから、」


 ヤコの顔が見る見るうちに赤くなっていく。


 かすかに唇が震えている気もする。


「だから、私たち友達になれたんだから!ヤコのおかげ! 」


「……わ、わっ……たっ」


「ん? 」


 ヤコが何か伝えようとしてくれているが、声が震えて言葉になっていない。


「……大丈夫。ゆっくりでいいから」


 ヤコの手を優しく包み直した。


「わたしも……私も!ユミちゃんのお陰でとても、とーっても幸せなの!」


「ヤコ……」


 涙を溜めながら、ヤコは心底嬉しそうに笑った。


「うん、感謝、言えてよかった。そこまでヤコが喜んでくれるなんて」


「えへへ、うん!嬉しい! 」


 そう言うと、ヤコは、包んでいた私の手をほどいて、外から私の手を包みなおした。


「えっ、ヤコ?」


突然だったから、ちょっとドキッとした。


「ユミちゃん!私たち、もっと一緒にいようね!いっぱい遊ぼうね! 」


「……うん」


 何を言い出すかと思ったら、かわいいことを言い出した。


 断る理由なんてない。これからも一緒に、


「いっぱい楽しもうね!いっぱい幸せになろうね!いっぱい大好きになろうね! 」


「うん、うん……うん?」


 ……何かさらっと変なこと言ってないか?


「ええっと、ヤコ、さん? 」


「やっぱりちょっと遠くなると思うけど、一緒のお家住んだ方がいいと思うんだ!この前色々気になって探してたの!ほら、見てほしいんだけど、」


 ヤコは矢継ぎ早に話続けながらどんどん顔を近づけ、懐からスマホを取り出した。


 アパートなどの住居情報を画面に出している。


「や、あの、分かったから、」


「とくにコレ!私の大学はちょっと遠くなっちゃうけど、ユミちゃんの大学には近いの!そんなに家賃も高くないし、駅からもそこまで遠くないし、」


「ヤコ!!!! 」


       ♪


 あの後、なんとかヤコの理性を取り戻すことに成功した。


 ヤコは「あたまひやしてきましゅっ!」と言って、ベランダの風に当たりにいった。


 ヤコの私に対しての感情は、私が思っていたよりも大きかったようだ。


 でも、まあ、ちょっと嬉しい。


 今までの人生にも友達はいるにはいたけど、濃い密度で同じ時間を過ごした友達は初めてだ。


 ちょっと恥ずかしいけど、もう一つ先の関係に進んでもいいかな、と思う気持ちもある。


 そろそろ声でもかけようかと思った時、ふと窓際の机の上に置いてある、ひとつの教科書が目に入った。


 あれは、あの日ヤコに見せてもらった、現国の教科書。


 当然もう使っていないけど、あの時からなんとなく手元に置いてある。


 私にとっての、ヤコとの友情の証。


 友達ができずに不安になっていた私にとっての、希望の光だった。


 ありがとう、と小さく呟いた後、私はベランダへと足を進めた。


 未だにベランダで落ち込んでいる、愛おしい友人を慰めに行こう。

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