救済
『工事中につきご迷惑をおかけしております』
『安全第一で作業中です』
『まことに申し訳ございません』
近々、スーパーや雑貨店などのお店が入った駅直結の商業施設ができることは知っていた。その工事がおこなわれていることも、毎日利用するから当然わかっていた。だが、こんなに憎たらしい看板、この間まであったっけ。工事中に発生するあらゆる不都合を通行人や近隣住民に詫びる文言が書かれたその板の中に立っている男と、わたしは目を合わせる。だが、どんなにこちらがそれを試みても、ライトグリーンの作業着に黄色のヘルメットを身に着けたそいつは笑みを浮かべた状態で斜め上を見つめ続けていた。タロイモミルクティーでなだめられしぼんでいた怒りに、わたしの胸が占有されていく。うるさかったり埃っぽかったりしてご迷惑をおかけしています、安全に気をつけて作業していますから、どうかご了承ください、すみません。そう主張するのはいい。だけどこいつはなんなんだ。謝罪の対象であるはずのこちらを見ようともせず、あまつさえ「俺は謝らされているんだ。こうでもしないとお前らが文句を言うからしかたなくな」みたいな感じの、こちらをばかにしたような笑顔まで貼り付けて。誠意を尽くさなきゃいけない、相手の快適な生活を悪意を持って害したいわけじゃないと表明しなくてはならないことは理解してるんだろ? だったら本気で謝れよ。申し訳なさそうに沈痛な面持ちで、ゆっくりと体を動かして、土下座しろとまでは言わないけど少なくとも見ているこっちが「ああ、本当にそういう加害の意図はないんだな」と納得できるような謝罪をしろよ。
たくさんの人が背後を通り過ぎ改札へ吸い込まれていくのを感じながら、わたしは彼を看板の中から引きずり出して路上に転がしてやりたい衝動に駆られる。話したい。この激情を誰かに共有したい。勢いよく後ろを振り返ったが、この看板の意味のわからない気持ち悪さと渦巻く悪意に気づいて足を止める人はいない。おかしい。おかしくないですか。もしかして皆さんそうは思わないんですか。こんなたくさんの人が通る場所で、工事現場で働く方々の配慮に満ちた言葉を代弁しなくてはならない存在が、こんなに空虚な形だけの謝罪をしてるんですよ。腹が立たないんですか。こいつはその人たちはおろか、このヒョヒョロ木と関わっているすべての人間を嘲り、見下し、冷笑しているんですよ。ねえ。
さすがのわたしにもストッパーのようなものは備わっており、恥も外聞もなくその主張を叫び散らすことはしなかった。だが、もやもやする気持ちははっきりとした個体となって残った。これを包み隠さず他人に伝えたところで、どうせ理解はされない。そんなことはわかっていた。でも、だからこそ。わたしはカップを握った手を握り込む。紫色の中でタピオカが揺れ動き、液体の形が大きくゆがむ。
こいつに、きちんと誠意のある謝罪をさせる。八つ当たりなのはわかっている。でも、そうしないと気が済まない。こんなことが、許されていいはずがない。
体中に決意をみなぎらせつつ看板の中に手を入れ、おざなりに頭を下げている彼を道路に引きずり出す。思いのほか抵抗もなく、作業着とヘルメット姿の男がわたしの前に立った。土埃と、かすかな汗のにおいがする。
「謝りなさい。あなた、自分の双肩にかかっている重圧理解してる? 代表になってることわかってる? 誠意を込めろよ。魂で、謝罪しなさいよ」
「謝ってるじゃないですか」
頭で思い描いていた通りの軽くて浮ついた声が口から飛び出す。高校のときのお調子者。サンダルを履き、うんこ色の髪を見せびらかしながら大学校内を歩く浅黒い男。職場にコピー機メンテナンスをしにやってくる、筋肉質ではつらつとした、今までずっと陽だまりの中に居続けたのであろう人。彼らが持っていた声色がミックスされたその質感が、わたしを苦しめる。それはわたしが自分の中をいくらあらためても発見できなかったものだ。
「謝ってない。あなたのそれは謝罪じゃない。形だけでしかない」
「そんなもんでしょ」
「そんなものじゃない」
「わかってないなあ。そんなこと、もう皆とっくにわかってるんですよ」
猫背ぎみの体を丸め、彼は歯を見せる。だめだ。話を聞けば情状酌量の余地があるかもと思ったが、これでは望むべくもない。実力行使に出る必要がある。今朝、デブを撃退した元自衛隊員の営業マンの体を、奥底から呼び起こそうとする。
土と鉄のにおいが、ふいに色濃く香った。わたしは目を見開く。黒ずんだ軍手に包まれた彼のてのひらが、肩に優しく添えられていた。鈍い、ほんのわずかな重みを、たしかに感じた。
文句や困惑を口に出す暇もなかった。隙をついて彼はわたしの横を走り抜けていく。待ちなさい。現実で叫んでから走り出したため、たくさんの人の異常者を見る視線が体に突き刺さる。それを痛いほど感じながら改札に飛び込み、彼の後を追いかける。階段の壁に貼られたお祭りや旅行へ誘う広告や、車内マナー向上を呼び掛けるポスターを次々と行き過ぎ、プラットホームへと降り立つ。しかし、辺りを見回してもあの薄緑の布と蜂みたいな黄色をまとった人影は見当たらない。まさか、もう電車に乗ってしまったのか。舌打ちをしながら電光掲示板を見あげる。上りと下り電車の到着予定時刻はどちらも二分後になっている。この路線は都心にあるものほど間隔が狭くない。電車に乗ってしまったということはありえない。なのに彼の姿はどこにもない。
「逃げられた」
口元にゆるく曲げた人差し指をかざしながら、小さな声でつぶやく。いったいどうやった。どういうトリックを使ったんだ。ヒョヒョロ木駅はそんなに大きくない。プラットホームまでは一本道だから、変な小細工はできないはずだ。と、そこまで考えたところでわたしは改札を通過した先にあるトイレのことに思い当たった。左手が地下に潜り、もう一度階段を上がるタイプになっているプラットホームへ続く道、右手側に男子・女子・多目的トイレへ続く道。この駅の改札先はおおまかにいうとそのような構造になっている。彼はわたしよりも確実に足が速かった。だから、男子トイレかどこかに身を潜めてわたしをやり過ごし、後でゆっくり出てくれば簡単に出し抜くことが可能だろう。なんでこんなことにも気づかなかったのだろうか。
死にたい。小汚くて気持ち悪い笑みの看板男にコケにされた怒りよりも、こんなことでいちいち熱をあげていた自分に対する失望とばかばかしさがむくむくと湧きあがってくる。ボタンを性懲りもなく探す。妄想の産物のはずなのに、それはいくらやっても出てこない。想像して、再び生み出すこともできなかった。
わたしの最寄り方面へ向かう下り電車の到着アナウンスを聞きながら、ゆっくりとホームから見える改札へ目を向ける。『アストロノーツ神田川接骨院』と書かれた水色の看板に阻まれ、人の往来は確認できない。しかし、なぜかその裏であの工事現場のクソがあっかんべーをしているビジョンが浮かんできて、どうしようもないいらだちにわたしは身を震わせた。あいつもボタンと同じで実際には存在しないもののはずなのに、どうしてこんなに頭の中で鮮明に像を結ぶのだろう。ただの想像を超え、質感まで持ったように思えてしまうのだろう。必要なものはいくら思い描いても手に入らないのに、必要じゃないものはなぜこうもうんざりするほど近くにあるのだろう。追いかける気力も失せて、滑り込んできた電車に乗り込んだわたしは泣きそうになってしまった。朝も昼も夕方も、わたしはいつも敗走し続けている。誰かに圧倒され、蹂躙されている。嫌だ。本当に嫌だ。
だから絶対に、あいつを謝らせてやる。わたしの前であんな仮初の『謝罪』をしていたことを、死ぬほど後悔させてやる。涙ぐみそうなのを周りの人に悟られないよう携帯の画面を必死に注視しながら、わたしは抱いた決意を再び引っ張り出す。なんとなく、これで終わったわけがないという確信があった。必ず、あのクソとはまた相まみえることになる。だから、そのときは。
がたごとと音を立てながら走行していた電車が止まり、何人か人が乗ってくる。視線をあげたわたしは驚いて身を固くした。なぜなら、乗車客の中に、今朝のピザデブがいたからだ。昼食にもラーメンをいただいたのか、そのにおいは今朝よりも鮮度が増している。横にいた女子高生がとっさに手の甲を鼻に当てた。わかりやすい拒絶と、自分のにおいで鼻を守る防衛行動。わたしも学生のときよくやっていた。
「お前、よくも今朝は加守サヤコが大切にしている核のボタンを奪ってくれたな! 返せ! 専守防衛!」
電車が走り出すと同時に、わたしは元自衛隊員になってデブをボコボコにし始めた。しかし、豆腐を殴っているかのように手ごたえがない。想像上のデブも、気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべたままでいる。現実の彼が身を揺らし、スラックスのポケットから指紋まみれの携帯を取り出す。腕を動かしたせいであらわになった汗染みがこちらを見つめてきた。臭気に耐えかねた女子高生が、電車内だというのに香り付きの寝ぐせ直しシートを取り出して鼻に当てた。
そのとき、車体が大きく傾いだ。緊急停止します。緊急停止します。今朝とほとんど同じトーンのアナウンスが流れるのを聞きながら、わたしはデブの湿った球体のような体が隣にいたガタイのいい男性に突き刺さるのをしっかりと眺めていた。完全に電車が止まり、乗客全員が安定を取り戻すと、男の大きな舌打ちが響いた。デブの体が、シンバルモンキーのごとく断続的に微動する。
「す、すみませえん」
「おいデブ。くせえんだよお前。ちょっとは考えろよ」
「……せえん」
「あ? 聞こえねえんだよ。なめてんじゃねえぞなあ、おい」
「あ、あのお、ご、ごめんなさ」
「次の駅で降りろ。ゆっくり話そうよ、な」
「いや、あ、あああの、あの。これから用事が……あってえ」
「関係ねえだろうが、なあ! しゃ、ざ、い! 謝罪をしろよ! 適当こいてんじゃねえぞ」
物騒な言葉が飛び交い、人々がゆっくりと心のシャッターを下ろしていく音がした。隣の女子高生も、シートを鼻に当てつつ、イヤホンに接続された携帯の音量ボタンを押し込んでいる。今朝とは比べものにならないほど縮こまったデブを見ながら、わたしは元自衛隊員からしがない会社員に戻っていくのを感じた。ほどなくして異常がないことを確認した電車が走り出し、夕日が窓から車内に差し込んだ。デブの真っ青になった顔が皮脂のてかりと共にくっきりと浮かびあがる。差した赤みは、死に化粧のように彼の姿を補正した。
死刑宣告に等しいと思われる次の駅名が連呼され、電車がホームへ滑り込んだ。扉が開き、間髪入れずにデブは男によって車外へと連行されていく。ラーメンのにおいが徐々にその輪郭をなくしていく。人々のまとう雰囲気が通常営業に戻っていく。その中で、わたしはゆっくりとデブのいた場所へ体をねじ込ませ、すみませんと小声で連呼しながら身をかがめた。ずっと探し求めていたものを、ゆっくりと拾い上げる。デブがわたしを蹂躙して持ち去った核のボタンが、今朝とまったく変わらぬ姿でてのひらの中にあった。携帯を取り出したときか男に絡まれたときかはわからないが、そのときにポケットかどこかから滑り落ちたのだろう。軽く埃を払いながら立ち上がり、わたしは強くそのボタンを押し込んだ。
ゆっくりと目を閉じ、これから起こる破壊について考える。職場に着弾すれば、それはきっとあの工事現場のクソにも死をもたらすだろう。別に、それならそれでいい。どうせわたしも巻き込まれて、すべての細胞が焼け焦げて、なにも知覚できなくなるのだから。いっさいのものが見えなくなった視界の中、電車が動き出す気配を感じた。わたしを含めた人間たちの呼気が、再び四角い豚箱の中で滞留を始める。しかし、ほどなくして地響きや光と共にやってきた静謐な無に、それはあっという間に塗りつぶされてしまった。
【年内更新予定】あの工事現場のクソには絶対あやまらせる 大滝のぐれ @Itigootoufu427
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