内心の自由
「すみません。今度から気をつけます」
「いや別に謝ってほしいわけじゃないんだよねどうしてミスしたのか知りたいの私は。教えたと思うんだけどどうして間違うの。教えて。私に。そしたらわかるから別に責めてるわけじゃないの。せ、め、て、る、つもりはないの。だから頼むよほんとに」
「す、すみません」
「いや、だからさ」
てんぷらの衣のような彼女の顔の皮膚が、染み出した脂汗でてらてらと光っていく。正直、裏口で会ったときからなんとなく嫌な予感はしていた。四人いる上司のうちわたしの直属でもある彼女はいちばんまともな人物であったが、月に三、四度ほど妙にぴりぴりしている日がある。わたしはこれを『揚げ過ぎ』と呼称していたが、この状態に突入してしまった彼女は職員の中でも群を抜いて面倒くさくなる。今繰り広げられている説教だって適度に揚げられている日なら「○○が間違ってたよ。前もこれこれこういうところが違ってたじゃん。もう中途で入ってきて六ヶ月半が経つんだから慣れようね。よろしく」みたいな穏便なもので済むはずなのに、いったん揚がり過ぎた日にわたしの些細なミスが重なると、こうしてマシンガンのように高威力で蒸し風呂のようにねっちこく湿度の高い詰め方に変化してしまうのだ。
たしかに、ミスをしたのはわたしの責任だ。それは甘んじて受け入れよう。でもチェックした書類やシステム画面の現物がここにないうえにそれはおとといのことでわたしは昨日休みを取っていたから当時のことをあまり仔細に覚えていないから原因も改善もあったもんじゃないのに、どうしてここで長々と説教をする必要があるのか。しかも結構な声量なので、裏口の近くを通るヒョヒョロ木の住人たちが声を出すたびにこちらをのぞいてくるのがわかって恥ずかしい。
どうせいつものように一時間早く出社してきて(管理職的な側面もあるため、きっと露出狂がなにか働きかけているのだと思う)、なにか彼女にお小言を頂戴したのだろう。よく理不尽なことを言われた後、露出狂の目が届かない別館やトイレで彼女が壁を殴打しているところをよく見かける。だから、しょうがないサンドバッグになってやるかーといった気持ちもなくはない。そんなことを頻繁にやられたらわたしだって腹が立つ。そうじゃなくてもこんなに性格が終わっているのだから、同じ立場だったら胃が溶けてしまうかもしれない。だから、これぐらいは許してやりたい。いやでもやっぱ無理。無生物はいい、無生物にフラストレーションをぶつけて溜飲を下げるのは構わない。それをわたしに向けるなよ。こっちだって核を打ちたいのを日々我慢しているのだ。まあ毎朝打ってはいるけど。でも今日は無理だった。いやこれからずっと無理だ。こっちはボタンをあの豚に奪われたのだから。この気持ちがわかるのかよ、お前みたいな弱みを揺らがない絶対的な高みから過剰に責め立ててくるてんぷらに。
目の前の女は揚げ物……人間に食べられることしかできない、黄金色のサクサクとしたてんぷら……。拳を握りながら、揚げまんじゅうが煮えたぎった油の中から現れて白く清潔な取り皿の上に載るところを想像しつつ、わたしは必死に「すみません」を繰り返す。だって、他に申し開きのしようがない。きっと自分の不注意が原因なのだから。それはいちばんよくわかっている。でも彼女はわかってくれない。昔からそうなんです、いつもいつもドジばっかでへまばっかで皆と同じようなことができなくて死にたいって救済がくるなら早く来てくれーって思いながら生活してるんです、なんて言えるわけもない。かといって彼女が納得できるように言葉を尽くす気も起きない。だから、わたしは自分にとてもよく似た声で謝罪を続ける。それしかできない。
「おっはよーございまあーす」
わたしたちの横を、出勤してきた最後の上司、もにゅ原どぶ子が通り過ぎると、揚げまんじゅうはゆっくりとため息をついた。それはまるでグレートムタの放つ毒霧のように多量の毒素を含んでいた。が、それによってすっきりしたらしい。なにかを思い出したかのように腕時計を一瞥し、わたしを同じような目で見た。
「もう朝礼だね。とりあえず終わったら誰かの手伝いして」
「はい」
朝はいつも、事務所の中で各部の進捗報告や有休を取ることの周知、露出狂のお気持ち表明などがおこなわれる。一日の始まり。約八時間の地獄が始まることを告げる、絶望の儀式。連絡事項を書き留められるよう、メモ帳を事務服のベストのポケットから引っ張り出すとき、わたしはいつも叫びだしたくなってしまう。今日は特にその気持ちが強かった。妄想の中でもミサイルを放ち続けていればいつかは現実に少しは波及するんじゃないかと期待していたのに、むなしくもそれは根こそぎ奪われてしまった。誰か、誰か早く大量破壊を起こして。カタストロフをもたらして。痛切な祈りを抱えながら、自分の席の前に立つ。
「おはようございます」
同じ調子の挨拶のあと、社訓や接客用語の唱和が始まる。今ここでわたしが突然全裸になってリストカットを始めたら、皆はどんな顔をするのだろう。いいじゃんすげえ楽しそう。いやいやミスをした分際でなにふざけたこと考えてるんだろう。自分に対しての高揚と失望が交互に胸を満たしていく中、力強い朝の陽ざしが窓から降り注いで事務机が白く染まっていく。希望の色だ。絶望の、色だ。
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疲れた疲れたほんと無理嫌もうなにもしたくない死にたい見えるもの目に映るものすべてがわたしを見ている嘲笑っている酒の肴にしている疲れた。美術の時間で絵の具を洗いすぎてとんでもない色に染まったバケツの水を思い出しつつ、疲れた体を引きずって職場を後にする。すでに陽は傾いており、ここヒョヒョロ木のあちこちで働いていたわたしのような人々が、同じような表情とオーラで駅へと向かっているのが何人も確認できた。
風土として基本的に残業がないため、露出狂などの上役、わたしたちのような一般職員も定時になると一斉に帰宅の準備を始めることになっていた。その後、全員で手分けして各所の鍵を閉めたのを確認し、挨拶をしてから各々の帰路につくのが毎日の終業時の流れだった。このクソみたいな職場でそれは唯一褒められることかもしれない。人間は搾取と中抜きとなすりつけと悪意の発露をしなければ生きていけない生物だから、その点において考えるとそれが発揮されない我が社は、多くの人の目には真っ白に映るのだろう。意地でもそう呼びたくないけど。
一斉下校のような形の退社をしてしまうと、どうしてもしばらくの間同じ道を歩かなくてはならない人が出てきてしまう。退社した瞬間からわたしは『会社の人』ではなく『個人』になるのだから、社屋の外で職場の人間と会話したり空間を共有したりすることなんて御免こうむりたいのだが、行きつくべき先が同じ駅で、そこまでは一本道なのだから仕方ない。嫌でも我慢するしかない。
「見てくださいよ。これうちの犬の写真なんですけど」
「え、やだ、かわいいーほんとかわいい。ぷにぷにしてる」
でも本当にわたしが嫌だと思っていることは、先ほどから携帯をのぞきこみながら前を歩いている揚げまんじゅうともにゅ原が、わたしを会話に入れさせまいと努力をしていることだった。裏で結託している彼女たちの背中から発せられる粒子が、寄り集まって壁を形成しているのがわたしにはわかる。犬ならわたしだって好きだし携帯の待ち受けにしてるし、仕事で使う筆箱にもこれ見よがしに『拝金主義! ゼニガタくん』という柴犬を模したキャラクターのぬいぐるみストラップをつけているのに。でも、こいつらはかたくなにわたしを会話に入れようとしない。
単なる妄想じゃないの、てかあんたが心の中でぐちぐち悪口言ってるからそうなるんじゃないのと思うかもしれないが、これでも最初のうちは頑張っていたのだ。中途で入社してすぐのころは、仲良さげに話す揚げまんじゅうたちと同僚たちの中に入ろうと頑張っていた。自分から話題を振ることもあったし、誰かが話していることに対して返答し、己の個人的な部分の断片を開示して警戒を解きやすくなるほうへ誘導するよう努めていた。でも、それはなぜか彼女たちには通用しなかった。そっけない返答や生返事は言うに及ばず、向こうからこちらへの問いかけや会話がいっさい発生しないということが頻発し、気がつくとわたしは職場で浮いた存在になっていた。悩みもした。改善しようともした。でも途中からあほらしくなって辞めた。こういうのは今までの人生の中でも、クラスや部活、大学のサークルの端でよく見かけることがあった。集団の中で容易に起こりうる不幸。とてもありふれている悪感情。それに名前はないし、原因なんてものも存在しない。そうはわかっていてもやはり悲しさはつのるし、一縷の望みも捨てられない。だからこうして、わたしは微妙な空気の中で駅に着くまでの時間を過ごしている。話しかけられたり手招きされたりしたらすぐに応じられる、きっかり二歩ぶんの空間をあけて。
だけど結局、今日もなにもないまま改札が近づいてきていた。券売機の文字が読めるようになった辺りでゆっくりと立ち止まる。揚げまんじゅうたちとの空間が無限に開いていく。それを見届けないまま、わたしはきびすを返して噴水のほうに戻り、その脇に停まっているキッチンカーでタピオカの入ったタロイモミルクティーを購入した。甘さや氷の量を告げると、淀みない動作で薄紫の液体で満たされたプラスチックカップが眼前に現れた。
「ストローはお通ししますか」
「はい」
わたしの返事にぷちっという音が覆いかぶさり、透明カップに包まれたタロイモミルクティーとタピオカが震える。なんだかとてもむなしくなった。ていうかなんでわたしはタロイモミルクティーなんて飲もうとしたのだろう。昼食にと持ってきたおにぎり弁当は気持ち悪くて食べれなかったせいで半分以上も残っているのに。にわかにわたしの体内が波立ち始める。
「お仕事、お疲れ様です!」
そこに追い打ちをかけるように、店員の言葉と笑顔がきらきらと降り注いだ。カップを受け取りながら、わたしは彼女の瞳を盗み見る。そこには労いの気持ちがスープの脂のように浮いている。だが、つるんとした黒の奥に、わたしはたしかに憐憫の感情を見て取った。やっぱり。やっぱりだ。位置的に考えて、こいつはわたしの白々しい行動をすべて見ていたのだ。監視していたのだ。それで、失意にまみれた不幸でみじめな陰キャ女が自分のところに飲みものを買い求めにきたから「かわいそうだし拒否されてたし拒絶されてたし売ってあげるか、慰めの言葉込みで」と考えたのだろう。で、こうなった。楽しいかい、そういうのは。生身の人間の生身のリアルをタピオカよろしく噛み潰すのは。楽しいかよ。ボタンを探る。ない。とっさに前髪を一本掴んで引き抜いた。鈍い痛みが、わたしの中へこの女に対しての憎しみを定着させていく。
「あの、なにか」
彼女の瞳があちこちに泳ぐ。わたしはカップを持って二歩ぶん後ろに下がった。店員は明らかに動揺している様子でいる。だが、わたしに言わせればまだ余裕の表情を崩していなかった。おおかた、自分の魂胆がわたしに伝わってしまったとは微塵も思っていないのだろう。もう一歩踏み込むことも考えたが、なんの気なしに口に運んだタロイモミルクが思いのほかおいしかったので、今日のところはやめておくことにした。このキッチンカーは今までにも何度か見かけている。近いうちにまたやってくるだろう。
ストローに口をつけタピオカを吸い上げながら、今度こそ改札へと向かう。行きと違い、帰りの電車はそこまで混んでいない。このもったりとした甘みと歯ごたえを楽しみながら帰れば、それなりにいい気分になれるかもしれない。そう考えて思わず鼻歌を歌いそうになってしまったわたしの目に、あるものが飛び込んできた。
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