短編第二集

二都

フォークロリック・ネクロ・ロマンス

 ママの首が刎ねられるのを、私は見ていた。

 暗みの森の真ん中の、真っ白なヒナギクが咲き乱れる丘の上、鋼の閃きが描いた放物線がやがて紅い軌跡に変わっていくのを――吹きあがった血が雨として地に注ぎ花畑を染めていくのを、鈍麻する時間のなかでただ見ていた。見ていることしか、できなかった。

 ころころと転がり落ちた黒い塊が、私の靴に当たって止まった。白く濁ってじわりと濡れた、月長石みたいなふたつの目が、今はもう瞬きもせず、沈黙の霧の向こうから私を見上げていた。声なき言葉を――言葉なき訴えを、伝えようとしているみたいに。それがなんなのかは、解らなかったけれど。

 私は膝を折ってママを掬いあげ、腕に包み込んだ。ニワトコの花の香油と、そして甘くえた匂いを、胸いっぱいに吸いこんだ。きっと忘れえぬ記憶として、彼女の思い出を心に刻もうと。

 歔欷きょきの叫びが、森に響き渡った。丘の上を見上げると、血の滴る剣を握りしめる青年がそこにいた。彼はこの世のものとは思えぬ声を上げ、両手で返り血に濡れた頭を抱え込み、憎悪を込めた視線で私を射抜いていた。呪いの言葉を、嫌忌の罵声を、意味をなさない悪口を喚き散らし、ヒナギクの花を散らしながら高く、高く剣を掲げた。彼の目は狂熱に燃え、けれど悲涙にしとど濡れていた。尽きぬ殺意の奥に、呻吟する嘆きが確かにあった。矛盾し、相反する二つの感情が、せめぎ合っているかのように。


 彼は狂っているのだ、救いようなく――そう思った。


〝次はお前だ〟


 私の家族を奪った青年はそう叫び、花畑を踏みにじりながら、怨嗟に満ちた様相で丘を駆け下りてきた。私は踵を返し、走り、逃げた。ママの重さを胸に抱えながら、森の奥へ、奥へ。私たち、家族が暮らすあの家まで。やがては枯れ木の枝が空を隠し、すべてを影に沈める地点まで。生き物の気配は絶え、地は泥炭にぬかるみ、鉄のイバラが蔓を這わす、暗みの森の最奥へ、ただ逃げて、逃げて。

 けれど、どれだけ逃げても、追跡者の獣じみた声が――鋼の刃が灌木を切り裂くうねりが遠のくことはなかった。鉄のイバラに肌を裂かれ、血を流しながらも彼の追走が途切れることはなかった。憤怒が、憎悪が、追跡者の両脚に宿る力となり、幾度も私に追いすがった。


〝殺してやるぞ〟


 禍々しく叫び泣く声が、もう真後ろに迫っていた。空を切る音が聞こえ、私は背に焦熱の痛みを感じた。ついに鋼の切っ先が、私を捕えたのだった。私は崩れ落ち、ママを手放し、黒々とした泥と自らの血に塗れながら転がった。呻きながら身体を起こしたとき、鋼の剣が残忍にきらめき、ギロチンの刃のように吊り上がったのが見えた。

 大きな影が風を伴って踊りこみ、追跡者の前に立ちふさがった。黒い毛を逆立たせ、赤い目を光らせるそれは、我が家を守る番犬だった。首輪に繋がれた鎖が、引き千切られている。主人の危機を感じ、駆けつけてくれたのだろう。番犬は牙を剥いて吠え立てると、敵の手首に噛みついた。唾液と血の入り混じった液体が、飛沫となってまき散らされた。追跡者は腕を振って猟犬を木立に叩きつけ、抗った。骨が軋み、二者の苦悶が混ざり合う、痛々しい闘い。私はその隙に立ちあがり、泥炭に沈みかけたママを拾いあげ、もう間近な我が家の方向へと駆けた。冷たい剣の音と、空を穿つ獣の咆哮を後に残して。ママの青白い肌には黒っぽい緑色が染みて、蠅がたかりはじめていた。私は背の痛みを堪え、決して離さないようママを強く抱き続けた。繋がりが途切れることがないように、これ以上傷つけられることがないように。たとえどれだけ汚れて、もはや腐り落ちるものだとしても。私の大切な、家族なのだから。


 まもなく、我が家にたどり着いた。ひっそりと佇む、古ぼけた家。鳥の脚みたいにほっそりした柱の上に建てられた、小さな家。鉄のイバラの親木が絡みつき、あらゆる森の花々で飾り立てられた苔むした家。私と、ママと、パパと――それから弟のためだけの。

 ああ、パパ、ブロ、ごめんなさい。私がいたのに、ママを守れなかった。ママを傷つけられてしまった。これまでで、一番大好きなママだったのに。

 パパと弟はいつもの通り、家の軒下で働いていた。森のあちこちから集めた動物の死体をノコギリで解体し、腑分けした断片を石臼でひき潰し、私が調合したスパイスをねり混ぜて、花のための肥やしを作っていた。蜜ほどに甘い腐肉の匂いが、周囲に満ちていた。

 パパと弟は顔を上げてこちらを一瞥し、私の姿を見止めた。ふたりの顔には、獣の血が凝固した黒い塊がこびりついていた。私とママが家を離れた日から、一時も休まずに仕事を続けてくれていたのだろう。私がお願いした通りに。

 優しくて、従順な、私の家族たち。ママは壊れてしまったけれど、せめてふたりは失いたくない。私は、蛆が食みだしたママの眼窩を見つめながら、願った。空の彼方へ――遠い星々にまします、古い神々に向かって。

 けれど、私の願いは――暗黙の祈りは、憎悪の叫びによってかき消された。


〝見つけたぞ〟


 振り向いた時、森の影から這いでるように追跡者が姿を現した。全身に傷を負い、折れた片腕は垂れ下がり、激しく息を切らして――それでも真っ赤に濡れた剣を握りしめ、瞳には暗い狂熱を燃え滾らせて。

 追跡者は微塵の慈悲もない視線で私を釘付けにすると、パパと弟に視線を移した。その時、彼の目の奥に、再びあの感情が――深い嘆きが入り交ざった。けれどそれは僅かの間で、一度の瞬きの後にはいや増す怒りだけが残っていた。

 パパと弟は招かれざる客人に気付くと、じわじわと彼ににじり寄っていった。私を凶刃から、守ろうとして。パパは骨断ちのノコギリを、弟は皮剥ぎのナイフを振りかざしながら、ぬらりとした足取りで。やがて、私の立っている位置を境界線として、ふたりがそこを踏み越えた時、彼我の睨み合いが決壊した。

 パパと弟は歯を剥き、口角泡を吹きながら追跡者に襲い掛かった。ノコギリが地を這う鉄のイバラに触れて火花が散り、ナイフが獣脂にぬめる光を閃かせ、二筋の弧が追跡者の血濡れた顔へと収束していった。すべては刹那の事だった。

 追跡者は身体をひねり致命の攻撃をかわすと、ふたりの背面に回り込み、鋼の剣を水平に薙いだ。噴きでる血と、断ち切られる肉と、砕ける骨の音が不快な重奏として空気を震わせた。重々しく倒れ伏したパパの身体は、首から上を失っていた。

 弟の動作は緩慢だった。もう、かなり草臥れていたのかもしれない。けれどパパを斬り倒した追跡者は、麻痺したように固まっていた。だからか、反応が遅れた。ナイフの鋭い先端が、追跡者の腹部を浅く裂いた。

 追跡者は痛みに呻き、飛び退いた。ぼたぼたと零れ落ちた新鮮な血が、木花が根を伸ばす地に吸いこまれていった。彼は膝をつきそうになるのを堪え、踏みとどまり、残された力を振り絞って逆襲に打ってでた。血を飲んで膨らんだ黒いベラドンナの花弁を刈り取りながら、地から空へと鋼のきらめきが迸った。それが、最後の一太刀となった。股から頭までを垂直に切り裂かれた弟は、二つの肉塊となって崩れた。

 散る葉が落ちる間もなく闘いは終わり、永く森にあった静寂が戻った。地に描かれた赤い絵と、いくつかの残骸を痕跡として。剣劇の喧騒なんて、最初からまぼろしだったかのように。けれど、まだ、彼はそこにいる。ボロボロに傷つき、走り疲れても、尽きぬ憎悪によって駆動する追跡者――今こそ復讐を果たそうとする、暗く燃える瞳の青年が。


〝家族は、みんな殺した。殺してやった。あとは、お前だけだ〟


 彼は、ママとパパと弟の血によって、赤黒く染まった剣の切っ先を私の喉元に突きつけた。鋼の冷たさを、触れずとも感じることができた。怖ろしい刃と、それによって齎される結末が、もうすぐそばに迫っていた。

 それでも苦痛と流血が、私を捕えることはなかった。最後に私を救ってくれたのは、やはり断ち難い家族との絆だった。ママが――私が大切に抱きしめ続けていた生首が、最後には私を救ってくれたのだった。


〝……ギデオン〟


 それは、ゆっくりと口を開き、その名前を呼んだ。追跡者は慄きのあまり剣を取り落とし、凍りついた。


〝……ギデオン。私のギデオン〟


 その声は醜くしゃがれていたけれど、確かな慈しみを湛えていた。言葉を発するたび蛆が落ち、肉はとめどなく腐敗していくとしても。

 追跡者の瞳から憎しみの色が落ち、いつかの悲涙が流れだした。彼はこわばる手をかざしながら、震える唇を開き、腐った首に呼びかけた。


〝母さん〟

〝……ギデオン。会いたかった、会いたかった〟


 彼は、嗚咽を漏らしながら手を伸べた。その一時、私の姿なんて消え失せてしまったかのように腐った首だけをまっすぐ見つめ、血に塗れた手で、抜け落ちつつある死体の髪を撫でようとして。私は、彼の成すがままにするだけだった。

 彼の手が腐った首を掴み、自らの胸元に優しく抱き寄せた。悪臭を隠すためのニワトコの香油の効果はすでになく、眼球は溶け落ち、脂ぎった蠅のたかるような肉片だとしても、無償の盲愛を込めて。生首の言葉は、生前の記憶の残滓から浮き上がった泡沫に過ぎないというのに。そこにはもう、魂などないというのに。人の愚かに、私は笑むのを抑えられなかった。


 追跡者の首筋から、鮮血が吹きあがった。彼は痛みに絶叫し、自らの頸動脈を噛み切ったものを放り捨てた。腐った首は鉄のイバラの幹にぶつかって潰れ、蛆が湧きだす黒いシミとなった。


 追跡者は倒れ、自らの血だまりに沈みこんだ。今度は私が、彼を見下ろす番だった。憎悪に滾っていた彼の瞳は、すでに光を失いつつあった。それでもその手は、鋼の剣を求めて藻掻いていた。


〝俺の家族を返せ。母さんを、父さんを、弟を返せ。魔女め〟


 青ざめていく彼の唇は、そんなことを呟いているようだった。流れでる血は止まらず、あらゆる力が失われていった。暖かい彼の血によって森の花々は色づき、花弁を開いていった。やがてこの場所にも、美しい花畑が広がることになるだろう。若い生命を滋養として。


 彼はもう、息をしていない。憎悪も悲哀も去った瞳から、絶望の一滴が零れおちた。それを見た時、私の心に永く忘れていた愛しさがあふれた。


 そうだ。今度は彼を、私の弟にしよう。そうしたら彼とふたり、新しいママとパパを探しに行こう。彼はとても強いから、新鮮な死体を作ってくれるだろう。


 私は明日に思いを馳せた。

 新しい家族。新しい生活。暗みの森の最奥の古く永い静寂に、きっとまた、なごやかな団欒が訪れるだろう。

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