呪詛の山

 まるで燃えているような夕焼けの下、だが、黒い岩峰が落とす影はあまりに暗かった。何処かから聞こえていた虫の歌は、秋風のつむじに掻き消され、後には舞う塵と枯れ葉の擦れる音が残るだけ。道には明かりなく、しるべなく、空の朱さにも関わらず早すぎる夜が満ちつつある。

 かつて、栄えた宿場町だったのだろう。道の両脇には瓦葺き屋根の大旅籠が軒を連ね、将軍の下に参勤する大名行列の路銀で賑わう――そんな在りし日を想い起こさせるような、旅中の安息地。だがそれは過去の残像であり、現実にあるものは、漆喰が剥がれた土壁を晒し、住むものと言えば蜘蛛と鼠ばかりの腐った廃屋でしかない。侍たちが蛮力を振るった時代が終わり、文明開化の今にあっては、このような町は草臥れていくだけなのだろう。

 寂寥を感じるのは黄昏時が為か、己が士分の血筋の為か――後藤はそう考えながら、埃っぽい通りを馬革のブーツで静かに踏みしめ進んでいった。途上、幾度か住民と思しき者たちとすれ違ったが、誰もが血色の悪い顔を俯けて、後藤の存在に気づきもしない。薄暮の闇のなかをふらふらと過ぎていく人の姿は、まるで幽鬼のように生気がなく不確かだった。

 間もなく、旅程はひとつの区切りを迎えた。ますます深まっていく夜の向こうにようやく見出したただひとつの明かりは、洋式ランタンに灯る鯨油の蝋燭の火だった。それは一軒の大屋敷のひさしから鎖で吊り下げられ、旅人と蛾の寄る辺として生白い光を放っている。朧に照らしだされた玄関戸は、夜に浮かぶ孤島に見えた。近寄って検めれば、果たして〝旅宿、木田〟と、木彫りの看板が卒塔婆のように立っていた。

 

 玄関戸を引き開けると、鯨油の燃える臭いが溢れだした。そこかしこに洋風の燭台が据え付けられ、光と悪臭を充満させている。一階の広間は酒房を兼ねていて、やはり洋風に寄せたのか机と椅子が並び、地元の人間と思しき者たちが静かに杯を呷っている。客に酌をしているのは年若い女中たちで、皆一様に胸元を開けたドレスを纏っている。皇都で流行りの妓楼を真似たものだろう。

 一歩踏み入ると、幾人かの視線が胡乱そうに後藤を見た。旅客が珍しいのか、それとも警戒されているのか――後者であれば、下手に素性を知られることがないよう努めなくてはならない。何処に彼の者たちの目があるか、知れぬのだから。

 面して左側の、台所に続く暖簾をくぐり現れたのは、妙齢の女将だった。蝋燭の明かりが生む陰影のためか、その顔は不気味に青白く、目元は紫斑のように黒い。服こそ豊後梅の刺繍が施された和装であったが、髪は把頭シニヨンで纏めている。


「一晩、部屋を借りたい。それと――牧という者が来ている筈だが」


 後藤がそう言うと、女将は国訛りのない言葉で応えた。件の牧は、三刻ほども前から後藤を待っていると言う。

 女将に従って広間の奥へと進むと、屏風で仕切られた小部屋へと案内された。二畳ばかりの小狭い空間に机と長椅子が詰められて、着物の上からコートを羽織った眼鏡の男が煙草を吹かしていた。男は後藤に気付くと煙草を噛んだまま立ちあがり、一礼した。後藤は礼を返すと、女将に葡萄酒を頼み下がらせた。

 男は、県庁の牧だと名乗った。応じて、自分は内務省の後藤だと返した。互いは机を挟んで腰かけて、やがて運ばれてきた葡萄酒をやりながら、始めはとりとめのない会話を交わした。皇都で流行りだした疫病のこと、紅崎に開通した鉄道のこと、喪服の女王が西天の帝冠を戴いたこと――だがどれも、お互いほんとうに関心のある話ではなかった。一刻が過ぎれば、話題も酒も底をつき、広間で誰かが下駄を鳴らす音だけが油臭い空気のなかに響いていた。

 後藤は立ち上がり、屏風の上から首を伸ばして廊下の様子を窺った。そして誰もいないことを確かめると、酒臭い溜息をひとつ吐いた。そろそろ、本題に移る頃合いだろう。


「牧さん、そろそろお話を伺いましょうか。件の――反乱士族の件について」


 眼鏡の奥の黒い目に、微かに不安の影が差すのが見えた。それから牧が語りだしたのは、或いは皇国の安寧を脅かすやもしれぬ一事だった。


「先の血戦を落ち延びた反乱士族たちを結集したのは、この辺りを統治していた旧藩主たちです。内務省に通報したころには僅かだった人数も、ここ数日のうちに百人をほどになりました。奴らが何を企てているのかはわかりませんが――またしても、帝に対し弓を引くつもりではないかと」


 将軍府の消滅、領地と秩禄の召し上げ、急速に西洋化していく皇国。新政府が成立しやっと十年が過ぎようとしているが、今なお再起を――或いは報復を諦めぬかつての侍たちは、市井の影や人知れぬ山奥に潜み、なおも刀剣の切っ先を研ぎ澄ましている。かの大反乱で流れた血も濯がれぬ今日、ふたたび戦が起こることがあれば、新政府とて小さくない打撃を受けることになるだろう。


「――だが、反乱者どもはどこに。見たところ、町中に姿はないようであるが」

黑槌山くろつちやまです」


 そう答えた声は、苦し気に呻くようだった。


「この町に大きな影を落とす、あの巨大な岩峰です。奴ら、先頃まではこの町に屯していたのが、つい昨日、全員であの山を登ったのです」


 何故――と訊ねると、牧は唇に拳をあて黙考した。しばらく後、自信が無さそうに口を開き、「……或いは、蜂起を前に、必勝の祈願などを行うつもりやも知れませぬ。黑槌山は、かつては神が住まう霊山として祀られておりました。もっとも、その社はとうの昔に打ち捨てられ、詣でる者など絶えて久しいのですが」


 いずれにせよ、反乱士族たちの目論見を知らねばなるまい。以って、不遜な企てが明るみになれば皇都に報せ、先制して奴らを捕えればよい。後藤は席に座り直すと、黑槌山に登り、様子を探る旨を牧に伝えた。


「黑槌山の麓からは参道が繋がっております故、道に迷うことはないでしょうが――」


 しばしの逡巡があった。黑槌山について語る牧の声には、何かを酷く怖れる響きが混じっていた。まるで忌むべき禁句を、口にしているかのように。


「――ですが、お気を付けを。地元の者は、あの山に決して近づきません。いつからか広まった面妖な言い伝えを、皆、信じているのです」

「それはどのような?」

「曰く、〝山が人を喰らう〟とか」


 後藤は一笑に付そうとしたが、いよいよ深刻さを増していく牧の様子を前に、そうすることは憚られた。ともすれば、地元の人間であればこそ真実やもと疑うに足る、何かしらの事実があったのだろうか。


「詳しいことは私も存じません。ですが、戦世の以前にあの山を管理していた歴代の宮司は、その死に際に、自らを人身御供として山に捧げていたと言われております」


 つまりは古い信仰の名残りが、いつしか怖ろしい噂と化したのだろう。だが、世迷言であったとして、そのような不吉な地に踏み込むとなれば、後藤も微かな不安を覚えずにはいられなかった。ひなであればこそ大きく感じる、旧い存在への怖れと敬い――それは郷愁に似て、文明という大波に飲まれつつある都市が忘れようとしているものだ。しかし、だからこそ、文明化を推し進める内務省の間諜として、後藤は迷信を振り払わなければならなかった。


「明朝、山を登ります」


 そう言うと、牧は暗い表情のまま頷いた。言葉は尽き、それからは殆ど会話もないまま時が過ぎた。やがて、鯨油の蝋燭が燃え尽きる頃、県庁の役人は宿を去っていった。


 §


 明くる日――地平の向こうから暁光がのぞき始めた頃、後藤は黑槌山くろつちやまの麓に達していた。昨日、夕暮れのあけに染まっていた町はいまや遠く、長い下り坂の向こう、朝日の金に照らされている。あれほどに満ちていた荒廃と老衰の気配は、だが朝靄と陽射しもとで俄かに薄らいでいるかに見えた。町を囲む里山の木々は、秋であるのに未だ青々と葉を繁らせていた。

 後藤は視線を行く先に向けた。見上げるのは、朝日を受けてなお黒々と屹立する岩峰である。その威容を眺めれば、なるほど、反乱士族たちがこの山に住まう神にすがる心境も理解できるように思えた。もはや寄る辺なく、滅んでいくだけの者たちにとって、同じく忘れられつつある信仰こそ最後のよすがなのだろう。変わりゆく時代を受け入れるならば、或いは救われる道もあるというのに。

 

 石造りの――巨大な大鳥居が眼前にあった。それは遥か昔に建立され、幾百年、もしかすれば千年以上の年月を風雨に晒されてなお朽ちぬ遺跡――古の祀りの痕跡だった。旧時の人々はなにを思い、なにを畏れて此れを造ったのか――神仏など信じぬ後藤には、想像すらできなかった。

 だが、落ち葉を踏みしめて大鳥居を通り抜けた時、背筋を氷柱で撫でられたかのような怖気を感じた。その不意な感覚に驚いた後藤は、身構えて立ち止まった。実際、そこに動くものの気配はなく、風すら凪いで木の葉が擦れる音すら聴こえなかった。

 後藤は深く息を吸って、緊張を吐きだした。怖気はすでに去り、ただ上振れた心臓の鼓動が刹那の名残りとして胸の内にあった。一体、今のはなんだったのか――呼吸が落ち着いても、言葉に出来ない不安が胸の内に燻り続けた。

 

 大鳥居をくぐった先は、鬱蒼とした森が広がっていた。触手のように枝を伸ばす多くのけやきは、どれもが古く大きく、太古の景観を保っていた。それら巨木の間を縫うようにして、細い参道が奥へと続き、青葉の影が作り出す闇のなかへと参拝者を誘っていた。後藤は参道の地面に、つい最近、具足によって踏み固められた痕跡を見出した。道を辿れば、反乱士族たちの行方を知れるだろうが――もしかすれば、途上で彼らに出くわす可能性もある。後藤は帽子をしっかりと被り直し、荒道を進んでいった。朝とは思えぬ暗さと獣道と見紛うほどの悪路のなか、頼りとなるのは微かな木漏れ日と、在りし日の戦で鍛えられた足腰だけだった。


 一刻、二刻、三刻――険しい参道を登り始め、未だ景色に変化はない。古木の森と、時に行く先を見失うような細道が延々と続いている。過ぎたはずの夏の残暑が徐々に体力を奪っていくなか、後藤はとある気づきを得た。それは、この場所には、あらゆる鳥獣の息遣いが感じられないことだ。これほど深い森であるならば、鴉や雉をはじめとした山鳥くらいは見かけてもいいはずなのに、姿どころか囀りも聴こえない。否、鳥獣どころか、虫すら一匹としていない。だが、果たしてそんな自然が存在するだろうか。この山では風すら吹かず、自らの足音と枯れた枝が落ちる響きだけが聞こえるすべてだった。終わりの見えない道のりと疲労はやがて、後藤の思考を昨日の追想へと連れ去っていた。


 §


 牧が去った後の夜更け――茶漬けで夕餉を済ました後藤は、桶一杯の湯で旅塵を落としてから、二階にある寝室へと上がった。そこは古びた六畳間で、一階広間にあった和洋折衷の趣きはなく、畳には饐えた草の匂いが染みつき、四角い障子窓は黄色く変色していた。狭い床の間には煤けた掛け軸があり、蛇とも百足ともつかない――なにやら見る者の不安を掻き立てるような不気味な図柄が描かれていた。部屋の隅に置かれた行燈の明かりなど、溜息ひとつで吹き消えそうなほどに頼りなかったが、故にそれら瑕瑾がはきと見えずに済んだ。

 しばらく、行燈の明かりもとで帝国の翻訳本などを読んでいると、襖の向こうから女の声が聞こえた。後藤は、寄こすように頼んでいた女中が来たものと思ったが、襖が開いて見えたのは、三つ指をついて床に目を落とす女将の姿だった。薄暗闇のもとでそのおもてはより蒼白さを増し、亡霊じみた気色を浮かべていた。女将は足音もなく部屋へと上がり、冬の風のように冷たい声音で囁いた。


「お役人様、黑槌様くろつちさまへお登りになられるのでしょう」

 

 女将は後藤の眼前で膝をつき、光の宿らない目を真っ直ぐに向けた。後藤は驚き、思わず立ちあがって身構えた。何故、自分のことを役人と知っているのか、何故、黑槌山へ向かおうとしていることを知っているのか――後藤は質したが、女将は薄気味の悪い笑みを浮かべて、「ただ知っているのです」とだけ答えた。

 後藤は懐に手を挿して拳銃の把を握ったが、女将は片手でそれを制した。その指先は氷のように冷え切って、振り払おうとする気力すらを凍てつかされてしまった。行燈の明かりによって壁に映った女将の影は、目の前にいる細身の姿とは明らかに違う形をしていたが、それは明暗の微妙な加減が生みだす不思議な効果であったのかもしれない。


「わたくしを、あのお侍様がたの仲間と考えられておられるなら、それは間違いです。ただ、貴方様に、お伝えしたいことがあるのです」


 そう言って手を離すと、女将はゆっくりと話し始めた。後藤は何故か、微睡むような心地に囚われ、氷の声に聴き入っていた。


 女将は、自らが黑槌山の宮司の末裔であると言った。故に、かの山にまつわる多くの伝承を伝え聞いているのだと。曰く――黑槌山は、紀元より昔に栄えた旧い神の一柱であり、もし眠りを妨げることがあれば、その祟りを以って皇国の全土が災厄に包まれることとなる。侍たちは、その力を求めて山に登ったのだろう、と。


「決して、かの地で血を流してはいけませぬ」と、女将は厳かに言った。

「黑槌様は贄を欲しております。故に、わたくしの父祖たちは、己が身を山に投げ、その御霊を祀ってまいりました。ですがそれは、皇国にまつろわぬ荒神を育んでいることに他なりませんでした」


 だから、いつからか人身御供の風習は絶え、黑槌山の大社も呪わしい異端として棄てられた。今や、その事実を知る者はごく少なく、宮司の血を引く僅か数人ばかりが口伝によって聴き知っているのだ、と。


「お役人様、決してかの地で血を流してはいけませぬ。もしそうなれば、飢えた荒神が目を醒まし、呪いが振り撒かれることになるでしょう」


 後藤は激しい眠気に抗いながら、努めて疑問を言葉にした。「なぜ俺にそのようなことを伝えるのだ」、と。だが、はきと思い出せるのはそこまでで、いつしか行燈の光すら届かない、深い夜の底へと後藤の意識は沈んでいった。ただ最後、女将が呟いたかもしれない朧な言葉を聴いたようだった。


「わたくしはただ――止めてほしいのです」


 その記憶が、どこまで現実だったのかは判然としない。後藤は夜明け前に目を覚まし、広間に降りたが、そこには無愛想な番頭がひとりいるだけだった。あえて昨晩の事について訊ねることはせず、冷や飯に熱い茶をかけただけの朝餉を掻きこむと、早々に宿を出た。


 §

 

 女将の言ったことを信じたわけではなかったが、その光景を見た時、いにしえの神威もむべなるかな――と後藤は思った。長い道の果て――けやきの森がついに開けると、そこは漆黒の岩肌を露わにした高峰の荒地だった。まるで目に見えない境界が引かれているかのように、ある一点を越えるとに木々は枯れ果てて灰白色の残骸となり、墨ほどに黒い地面に横たわっている。ここより先は、草と言えど木と言えど、あらゆる生命を拒んでいるとでもいうように。

 後藤は屈みこんで、黒い岩肌を調べた。溶岩かと思ったが、それにしては斑がなく――まるで磨き上げた黒玉のようにつるりとした地面だった。黒曜石かとも思ったが、薄っすらと葉脈に似た模様が透けて見えている。なんにしても、このような岩石・地層は、今までに見たことがなかった。

 森の参道は絶えたが、行く先は明らかだった。真っ直ぐ岩肌を登った先に、明らかな人工物と思しき白い柱が立っている。おそらくは、あれが大社の廃墟であろう。とすれば、反乱士族たちが野営を設けている可能性がある。後藤は身を屈め、ひっそりとその場所へと向かった。その姿勢で山を登るのは苦しかったが、これまでの道中を思えば楽なものだった。太陽はすでに頂点を過ぎ、西に向かって傾きはじめている。逆光が目を苛むなか、後藤は帽子を深く被り直した。


 やがて辿り着いたその場所は、かつて大社には違いなかったが、もはや廃墟ですらなかった。残っているものと言えば目印となった白い柱くらいのもので、あとは神殿の土台の跡が、微かに見える程度だった。大勢の侍たちが屯しているのを想像していたが、動くものの姿は見当たらなかった。或いはすでに目的を終え、別の場所に移動したのだろうか。後藤はあたりを探索し、痕跡を追った。


 手掛かりは、すぐに見つかった。大社の残骸の向こう――大きく隆起した黒い岩壁に、洞窟が存在していた。その入り口には――麓の大鳥居を小さくしたような――石造りの鳥居が建てられて、その奥が真の神域であることを示していた。そして、その鳥居にもたれかかりながら、ひとりの侍が死んでいた。

 後藤は死体を検めた。具足に取り付けられた記章を見るに、反乱した地元の藩士だったのだろう。息絶えてからそれほど時間は経っていないようで、腐敗の兆候は見えないが、その死に様は尋常とは言い難かった。握りしめられた刀、恐怖に見開かれた目、そして――巨大な顎に食い千切られたかのような下半身。血の跡は、洞窟の内部から続いていた――おそらくは、腹から下を失いながらも必死で這い出てきたのだろう。しかし、いったいなにが、このような死をもたらしたのだろうか。

 後藤は洞窟の奥を覗きこみ、〝胎内たいないくぐり〟を思い出した。各地の古い寺社に存在する洞窟を差す言葉で、山岳を胎と見立て、それをくぐることで疑似的な〝生まれ変わり〟を体験し、心身を浄化するのだという。この洞窟も、そうした修行場のひとつだったのではないだろうか。だが、本来、神聖であるはずのその場所からは、獣の死骸を思わせる不浄な臭気があふれ、そのすさまじさは、否応なく不吉な想像を喚起した。

 侍たちは、洞窟の奥へと向かったのだろう。だが内部でなにかが起こり、逃げたひとりはこのような姿になり果てた。侍たちの目的を知るためには、やはり踏み込むしかない。後藤はコートの懐に収めた銃を検めると、洞窟へと足を差し入れた。悪臭を孕んだ生暖かい空気に満ちた洞穴を、ゆっくりと手探りしていった。そして、澱んだ闇を進むなか、あの女将の言葉を思い返した。


〝決して血を流してはならない〟。――だがすでに、血は流されたのだ。


 §


 洞窟は暗く、しかし道を見失うことはなかった。壁面それ自体が微かな赤い光を帯びいて、闇のなかで頼るべき導きとなった。進めば進むほど、狭い空間に満ちる湿気と熱気が強まり、呼吸が苦痛を伴いはじめた。喉が灼けるように熱く、頭の奥に痺れを感じた。しばらくすると道は下りはじめ、黑槌山くろつちやまのより深層へと降っていった。遥か神代よりそこにあるという、まつろわぬ神――その胎内へと。


 後藤は、いつからか洞窟が揺れていることに気が付いた。地震かと思ったが、その振動は一定の拍を刻むように発生し、収まる様子はない。まるで洞窟そのものが、蠕動しているかのようだった。もしかすれば、この振動や熱気――壁の光は、山の地下深くに存在する溶岩脈の活動によって引き起こされているのかもしれない、と考えた。それ以外に、得心のいく解釈があるだろうか。揺れ動く地面に足を取られ、思わず壁に手をついた時、そこに不快な感触を覚えた。赤い光を帯びた岩壁の表面は、まるでにかわのような粘着質の液体に覆われていた。慌てて手を離すが液体は汚らしく糸を引き、いくら振り払おうと剥がれなかった。後藤は諦めて、手袋を脱ぎ捨てた。


 このような狂気を催す場所に、侍たちはなにを求めていたのだろう。訝りは深くなり、この奥に、ほんとうに彼らがいるのかも疑わしく思いはじめた。やはり、侍たちはとうに何処かへ移っているかもしれない。これほど暗く、暑く、不潔な地で、人間が長く過ごせるはずがない。だがそれは、この洞窟から逃れたいが故に湧きでた考えであり、後藤自身、そのことを解っていた。なんとか勇気を奮い起こし、うだる暑さと悪臭に耐えながら、さらなる深みを目指して歩んでいった。


 終の地へとたどり着いたのは、それから間もなくのことだった。視界が開け、目を刺すようなあけの光が見えた時、最初は地上に出たのだと思った。だが、そこに空はなかった。存在していたのは、巨大な漆黒の岩盤が天蓋を成す、広大な地下空間だった。太陽と違えたのは、岩盤の裂け目から赫々たる光を零す、なにか不定形の――名状し難い物体だった。それは巨大な眼球のようであり、拍動する心臓のようでもあり、しかし放たれる光輝の眩さのあまり、全容を窺い知ることは叶わなかった。間違いないのは、それが岩のような無機物ではなく、明らかに生物の組織に近しいなにかということだけだった。

 常軌を逸した光景が、後藤の正気を深く抉った。そしてあれこそが、黑槌山に眠る存在の、真の神体に違いないと理解した。ここはすでに、人が在るべき現世ではない。


 遠退きかけた後藤の意識は、だが求むべき姿によって繋ぎ止められた。裂け目へと至る道の途上、祭壇のような石造物を中心に戴いた広場――その入り口の左右に、当世具足の一式を身に着けて、大太刀を地に突いたまま跪座をする、ふたりの鎧武者の姿があった。赤い光が煌々と注がれるその広場こそ、彼ら反乱士族の陣だろう。

 道はただ真っすぐで、身を隠す余地はなかった。後藤は、正面から広場へと歩を進めた。なぜそのような危険を冒したのか、自分自身、理解できなかった。ただ何者かの声ならぬ囁きが、脳髄になにかを吹き込んでいるようであった。――流血を、求める意思が。


 ふたりの鎧武者は闖入者の存在を知ると立ち上がり、大太刀を抜いた。上げた雄たけびは、まるで獣の咆哮だった。面具の隙間から覗く眼光は完全なる狂気を孕み、理外の熱情によって爛々と光り、滾っていた。そして、重い具足を身に着けているとは思えぬ身のこなしで疾駆し、高々と刃を掲げた。

 後藤はコートの懐から拳銃を抜き、撃鉄を引き上げると引き金を絞った。刹那、発砲炎が赤い光を貫いて、火薬の爆ぜる轟音が地下に閉ざされた空気を揺るがした。振り下ろされた刃は、だが骨肉を裂くことはなく、ただ地を打って微かな火花を散らしただけだった。

 二人の鎧武者は折り重なるように倒れ、動かなくなった。おびただしい量の血が溢れ、傾斜によって広場へと流れていった。一瞬で放たれた二発の弾丸は、鎧に守られていない首元を正確に撃ち抜いていた。

 後藤は乱れる呼吸を整えた。落ち着いて、山高帽の鍔が裂かれていることに気が付いた。もし一歩を跳び退かなかったとしたら、頭蓋を真っ二つに割られていただろう。決着は一瞬であっても、簡単な闘いではなかった。


 後藤は弾を込め直し、しかし、違和感を覚えた。激しい銃声が轟いたにも関わらず、奥にいるはずの侍たちが姿を現さない。

 その時、ほとんど確信にも似た、怖ろしい予感が脳裏を過った。鎧武者の屍を踏み越えて、駆け足で広場へと向かった。近づくたび、赤い光に包まれたその場所の全容が露わになっていく。中心部の祭壇は噴水に似て、円柱形の台座の上には赤く湿った有機物が供えられている。その直上の岩盤からは黒い鍾乳石が伸び、先端には赤い球体が垂れ下がっている。まるで果実のようなそれは、洞窟が振動するたびに大きく脈打っていた。


 広場へと至った時、そのあまりに凄惨な光景に、後藤は息を飲んだ。


 百人に達する侍たちが、円陣を組んで広場を囲い、跪座し、裂け目に向かい頭を垂れていた。そして――腹に刃を突き立て、血を流し、死んでいた。


 目を覆うほどの惨劇だった。それはもはや、武士の信念に殉じたからではなく、志を果たせぬ無念ゆえではなく、ただ狂気と、狂熱と、狂信とに突き動かされた結果だった。気高さも清廉さもそこにはなく、尽きぬ怨嗟の念だけが、彼らの結末を導いたのだろう。

 しばらくの間、後藤は愕然と立ち尽くしていた。だがやがて、侍ではない死体がひとつだけあることに気が付いた。それは祭壇に寄りかかって果てた、狩衣を纏った宮司だった。その、女とも男ともとれぬ蒼白の面には、近く見た、誰かの面影があった。光の宿らぬ目は見開かれ、真っすぐに、赤い光のみなもとを見つめていた。


 変化は、すぐに訪れた。


 武士の死体から流れ出た血が中央へと流れ、祭壇を囲う池となった。すると、この世ならざる理外の作用によって血が逆巻き、宙を流れた。裂け目の赤光しゃっこうは邪悪な輝きを増し、洞窟の蠕動はより激しくなっていった。


 祭壇の直上――赤い果実から無数の触手が生じ、八方へと伸びると、蛇のような先端で血と肉を貪り喰らい、吸い上げていった。百の骸は瞬く間に原型を失い、赤黒い染みと化していった。それは、国ツ神のかたきとして追いやられ、やがて忘れ去られた古の祭祀の再現だった。


 赤い果実は膨張し、早鐘を打つ心臓のように蠢いた。赤い光に透かされて、その内部にあるものの姿が露わになった。その正体を知った時、後藤の理性は微塵に砕け、ただ狂おしい恐怖だけが思考を支配した。


 後藤は喚き、言葉にならない叫びをあげながら、赤い果実に向けて銃を乱射した。銃身が灼け、弾丸が尽き、弾倉が空転しても引き金を引き続けた。


 いつしか、洞窟の蠕動は収まっていた。赤い果実は沈黙し、無数の触手は萎びて枯れた。広大な地下の空間に、ただひとりの息する音が、木霊のように響き続けていた。


 潰れた果実から、なにかがぼとりと零れ落ちた。いまや腐り、崩れ、死にかけたそれは、悲痛な声で鳴き、咽び、呪詛を吐いていた。蛇とも百足ともつかぬ胴、蚯蚓みみずのように蠢く百のへその緒、血の涙を流す百の赤子の顔――まつろわぬ神の子として、生まれ変わりを得た存在が。


 それは火に炙られた砂糖のように、泡立ち、蕩け、黒い汚水となった。そこからは黒い靄が立ちのぼり、裂け目の向こう――赤い光へと向かっていった。ゆらゆらと、未練があるように、去り難いように。


 次の刹那、赤い光の彼方から巨大な触手が伸び、黒い靄を握り潰した。轟いた百の断末魔は、言語に絶するおぞましさだった。そして、赤い光の向こうにいる何者が自分を見つめていることを理解した時、後藤の意識は混沌に飲まれて絶えた。


 §


 後藤が目を覚ましたのは、あの大社の跡地だった。すでに日は陰り、空は燃えるようなあけに染まっていた。眼下には、岩峰の影に覆われた、廃れゆく宿場町が見えていた。


 洞窟の入り口は、どこにもなかった。侍の死体も、その場所に在ったはずの石の鳥居さえ、どこにも存在していなかった。その奥で体験したことの記憶すら薄らいで、ただ漠然とした恐怖が脳裏に焼き付いていた。あれは――あのすべては、果たして悪夢であったのだろうか。ならば、片方だけ失った手袋と、裂けた帽子の鍔のことは、どう解釈すればいいのであろう。


 後藤は混乱する頭を抱えたまま山を下り、明るい月が頂点に達した頃に、町へと着いた。宿の入り口を過ぎると、鯨油の蝋燭の明かりと匂いによって迎えられた。疲れ果てて腰を下ろし、さて、内務卿にはどう報告したものかと考えていると、目の前に葡萄酒の瓶が置かれた。見上げれば、蒼白の顔をした女将がそこにいた。


「これはなんだ」と後藤が訊ねると、女将は「お礼です」と答えた。


「ありがとうございました、お役人様」


 女将は深々と頭を垂れると、台所の奥へと姿を消した。後藤に女将の意図は知れず、だが断片を思い出すたびに狂いそうになる恐怖の記憶を紛らわすため、ただひたすらに酒を呷った。

 しかしどれほど酔ったとしても、あの断末魔の叫びと、朱の光――幾千年もの間、ひたすらに呪詛を募らせ続ける存在の眼光だけは、終に忘れることができなかった。

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短編第二集 二都 @nito_ren

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