おじさん/ピザデブ/敗走女、そしてヒョヒョロ木


 元陸上自衛隊員で、現在は都内の空調機メーカーの営業として働いているわたしが腕をぐっと折り曲げデブをきっとにらみつけると、彼の皮膚に大量の汗が浮かんだ。まるで熱されたフライパンに放り込まれたバターのように、デブがあれよあれよと輪郭をなくしていく。わたしの周りの人が悲鳴をあげ、どこにそんな空間があったんですかと言いたくなるほどに大きく後ずさっていく。下がって、下がってください。わたしはジャケットに包まれているみっちりと筋肉の詰まった腕を振りかざしながら、その場に躍り出る。にんにくのにおいを放ちながら、デブがどこかに落としたらしき携帯を手探りで探している。顔面の肉は脂をしたたらせながら垂れ下がってびらんのようになっており、わずかにのぞいていた瞳はいまや完全にふさがれてしまっていた。

「よくもこの車両の人間を、わたしを、不快にしたな! 専守防衛!」

 全身に力を込めると、ジャケットとワイシャツが破裂してティッシュのように千々になった。事のなりゆきを見守っていた人々が息を呑む。退職後も腕立て伏せ、走り込み、腹筋背筋、バービー、その場駆け足などを無理のない範囲で、だが確実に負荷がかかるように続けていたわたしの肉体は、全盛期の力強さまではないものの、目の前の融解したバターなどでは足元にも及ばないほどの頑強さを持っていた。硬さとやわらかさを兼ね備えた腹筋や胸筋の膨らみにうっとりしながら、わたしは全身の筋肉を収縮させて大きく腕を振りかぶった。瞬間、デブの体が力を解放したわたしの砲弾のようなパンチによって弾け飛ぶ。爆ぜるにんにくの香り。勝利の快感に湧く聴衆。鍛え上げた肉体への感謝とより一層の成長を続けることを決意するわたし。大多数の人が憂鬱を抱えたまま揺られていた電車の中はいまや、幸福のるつぼへと変貌していた。誰が持っていたのかは知らないが、どこかでクラッカーらしき破裂音がした。わたしは、幸せになった。


 なんてことが起きるはずもなく、現実のわたしは敗走しつづけていた。デブの呪詛や下卑た視線はいまだねちっこくこちらを責め立てており、わたしはゾゾタウンのページにずらりと並ぶ洋服たちを端から端まで眺めてそれを極力意識しないようにすることしかできなかった。わたしが本当に元自衛隊員の筋肉ゴリゴリ営業マンだったら、こんなキモいピザデブの小さい自尊心の穴埋め要員になることなんてなかったはずだ。仮に同じように携帯が背中に突き刺さっていたとしても、なにも言われずに済んだだろう。むしろわたしが不快そうに咳払いなんかしたら、逆に謝ってきたかもしれない。


 デブの小さな目がまたこちらを捉えたとき、わたしは彼に思い切り馬乗りにされた。殴られる。服を剥ぎ取られる。蹴られる。下着を剥ぎ取られる。家系ラーメンのにおいがするモノを嗅がされる。財布を盗まれる。そういった有無をいわさない暴力を、わたしは彼の妙に透き通った瞳の中で繰り返し受け、挙句の果てには最後まで必死に握り込み死守していた核のボタンまで奪われてしまった。そこで、急に清浄な空気が鼻をつく。用のある駅に到着したらしく、開け放されたドアからセイウチのような巨体を揺らしながら彼は出ていった。辺りの数人から、安堵とも諦観ともとれるため息が漏れる。乗車する人のありとあらゆる事情を考慮せず、とにかく輸送のために強制的にぶち込まれる豚箱。それが電車だ。こういった事態を意識的に避けることはできない。


 せっかく正常ないつも通りの吐き気がする空間に戻ったのに、結局それが味わえたのは一駅だけだった。最寄り駅に着いたというアナウンスを絶望的な気持ちで受け止め電車を降り、改札へと続くホーム階段と相対する。沿線の駅で催される花火大会のポスターを眺めながら、わたしは頭の中を探った。核のボタンが見当たらない。どうやら本当にあのクソデブに奪われてしまったらしい。きょうも、わたしのあいするへいわなせかいはおわりませんでした。クレヨンで描いたようなふわつく文字を思い浮かべながら、普段となにひとつ変わることなく健全に存在しているであろう会社へ向かう。ミサイルの行き先がそこへ向いたままのボタンを、あのデブがすべてに嫌気が差したはずみで押してしまう可能性を考える。でもきっと、そんなことは起きない。デブはデブで、きっと人生に幸せを感じているのだろうから。吐き気がして、わたしは不幸せになった。



   ▼


 わたしの職場は、東京都のはじにあるヒョヒョロ木という町の中にある。渋谷や新宿などといった派手さや猥雑さとは無縁の場所で、高級住宅街として名高い。その証拠に、改札をひとたび抜ければロータリーの大きな噴水とそこに面した小洒落た『ビストロ』と鉢合わせすることになる。そこを右に回って抜けるか左に回って抜けるかでいつもわたしは悩んでしまう。別にどちらを選んだところで職場に赴かなければならないという運命が変わるわけではないのに。


 歩きながら考え、けっきょく左へと舵を切った。日高屋とファミリーマート、個人経営の『ブーランジェリー』『ブックカフェ』『トラットリア』、もひとつおまけに『ビストロ』に見守られた車道と歩道がロータリーを抜けた横断歩道の向こうに続いている。駅へ向かう制服姿の小学生やスーツを着た男女。ハイキングにでも行くのか、蛍光色を基調とした服装に身を包んだ年配のグループ。ハイブランドっぽい服を着た水色の髪の大学生らしき若い男。わたしの横をすり抜けていく彼らはこの辺りに住んでいる人だろう。たたずまいというかオーラというか、とにかく雰囲気が異なっている。山側のほうの駅徒歩二十分、築四十年のアパートの家賃と各種税金にひいひい言わされているわたしとは、資本的な断絶を感じざるを得ない。

 でも文句を言っていてもしょうがない。金は特権で、特権は暴力で、暴力は現実だ。おおきくなったら、おかねもちになってらくしてくらしたいです。小学校低学年のころに発表したわたしの夢を先生は苦笑いしながら褒めてくれたが、それが実力とか努力とかそういったもので簡単に叶えられるものではないということを知るのは大学生になってからだった。いや、もう中学校のときにはうすうす感づいてはいたけど、当時はまだ「自分にはもっとすばらしい能力が、才能がある」と思って目をそらし続けていたから本当の意味ではそれをわかっていなかった。富める者はさらに富み、貧しいものはさらに貧しくなっていく。この事実をどうして小学校は教室に掲示し、毎朝音読させないのだろうか。


 歩道を不動産屋の角で曲がると、わたしの務め先はもう目の前にあった。きなこカタツムリ保全センター。ここでわたしは薄給で週五日八時間、たっぷりと使い倒されている。具体的にいうと、時給換算で都の最低賃金を余裕で割るぐらいの金額で。高級住宅街のど真ん中でこんなことがおこなわれているなんて、コントか? コントなのか? と思ってしまう。だが、これは紛れもない現実だ。「ショートコント、労働」なんてまやかしを唱えたところで、なんの救いにもならない。こういった手法で精神の安定を保てる人種がいることが、わたしにはどうしても信じられなかった。

 裏口から電子錠を使って中に入る。下駄箱でスリッパに履き換え、事務所の床を掃除していた同僚Aと同僚B、奥まっていたところでふんぞり返っていた露出狂に挨拶をする。前者ふたりには軽めに、後者にはわざわざ立ち止まってまで頭を下げた。

「おはようございます。昨日は、お休み、ありがとうございました」

「あら、おはよう。お友達の結婚式でしたっけ? 楽しめた? ちゃんとお祝いできたかしら」

「は、はい、おかげさまで」

「それは、よかったわ」

「ありがとうございました」

 なにてめえが『休みを許可してあげたのよ、優しいから』みたいな顔してんだよふざけんなよ労働者の権利だろうがていうかそもそもなんで理由聞いてくんだよと思いながら、わたしはそれとはまったく逆の言葉をすらすらと口にした。露出狂はいちおうわたしたち職員の中では一番偉い人、というか所長の奥さんなので、有給休暇の手続きなどは彼女の管轄だった。だから、昨日みたいに有給を取得する際にはどうあってもこいつに頭を下げ、理由を話さないといけないのだ。ちなみに友人の結婚式というのは嘘で、本当は予定などなにもなかった。ただ「これぐらいの時期に人生に疲れてなにもしたくなくなるだろうから休み入れとくか」と予想して取得しただけだった。でも、こいつにそれは通用しない。

「用事がなくて有給使うんだったら働けばいいじゃない。というかさぼりじゃないそれ」

 いつだったか、真顔でそう口にされたときには危うく卒倒しそうになってしまった。あんたの辞書の『休日』の項目はいったいどうなっているのだ。


「おはようございます」

「……はようざいます」

 わたしが露出狂と話している間に、ふわ田くず乃と陰キャが後ろを通り過ぎた。どちらも上司だったので、後ろを振り向いて挨拶をする。うちは仕事をしているときは事務服を着る必要があったが、出勤時は特に服装の指定がない。そのため、ふわ田はゆったりめの白いブラウスにひらひらしたベージュのチュールスカート、陰キャは腰と袖口にギャザーの寄ったコーラルピンクのカットソーに、オフホワイトのタイトで短めなスカートを身に着けていた。

「加守さん、あの子たちちょっと派手よねえ。おふぃす、かじゅある、にしてはちょっと」

「ははは」

 館の二階にある更衣室へ二人が消えると、露出狂は小さな声でわたしに同意を求める。それを笑って受け流し、自分も更衣室へ向かう。部屋の隅に置かれた自分のロッカーを開けながら、露出狂がまとっていた菊と胡蝶蘭とハイビスカスが散りばめられたレーヨンのブラウスと、ざっくりと開いた胸元を彩るピオーネみたいな色をした石のネックレスを思う。どう考えてもそっちのほうが派手だろう。だからわたしを含めた職員みんなに陰で「ひとりサンバ」「老衰のグッピー」「エーミールに潰されたやつ」などと呼ばれるのだ。

 事務服に着替えると、わたしは急いで下駄箱へと戻った。露出狂が一瞬「もっとおしとやかに歩きなさい!」とか言った気がしたが無視する。


 ここはきなこカタツムリの保護施設も兼ねているため、普段わたしたちがこうして着替えたり事務仕事をしたりする本館の隣に、それらをおこなう専門の設備と、うちの母体であるきなこカタツムリ保全会が発行・制作している書籍や道具などをまとめて突っ込んである別館兼倉庫がある。今週は、わたしともう一人の上司がそこの清掃担当だった。正直なところ、事務室以外は外部の人が入ることなどほとんどないのだから、毎日朝早く出社してきて掃除をする意味なんてないと思う。給料にプラスされるのならまだよいのだが、掃除は定時前の慣例のため、お金になることはない。何度か職員間の愚痴にのぼることはあるが、上が上なので意見は封殺されてしまっていた。


「おはようございます」

「あ、おはようございます」


 だから、こんな高ストレス低賃金の環境で六年も勤続しているこの上司は異常者なのだろう。別館の裏口から中に入ったわたしを、手にバケツとたわしを持った揚げまんじゅうが出迎えた。一般職員の中では最も古株で、地位的には露出狂の下、わたしたちのとりまとめ役といった立ち位置の女性だ。

「もう中の掃除終わったから。加守さんはどこか別の手伝いしてきて」

「はい」

「あ、それと加守さんおととい新規保全会員のデータチェックやってもらったじゃない。あれ間違いだらけだったんだけど」




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