いつのまにかぼくらは

テカムゼ

いつのまにかぼくらは


第一章


 一



 今日も、学校を早退した。

 いつものように自転車に乗って、あてもなく人気の無い道をたどるように走っていた。


 町外れの山間の道。

 もう少し行くと舗装も途切れ、車も入れない山道に変わる。


 ぼくは力なく重いペダルをこぎながら、ゆるゆると坂道を登る。

 自転車でいけるとこまで上ると、後はまた今来た道を帰るだけ。


 寂しい話だけれど、ほかに行くところがあるわけでもないのでしょうがない。

 ぼくは、下り坂を惜しむようにブレーキで速度を絞りながら坂道を下りた。


 少し開けた田の中の道に下りたとき、不意に、重く湿った風の塊に背を押されて振り返った。


 鉛色に重く澱んだ雲の下に、おぼろげに並んだ蒼い山巓は、幾重にも曳かれる雨粒の白いカーテンに覆い隠されていく。


 田の中をのたうつように曲がり延びた細い道は、吹きすさぶ風に煽られるまだ青い稲穂の波に洗われ、津波のように白い飛沫の層を伴って押し寄せた雨音の叫びがアスファルトを黒く濡らして迫る。

 やがて、飲み込むように頭上から覆い被さってきた。


 少し、遠くに来すぎていた。傘も合羽も持ってはいなかった。


 雨よけに制服の上着を脱いで頭からかぶり、自転車のペダルを強く踏み込む。

 雨粒の弾ける音に耳を塞がれたまま、叩きつけるような雨の中を走った。

 

 濡れた服が重く肌にまとわりつき、水飛沫の中で視界が滲む。

 春の雨はまだ冷たく、ずぶ濡れであったけれども惨めでも情けなくもなく、不思議な高揚感に捉われていた。

 雄叫びのような声をあげ、笑いながら一人雨の中を駆け抜けた。



 二



「濡れたでしょう。傘を持っていかないからよ」

台所に立つ母は、振り返りもしなかった。


「そうだね・・・」

 びしょぬれのぼくは、髪先から滴る雫を見ながらその言葉を聞いていた。


 ひとしきりの強い雨があがり、雨音は忍びやかに消えかけている。


 二階の部屋の窓辺にもたれて座り、開け放たれた窓から流れ込む雨の湿った匂いをかいだ。


 舞い降りる闇の粒子は音もなく降り積もり、街を夜の色に染めあげようとしている。


 窓辺に頬杖をついたまま、ぼくは遠くに見えるゆりの部屋の灯りを見つめていた。


「今から行くから」

「そう・・・。いいわよ」


 電話の向こうの、緊張にくぐもった言葉への返事は、いつもそれだけの短くそっけないものだった。



 同い年のゆりの家は、ぼくの家の近くだった。

 幼稚園、小学校、中学校。ゆりとぼくは一緒に通った。


 当然のように同じ高校に進学し、三年生となった今、二人は久しぶりに同じクラスになっていた。


 幼い時に両親が離婚していたゆりは、母親と二人暮らしだった。

 幼い頃のゆりは、母親が働きにいっている間ぼくの家に預けられ、いつも二人で遊んでいた。


 仲がよく、肩を組み笑いながら街を歩く二人はよく双子と間違えられた。


 学校に通うようになってからは毎朝一緒に通学し、放課後も一緒に遊んでいた。

 スイミングスクールに書道教室、学習塾も一緒だった。


 気弱で、内気で不器用なぼくとは違い、ゆりは活発で明るく元気な子だった。


 ぼくの親もゆりの母親も、二人で遊んでいれば安心だと思っていたようだけれども、大人の前ではおとなしく見せていたぼくは二人だけのときにはわがままでいじわるく、よくゆりをいじめていた。


 ゆりは我慢強い子で、いじめられても涙ぐむだけでなかなか声をだして泣かなかった。

 ぼくは思い通りにならないゆりにいらだち、叩いたり、ゆりが嫌がることをして泣かしていた。


 それでもゆりはいつも明るく元気で、次の日にはなにごともなかったようにぼくの家に遊びに来ていた。


 やがてぼくとゆりが成長し、いつしか異性を特別なものとして意識するようになると、二人で遊ぶことはなくなっていた。

 そして中学生になると、学校の廊下ですれ違っても声も交わさないようになっていた。


 それが、今のような特別な関係になったのは、半年前から。

 半年前に、ぼくはゆりを犯すように無理に抱いていた。

 その日から、ゆりの部屋に通いセックスするようになっていた。


 ゆりの母親がいないことを確かめてゆりの部屋に行き、ゆりの身体を自由にしていた。

 ぼくの家に誰もいないときには、ぼくの部屋に呼ぶこともあった。


 ぼくはそのことに罪悪感はあったけれども、肉体の欲求はとめられなかった。

 ゆりは、そのことを嫌がっていたけれども許さなかった。


 この二人の関係を、誰にも話させなかった。

 二人が幼なじみ以上の関係になってしまったことを秘密にして、他人に見せることを許さなかった。

 そのことに、ゆりは幼いときと同じように黙ってうなずいただけだった。



 三



「今日も早退した・・・」

「どこに行ってたの?」

 問いかける、ゆりの唇を見ている。


「別に・・・」

「家にも帰ってなかった」

「来てたのか?」

 とがめる口振りに、ゆりは少し困ったように目を伏せる。


「おばさんには、何も言ってないわ」

「うん・・・」


「いつも早退ばかりして、何しているの?」

 思い直したように顔を上げて覗きこんでくる、その視線を外した。


「何もしてないさ」

 めんどくさげにそう答えて、口を閉じる。

 

 何もしていないこと、それは本当のことだった。 

 自分でも情けないと思うくらい、何もしてない。


 ゆりの家。ゆりの部屋。ゆりのベットに横たわり、ぼんやりと天井を見上げていた。パジャマ姿のゆりは、そばに座って振り返る。


「なにがあったの?」

「なにがって?」


「学校にもあまり来なくなって、来ても早退ばかり。勉強もしてないようだし・・・。つきあいも急に悪くなったって、みんな言ってるよ」


 その問いかけには答えず、指を伸ばしてゆりのパジャマの袖先をもてあそぶ。ゆりはうすく唇を開いて、ぼくの指先の動きを見つめていた。


「失恋でもしたのじゃないかっていう話もあるわ」

「はは。そうかい」

 

 思いがけない言葉に、皮肉に笑えた。

「違うの?」

 

 近頃、ぼくはクラスで変人扱いされていた。

 誰とも口をきかず、黙って座っているだけ。


 勉強は全くせず、成績は最低になっていた。

 誰に何を言われてもあいまいな微笑だけを返し、いつも冷めた目で、あたりを馬鹿にするように見回していた。


 ぼくはそのことを意識してやっていたので、ゆりに口だしされるのは迷惑だった。


 物憂げに起きあがり、わざとゆりが嫌がるように言う。

「はやくしろよ」


 パジャマの腕をつかむ。その腕を振り払いもせずに悲しげな横顔をつくって見せるゆりに、ぼくの何が分かるのかと怒りを覚えた。

 いじわるく唇をゆがめて、その横顔に言葉を重ねる。


「脱いで・・・」

 ゆりはあきらめたように目を伏せる。パジャマのボタンに指を伸ばす。その身体を抱き寄せ、唇を合わせた。


 電話をしてからぼくが来るまでの間に、ゆりはシャワーを浴びたのだろう。髪先は少し濡れて、石鹸の匂いがした。唇は歯みがきの味がした。


 ゆりは、キスが嫌いではなかった。

 その唇を開いて、濡れた舌先を見せる。

 口の中の自分の舌は大きく感じられるのに、ゆりの舌は細く小さく感じられる。舌先の動きに片目を細めながら、目を閉じたゆりの頬に視線を滑らせた。


 背に回した腕に力を込めて、指先にその髪先を絡める。

 パジャマの上からゆりの身体をまさぐると、ゆりは鼻を鳴らし背をそらせた。そしてその腕を回し、ぼくの首を抱いた。


 ゆりに聞いた、というよりも問いつめたところでは、ゆりはぼく以外にもキスの経験があると言っていた。


 相手が男の子のことについては怒ったように口を閉ざして言わなかったけれど、女の子とのことについては話した。


 ゆりの話では、中学生の時から女の子同士でキスをしていたということだった。


 それは、最初は挨拶を交わすようにする軽いキスだったらしい。


 しかし高校生になってからは、陸上部の女子部員の間でもっと深いキスをしているということだった。ゆりも、陸上部の先輩の人とそのようなキスをしたことがあると言っていた。

 どちらかといえば、無理にされたのらしいけれども・・・。


 ゆりは男の子だけではなく、女の子にも人気があった。後輩の女の子にも好かれていた。


「ゆりも、後輩の可愛い子にも同じことしているんだ?」

 そう言ったとき、ゆりは頬を赤く染めただけで否定はしなかった。


 そういえば、ぼくも同性にキスをされたことがあった。

 中学生の時、放課後の教室で数人の同級生と話しをていた。その時、いきなり目の前の奴がぼくの唇に軽くキスをした。


 それが、ぼくのファーストキス。

 驚き、あきれた経験だった。

 洗面所で並んで口を洗いながら、何でそんなことをしたのかとそいつに聞くと、ただ急にしたくなったからだと答えやがった。


 そのことを話すと、ゆりは涙を流して笑い転げた。


 そして、次のキスの相手がゆり。明らかにゆりの方がぼくより経験があり、二回目のキスから舌を入れてきた。そして、キスの時だけはゆりがリードしたがった。



 四



 ゆりの性器は、幼いときから何度も見ていた。

 プールに行った時は、いつも一緒に着替えていた。


 だから、ゆりもぼくの性器を見ていたはずだ。


 でもゆりの足を開かせてその性器を確かめるように見たのは、小学校の三年生か四年生の時だった。


 そのころからぼくは女性の身体に興味を持ち、雑誌のヌード写真にときめいて目を輝かせていた。


 二人だけのとき、ゆりを追いかけ回し、無理やり下着を脱がしてその性器がどうなっているのか見たことがある。

 確か二回か三回、同じことをした。触ったこともあった。

 

 ゆりは泣いて嫌がったけれどもそのことを誰にも言わず、ぼくも誰にも言いはしなかった。


 ぼくが初めて射精したのは、一三歳の時だった。眠っていた時に、無意識のうちに自分の性器をまさぐっていたらしい。

夢うつつの中で、ものすごい快感を感じて目を覚ました。

 

 生まれて初めての感覚に、気がつくと射精していた。

 それからはその快感が忘れられずに、自分の手で性器を刺激しオナニーをするようになっていた。


 オナニーは快感だったけれども、最初の射精の時のあのめくるめくような快感を感じられることはなかった。


射精をするようになってから、異性をより強く意識するようになった。学校の中や友達の前では、ゆりを遠ざけるようになった。ゆりを異性とは意識していたわけではなかったけれども、ゆりとぼく以外の人がいる場所では距離を置いていた。


 そして、いつの間にか、ゆりと会うことは少なくなっていた。

 ぼくが、ゆりを無理に抱いたあの日までは。


 中学生になってから、ぼくの周りでは異性関係というものが現れていた。女の子とつきあい始めた同級生もいて、女性の身体のことやキスのことなどがよくぼくたちの話題になっていた。

 妊娠して、長く学校を休んだ同級生もいた。


 小学生の高学年の頃から、ぼくには何人か好きになった女の子がいた。中学生になってからもいたけれど、別にその気持ちを告白したことはなかった。


 特定の彼女、恋人といえる人はできなかった。

 女の子の方からつきあってくれという話もなかった。


 ぼくは相変わらず、どちからというと内気で大人しく、目立たない存在だった。学校の成績は、中の上ぐらい。クラブには入らないで、放課後はずっと帰宅部だった。


ゆりは背が高く、髪が長かった。

 よく陽に灼けて色が黒く、陸上部に入って放課後はいつも校庭を走っていた。唇を引き締め、走るとその頬が揺れていた。


 切れ長の目が大きく、特にその瞳が大きく、微笑むと可愛かった。笑うと、頬にえくぼができた。

 いつも微笑んでいて、人の悪口や不平を口にはしなかった。誰からも可愛いといわれ、誰からも好かれていた。


 幼い時から、ぼくはいつもそんなゆりのそばにいた。

 そんなゆりを間近に見ながら自分と比べていた。


 ゆりと比べて惨めな姿の自分にすねていた。

 そのことは、今も変わりはしない。

 ゆりはぼくをいらだたせ、いじわるで嫌な人間にしていた。


 ゆりは、ぼくと違って異性に人気があった。中学の時から、何人かの男の子とつきあっていたらしかった。ぼくはそのことが気になっていたけれど、あまり詳しくは知らなかった。


ぼくは、なぜ、ゆりを抱いたのだろう?。


 ぼくは、ゆりが好きだった。しかし、その好きという感情は、恋人という特別な存在に対してのものとは違うものだと思っていた。


 ぼくのゆりへの思いは、幼いときからの感情と変わりはなく、二人だけでいても別にゆりを女性として意識したことはいなかった。

 ただ時々、その身体の線に女性の身体を感じて、目を丸くしていたことはあったけれども。


 ぼくは、ぼく以外の、自由にできる人が欲しかったのだろうか。それが、たまたまゆりだったのだろうか。それとも、ただセックスをしたかっただけなのだろうか。それは、今も分からないことだった。


 同級生の間では、自分の性体験を口ごもる奴が多かったけれど、すでに経験したと公言するものもいた。その相手を、明らかにしている同級生もいた。恋人といえる彼女がいる同級生もいた。


 しかし、ぼくには恋人とはどのような存在であるのかよく分からないでいた。

 愛や恋などというものが、どのようなものなのか分からなかった。


 ただ、雑誌やネットで、性に関する知識と情報は十分すぎるほどだった。



 五



 ぼくが、ゆりを無理に抱いてしまったのは偶然だった。


 ゆりが早退したぼくの様子を見にきたとき、ぼくは自分の部屋で眠っていた。


 揺り起こされ、安息の時を邪魔されたぼくは不機嫌だった。

 その時、ゆりが何を言っていたのかよく覚えてはいない。


 今日のように、何があったのかきいたと思う。早退したのは、なぜかときいたと思う。勉強をしなくなったのを、なぜかときいたと思う。そして、なげやりで曖昧な答えに、大人のように優しくたしなめた。


 ぼくは、ゆりが好きだった。

 ゆりは誰が見ても可愛く、魅力的な女の子だった。


 誰をも恨まず、憎まず、妬まない。人の悪口や不平はいわない。いつも明るく、何も悩みなどなさそうに見える。こんなぼくとは違う人間。そんなゆりを好きであると同時に、嫌いだった。憎んでいた。傷つけられるものなら、傷つけたいと思っていた。


 その時、大人のように見下す口振りのゆりに対して、強い憎しみと怒りを感じていた。


 ゆりの腕を振り払ったとき、ゆりの肉体を感じた。


 その時、肉体の欲望を覚え、制服の下の女性の身体を頭に描いた。


 すぐに、頭の中はセックスの欲望でいっぱいになった。セックスは、あの初めての射精の時のような快感を感じさせてくれるかもしれないという強い思いにとらわれ、その思いをとめることができなくなっていた。


 大人の女性の性器を見てみたいと思った。自分の手で刺激するだけではなく、女性器の中に自分の性器をいれて強く刺激してみたかった。ゆりに対する憎しみと怒りが、ぼくの理性とゆりへの優しさを失わせていた。


 興奮にぎこちなく笑みをつくりながら、ゆりの目の前に立ち塞がった。


いぶかしげな顔をするゆりの手をとって立ち上がらせ、突然の動きでその身体を抱えてベットの上に倒れ込んだ。


 最初、ゆりは何をされようとしているのか分からなかったようだ。困ったような声をあげていたゆりも、乱暴に胸をはだけられたことに、ぼくの行おうとしていたことに気がついたようだった。


おびえをその強張った頬に見せた。


 ゆりは嫌がった。抵抗した。ぼくをぶった。しかしぼくは、その行為をとめなかった。荒く乱れた息の中で、自分の昂ぶりに酔っていた。


 その時、ゆりは大きな声をあげなかったと思う。


必死の抵抗をしなかったと思う。


声を上げて、泣かなかったと思う。


頭の中が裂けそうになるくらい逆上った血液でいっぱいで何も考えられず、あるのは欲望と衝動だけだった。

唇から牙を剥くように歯をむきだして息をあえがせ、ゆりの身体に力を叩きつけた。


 ぼくの動きに、あまり長くゆりは抵抗しなかった。途中からは、されるがままにぼくの身体の下で揺れていた。


 その時のことをよくは覚えてはいないけれど、ゆりの身体の中にはいる前に見たその性器だけははっきりと記憶に残っている。

 そして、自分の性器でゆりの体温を感じた。


 セックスは快感だった。しかしその快感は、初めての射精の時の、あのめくるめくような快感とは違っていた。ゆりの中で直ぐに射精した後、ぼくの中に残ったのは何か分からないオナニーの時よりも強い自虐的で気の滅入る情けなさだけだった。


 ゆりが他の誰かとつきあっているということには平静ではいられなかったけれど、その時まで、ゆりとセックスしたいと思ったことはなかった。


他の女の子と恋人になりたいとは思ったことはあっても、ゆりを恋人にしたいと思ったことはなかった。


他の女の子とのセックスを思ってオナニーをしたことはあっても、ゆりとのセックスを想像してオナニーをしたことはなかった。


 それなのに、なぜ、ゆりを抱いたのだろうか。


 その時、ぼくの部屋でゆりと二人きりでいたから。その時、ゆりを異性として意識していたから。その時、欲情していたから。その時、ゆりに対して怒りと憎しみを抱いていたから。ゆりが妬ましくて、傷つけたいと思っていたから。


 そして、ぼくがゆりに甘えていて、ゆりなら許してくれると思っていたから。警察に訴えたり、親や学校や同級生にいいつけたりはしないと思っていたから。


ゆりの気持ちなんか、何も考えられない卑怯者だった。身勝手で、計算づくの最低な人間だった。

 そして今も、ゆりの身体を自由にしている。

 ゆりの気持ちなど、少しも考えもせずに・・・。


涙を拭いたのだろう、ゆりの指先が濡れて光っていたのを覚えている。


ぼくは、ゆりの顔を見ることができなかった。妊娠の恐怖に、ビデオで見たようにゆりの身体の外に射精しようとしたけれども失敗していた。ぼくはすぐにゆりを放り出して、自分の部屋を逃げ出したのだ。


 それが、ぼくの初体験。その時確認はできなかったけれども、ゆりも初体験であるはずだった。

 それから、ぼくはコンドームを買った。何度も、ゆりを抱くために・・・。



 六



 そのことがあってからも、ゆりのぼくに対する態度に変わりはなかった。ゆりは、ぼくとの関係を誰にも話していないようだった。他の人の前で、ぼくとの特別な関係を思わせるような親密さの素振りもみせなかった。ぼくの行為への非難の気配さえ見せなかった。

 ぼくはそのことに安心していたけれども、不満でもあった。


 不安でもあった。ゆりがぼくのことをどう思っているの分からずにいた。

 そして、そのことを確かめる勇気なんて、このぼくに到底ありはしなかった。


 ゆりを抱くようになってから、二人だけで会う回数は増えた。

ゆりの母親の帰りが遅い日には、必ずといっていいほどゆりの家に行きセックスをしていた。それ以外の日にも、ぼくが求めるときには、親が帰るまでの間にお互いの部屋でセックスをしていた。


二人きりでお互いの部屋にいても、ぼくの親もゆりの親も不審には思わなかった。

 幼いときから、ぼくとゆりは一緒にいたから。


ぼくはゆりに時々優しく、時々いじわるをした。

ゆりの身体で女性の身体を確認した。雑誌やネットで見た、いろいろなことをゆりにしてみた。

 

 ゆりにぼくの性器を握らせた。ぼくの性器をくわえさせた。ビデオを見せて、中の映像と同じことをしようと言った。ナプキンとタンポンをもってこさせて、それがどんなものか見てみた。どのようにしてそれを使うのか、ゆりの身体で実験した。


生理の時に無理に足を開かせて、ナプキンをはぐってみた。そっと裸の写真を撮った。ゆりが着けていた下着を黙って持って帰った。


 優しく触れて愛撫をした。激しくその身体を扱って、ゆりの身体にぼくの行為の跡を残した。


 何回もキスをして、何回もセックスをした。何回もその身体を揺さぶって、声を出させず泣かした。



 七



 身体を離すと、ゆりが小さなため息をつく。


 素肌を隠そうともせずベットに横たわったままぼくを見上げて、弱く微笑むかけてくる。それを見下ろすぼくはいつものように不機嫌で、ゆりの机に向かい面白くもない顔で頬づえをついた。


 セックスの後、ゆりはぼくが優しくキスをするものと勝手に思いこんでいる。今日もそうして欲しいという顔をしたけれど、横目で見ただけで無視をした。


ゆりは何も言わず、少し唇をとがらせてつまらなそうな顔をつくる。ゆりのそんな表情は珍しく、ぼく以外の誰も知らないであろうそんな顔を見るのは好きだった。


 少し、退屈していた。飽きてしまったのかと思う。

ゆりとのセックスは快感だったけれども、最初の頃感じていたほどの気持ちよさを、今は感じられなくなっていた。


最初の頃に感じていた、狂おしいほどゆりの身体を求める気持ちが失せていた。

 相手が変われば、また違うのかもしれないと思った


 ぼくは、ゆりが好きだ。

 その気持ちに間違いはなかった。しかし、今のような特別な関係になっても、ゆりが恋人であるとは思えないでいた。


恋人というものの存在がどのようなものかよく分からないでいた。そして、恋人に対して思う感情は、今のゆりの対する感情とは違うものだと思っていた。今のゆりを思う気持ちは、幼いときのゆりに対する気持ちと少しも変わりはなかったから。


 ゆりとは春から同じクラスになっていたけれども、二人の関係は秘密で誰も知らず教室では話をすることもなかった。


でも、昔からそうだったように、ぼくはゆりを見ているのが好きだった。


教室の片隅から、いつもゆりを視界の隅で見ていた。可愛くて、元気がよくて、疲れや悩みや物憂さなど知らないように見える。

 幼いときから、そんなゆりを見ていることが、ぼくは好きだった。


「進学は?、するんでしょう?」

「うん・・・」

 ベッドの上で、パジャマのボタンをとめているゆりにきかれて力無く答えた。その胸の白い乳房のふくらみを横目で盗み見ながら、机の上に並んだ参考書の背を指でなぞる。


「勉強はしないの?」

「そういうことは、やめたんだ」


 ぼくは、半年前から勉強全くをしなくなっており、今もそれは続いていた。二年生の間は、前半の成績が残っていたので目立たなかったけれど、もうすぐもらう一学期の通知票でそのことは親にも知られるはずだった。

 しかし、そんなことは無視をして、ぼくは学校でも家でも何もしてはいなかった。


「一緒に勉強しない?」

「しない」

 短い答えに、ゆりが悲しそうな顔をつくることは、ぼくを慰める。

 心配してくれる人がいることが、嬉しく思える。


 こんな、ぼくにも・・・。


 いつも、ぼくは皮肉屋で複雑。自分でも、今何を求め、何をしたいのか分からないでいる。

何気なくゆりの机の引き出しを開き中をあさっていると、小さなアルバムを見つけた。


「やめて!」

 取り上げようと手を伸ばしてくるゆりをベットに押しやりながら、アルバムをめくる。


ゆりが嫌がることを、ぼくはいつもする。


 その写真の中に、ぼくの写真があった。いつ撮られたのか、まったく覚えていない。ジャージ姿のぼくが、片目を細めて微笑む横顔の写真。その向こうには、笑顔のゆり。


「いつ撮ったんだ?」

「この前の体育祭の時の写真を一枚もらったの」


 顔を赤らめてゆりが言う。

写真のなかのぼくは、自分が思っているよりも不細工で醜くさえ見える。


 去年の体育祭の日には、何人かの同級生と海へ行ってビールを飲んで騒いでいた。体育祭をさぼっていたのはぼくたちだけではなく問題となり、今年もさぼれば単位はやらないと体育教師に脅かされ、いやいや出てみると知らぬ間にクラス別リレーの選手に登録されていた。


「体育祭の参加種目を決めるホームルームをさぼったからよ」

 ぼくの前に並んだゆりが、振り返り笑った。


陸上部で脚が速いゆりは当然のようにリレーの選手に選ばれており、ぼくの前を走ることになっていた。


「バトン渡すから落とさないでね」

不満に唇を尖らせて見せ、目の間に揺れていたゆりの結った髪先を引っ張ってもその笑みをとめることはできなかった。


 クラスは八クラス。ぼくを対抗リレーに出すクラスだから、ゆりが走るときには最下位争いをしていた。


 同級生達は勝手なもので、適当にリレーの選手を選んでいるくせに応援だけはにぎやかに囃し立てていた。声援の中、ゆりは三人抜いた。バトンを受けたぼくは二人抜いて力尽き、最後に一人抜き返された。


「やっぱりそうだ」

 ゴールであえぐぼくを迎えて、ゆりは嬉しそうだった。

「小学校のときからタイムは良くなかったけど、レースでは速かった」


 そういえば、小学校のときから百メートル走ではいつも、二位か三位だった。できるだけ脚が遅い者の多い組に入ることを願い、少しでも早くスタートを切り、カーブで肘を張って抜かせないようにして。


それでも、ぼくは一位になれたときは一度もなかった。


 後で聞いたと話では、あの時ぼくをリレー選手に推薦したのはゆりだったらしい。


「返してよ」

「いやだ」

 ゆりがそばに来て手の中の写真を取り上げようとするのを逃げながら、幼いときにもこのようにしてゆりと遊んでいたことを思い出す。


「返しなさいよ」

 幼い頃と同じように頬をふくらませて見せるゆりの目の前で、表情も変えずにその写真をアルバムから取り出して二つに裂いた。


「・・・」

 息をのむゆりの顔色が見る間に変わり、涙がその目に宿りあふれそうになる。ぼくは無表情のまま、さらに小さくその写真を破いてごみ箱の中に放り込む。幼いときには、こんなにひどいことはしなかったと思いながら。


「ひどい・・・」

 震える声と、絶望的な瞳の色。心の中に、冷たい波紋が広がることがなぜか心地いい。ぼくは幼いときより意固地で、より意地悪く嫌な人間になっている。


「他には、なにがあるかな」

 アルバムの中に、あいつの写真を見つけた。

 ゆりと、噂のあるあいつ。そういえば、だいぶ前からゆりとあいつの噂は聞いていた。


あいつは、素敵な男だ。同性のぼくがからも魅力的に思える。できることなら、あいつのような人間になりたいと思う。運動神経がよく、スポーツができ二枚目で、明るく成績も悪くない。


 ぼくのように、人を妬んだり恨んだり憎んだりしないように思える。同性にも、異性にも好かれる。もしゆりが男だったなら、あいつのような男になっていたのではないだろうか。ゆりとあいつなら、驚くほどお似合だと、このぼくでさえ思う。


 しかし、ぼくはゆりの身体を自由にしている。あいつも、まさかぼくとゆりがこんな関係であるとは夢にも思っていないだろう。ぼくはそのことに優越感を感じていた。

 情けないと、心の片隅で認めながら。


「こんなのがあったぜ」

 皮肉に唇をゆがめ、ゆりにあいつの写真を見せつけて、またそれを破り捨てた。

「最低な人」

 ベットに腰掛けたゆりは、顔を背けたままそう小さく言う。


 最低な人間。自分でもそう思う。どうにでもなれと思う。

あいつに、ゆりとの関係を言ってやろうか。

自虐的な思いもこの胸の痛みも、今のぼくという存在の確認行為なのか。愚かしくはかない存在でも、悲しみと苦しみと痛みを感じられることは快感にさえ思える。


「それは、絶対にダメッ!」

 小さなアルバムの一番最後のページに大事そうに隠されていた写真を撮りだしたぼくを見つけて、ゆりが飛びついてきた。ゆりの反応に驚きながら、その手を払いのけ写真を見た。


色あせた、古い写真。最初はその写真に写っているのが誰なのか分からなかった。


 よく見ると、幼い日のぼくとゆり。

 肩を組み、明るく笑顔を見せてこちらを覗きこんでくる。写真の中の幼いゆりは今のゆりに面影が残ってるけれども、隣のぼくは別人のよう。ぼくが写っている写真の中では珍しく、驚くほど可愛く無邪気に笑っている。


「こんなもの、いつまでも持ちやがって」

 その写真も同じように破こうとすると、ゆりがすがりついてきて大きな声を上げた。驚くほどの力でぼく腕を押さえつける。


「それだけはやめてッ!。絶対に」

「許さないからッ。言うわ。お母さんにも、おじさんやおばさんにも。学校のみんなにも。あなたがどんなことをわたしにしたか。わたしにどんなひどいことをしたか。みんな言ってやるからッ」


 そう叫びぼくの膝を抱えて泣きじゃくるゆりに、やはりぼくはひどいことをしていたのかと思った。


ぼくはゆりに甘えていて、本当はそんなにひどいことをしていたとは思っていなかったのだ。今のゆりとの関係を、幼いときの二人の遊びの延長としてしか考えていなかった。


 その時、いつまでも泣きやまないゆりに、ぼくは途方に暮れ、ただその涙で濡れた膝だけが冷たかった。





 第二章


 一



 教室の席は、いつも後ろだった。

席替えの度に、視力の弱い子と席を替わっていた。 

 できれば窓際の席が好きで、授業中はいつも窓の外を見ていた。


頬づえをつき、並んだ夏服の背中と窓の外の風景を交互に眺めて、ひたすらに終業のベルが鳴るのを待っていた。


 視界の中には、ゆりの背も見えている。少し頭を傾けて、ノートを取っているその背中。ゆりとは、小学生の時はよく一緒のクラスになっていたけれど、クラス数が増えた中学校では三年生の時しか同じクラスにはなれず、高校でも三年生になるまでは同じクラスにはなれなかった。


久しぶりに同じクラスとなったぼくとゆりは、毎日教室で顔をあわせていたけれども会話することは少なかった。

 

 中学生のになってからも、ゆりはときどき学校でも気安くぼくの名前で呼び声をかけてくることがあった。

ぼくはそのことを嫌がり、ゆりにもう名前で呼ばないよう頼んでいた。


「どうして?」

「恥ずかしいからさ」

「何が恥ずかしいのよ」


 ゆりは少し悲しげで不満そうだったけど、ぼくはその理由を説明しなかった。


 中学生の頃、ぼくがよくいじめられていたことを、ゆりは知っていたのだろうか。


 小学生の頃のぼくは、どちらかというといじめっ子だった。そしてそのことに、自分ではまったく気づいていなかった。ただ、友達との遊びとしか考えられなかった。


小学校六年生の時だ。突然、ぼくは自分の行動がいじめになっていることに気がついていた。

友達に嫌がることをする、いじめっ子であることに気づいていた。


自分がいじめられることには敏感に気づいていた癖に、自分がより弱い子をいじめていることにはまったく気づけなかった。

 それが、なぜかある日突然に気づいたのだ。


そして、そのことをやめた。

すると今まで仲が良い友達と思っていた子から、「優しくなったね、友達になろう」と突然言われたりして戸惑ったことさえあった。


 中学生になり、いじめをやめた元いじめっ子は、それなりに成績も良かったために学級委員などをやらされ、いじめをする同級生をとめたりしていたために不良グループから狙われ、ひどくいじめられる存在となっていた。


何人かの同級生が三階のベランダで養護学級の子を抱えあげ地上に落とす振りをして怖がらせて遊んでいるのをとめて、今度は自分が抱えあげられ落とされかけたことまであった。


 ゆりのことでも、よくいじめられていた。

クラスの違うゆりが学校で仲良さげに話しかけたりした時など、あいつとつきあっているのかなどといわれ、必ず狙われていじめを受けていた。


ぼくはいじめに耐え忍び、なんとかしようと抗い闘っていたのだ。二年生の時がピークで、ゆりと同じクラスとなった三年生の頃にはいじめの中心となっていた不良グループともクラスが分かれ、高校受験を控え浮ついた教室の中で成績が悪くなかったぼくは自信を持ち直し、より毅然としていじめに対応できるようになり、いつしかいじめは減っていた。


そして、高校生となると、悪夢のようでもあったいじめはまったく嘘のようになくなっていた。



 二



 高校生になってからのぼくは、どこにでもいる普通の高校生だった。それなりの進学校で成績は中の上。クラブ活動は何もせずに、放課後はゲームか読書。友人も何人もいて普通の高校生のようにふざけ戯れあい、少しの悪さもしていた。


 それが、二年生の秋に突然、ぼくはまた何かに気づいていた。


ぼくは少し、自分が変わったように思えていた。

何がどう変わったのかうまく説明はできないけれども、今まで気づけなかったことが分かるようになった気がしていた。

友人には冗談のように、そのことを「悟り」を啓いたのだといっていた。

 お前らとは、違うぞとでも言いたげに・・・。


 そのころから、学校の勉強が無意味に思え、全くしなくなっていた。教室で同級生と話すこともなくなり、休み時間も一人でぼうっとしていた。授業中は、できるだけ後ろの目立たない席に座りずっと窓の外を見ていた。自分でも何がしたいのかよく分からなかったけれども、自分が本当にしたいと思うこと以外はしたくなかった。


 教室は競争社会だった。

教室という狭い世界の中に、同い年の均質な人間が詰め込まれ激しく競っていた。それは、テストの成績はもちろん、運動能力から、外見、腕力、面白さ、度胸、異性の人気、自由にできるお金から性的体験、馬鹿さ加減にいたるまでいくつもの争いが行われ、ぼくたちの間にはいろいろな目に見えない階級が生まれていた。


だれもが、それらの競争の中で激しく競い、他人を押しのけ少しでも自分の位置を高めようとしていた。

 そして、他人を見下すことにより自分の存在を確認して満足を得る愚かな自慰行為をしていた。


 ぼくには、そう思えた。少なくとも、ぼくは今までそのようなことをしていた。

 そのことに、ぼくは気づいたのだ。


 他人に注目されたかった。他人に、自分の能力を認めさせたかった。誰からも愛されたかった。誰からも妬まれ、うらやましがられたかった。ぼくはもがきあらがい、他人を肘で押しのけてでも少しでも上の位置に這い登ろうとしていた。


 しかし、ある日突然に、ぼくは自分のその姿に気づいたのだ。


その姿をたまらなく醜いと思った。

そのことをやめたいと思った。

誰にも認められなくていい。

ぼくはぼく、他人は他人。

それでいいじゃないか。


そう、思いはじめていた。そして、愚かでもなく、優秀でもない。普通という自分の存在をもてあましていた。


その頃から、ぼくは一人でいることが好きになった。教室で黙って座り授業を聞くことが耐えられず、よく早退をした。何をするでもなく、どこか行くあてがあるわけでもない。


 自転車で人気の少ない裏道や郊外を走り回って時間をつぶし、誰もいなければ家に帰って眠っていた。


 そして、よく考え込んでいた。

 ぼくは、なにものなのか。何を、どうしたいのか。どうすればいいのか。何度考えてみても、その答えなど得られはしなかったのだけれども。ただ止むことのない、怒りにも似た突き上げる思いだけは変わらず抱き続けていた。


 そんなぼくのことを何も知りはせず、ゆりは不用意に近づいたのだ。

そして、突然牙を剥いたぼくに襲われたのだ。

 あの日ゆりがぼくの部屋に来さえしなければ、ぼくはゆりを抱くことなどなかったろう。

 こんな関係に、なりはしなかった。


 惨めで疎ましいこんな思いもに苛まれることもなかったのにと、その背中が少し恨めしく見えた。


 いまさらの空しい思い。

 今日もこの場から逃げ出すように早退をしたかったけれども、教師に放課後呼び出されていたので帰れなかった。


 休み時間、いつものように一人教室の片隅で机にうつ伏せ寝ていると懐かしい声で苗字を呼ばれた。


 顔を上げると、ゆりが覗き込んでいる。

「次の化学の授業は実験室よ。みんな移動してるから」

 気がつけば、周りの人影は減っている。

「あぁ」

 うざげで気のない返事に、ゆりは少しだけ目を細めて答え、ぼくのそばを離れた。


「変人君にも困ったものね」

 同級生の輪の中に戻ったゆりはそう言われ、少し気まづそにうなづいているのを視界の片隅で確認した。


 確かにぼくは変人なのかもしれない。教室に一日いても、誰とも口をきかないこともあった。それを、少しすごいことだと思ったりしていた。そうすることで、周りの関心を集めたいのか。そうすることでしか、周りの関心を集められないほど情けない価値の存在なのか。


 自分でそう思い、笑えた。

 早退したかった。孤立より孤独は楽で耐えやすかった。

 廊下から流れてくる笑い声に背を向けて頬杖をつく。

 それもいつものことなので、もう誰もぼくに注意を払わない。



 三



この前の日曜日だった。人通りの多い通りを、ぼくはおぼつかない足取りで漂うように歩いていた。


 夏が近い昼下がり。灼けつく陽射しはまだ傾きを見せず、うだるような暑さで靴底が踏みつけるアスファルトさえ緩むようだった。

 雑踏の中、滲む汗にまみれながら、人の波を肩先でかき分けて、ぼくはゆりの背を追っていた。


 噂は、噂だけであってほしかった。しかし、それはぼくの勝手ではかない願いでしかなく、たまたま街で見かけたゆりとあいつが肩を並べて街を歩く姿は、恋人同志以外には見えなかった。


 ぼくに気づいていないゆりは、あいつの顔を覗き込み微笑みかけていた。その指が、あいつの腕に触れていた。


 ぼくには見せたことのない、明るくときめいた笑顔。その時、ぼくは深く傷ついた。幼い日はよく目にしていたゆりのあの笑顔を、この前見たのは何時のことだったろう。あれほど、ゆりとの二人だけの時間があったというのに。


 ゆりは、ぼくのゆりであるはずだった。ぼくだけのゆりであるはずだった。しかし、それは愚かな妄想でしかない。そのことは自分でも分かっていた。


 ゆりが選んだのはあいつであり、ぼくは選ばれたわけではなかった。

 自分でも認められることに、ぼくにはゆりに選ばれる価値は何もなかった。ただ、幼馴染であるというだけの理由でゆりに甘えているだけ。

 その哀れみにすがっているだけ。


 つらかった。自分の存在がおぞましく思え、どこかに消えてしまいたかった。ふとのぞき込んだショーウインドに写っている自分の姿は、おぞけをふるうほど醜かった。そしてぼくは、ゆりに見つからないようにそっとその場を逃げ出していた。


 汗にまみれたシャツが背中に貼り付き気味悪く、裸の腕にしたたるように汗が流れ落ちていた。何かに怯えるように身構え、指先さえ緊張に強張っていた。もし今、誰かに少しでも後ろ指をさされたら、ぼくは牙を剥き襲いかかっていただろう。見境いもなく、手の届くもの全てを傷つけていただろう。

 ぼくは怯えに震える子羊で、牙もナイフも持っていなかったけれども、全てを棄てられるだけの猛りは抱いていた。

 そしてまた、棄てるのが惜しいものなど、何も持ってはいなかった。


その夜、ゆりの部屋に明かりがつくのは遅く、ぼくの嫉妬の思いは猛り気も狂わんばかりだった。 

 待っていることは耐えがたかった。ゆりと今あいつがしているかもしれないことを思い描くだけで、指先まで灼けるように熱かった。


「今日は遅かったな。どこに行ってたんだ?」

「どうして?」

「帰るのが遅かったから」

「待ってたんだ?」

いたずらなゆりの笑みに、ぼくは思いを隠し少し唇を歪めてうつむいた。


 傷つけたい。その思いに強く囚われていた。殺意という言葉さえ心に覚えていた。

 そんなぼくを見て、ゆりは微笑みを消した。抱き締めても拒まない。ゆりが手を伸ばして、明かりを消した。


「あいつと、つきあっているんじゃないのか?」

「どうして、そんなこときくの?」

「だって、あいつの写真を持っていたじゃないか」

 明かりの落ちた部屋で、ゆりは横顔を見せただけ。


「おれは、邪魔か?」

 ゆりは首を振ってみせた。しかしそのことは、ぼくには何の慰めにもならなかった。裸のゆりを組み敷いて、そんなことを訊くぼくは卑怯者だった。


「あいつと、つき合えばいいのに」と心にもない言葉を吐く。

 目を閉じたまま、嫌がるように首を振り続ける。


 何の慰めも見出しようもなく、身体の下のゆりは目を閉じたまま、ぼくの行為に耐えているだけ。

 何をいっても、聞いてはいない。ゆりは、ぼくの行為を許している。そのことを思い、ぼくはより深く傷ついた。

 その裸の肩に歯を立てても、ゆりは声を上げようともしない。


その時、ゆりとのこんな関係をやめたいと思った。やめなければならないと思った。それは、今までに、何度も思い決めたけれどもできなかったことだった。


 高笑いしたくなるほどの自嘲の思いに暗く沈んだまま、今日もぼくは何もなせず、言葉もなくただ時が流れ過ぎるのを待っているだけ。

 傍らにひっそりと立ち塞がる薄汚れた教室の壁のしみさえ、見飽きてしまっている。



 四



「どうだったの?」

 放課後、重たい鞄を引きずるように歩いていたぼくは、校庭を走っていたゆりに呼びとめられ、面倒げに立ち止まった。

 少しだけ、顎を上げる。


「何が?」 

 補習の後の追試に、個別の進路指導。進学する気はあるのかと、進路指導の教師に問い詰められていた。

 ぼくのあまりの成績不振に、親が学校に相談したらしかった。一学期の成績はクラスで最低であり、通知票を見た親は驚き怒り、そして頑なに沈黙するだけのぼくに困り果てていた。


 どうするのかと親に聞かれて、今日と同じように進学すると答えていた。受験勉強だけでもすると答えていた。


 しかし、ぼくは受験勉強などしなかった。するつもりもなかった。大学への進学なんて、一時しのぎの理由にすぎなかった。

 ただ、時間が欲しい。

 それだけだった。


 今のぼくは物憂げに目を伏せ、視界の中に映るゆりの素足に見とれていた。筋肉質の、よく陽に灼けた脚。


 少しの性欲を感じていたけれど、今は疲れてそのことさえもものぐさく思えた。ゆりは、ぼくの視線の先に気づいて少し頬を赤らめたけれどもひるみを見せなかった。


「どうすることになったの?」

 重ねて問いかける瞳がうざったかった。鞄を叩きつけてやりたかったけれどもできるはずもなく、顔を背けるのが精一杯。


「うるさい。おまえには関係ないさ」

 小さく口ごもるようにいって、うつむいたまま歩いて帰る。


 決めるのはぼくであり、ゆりを振り返る必要はなかった。

 ゆりに教える必要もなかった。


 ぼくは一人なのだ。これ以上の同情は惨めさの限界を超えてしまいそうに思える。幼い時のように泣きながら校庭を駆け抜け家に帰るのことが、ぼくにはお似合いなのだろうか。

 皮肉に微笑む。


 校庭には校舎の影が長く伸び、乾いた風が吹き抜け細かな砂ぼこりが舞っていた。遠くに響く喚声に、テニスボールを打つ乾いた音がこだまし、重い足取りに校門までの道のりは遠かった。





「ゆりさんとは、つきあっているの?」

 突然そう声をかけられたのは、帰りの電車の中だった。

 ズボンのポケットに手を入れ、ドアにもたれぼんやりと窓の外を眺めていると、いつのまにか同級生のなおこがそばに来ていた。


「どうして?」

 唐突な質問に驚きながら聞き返すぼくに、「気になったから・・・」と並んで車窓の風景を見やりながら答える。


 なおことは高校一年生の時に同じクラスになり、今もまた同じクラスになっていた。

 同じ電車で通学し、朝や夕方によくなおこの姿を見かけていたけれどもあまり親しく話したことはなく、一緒の車両になっても話しかけたりしたことはなかった。


 そういえば、数日前にも学校近くの本屋でなおこに会っていた。文庫本の本棚の間で一人でいるなおこを見かけていた。


 なおこも何か本を探している様子で本棚を眺めていた。その時、緊張したその横顔の何かの不自然さに気づいていたけれど、気にせずそのまま本を探しているといつの間にかなおこの姿は消えていた。


「今、つきあっている人はいるの?」

 重ねてそうきかれ、なおこの気持ちを理解した。


 その時になって、初めてなおことよく同じ車両に乗っていた理由に思い至っていた。


「いないけど」

「そう・・・」

 うつむくその緊張した横顔を見つめながら、ぼくは何とかこの不意打ちに対する体勢を立て直していた。


「この前、何の本を探していたの?」

「面白くて夢中になれる小説。できれば長編がいいな」

「そんな小説あるの?」

「あるけど、少ない。だから探してる」

「ふうん、私も面白い本読みたいな。今度貸してくれる?」

「いいよ」

 なおこの沈黙に、ぼくは少し考えた。

「じゃあ、今度図書館ででも会おうか」

「ええ。いいわ」

 やっと少し笑って、なおこはぼくを見た。



 六



 制服のゆりを抱くと懐かしい陽だまりの匂いがする。

 そして少し、あの校庭の土ぼこりの匂い。


 子供の頃二人で川原に遊びに出かけたことがあった。よく晴れた冬の日の午後。春が近かったけれど、川面を駆け抜ける風はまだ冷たかった。背の高い枯れ葦の中に分け入って、枯れ葦を踏み倒し、二人だけの空間を作った。


 ここは二人の秘密基地にしよう。

 二人で肩を寄せてしゃがみこむと風は遮られ日差しの暖かさだけを感じることができた。

 あの時と同じ懐かしい匂い。


唇を離すと、ゆりが笑った。

「どうしたの?」

「なにが?」

「なにかうれしそう」

「そうかな」

「進路指導でいい話があったの?」

「あるわけないさ」

 ゆりに肩をすぼめて見せる。

「進学するんでしょう?」

「あぁ。まぁ、そういう話になったみたい」

 

 なぜか担任の教師は、親に長い目でみるように言ったらしかった。しばらくは自由にさせるしかないと話をしたらしかった。ぼくのどこを見てそう思ったのか、芯の強い将来性のある子だと親に説明したらしかったい。


 何を根拠にとぼくは皮肉に思ったが、親はその言葉にすがるように少し安心したらしかった。

 親も教師も、何もぼくのことを分かっていない。分かってくれとも思わない。


 その日ゆりとセックスしながら、なおこの身体もこのゆりの身体と同じだろうかと考えていた。乳房も、性器も、身体の匂いも抱いた感触も。


 ぼくの想像するなおこの身体は、今抱いているゆりの身体とは違うものに思えた。ぼくの得る快感も満足感も違うように思える。

 

 ぼくは、女の子に人気があるのかとゆりに訊いてみた。

「あると思う?」

「いや。ないとは思うけどさ・・・」

 珍しくいじわるな言葉に唇を尖らせるぼくに、「悪くはないわよ」と、笑顔のままゆりは答えた。





 第3章


 一



 夏休みが近い日。

 突然振り出した強い雨に、体育の授業は中止になっていた。教室に帰る途中の階段の踊り場では、男子生徒が鈴なりで窓の外を覗き込んでいる。


 見てみると、プールでは女子生徒が雨の中、水泳の授業を続けていた。

 白のスイミングキャップに紺のスクール水着の集団の中からでも、雨に濡れているゆりとなおこの姿を見分けることができた。


 皆好き好きに水着姿の女子の身体の評価をしていて、ゆりはスタイルはいいけど胸の膨らみが足りないという評価の声があって、ぼくは心の中で同意し苦笑した。


 なおこもその中にいて、あまり男子生徒の話題にはならなかったけど、明らかになおこの方が乳房が発達しているようだった。


 日に焼けたことはあまりないんだろう、どうしてというほど、なおこの肌の白さが眩しく見えた。


「どうして授業を中止しないんだ。風邪をひいたらどうする」

 不意に、女子生徒の中につきあっている子がいる同級生がそう口に出し憤ったのを聞いて驚いた。


 そういう感情は、まったく思いもできないでいた。ゆりやなおこの身体の心配なんて、思いもよらなかった。

 どうせ水泳の授業で濡れてるんだから、雨に少しぐらい濡れても一緒じゃないかと思っていた。


 あれは、恋人という存在への思いやりなのだろうか。

 なぜ、ぼくにはその優しさのかけらもないのだろうと悲しく思えた。

 その時はただ、水着姿のその胸のふくらみに心ときめかせ、触れてみたいという欲望だけを覚えていたのだ。


 ぼくは、それだけの卑しい人間。

「お前ら、いやらしい目で見るなよ」

「誰がお前の女なんか見てるかよ」

 みんなの笑い声にも取り合わず、その同級生は真摯な眼差しで強まる雨脚を見つめ続ける。

 ぼくにはその一途な横顔が愚かにも、うらやましくにも見えていた。



 二



「今日のプールの授業、寒かった?」

「最悪だった。雨がふって冷たかったわ。そのうえ、暇な男子はのぞいて騒いでるし」

「そう・・・」

「あなたものぞいてた」

「ばれてたか」


 ゆりの部屋で、ぼくは照れ隠しに、ベッドに並んで腰掛けるゆりの身体を抱き寄せる。服の上からその乳房に触れても嫌がらない。腕の中にゆりの身体を抱けることが、これほどにうれしく思えるのはなぜだろう。


「男子はよかったじゃない、早めに授業が中止になって。濡れなかったでしょう?」

「うん」

「扁桃腺が弱いから、風邪ひいたら大変だもの」

「そうだね」

「小学校の時、一緒に雨に濡れて帰ったのに、あなただけ風邪ひいてこじらせて入院したよね」

 楽しそうに思い出し笑いをするゆりに、力なく腕を落としてうつむいていた。


「どうしたの?」

「何が?」

「元気ないね」

「そうかな」


 ゆりは優しい。ぼくにも、ほかの誰かにも。ぼくとは大違い。


「ゆりは優しいな」

 そう口にした。

「そうよ。今まで気づかなかったの?」

「・・・うん」

 ゆりの冗談に本気で答えていた。


「どうしたのよ、いきなり」

「別に」

「変なの」

「そうかな」

「もちろん、あなたよりは優しいわよ」


 そう微笑みかけてくる。ゆりにぼくは何を求めるのだろう。

 なぜか、キスもしたくなかった。覗き込むゆりの瞳も見たくはなかった。


「ごめん。帰るよ」

「どうしたの?」

「別に」

 怪訝な顔に、「少し風邪気味かな」と答えてそそくさと逃げるようにゆりの部屋を出て行く。

「勝手ね」

 ベッドでうつむく、ゆりは小さくにそう言った。



 三



 なぜ、こんなに惨めなのだろうか。

 ぼくは、ゆりに何か優しくしたことがあっただろうか。


 ゆりに好きだとか、愛しているとか言ったことはなかった。ゆりもぼくにそんな言葉を言ってくれたことはなかった。そんな言葉を求めたこともなかった。ゆりを恋人であるとは思っていなかった。ゆりが、ぼくをどう思っているのかも分からなかった。


 ゆりはいつも部活で忙しく、土曜日も日曜日も学校に行っていた。ぼくもセックスするとき以外に、ゆりと会うことに興味はなかった。


 まわりの恋人たちのように、二人で映画に行ったり、ボウリングをしたり、カラオケに行ったりしたことはなく、別にゆりとそんなことをしたいとは思ったこともなかった。

 ゆりも、一緒に遊びに行こうとぼくを誘ったことはなかった。


 なおこは、ゆりとは違う。小柄で、色が白い。小さく、尖った顎。髪が短く、学校の成績はゆりよりずっといい。


 美少女ではないけれど、可愛いタイプの女の子で好きだった。内気で、ぼくと話すときは顔を赤くして口ごもりながら話す。そのひたむきなまなざしに、ゆりに感じたことのない愛しさを感じていた。


 夏休み前から、時々なおこと会うようになっていた。なおこに誘われて二人で映画に行った。喫茶店に入って長くとりとめのない話しをした。夜の街や公園を歩いた。


 同年代の恋人達と同じように、ぼくとなおこはつきあった。

 なおこはぼくを好きだといい、ぼくもなおこにキスをするときそう言った。

 キスをしたとき、ゆりより小さな手のひらを汗で濡らしていた。抱きしめた感じも、ゆりより柔らかい。

 キスもうまくない。匂いが違う。唇にほくろがある。


 何かぎこちないなおこに対して優越感を感じ、二人の関係に余裕がもてていた。

 なおこの裸を見てみたい。なおことセックスがしたいと思っていたが、なかなかできなかった。


 ゆりよりも、なおこの方を好きなのかもしれないと思った。なおこをゆりとは違う壊れやすいものとして大事に扱っていた。


 ゆりがいなくても、ぼくはぼくであることができた。

 それは、よりぼくらしいことに思えた。ゆりのように、なおこはぼくをいらだたせはしない。なおこには素直に、そして自然に優しさを見せることができた。そしてまたそのことは、ぼくに安らぎを覚えさせたのだ。


いつの間にかゆりの部屋に行くことはなくなり、なおこのことを考える時間は増えていた。




 第四章


  一



 なおことぼくの関係は、二学期が始まってからも続いていた。一緒に登校や下校するような勇気はなかったけれど、ぼくはより深い関係になるためのタイミングと方法を探っていた。


 なおこに夢中で、ゆりとの関係のことなど忘れかけていた時、突然教室で同級生から「おまえ、ゆりとつきあっていたのか?」と問い詰められていた。


「今までずっとつきあっていたのに、そのことを隠していたのか?」


「何でそんなことを?」 

 驚いて問い返すぼくに、同級生は皮肉な笑みを見せた。

「隠すなよ。そういう噂だぜ」

「違う。ただ家が近かったから。それで・・・。」


 噂が流れているらしかった。それも、かなり露骨できわどい内容らしかった。

 噂の出所はよく分からなかったけれど、ぼくは強く否定した。

 

 教室でのゆりは、いつもの笑顔でいた。誰もゆりに、そんなこと訊けやしない。ゆりはそういう子だった。


「誰かに、見られたんじゃない」

 人気のない教室の片隅で呼び止め、ぼくがこの噂の話したとき、ゆりは何の驚きも見せず落ちついてそう答えたのだ。


「いいじゃないの、噂なんか」

 ゆりは、笑顔のままそう言っただけだった。

 なおこもこの噂のことは知っていたと思うけれど、何も言わなかった。


噂の内容はいろいろで、ぼくとゆりが恋人同士であるというものから、ぼくがゆりを脅かし暴行し続けているというものまであった。


 共通していたのは、どの噂もぼくとゆりとの関係が普通ではないというもので、この噂に女子生徒はぼくを嫌悪の目で眺め、男子生徒は興味深げにその真実を確かめたがった。


 ぼくはますます教室で孤立化し、注がれる好奇のまなざしのあまりのわずらわしさに逃げるように早退の回数は増えていた。



 二



 その日から、ゆりに電話をしなくなった。ゆりからの電話もなかった。

 このまま会わなくなるのもいいことだとぼんやり考えていた。


 教室では、誰とも目をあわさないようにしていた。誰もぼくに声をかけないし、ぼくも声をかけはしない。それはそれで安息ともいえ、一時のざわめきとして首を竦め何もかも無かったこととして全てをやり過ごしたかった。


 それなのに、いつものように学校を抜け出して帰ると部屋にゆりがいた。


 ベッド横のローテーブルの上には、鞄と脱ぎ捨てられた制服の上着。床にはスカートが置かれて、ぼくのベッドで丸くなり眠っている。


「勝手に入ってきやがって」

 ぼくがゆりの家の合鍵の隠し場所を知っていたように、ゆりもぼくの家の合鍵の隠し場所を知っていた。


 しかし、幼い時でさえ今日のように誰もいない家に上がりこみ、ぼくの部屋に入ってきたことはなかったのに。


怒りに叩き起こそうかとも思ったけれど、覗き込むと身体を丸め少し苦しげに口を開いて眠っていてできなかった。

 ゆりと一緒にいることは物憂かったけど、今さらどこかに出かけるあてもなかった。


 ベッドを背にして座り、テーブルの上のゆりの服を片手で放り出し、おやつ代わりのポテトチップスの袋を開く。コーラを口に運び、読みかけの本を開いた。


 ポテトチップスとコーラと好きな本があれば幸せだった。

 特に次の日が休みの長い夜で、好きな本が長編だと。

 現実から逃避し、物語の迷路に身を隠すことは眠りとともにぼくの安らぎだった。


 しかし今は、ほのかに漂うゆりの匂いが物語への逃避を妨げていた。寝息と寝返りの音に無意識のうちに耳をそばだてていた。


「またそんなもの食べてる」

「起きたのか」

「音がうるさいもの。ポテチ」


 振り返ると、ゆりは寝返りをうち、こちらを見ている。

「身体に悪いよ。そんなものばかり食べてると」

 背を向けたまま、ほっとけよと肩をそびやかして答えた。


 口をつく言葉には、非難の棘が芽を出す。

「何でそんなとこで寝てるんだよ」

「少し疲れてて。いつまでも帰ってこないから、眠っちゃった。ごめんね」


 そう・・・。

「何のようだ?」

「どこ行ってたの?」

「どこにって?」

「早退してから」

「どこにも」

「そればっか」

 ベッドから身体を起こす。素足がぼくのそばに来たのをちらりと見た。


「ほかの答えはないのかな」

 ベッドから降り、スカートをはき隣に座る。肩が触れ、気づかれぬように少しだけ身体を動かして離れた。


 ゆりは鞄の中から鏡を取り出し髪を直す。

「こんな時間までどこ行ってたの?。帰ったの昼前だったのに」

「いろいろと」

「いろいろと・・・ね」

 

 ゆりはポテトチップスに手を伸ばした。

「何をしているんだか」

「関係ないだろう」

「そうね」と瞳を泳がし、また一枚をかじる。

「この部屋も変わったね。いつの間にか」


「本が増えた。でも参考書はないね」

 机の上には薄くほこりが積もっていた。作りかけのプラモデルと積み重ねた文庫本。転がったゲーム器のジョイパッド。


 ゆりの視線がベットのヘッドテーブルの上のじんべいざめの小さなぬいぐるみのキーホルダーに止まった。

 それはこの前なおこと出かけた水族館で買ったもので、なおこの鞄にも色違いのものがぶら下がっていた。


「水族館行ったの?」

「あぁ」

「・・・」

 ゆりは何か言いたげだったけど、何も言わなかった。少しの間、手のひらでぬいぐるみをもてあそびまた置いた。


 ぼくはポテトチップスを食べる。頭の中は、ぱりぱりという音でいっぱいで、その音を消すためにコーラを流し込んだ。


「あのね、わたし、病気みたいなの」

「え?」

「なんか、おかしいの。胸がね」

 小さいのかいと冗談をいえる雰囲気ではなかった。


「どういうふうに?」

「定規でも飲みこんじゃったみたいに」

「定規?」

「そう。長さは30センチくらいかな。なにか、胸につかえたみたいで苦しいの。おかしいね」

 十分に。


「それは大変だ」

「うん。・・・死ぬかな」

「かもな」

 そっけない答えへの沈黙の中に、ゆりの怒りのそよぎを感じていた。


「病院行けば?」

「いいの。多分気のせいだから」

「そうかもな」


「わたしのジュースは?」

「下の冷蔵庫」

「ケチね」といい、なぜかテーブルの上に一つしかないコーラの缶をにらみつけた。

 コーラに、何か恨みでもあるかのような眼差しで。


「わたしには、何も話してくれないのね」

「なにを?」

「いいよ、もう」


 怒ったように言う。そして、しばらくは相手にして欲しそうに隣でひざを抱えていたけれど、本に目を落としたままで取り合わないでいると、やがて、ゆりは小さなため息を一つついた。


「セックスしか興味ないんだ」

 ゆりらしくない、嫌味のある言葉。横目でこちらを見てる。


 違う。もう、ゆりとのセックスにはあまり興味がなかったりして。

 そう思い、小さく鼻で笑って唇をゆがめた。


 ゆりは横顔のまま、視線をテーブルの上に戻し、気まずい沈黙の我慢比べのように押し黙る。 

「さてと・・・、もう帰るね」

 ゆりは立ち上がり、「残念ね。今日は、だめな日だから」と言った。


 ぼくは「そう」と小さく肩をすくて返す。

「勝手に入ってごめん。もうしないから」

「あぁ」

「またね」

 読みもしない本に落とした視界の片隅で、鞄が取り上げられるのを見た。部屋のドアが閉まる音を聞いた。


 そういえば、もう二月近くもゆりを抱いていなかった。

 少しの性欲を覚えた。

 なおことそういう関係になるためには、どうすればいいのかなとぼんやり考えていた。



 三



 そうだったのか。あの噂は、ゆりが流していたのか。

 それは信じられないことで、想像もできないことだった。

 あのゆりが、そんなことを・・・。


 夕闇に包まれ人気の消えた公園で、ぼくはなおこの言葉にうちのめされ、うろたえていた。


「ゆりさんから、なにも聞いてないの?」

「なにを?」


「なにも聞いてない。ゆりとは、最近会っていないし」


「あなたとのことを、みんなに話していたわ」

 白い頬をひきしめて、なおこはそう言った。


「ゆりさんに言われたわ。あなたとずっと、つきあっているって。特別な関係だから、別れられないって。だからわたしに、もうあなたとつきあわないで欲しいって頼まれた」


 ゆりが、なぜなそんなことを。

「わたしも知っていたの。あなたが、ゆりさんとつきあっていたことを。あなたが、よくゆりさんの家に行っていたことも。でも、それでもいいと思ってた」

 顔を上げて、なおこはぼくを見つめる。


「どうして知ってた?」

「時々、あなたの家の近くにいたから」

 表情も変えないで、なおこはそう言葉を続けた。

「ゆりは、ほかにも何か言ってたのか?」

「そうね・・・。少しきつく言われたかな」

「どんなことを」

「わたしが、あなたとゆりさんとの関係を知っていながら割り込んだのはひどいことだって。許せないって」


 信じられない。

 なおことのことは、まだ誰にも知られてなかったはず。ましてや、もしゆりがなおことのことを知ったとしても、そんなことを言うとは思えなかった。


 そんな女の子じゃない。ゆりは人を傷つけない。ゆりは人を憎まない。ゆりは人を恨まない。人を裏切ったりしない。


 ぼくとは、違う人間。そのはずだった。そのことは、ただぼくが勝手にそう願い、そう望んでいただけなのかもしれないけれども。

 そう思いたがるぼくが愚かなだけなのか。


「叩かれるかと思った」

「えっ?、まさか」

「そのほうが、泣かれるよりよかったんだけどね」

 冷めた笑いに戸惑った。


「気づいてなかったの?」

「なにに?」

「この前の日曜、ゆりさんを見かけたわ」

「ゆりを?。どこで?」

「わたしたちの後をつけてきていたみたい」


「嘘だ」

 そんなこと、ゆりはしない。

「ゆりさんは、だいぶ前からわたしたちのこと気づいていたみたいよ」


「そうなのか・・・」

「ゆりさんに訊いてみれば?」

 いわれてみると、それは痛烈なまでに皮肉な言葉だった。

 うちのめされ、つくり笑顔さえ返せやしない。


「あなたは、どうするつもりなの?」

「なにを?」

「ゆりさんのこと」


「どうするっていっても・・・」

問いつめるその強い眼差しを見つめ返すことができずに目を伏せた。視界の片隅で、なおこの弱い微笑みを見る。

 そしてなおこは、短い息を吐く。


「信じているのね。ゆりさんのことを」

「うらやましいな」

「そんなに愛されて」


「・・・違う」

「そうかな・・・」

 目を伏せ、奥歯を噛む。愛するなんて、ぼくは分からないのに。


「もう、会わないことにしましょう」

「え?」

「もう、会いたくないから」

「どうして?」

「どうしても・・・。それに、わたしに割り込む隙はないみたい」


「わたしがあなたに近づいたのは、あなたがゆりさんとつきあっていたからよ。ゆりさんから、あなたを奪ってみたかったから」

 なおこは、そう口にして笑って見せる。


「そういう気持ち、分かる?」

 そして、なにも言い返せないぼくに冷めた一瞥を投げかける。


「さようなら。ゆりさんを大事にしてね」

 立ちつくしたままのぼくは、振り返りもせずに立ち去るなおこの後ろ姿を見送るしかなかった。


「そんな・・・・」

 勝手だ。ゆりも。なおこも。そして、ぼくも・・・。何もかも、ぼくの思うようになりはしない。


 そんなものか。そんなものさ。腹立ちと、傷心と、複雑な思いが入り乱れて何もかもが嫌になっていた。


「勝手にしろッ」

 ぼくは、そう誰かに言い捨てた。



 四



 それから、ゆりの部屋に行くことはなかった。ゆりを呼びもしなかった。ゆりと会うことをやめていた。

 なおことも会うことはなかった。

 ぼくは、相変わらず教室の中で黙って座り、一人自分の世界に閉じこもっていた。


 また、ゆりにいじわるをしていた。ゆりをわざと無視していじめていた。ゆりに、教室で話しかけられても無視をした。


 ゆりはその時少しつらそうな顔をしたけれども、許さなかった。ゆりの行為に怒りを抱いていた。自分のことを考えるとゆりのことなど何も責められはしないのだけれども、ぼくの心の中のわだかまりは消しようもなかった。


 そしてまた、今度こそもう本当にゆりとの関係はやめようと思っていた。ゆりとの関係はぼくが望む時だけのものであり、電話をするのはいつもぼくからだった。ゆりとセックスができないことは少しつらいことだったけれども、いい機会だと思った。


 ゆりのためにもなることだと勝手に考えた。

 また、ゆりと会うことは煩わしくも思えていた。ぼくは何もかもが嫌になり、誰にも傷つけられることのない自分だけの世界に逃げ込んでいた。

 何ももっていなければ、何も失うことはない。

 傷つく悲しみもない。

 

 自分だけの小さな要塞。


 その中では自由だ。

 孤独で寂しく、矮小で愚かな自由だろうけれど、ぼくにはお似合いの世界だろう。風も吹かなければ、さざ波も立たない。無表情の仮面をかぶり、無関心の鎧を身にまとう。砂漠をさすらう迷い人のもの苦しい渇きに歪んだ顔を仮面で覆い、もろくもはかなく崩れ落ちそうな心と身体を鎧で押し包む。


 誰に見せるでもなく、にやりと不気味な笑みを一人つくる。

 想像は自由だ。

 目に映る命を全て鮮血にまみらせ、形あるものを全て破壊する。

 不公平じゃないか。

 ぼくのこの耐え難い苦しみとつらさを誰かに知らしめ、味あわせたい。


 ぼくのように、お前らは耐えられるのかと。

 やはり、ぼくは狂っているのだろう。

 もう一度、教室の片隅で一人笑った。



 五



「どうして電話をくれなかったの?」

「何を怒ってるの?」

「もうわたしとは会ってくれないの?」

「わたしが嫌いになった?」

 

何日か、何週間かの日が過ぎて、突然電話してきたゆりは口ごもるぼくに次々と言葉を浴びせてきた。

「ちゃんと話をしよう」

「今から行ってもいい?」


「ダメだ」

「どうしてよッ」

 ぼくの短い拒絶に、ゆりは声を高める。


「なおこさんとは会っているの?」

「なおこさんの方がわたしより好きなの?」

 そして、沈黙だけの答えにゆりらしくない言葉を吐いた。


「なおこさんにも、わたしにしたことと同じことをしているの?」

「あんなひどいことを」


 そうかい。

「お前だって、あいつとつきあってるじゃないかッ」

 ぼくは、その言葉に怒りを弾かせた。息をのむゆりの沈黙に言葉を重ねる。


「知っているんだ。お前だって、あいつとやってるんだろう。あいつとつきあっていないといってたけれども嘘じゃないか」


 本当は、そう思ってはいなかった。ゆりがあいつに抱かれる。

 ぼくがゆりにしたことと同じことをあいつがゆりにする。そんなこと、ぼくには許せずまた想像もできないことだった。しかし、ゆりはぼくの知っているだけのゆりじゃない。ゆりはぼくと会うことよりも、あいつと会うことが好きなのだ。


 ゆりは、あいつとつきあってないとぼくに嘘をついた。

 ゆりもぼくと同じ。嘘をつく。人を裏切る。人を憎む。人を妬む。人を呪う。汚らしく、おぞましい。ぼくと同じくらい醜い。


「そんなことない」

「嘘つけッ!」

「信じて。本当よ」

「いやだッ!」

「信じて・・・」

「お前なんか嫌いだ。もう会わない」

「だめよ。そんなこと、許さない」


 そしてゆりは混乱したように、電話の向こうで叫んでいた。

「許さないからッ、絶対に。もう、許さないッ!」


「勝手にしろッ!」

 そう怒鳴り返し、ぼくは疲れを感じた。虚しさを感じた。愚かさを感じた。何もかも嫌で疎ましく悲しかった。


「・・・もう、いい。ごめん。みんな、ぼくが悪かったんだ。・・・さようなら」

 電話の向こうの沈黙に、こみあげる切なさを覚えた。

「もう、切るから・・・」

 ゆりの返事を待たずに、電話を切った。


 本当に、これでゆりとのぼくとの特別な関係が終わると思った。

 これでいいのだと思った。ゆりの気持ちは考えられなかった。そんな余裕は、ぼくにはなかった。


 それから、ぼくは教室でゆりを無視することはなくなった。ただ、ふつうの同級生の一人としてゆりに接した。ゆりは、そんなぼくにとまどっているように見えた。


 もう、ゆりにいじわるをしているつもりはなかったけれども、ゆりはそう取っていたかもしれない。


 ぼくには、もうどうでもよかった。ゆりとはもう他人の関係になったのだと勝手に思っていた。教室で他の同級生と同じように苗字で呼びかけると、ゆりは顔を強張らせて無視をした。


 その視界に映ることはぼくの苦痛で、できるだけ避けていたのに嫌がらせのようにゆりは何度もぼくの前に現れた。 


 駅の改札口を出たところで能面のように無表情でたたずむゆりの前を、できるだけ自然に距離を置き、素知らぬ顔で通り過ぎることは難しいことだった。

 

 ゆりは、声をかけたりはしてこない。距離も縮めてはこない。とても暗いその眼差しだけが追いかけてくることが怖かった。

 ぼくは目を細め、感情の光を消した鈍い横顔で答えた。


 そしていつの間にか、見せつけられるようにゆりとあいつが並んで下校する姿に出会っても、少し首を傾けただけで見送ることができるようになっていた。




第五章




 強い雨の降る夜。

 親のミニバイクを勝手に持ち出して、街を走っていた。


 大粒の雨に合羽代わりのウィンドブレーカーが痛いほど叩かれ、ヘルメットに流れ込む風の叫びに耳を塞がれていた。

 

 胸の奥のしこりを吐き出すように、スロットルをいっぱいに開いたまま声を上げていた。

 細かな傷の拡がったヘルメットのシールドは街灯の光を白く反射し、濡れて光る道路は暗く滲んでいた。


 大きく交差点を曲がった時だった。

 不意に背後から迫ってきた大型バイクに追い抜かれた。そのことに気を取られ、路肩にはみ出して停めてあったトラックに気づかずブレーキもかけれずにそのまま激突していた。


 ぼくに感じられたのは、一瞬のすさまじい衝撃だけ。

 

 身体は、バイクとともにトラックの荷台にぶつかって跳ね返されていた。ヘルメットが外れ飛び、ゴールを外したサッカーボールのように濡れたアスファルトの上を転がっていった。路上に転がったぼくを、バイクの男が不思議そうに返り見ながら通り過ぎていったのを覚えている。


 気がつくと、アスファルトの上に横たわり雨に打たれていた。痛みは感じられず、ただ衝撃の余韻だけにとらわれていた。足は動かず、腕は痺れ、強く胸を打ち呼吸がうまくできなかった。道ばたにうずくまり、大粒の雨に打たれ続けた。


 黒く濡れたアスファルトの上には砕けたバイクの破片がいっぱいに散らばり、街灯の光を受けて輝いていた。話しかけられてもそれは遠い世界からのささやきに聞こえ、ぼんやりと夜空に光を放つ救急車の赤い回転灯を見上げるだけ。身体の中にはいつまでも事故の強い衝撃が感じられ、それはまるで快感のような甘く痺れた感覚で長くぼくのなかに残っていた。


 無免許だった。警察から学校に連絡があり一週間の停学処分を受けたが、病院のベットに横たわるぼくには関係のないことだった。

 父は、「馬鹿が・・・」とだけ言った。



 二



 気怠い眠りの中、折れた骨の痛みと熱にうなされていた。足首と肋骨を骨折し、左手の甲には深く裂けた傷ができていた。寝返りが打てず苦しかった。

 長く、途切れ途切れの眠りの合間に幼い頃のことばかり思い出していた。


 ゆりのお母さんは苦手だった。ゆりに似て髪の長いきれいな人だったけれども怖かった。ゆりをいじめていた後ろめたさがあった。いつかそのことが知られ怒られるのではないかと怯えていた。


「もうあんな子と遊んじゃだめ」

 そう言われそうで怖かった。

 

 いくつの時だったろうか、ゆりの家に行ったとき、一人階段をわざと大きな足音を立てドスドスと降りて遊んでいた。すると、台所の方からゆりの母の叱る声が聞こえた。

「なにうるさい音立てているの。うちには病人がいるのよ、静かにしなさい」

 あの頃、ゆりの家には寝込んでいるおばあさんがいた。

 ぼくは驚き怯えて何も答えられず、そのままゆりの家から逃げ出していた。


ゆりの左の目がよく見えないのはぼくのせい。小学校に入ったばかりの頃、二人でふざけて遊んでいて、ぼくが振った定規の角があたったせい。左目を押さえてうずくまるゆりの手をのけてみると、目は血の色に染まっていて、ぼくを慄かせた。


 ごめん。ごめん。

 ぼくは病院で泣いた。父はぼくをぶった。ゆりの母親は、ぼくを責めなかった。

 ごめん。ごめん。ぼくの目をあげる。ぼくの目をあげるから。取り替えよう。取り替えて。

 赤い目のゆりなんていやだった。病室の廊下で、そうぼくは泣き続けた。


 次の日の朝。ゆりは、いつものように元気にぼくを迎えに来てくれた。赤いランドセルに黄色い帽子。白い眼帯をしたゆりの笑顔。

 うれしかった。安心した。

 その時の喜びをぼくは今も覚えている。

 教室で、ゆりの眼帯をからかった子をぼくは許さなかった。


 その日から、毎朝二人して通学途中の公園の片隅に隠れるようにしゃがみこみ、傷ついた目の具合を見ることが日課となっていた。

 もし、ゆりの目が昨日より悪くなっていたらどうしようと不安におびえながら、うずくまったゆりの顔に指を伸ばし、両手で優しく、その眼帯をそっと外す。閉じていたゆりの左目がゆっくりと開き、覗き込むぼくは必ず「昨日より、よくなってる」と言った。


 昨日とあまり変わらないように見えるときもそう言った。そう言うと、不安げに目をきょろきょろさせていたゆりも安心して笑ってくれた。そして額をつけあい、二人声を出して笑いあった。


 願いはかない、日が経つごとに少しずつだったけど確実にゆりの目からは血の色が消えていき、ぼくはうれしかった。ゆりも喜んだ。やがて血の赤色が消えさり、ゆりの目は前と同じきれいな色に戻ったけれど、白目にできた黒い小さな点は、いつまでたっても消えなかった。


 小学校の五年生か六年生の時のことだった。図書室で少し意地悪い女の子が、ぼくの目の前でゆりに聞いていた。

「ゆりちゃん、この子好きなの。いつも一緒で遊んでいるし」

 ゆりは困ったように黙りこみ、ぼくも同じでなんと言ったらいいのか分からなかった。


「どこが好きなの。こんな子」

 問いつめられ答えられないゆりの前で、その子は勝ち誇るようにぼくに言った。

「ゆりちゃん、あなたを好きじゃないって。だから、もう遊ばないって」


 意地の悪い子だった。そしてその頃から、ゆりとは一緒に登校しなくなった。放課後も、ゆりは同級生の女の子と遊ぶことが多くなって、ぼくの家に来なくなった。

 そして、ぼくは一人で遊ぶことが多くなった。

 意地悪な子だったなと、今でもうらむように思う。


 中学生の時。休み時間に戸惑ったゆりの声に気づいていた。

「だめよ。見ないで」

「なんだよ、その結果」

 ゆりの席の前の男子が振り向いて、ゆりが隠そうとする手元を覗き込んでいた。

「変なの。右目の視力は一・五なのに、左目は〇.二じゃないか。どうしたんだ?」

「これ、ちゃんと見えてる?」

 ゆりの目の前で、指をふって見せていた。

「片目をつぶって見てみて」

 

 それは、この前の身体検査の視力測定の結果だった。ちらりと、ゆりがぼくを振り返った。ぼくは驚きでうつむいたまま石のように身体を硬くしていた。


 知らなかった。忘れかけてさえいた。ゆりの目がそんなに悪くなっていたと、誰もぼくには教えてくれなかった。悲しく、怖くて、ゆりを見ることさえできなかった。


 その日の放課後、学校の自転車置場でゆりが待っていた。

「一緒に帰ろう」

 中学に入ってからは、二人とも自転車通学をしていた。人目を避けるように裏門から出て、並んで自転車を押し川沿いの道を歩いた。

「あれ、気にすることないよ」

「この前、ちょっと調子悪かったの」

「いつもは、もっと見えてる。身体検査の前の晩、本を読みすぎたのかな」

「・・・うん」


 伏目がちに、少し遅れてゆりの後について自転車を押し歩いた。

「そんなに目が悪くちゃ、パイロットにはなれないな」

「うん、残念」

 その明るい返事にも、ぼくの足取りは軽くならなかった。

 よく晴れた秋の夕方の空は瑠璃色で、冬を思わせる冷たい風が吹き始めていた。川岸に咲くコスモスの花が風にそよぎ、時々ぼくを振り返るセーラー服の白いネクタイが揺れていた。


 離れて暮らしていたゆりの父親が亡くなったと聞いたのも、その頃のことだった。


 中学生の頃のゆりは、今より足も身体の線もか細かったけれど、凛とした少女の気高さを見せていた。


 今のゆりに、あの頃の強さが見られないのはなぜだろう。

 もう、少女というよりも大人の女性に近い。少し取り乱している。自信をなくしている。あの頃のゆりの方が、好きだったなと思う。



 三



 高校一年生の冬。

 冷たい雨の降る放課後だった。

 電車のドアの側で発車を待っているとゆりが駆け込んできた。久しぶりに近くで見るゆりの身体は中学生の頃とは違い明らかに丸みを帯びており、腰周りとかの線に大人の女性の身体を感じることができた。でも残念なことに、胸はまだ発育途上のようで顕著な変化は認められず、ゆりはぼくのあからさまな眼差しに、ドアに向いて立ち横目で答えた。


「少し太ったかい?」

 ぼくのいじわるな言葉に、一瞬口を尖らせて非難の目を向ける。

「なによ、いきなり失礼ね。受験のストレスが残っているのよ」


「それは大変」

 ゆりは顔をそむけたまま。でも、その横顔は怒りの色を見せてはいなかった。

 

「今日、練習は休み?」

「この雨だから」

「陸上部は、楽しい?」

「それなりに」

「それなりね」

「どこか、クラブには入らないの?」

「あぁ。だるいから」

「まったく・・・。家で勉強しているの?」

「ぜんぜん。ゲームをするか、本を読んでいるかだね」

「楽しい?」

「それなりにね」

 顔を見合わせ、少し笑いあった。


「なにかやりたいことは?」

「別にないなあ。ゆりは?」

「かっこいい彼が欲しい」

「なるほど」


 誰にも羨ましがられる恋人がいれば毎日楽しいだろうなと思った。同じ車両の中でさっき見かけた学年一といわれる美少女の姿を思わず目で探していた。


「今度ね、第三校舎の屋上に行ってみない?」

「あんなとこにかぁ?」

「どんなんだろうね。行ってみたいな」


 第三校舎はぼくらの学校で一番高い建物で、その屋上は他の校舎からは覗けない場所だった。いつしかそこは校内の恋人同士が集まる公認の場所となり、そこにはカップルの恋人同士しか入ってはいけないという伝統になっていた。

 そして、放課後の第三校舎屋上は多くの恋人同士で賑わい、ほとんどのカップルがキスをしているというのがもっぱらの噂だった。


「頑張って、かっこいい彼を見つけて行くことだな」

「そうね」


 ゆりは、雨粒の流れる窓越しに外を見ている。その伏目がちの少しの物憂さを見せる横顔は人形のように魅力的で可愛く、ゆりがその気になればすぐに相手は見つかるだろうと思えた。


「近頃、タイムが伸びないのよね。限界かな」

「そうなの。上には上がいるからな」

 中学から陸上を始めたゆりはいいタイムを残し、大会での成績もよかった。陸上を始めてからのゆりは自分に自信がもてたようで、普段の立ち振る舞いにさえ力強さが感じられるほどだった。しかし、高校の陸上部には、ゆりより脚の速い子が何人もいた。ゆりは自信を失い、少し元気がなくなっていた。


「陸上やめようかな」

「やめるの?」

「まだ頑張るべきかな・・・」

「そうだなあ、走るのは楽しくないのか?」

「タイムが伸びないと面白くないわ。苦しいだけ」

「そう?。走っているゆりは楽しそうに見えるのに」

「本当?」

「うん。走っているゆりを見るの好きなんだけどな」


 思わずそう言ってしまっていた。

 うっかり言ってしまった言葉が恥ずかしく、照れ隠しに少し伸びをして窓の外に視線を外した。

「そうなんだ」

 横顔のままのゆりは、少し横目で見上げてうれしそうに笑った。


 結局、ゆりは陸上を続けたけれどタイムは伸びず、この前行われた高校最後の大会でも成績は振るわなかったようだった。


 あの時、ゆりと一緒に第三校舎の屋上に行き、キスでもしていたら、ゆりをぼくのものにできていたかもしれないのに。いつでもぼくはそう。後からいじいじと悔やんでばかり。


 ゆりを初めて抱いた日の一週間後だった。

 ゆりが親や友達に何も言っていないことを確認したぼくは、もう一度セックスしたいという欲望に負けてゆりに電話をした。ゆりの母親がいないことを確認し、今から行くからと一方的にいって電話を切った。


 すぐにゆりの家に飛んで行き、玄関のドアが開くのももどかしくゆりの部屋に上がりこんだ。戸惑い気味にぼくを迎えた普段着姿のゆりが何かいいたげなのも無視して抱きしめる。一週間前ほどではなかったけどその時も興奮状態で、少し頭が痛かった。


 腕の中に再びゆりの身体を抱けることに夢中になっていた。


 ゆりは拒まなかった。


 ゆりに頼まれて灯りを消した。コンドームをもってきているからと言った。その行為の許しを請うために、好きだよと何度も言ったことを思い出す。これからもセックスしてもらうために、抱きしめながらゆりの名を何回も呼んだ。何回もキスをした。

 ぼくは、ばかな嘘つきだ。夢の中で泣いていた。



 五



 不意に、深い海の底から浮かび上がり急に水面に飛び出したかのように眠りの世界から放り出され目を覚ました。

 汗にまみれてはいたけれど、涙は流していなかった。


 衣擦れの音に気づく。目をやると、制服姿のゆりが壁際にもたれて座りこみ、乾いた眼差しをぼくに向けていた。

 いつからそこにいたのか。まだ夢の中なのか。しばらくは分からないでいた。


 不思議そうなぼくの視線に気づくと、ゆりはその眼差しに力を込めた。

「おばさんが、入っていいって言ったから」

「うん・・・。いたのか」

「痛む?」

「別に」

「・・・そう」


 うつむいて、膝の上で細い指を絡めてはほどく。長い髪をかきあげる。顔を傾けて、斜めに天井を見上げる。そして、再び向けられたその眼差しは氷のように冷たく光って見えた。


「天罰よ」

「・・・かもな」


 そうかもと、自分でも少し思えて笑えた。そんなぼくに、ゆりはさらに憎らしげに唇を歪め、髪先を振るわせる。


「死んでしまえばよかったのに」

 そうだねと、その言葉を悲しく受けとめる。胸が冷たく刺されるように痛む。

「・・・そうだな。今度はうまくやるよ」

 今度は、対向車線のトラックに突撃することにしよう。


「勝手にしなさい」

 冷たく、厳しい言葉につらさと切なさを感じながら苦笑いを浮かべて目を閉じた。


 心は乾いていて、涙は出なかった。

 自分でも死んでたならばよかったのになと思う。それで全ては解決する。誰かが申し訳程度に泣いてくれて、ぼくは忘れられる。寂しく悲しいことだけれど、それでいいと思えていた。けれど、さして望みもしていないことに、ぼくはまだ生きていた。


 今度はうまくやるから。


 ゆりの立ち上がる気配に、目を閉じた。

「帰るわ」

「ああ・・・」

 優しさを期待していた甘い考えは裏切られ、何も言えないぼくは細く開いた目でゆりの背を追っただけだった。


「さよなら」


 口の中でその言葉をつぶやいたけれども、ゆりには聞こえはしなかっただろう。


 ひどいやつだと思う。あんなことだけを言いにきたのか。

 もう、ゆりを抱くことはないのだろう。キスをすることもないのだろう。何回も、何十回もしてきたのに・・・。


 ゆりの嫌いなところを考える。

 口臭をかいだことがあった。血と薬のにおいの混じったような生理の匂いに気づいたことがあった。性器から流れ出て、とまらない経血は気味悪かった。乳房もそんなに大きくない。

 

 ゆりの家に遊びに行くと、ぼくに黙って友達の家に遊びに行っていていなかった。ぼくを好きかと同級生に聞かれ答えなかった。知らない間に、何人かの男とつきあっていた。


 あんな女・・・・。


 ゆりはいない。ゆりはいなかった。ぼくの望むゆりは、ぼくの想像の中だけいたのさ。

 もうゆりの名を呼ぶこともない。忘れよう。眠ってしまおう。目の上に右手の甲を置いて目を閉じた。

 あの頃には戻れない。


「元どおりになったよ」

 眼帯の取れた日の朝、ゆりはそう言って笑ったのに。



 六



 久しぶりに登校した教室で、松葉杖をつくギブス姿への同級生の冷やかしにぼくは取り合わず、曖昧な微笑みだけで答えていた。


 なおこはちらりと振り返っただけだったし、ゆりはその視界にさえぼくを捉えようとしなかった。


 そして、ぼくはまだここにいるということに違和感を覚えながらも言葉少なく教室の片隅で座っていた。



 教室に並ぶ紺色の制服の背中を見やりながらふと思う。

 この教室の中でいる者の中で、誰がぼくよりより確かなものを掴んでいるというのだろう。何も確かなものを持たないからこそ、激しく競い貶しあい何かを確かめようとしているのではないのか。ぼくだけ、何も特別というわけではない。その当たり前のことさえ、なかなか気づけないでいるこの愚かさ。まだ知らなければならないことがいくつもあることに気づく。


 そして、今のここあるのは、自分でもあきれるほどの怠惰な姿。

 やり直せないことは分かっていた。堕ちるのなら、どこまでもと思う。全て、失ってしまいたい。自分の命さえ惜しくはない。どこかに行ってしまいたい。早くこの惨めな姿を消し去りたい。


 しかしぼくはそのことさえできずに、ただだらだらと時を過ごしている。胸の奥の固く冷たいしこりと、燃え盛るやるせなさへの怒りだけは変わりはしないまま、その姿を冷たく見やりあざ笑う、もう一人の自分と見つめあっている。





第六章


 一



 うららかな秋の日差しがまぶしい午後、ぼくは微熱を理由に早退していた。肩から提げた鞄が重く、松葉杖をつく左手の甲の傷がうずいていた。なれない松葉杖を突いて登る駅の階段でよろめいたとき、不意に肩を支えられてゆりに気がついた。


 取られた腕を邪険に振り払おうとして、うつむいたままのゆりがその長い髪先を震わせたことに気がつき手を止めた。

 そして、顔を伏せたままのゆりに手を引かれホームに降りた。


「どうしたんだ?」

「なにが?」

「学校は?」

「気分が悪いから、早退したの・・・」


 ゆりは、松葉杖をつくぼくの速度にあわせてゆっくりと歩く。指を伸ばして、肩から下げたぼくの鞄を取ろうとする。ぼくが動かず鞄を渡さないないでいると、顔を上げずそのままの姿勢で指をとめた。さわやかな秋風の吹き抜けるホームで髪をそよがせ、うつむいたままのその唇が少しの笑みをつくる。


「そんなに、わたしが嫌いなの・・・」

 か細く小さな声だった。顔を伏せたまま、腕を伸ばし強くぼくの腕をつかみ離さない。


 ゆりをいじめることは気持ちよいこと。ゆりの悲しそうな顔は、ぼくを慰める。ぼくに悲しみという感情を抱かせる。胸が砕けそうに痛み、悲しみを感じられること、そのことはあの事故の時の衝撃のようにぼくを打ち、自分の生を確かに感じさせる。それは快感・・・。

 愚かしい。そう、自分でも思うのだけれども・・・。


 答えないぼくに顔をそむけたゆりは、目を細めて線路の向こうを見つめていた。


 ホームに電車が滑り込み、ゆりに支えられて電車に乗った。空いている座席を見つけてもらい、ぼくが座るとゆりは目の前に立った。電車が動き出し、横目で見上げたゆりは窓の外を見ている。電車の床には車窓から射し込む午後の陽射しが溢れ、一粒の涙が陽の光を受け輝きながら落ちてきた。


 視界の中で、ゆりの制服の腕がゆっくりと上がっていったけれども、顔を上げられなかった。黙って目を閉じていると、いつの間にか走る電車に揺られて眠ってしまっていた。


 どのくらい眠っていたのだろう。座席に立てかけてあった松葉杖が床に倒れた音に気づいて目を覚ました。


 いつの間にか車内に人影は減り、隣に座っていたゆりが手を伸ばして松葉杖を拾い上げる。

 目を覚ましたぼくに気づいて、「おはよう」と、いつものえくぼをその頬に見せた。ぼくは寝ぼけた目で、その顔を見た。


「あれ、ここは?」

 車窓の見慣れぬ風景に気づいて声を上げた。家に帰るいつもの駅は、とうに通り過ぎていた。


「何で起こさないんだよ」

「だって、気持ちよさそうに、眠っていたから」

 ぼくの非難に、無邪気な笑顔を向ける。

「寝顔を見るの久しぶりだったから。小さい頃は、よく一緒に眠ったのにね」と、懐かしそうな顔をしてみせる。ぼくは目を細め、その車窓からの日差しを浴びる横顔に見入ってしまっていた。


電車が次の駅に滑り込み、あわてて立ち上がろうとすると、ゆりはぼくの手を取って子供のように嫌がった。

「もう少し、このままでいよう」

「え?」

 すがりつくような瞳を向けられ、その手を振りほどけず仕方なく座り直すと、ゆりは笑みを見せてうなずいた。


 そして、「もう怒ってない?」と問いかけてくる。

 緊張にかすれた高い声。

 袖を強く握られたままぼくは少し考え、「別に怒ってない」と答えた。


 しかしまだぼくの身体は強張りを残し、ゆりの眼差しの怯えの光は消えていない。黙り込むとゆりはぼくの肩に手を回し、なだめるかのようにゆっくりとなぜさする。


 幼いときにも、今日のように、ゆりになだめられたことがあった。


 祖母が遊びに来ていた時のことだ。町はお祭りで、祖母とゆりの三人で出かけていた。

 神輿の後をゆりとはしゃぎながら追いかけていて、気づくと祖母とはぐれてしまっていた。祭りでにぎわう町を探して探して、見つからずあきらめて家に帰ると祖母は先に帰っていた。


 祖母は何も言わず微笑んで迎えてくれ、ぼくは何も言えず、そのままトイレに行って一人で泣きだしてしまっていた。



 声を上げ、大泣きしていた。なぜそんなに泣いてしまうのか自分でも分からなかった。祖母が帰っていて安心したのと、せっかく遊びに来てくれていたのに遊びに夢中になり忘れてしまったことへの申し訳なさで、ぼくは泣いてしまったのだろうか。

                                

 おしっこをしながら自分でもわけが分からず大声で泣き続け、どうしても止められなかった。


 ゆりは驚いて、ぼくと祖母との間を駆け回った。

「心配して一生懸命探していたのよ」

 そう、祖母に説明する声が聞こえていた。

「だいじょうぶだから、ほうっておきなさい」

 母は、そういってあわてるゆりを安心させようとした。


 おしっこが出つくしても、誰に何を言われてもぼくの涙はとまらず、トイレで立ち尽くしたまま声を上げて泣き続けていた。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。ね、もう、だいじょうぶだから」

「泣かないで。もう泣かないで」

 その時も、ゆりは今日のようにそばにいて覗き込みながら優しく肩を抱きなだめてくれた。やがてつられたゆりも泣き出して、二人して声を上げいつまでも泣いていた。


 変な二人だよな。


 その時のことを思い出し、少し微笑むことができた。

 顔から力を抜き頬を緩め、遠くを見つめる眼差しをつくる。確かに今のぼくは、ゆりに対しての怒りをもう抱いてはいない。ただ、心の中の猛りは今もこの身体の中にあり、ぼくに触れるものを全て押し包もうとする。そのことに、何も変わりはしなかったのだけれども。


「よかった」

 その頬に怯えの影を残したまま、ゆりはうれしそうな顔をつくって見せた。

 ぼくの指に冷たいに指先を絡めてきて、拒まれなかったことに密かな安堵の息を吐いたのが分かった。


「この前みたいにまたひどいこと言ったら、ホームから線路に突き落としてやるつもりだった」

「えっ?」

「もちろん、二人一緒によ」

 ゆりは、ぼくの驚きに笑顔のまま絡めた指に力をこめる。

「今度は許してあげるから」

「そう・・・。それは、ありがたいな・・・」


 それから、ぼくはずっと、陽射しを浴びてているゆりの髪が掛かる紺色の制服の肩先を見ていた。ぼくが黙り込むとゆりが不安そうな顔をするので、言葉を探して話しをあわせた。相変わらず不器用でうまく笑顔をつくれないことは分っていたけれど、少しでもゆりの笑顔にあわせようとした。



 二



 結局、終点まで電車に乗った。

 ジュースを二本買い、反対側のホームから引き返して帰った。座席に並んで座り、ジュースを飲みながらゆりは一人で話し続け、よく笑った。

 ゆりは、ぼくと小学生の時にちゃんとキスをしたことがあると言った。


 ぼくが小学生の時に、好きだと告白したことがあると言った。

「そうだったかな?」

「忘れたの?」

「うーん・・・」

 幼いときからいたずらでキスをしたことは何度もあったけれども、ゆりがいう「ちゃんと」したキスというのはどういうキスのことなのか、いつの時のキスをいっているのかよくわからないでいた。


「ま、いいか」

 座席に両手をついて、ゆりは明るくそう言った。

「ほかにもいろいろあるしね」

「え?。まだ何かあるの?」

「そのうちにね」

 いたずらっぽく笑う。

「思い出していただきますから」

「・・・それは、楽しい前振りで」


 こんなにおしゃべりな女の子だったのだろうかと思うぐらい、ゆりは話し続け、ぼくが驚くようなことも言った。


 全然勉強しないのに、成績がいつもゆりよりいいぼくを妬んでいたこと。

 ぼくをいつも意識して、無理にぼくよりいい子に思われるようにしていたこと。

 両親の仲がよく楽しそうなぼくの家がうらやましく、ぼくの家の子供になりたいといつも願っていたこと。


 ゆりは、微笑んだままそんなことまで口にした。

 そして、包帯をしたぼくの左手を取る。

「痛む?」

「別に」

「けがすることには慣れているものね」

 ぼくは苦笑を返す。臆病なくせに不器用であわてもののぼくはよく転んでけがをし、父からは生傷の絶えない男と言われていつもからかわれていた。


「傷のあと、残るかな?」

「さあ・・・」

「ちゃんと縫ってるんでしょう?」

「もちろん」

「じゃあ、大丈夫」

 ゆりは微笑んだまま、ぼくの左の手のひらをかざし目を凝らし見る。


「この人差し指の根元の傷は、夏みかんの皮を剥いていて包丁を滑らせて切った傷。ちゃんと病院にいって縫ってもらったから、傷あとはきれいになってほとんど見えなくなってる」


「そんなことしてたら危ないよって注意されたととんに指を切った」

「よく覚えてるな」


 ゆりは得意気に鼻を膨らませ、「右ひじの傷あとは自転車で転んだ時の傷。大きなけがだったのに、意地はって病院にいかなかったから、長い傷あとが残った。次の年また同じとこで転んで、同じ右ひじに同じくらいの長さの傷を作った。傷あとが重なってエックスの字になった」と笑う。

「自分では見えないから気づいてないでしょうけど、半そでになると目立つのよ、その傷あと」


「右の足首の傷は、一緒に学校から帰っているときに道端に捨てられてたテレビの割れたブラウン管を蹴って切った傷。わたしは止めたのに」

「あの時は大変だった。血がいっぱい出て。ハンカチを巻いたけど歩けなくなって。肩で支えてあげたけど、家まで遠かった。あの時も病院行かなかったね。その傷あとも盛り上がって大きく残ってる」


「でも、一番ひどかったのは、顔をすりむいた時かな。夏休みに壊れた自転車に無理に乗ってて、顔から落ちて額や鼻や頬をいっぱい擦りむいた」

「次の日から顔中かさぶただらけになって、夏休みが終わるまで家から出ようとはしなかったね」

 ゆりは、ぼくの前髪をかきあげて額を覗き込む。

「でも、よかった。少ししか傷あと残ってないよ」

 ぼくの身体に残る傷あとを数えたててそんなに楽しいのだろうかといぶかしみ、うれしそうなその笑顔に少し意地悪をしたくなっていた。


「ゆりは、ぼくが左腕を骨折したこと知らないのか?」

「え?。知らない。いくつの時のこと?。覚えてないわ」

「小さい時。じいちゃんの家の塀に登っていて上から落ちたんだ。あれが、今までで一番大きなけがかな。今度のやつまでは」


 祖父の家に遊びに行ってた時のことだ。親戚の年上の子供たちが、庭から塀の上に板を立てかけて登り遊んでいた。ぼくも登りたかったけど、小さいから危ないと登らせてもらえなかった。

 つまらなく、くやしかった。皆と同じように塀の上に立ち、周りを見下ろしてみたかった。


 誰もいなくなった後で、そっと一人で塀の上に登ってみた。登りきり、塀の上に立ち、やったと思った瞬間、足元が滑り身体が軽くなった。坂の上の家だったので、下の道路まで三、四メートルの高さがあった。どう落ちたのかは覚えてはいない。気がつくと道路にうずくまりなぜか左腕が動かなかった。泣きながら自分の左腕を抱えて起き上がり、祖父の家に戻るとみんながぼくを探していた。


「これは、腕が動かなくなるかもしれないな」

 泣きじゃくるぼくを車で運んでいた、父がそう言ったのを覚えている。

 そして今でも時おり、父はふと思い出したように腕は大丈夫かと口にすることがあった。


「覚えてない。なんでだろう?」

「三つか四つの頃だったから」

「あと残ってないじゃない」

「ひびが入っただけだったから」

「知らなかった。言ってくれないし・・・」


「大丈夫なの?」

「なにが?」

「そんな小さい時に大けがして」

「大丈夫みたいだな。ゆりにも気づかれなかったぐらいだし」

 そう、微笑みかける。


「少し動かしにくい感じがあって、右腕より細いけど、利き腕じゃないからかもしれないし」

「そうなの?」

 ゆりは、真剣な顔で確かめるようにぼくの両腕を触り比べた。

「ほんとだ。左腕が少し細いみたい。なぜ、今まで気づかなかったんだろう?」

「右利きの人はみんなみんなそうなんじゃないかな」


「わたしは違うわよ。触ってみて」

 そう両腕を差し出すゆりに、微笑だけで応えた。

「ほかには?」

「え?」

「ほかに大きなけがしたことないの?大きな病気とか」

「話しておいてよ。今のうちに」

 すねたような頬が子供のようでかわいかった。


 身体をずらして座りゆりに向き直る。その顔に包帯を巻いた左の手のひらをそっと当て、右の目を覆った。ゆりの左目が落ち着きなく動いている。

「今、視力はいくつ?」

「〇・五」

 唇を尖らせて、ゆりは嘘をついた。ぼくはうすく微笑み、自分でも今穏やかな顔をしていることが分かった。


 ゆりの左の目がよく見えてないことに、ぼくも気づいてやれなかった。

「薬のにおいがする」と、少し怒ったようにいい、ぼくの手のひらに両手を添えてゆっくりと下ろした。


 

 三



 その時、はす向かいの座席に座った数人の女子高生がひときわ大きな声を上げた。先ほどから、ちらちらとこちらを見やりながら何かを話していることに気づいていた。

 ゆりも気づいていたようで、振り向き、らしくない目で少しにらみつけた。


「なによあの子」

 そういう声が聞こえた。

 そのまなざしの険しさに少し驚いたぼくに、ゆりは恥ずかしげな顔をしてみせる。

「あの子達、さっきからずっとこっち見ているのよ。失礼だわ」


 それは仕方ないだろう。ぼくとゆりは狭い座席に身体を寄せ合って座り、手を握りあっている。ゆりの顔に手を当てた時、キスでもするかもしれないと期待したのだろう。


「わたし、近頃やな性格なんだ。怒りっぽいし。我慢できないの。どんどんひどくなってる。勉強疲れかな」と、うつむいた。

「息苦しくて、自分でもどうしようもないの」

 消え入りそうな声。

「おれなんか、勉強もしてないけど、ずっとやなやつだぜ」

 そう返すと、ゆりはうれしそうな笑みをぼくにくれた。


 穏やかな表情のまま、ぼくは視線を車窓に流れる外の風景に向ける。

「初めてだね」

「なにが?」

「こんな風に、電車で仲良く帰るの」

「そうだな・・・」

 ゆりは微笑む。ばくは、車窓から差し込む日の光がゆりの肩先にかかる髪を輝かせて眩しく目を細めた。


「もう、着いたね」

 電車がいつもの駅のホームに滑り込み、少し寂しそうな声を聞いた。



 四



 支えられて電車を降りる。うつむいたまま松葉杖をついて歩く。少し後をついてくる、ゆりとの距離を傾いた日差しが作る影で計っていた。

 家まで帰っても、ゆりは抱えたままのぼくの鞄を離さなかった。


 制服の上着を脱いでベッドに座ると、鞄を置いたゆりがいつものように隣にくる。うつむきかげんに少し唇を開き、明らかな動きで身体を寄せてきた。手のひらを重ねてきて、思わずまた振り払いそうになり、ゆりを慄かせた。


「あいつとは、もうつきあってないのか?」

 少しの沈黙の後、ためらいを振り払いそう口にした。いつかは聞くことだったから。

 うつむいたままの、ゆりは何も答えようとしない。


「あいつと、今もつきあってるんじゃないのか?」

「つきあってるわ、今も。セックスだってしてる。優しいし、あの人のほうが好きよ」


 その言葉に、血の気が引くという感触が分かった。心が冷える。やがて四肢が熱くなり、眼差しに怒りがこもる。ゆりの手のひらを乗せた拳を握り締める。口の中でかみ締めた奥歯が鳴った。


「そうか・・・」

「だから、あなたとは今日が最後」

「うん・・・」

 ゆりの手のひらが離れ、怒りに唇を歪めた。


「なぜ、信じるの?」

「つきあっていないと、いくら言っても信じてくれないのに」

「なぜ、わたしがあの人とつきあっているという言葉なら信じるのよッ」

「つきあってないッ。前にも言った!」

「信じないのなら聞かないで」

 噛み付くような言葉に少しひるみ、怨みの眼差しをその目の縁に見た。


「もう、怒ってないと言った」

「・・・怒ってない。でも・・・」

「でも、なによ」

「あいつとつきあってた」


 非難がましいぼくの言葉に振り仰いだゆりは唇を噛み、子供のように手の甲で顔をぬぐった。

「あの人は優しい人よ。わたしがいやな人につきまとわれて困っている時に、頼みもしないのに助けてくれた。それからも、ずっと守ってくれた。だから、デートしたこともある。キスされたこともある。だけど・・・、好きだけど、特別につきあってたわけじゃない」


「普通そういうことをつきあうというだろう?」

「どうして、そんなこと言うのよ」

「だって」


「あなたとつきあっているのに、ほかの人とつきあうわけないじゃないッ」

「あなたとのことも言ってる」

「わたしも悪かった。臆病で、怖かったから、ちゃんとつきあって欲しいと言えなかった。助けて欲しかった時も、ちゃんと言えなかった」

「でも、なおこさんとのことは許せない!」

「わたしがいるのに、なおこさんとつきあった。何も言わずに、わたしを捨てようとした!」

「なにもなかったように。わたしなんかいなかったように。そんなこと、ひどすぎる」


 顔をゆがめ、また少しだけにじり寄ってきた。抱いて欲しいのだと分かる。心に冷たいさざ波が広がる。なぜ素直になれないのか。なぜゆりのひとつの思いさえかなえられないのか。


 混乱しそうな思いの中で、穏やかにと、そう心に念じる。猛る思いを深い海に沈めるように、凪いだ水面を心に描いた。

 そして、少しだけ指を動かした。腕を伸ばし、ゆりの肩を抱きよせた。抱いてみていつも思う。

 細い肩。震えている。


 待っていたように、ゆりはしなだれかかり胸にすがりついてきた。ぼくの背中に腕を回し、強くつかむ。シャツに顔をうずめ、声を殺して泣く。


 高校に入ったばかりの頃、ゆりから先輩に一方的に好意を持たれつきまとわれて困っていると相談されたことがあった。その時は何も気づいてあげられず、「たいへんだなぁ、もてるってのは」と冗談にしてしまっていた。


 鈍感で、気の利かない奴。不器用にもほどがある。気づいた時はいつも手遅れ。なぜあの時、助けを求めていたゆりを分かってやれなかったのか。


 あの時、ゆりは「そうね」と少し困った顔で首をかしげただけで、ぼくはわずらわしいことに関わりあわずにすむことだけに安心していた。


「ごめんな。なおこと、少しつきあった。でも、もうだいぶ前に別れたよ」

「・・・知ってる」

 ぼくの胸に顔をつけたままの、消え入るような声を聞いた。

「何でも知ってるんだな」

 そう笑いかけても、ゆりの涙を止められない。嫌がらせのように胸につけた顔を動かしぼくのシャツで涙をぬぐう。


 ゆりはあいつに、ぼくのことをなんと言ったのだろうか。ゆりにとって、ぼくはどういう存在なのだろうか。ゆりは、ぼくの何を認めているのだろう。あいつより、ぼくはゆりにとって大切な存在であるのだろうか。もしそうだとすれば、それはなぜ?。そんなこと、ぼくに分かりはしない。


 ぼくにとってのゆりは・・・。

 学年一の美少女を恋人にできたなら、同級生は驚き羨ましがりぼくを見直すだろう。妬まれ嫉まれ、ぼくの自尊心は満たされる。僕という存在の価値を知らしめることができる。しかし、ゆりを恋人にしても、同じように同級生からの妬みを受けることはできても、幼なじみという特権を利用したというひけめから、ぼくの自尊心を満たされなかった。

 それよりは、なおこを恋人にすることのほうがぼくに自尊心を抱かせたのだ。


 愚か過ぎると、自分を笑うしかなかった。


 ゆりを、ただそれだけのものとしか考えられないのか。それでもまた、ゆりがあいつよりぼくを選んだことに慰めを見つけている。泣けそうなほどに情けない。しかし、今はそのことを愚かしいと嘆くだけではない。すがりつくように大事に思う。確かなものなど、ぼくには何もないのだから。


人は皆同じ。悩み嘆き悲しむ。呪い恨み妬む。誰もがその思いをそれぞれに抱えている。

 そして、その思いを隠し素知らぬ振りをする知恵と優しさを持っている。


 それなのに、自分だけが特別に何かを知り、より深く苦しみ、よりひどく傷ついていると考えることは傲慢でしかない。そばにいる人のために、思いを胸の奥底に秘め、何事もないように明るく振舞う優しさが近頃のぼくにはあっただろうか。


 まるで自分だけが被害者でもあるかのように勝手に思い込み、悲劇の主人公にでもなったつもりで嘆きに身悶える振りをしていた。誰彼かまわず救いを求め甘えていた。恥じる。悔やむ。ただ感じるまま、思うまま振舞うなら人ではない。


 キスをしてあげたかったのに、ゆりは顔を上げようとしない。

 この腕に抱いてもらいたいと願ってくれる人が一人でもいる喜び。その願いをかなえられる喜び。今、この腕の中には、ゆりの身体がある。


 言わなければいけないと思った。どの言葉がいいか迷った。いまさらとも思った。緊張に舌が乾いて、うまく言葉にしづらかった。

「好きだよ」

「愛してる」

「だから、ちゃんとつきあおう。これからも」

 一度口にすると簡単に言葉はつながった。それは本当に思い、感じ願うことだったから。


 ゆりは、うつむいたまま小さくうなづいただけ。

 言葉が欲しかったのに、何の返事もくれなかった。ただ背に回した腕の指に力をこめる。そして声を上げずに泣き続ける。シャツの胸がぬれて冷たく、ぼくはその髪の匂いをかぎながら、不安定な姿勢でゆりを抱きなだめるように背中をさすり続けていた。


「帰ってるの?」

突然、階下から母の声がして、腕の中のゆりが怯えたように震えて身をすくませた。


「うん。ゆりも来て、勉強してる」

 玄関にはゆりの靴があり、いまさら隠しようもない。ぼくは、平静を装い答えた。


 受験にはでないけれど、大切な勉強中だから、だから今は邪魔しないで。


「コーヒーでも出そうか?」

「うん」

ドアの向こうからの母の声に、落ち着いてそう言葉を返した。


 そして微笑み、「さあ」と腕の中のゆりの身体を引き剥がすように離した。

 やっと、ぼくは不安定な姿勢から開放される。離れた身体の間に空気が入り込み、冷たさを感じた。

 

 うつむいたままのゆりに気づかれないように、抑えた長い息を吐いた。


 ローテーブルを囲んで座り、参考書を拡げる。階段を登る足音にシャープペンシルを持つ。ドアを開く音に、何気なさを装い振り返る。

「ゆりに送ってもらった」

「あら、いつもごめんね」


 いつも?

 泣き顔をうまく隠せていないゆりは、うつむきがちに挨拶する。


「珍しい。勉強してるなんて」

「一応受験生なんでね」

「あら、そうだったわね」

「もう、いいから。邪魔すんなよ」

「はいはい」


 教科書と参考書が散らかったテーブルの隙間にコーヒが置かれ、何気なく見たゆりの手元にひろげられたノートはさかさま。

 ぼくのしわだらけのシャツには、涙の染みがあることに気づく。


「ゆりちゃん。こんな子、ほっといていいからね」

 気づいているのかいないのか。母は明るくそう言うと部屋を出ていった。


 耳をそばだて、母の足音が階下に消えたことを確かめた。

「変に思われたかな・・・」

「その顔じゃあね」

 あわてて鞄から鏡を取り出し覗き込むその目は少し赤く、ぼくの心の古傷をつっついた。

 ハンカチを握り締めたゆりは、コーヒーにも手をつけず時おり止まらない涙を拭い続ける。


「カーム」

ぼくはつぶやく。心にその言葉を念じた。


 できるものなら、いつも穏やかな心でいたいと願う。

 コーヒーカップを口に運んだ。


「え、何?」

「calm。意味分かるだろう?」

「わたしはジェントルのほうがいいな」

 少し辞書をめくった後のゆりの意味ありげなその言葉に、「努力はさせていただきます」と答えて、やっと少し笑わせることができた。


「今から、わたしの部屋に来ない?」

「なんで?」

「母さん、今夜少し遅くなるって」

「おかしいだろ。今からゆりのとこに行くなんて。よけい変に思われる」

「思われてもいいじゃない」


 よくはない。泣き続けるゆりが少しうざかった。

「つまんない。したいのに」

 そのはっきりした言葉に、少しどきりとして戸惑った。

 涙目に見つめられて、少し顎を引いた。


「ごめんなさい。泣き虫ね。わたし」

「うん・・・」

 ぼくは少し考える。

「泣けばいいよ。泣いて楽になれるのなら。別に、恥ずかしいことじゃない」

「ありがとう。優しいね」

 ゆりは微笑み、ぼくは本当に優しいのだろうかといぶかしむ。


「でも、少しずるいな。わたしだけ泣かして」

 そういえば、この前、涙したのはいつのことだったのだろうと考える。それは思い出せないほど遠い日のこと。 

「そばにいってもいい?」

「あぁ」


 断れるはずもない。並んで座り、肩が触れあった瞬間、また緊張して顔を見合わせた。


 息を詰めるゆりをこれ以上泣かせないために、その濡れた頬を手のひらで優しく拭い、顔から力を抜いて穏やかな顔をつくって見せた。唇を合わせ、痛いほどに抱き締めあうとテーブルの上のコーヒーカップが音を立てた。


「だいじょうぶ。明日も母さん遅いから」

 コーヒーカップを取り上げたゆりは、少しだけぼくの肩に体重をかけ続ける。


「それより、ホテルのほうがいいな。今度行ってみたい」

「ホテル?」

「うん。落ち着けるしさ。シャワーも使える」

「高いでしょう?もったいないわ」

「そんなに高くない」

 ゆりは背を伸ばし、少し頭を傾けて首をすくめるぼくを見下ろした。


「・・・らしい」

 なおことデートする時のために、そんな情報を集めていた。

「いったことあるの?」

「ないからさ」

「卒業旅行ならいい」


 卒業旅行でそんなホテルに行くやついるかい?。

「泊まるんじゃないよ。カラオケやゲームもあるらしいし」

「そう」


 気のない返事。受験生らしい会話ではなかった。

 仕方なく参考書を取り上げて目を落としていると、ゆりは肘を引っ張り、ぼくの顔を覗き込む。

「ちゃんと、もう一度キスをして」

 そう、ゆりは、はっきりと言った。

 




 第六章


 一



 次の日の朝、登校するために家を出るとゆりが門のそばで待っていた。

「おはよう」


 その明るい笑顔が少し恥ずかしく、唇をとがらせただけで答えるぼくから、ゆりは素知らぬ振りで鞄を取り上げる。松葉杖をつくぼくの速度にあわせて歩き、小学生の時のように肩を並べて登校した。ぼくの鞄を抱えたまま、教室の席までついてくる。

 当然のようにゆりとぼくの姿はクラスのみんなに見られ、あの噂は確認された。


「あらら、どうしたのかな」

「やっぱり本当だったのか?」

「この嘘つきめッ」

「で、どうなの?やっぱ、いくとこまでいっちゃてるの。君たち?」


 同級生の冷やかしに、ぼくは、「うるさい」と照れ隠しにそう答えただけだった。ゆりは何をいわれてもいつものあの笑顔だったけれど、うなずきで答えていた。


「パン買ってくるから待ってて」

 昼休みには、二人分を買ってきて隣の席に座り並んで食べた。帰りも当然のように一緒だった。


 ゆりの部屋に寄り、その肩を抱いた。制服を脱い

だ。避妊具を使った。


 ゆりは、何も嫌がらなかった。ぼくの身体をかばい、優しく動いた。久しぶりのセックスは、すごく快感に思えた。ゆりが喜ぶことが感じられ、そのことが快感に思えた。ゆりとぼくとの身体の動きが合うことが嬉しかった。


 身体を離したゆりは、ぼくにキスをして笑った。そして、ゆりのベットで、少し一緒に眠った。

 

 その日から、ぼくとゆりは教室でどのクラスにでもいる恋人同士のように振るまった。ぼくはまだなおこの目が少し気になっていたけど、ゆりは平気のように見えた。それどころか、周りの皆に見せつけるかのようだった。


 不思議なもので、この二人の意思表示に、今までぼくに興味を示さなかった女の子までが話しかけたりしてきてゆりの注意をかった。ゆりは激しく反応し不必要につきまとう。


 ゆりの行為はまるで動物のマーキング行為みたいなもので、どこのクラスにもいる少しはた迷惑な恋人同士がしていることと一緒だった。


 しかし、今はそのことも必要なことに思える。秘密の恋なんて勝手で卑怯なだけで、いらぬいさかいの種をまくだけのことだ。

 相手への責任、また回りの皆への責任として、はっきりとその意志と関係を示すべきだった。


 ぼくも、その行為をしなければならないと思った。ゆりの愛を感じゆりへの愛をその耳元にささやくだけでは、その責任を果たしているとはいえなかった。


 二人だけで生きているわけではない。ぼくらは家庭や学校で共同生活していたのだ。必要なことはしなければならない。そして、ぼくのマーキング行為は簡単だった。


 休み時間にトコトコと松葉杖をついて歩き、同級生と話しているゆりに百円玉を差し出して、「ゆり、ジュース買ってきて」と言うだけでよかった。


 同級生の前で話しかけたりしたことはなく、ましてや教室で「ゆり」と名前を呼び特別な関係をうかがわせるような行為をするのは初めてだった。


 少し驚き、そして少し不満そうに唇を尖らせて、「しかたないか」とゆりは立ち上がる。うれしさを隠せないその笑顔は、ぼくに安堵と羞恥が入り混じった複雑な感情を抱かせたが、少しうざったくもあった。ぼくの行為に囃し立てるかのようにざわめく同級生に、不機嫌な一瞥を投げかけた。


「席、変わってもらおうか?」

「うん?」

 隣の席に座り、ゆりは紙コップに入ったコーラを差し出す。

「近くにさ」

「それだけはご勘弁ください」と、頭を下げた。


 そして回りの一時のにぎやかさが収まると、ぼくとゆりの中はクラスの中で公認された。


 優しさの無関心さが払われ、ゆりとの間に不思議な自由さがかもし出されていた。自然に人前でゆりの名が呼べた。ゆりもぼくの名を呼ぶ。


 二人だけのテリトリーというかサンクチュアリだかができたような感触・・・。


 また噂が流れているらしかった。

 ゆりに失恋したぼくがやけになり自殺しようとして事故したらしいと。それを、みかねたゆりが憐れんでつきあってくれているのだと・・・。

 ぼくは、否定しなかった。


 そしてまた、前のようにゆりを抱くようになった。ゆりは、ぼくとのセックスに少し慣れた。セックスの時、少し笑うようになった。少しだけ、ぼくはゆりに優しくできるようになったのかもしれない。


 ぼくは、ゆりに好きだと言った。それは、本当に思っていたことだった。今までも、そして今も・・・。

 ゆりも、ぼくを好きだと言ってくれた。

 確認するように何度も言った。何度もその言葉への答えを求めた。


 秋になり、ゆりは陸上部を卒業した。ゆりに自由な時間が増え、ぼくとゆりは同年代の恋人達と同じように二人で遊びに出かけるようになっていた。


 

 二



 ゆりに誘われ、放課後に第三校舎の屋上にも行った。


 そこは新学期には噂を聞きつけた新入生が鈴なりになって覗きにくるところであり、三角関係のトラブルや、何かに興奮して侵入してきた生徒がやたらと走り回るという椿事がときどき発生するという問題の場所だった。


 明るいクリーム色に塗られた天井と壁。幅広の廊下には、沈みかけた西日が射し込んでいる。

 第三校舎の最上階には視聴覚教室や実験室が並んでおり、休み時間にさえ人影は少なく、特に放課後は静寂が支配していた。


 しかしよく見ると廊下の片隅や屋上に続く階段の踊り場には人待ち顔の生徒が身を潜めていて、その前を通ることは結構勇気がいることだった。少し前を歩いていたゆりが、階段の踊り場の手すりに手をやってぼくを振り返る。そして、二人並んで屋上への階段を登った。


 「午後七時以降閉鎖」と書かれた色あせた紙が張られた重い鉄製のドアの向こうにあったのは、コンクリートの床がむき出しのありふれた屋上だった。


 ただ、そこにいるのは当然のように制服姿のカップルばかり。コンクリート製の厚い手すり沿いに二メートルほどの均等な間隔をおいてずらりと並んでいる。


 そればかりか、屋上の中心部には、膝を並べて座りこんでいるカップルや膝枕で寝ているカップルまでいる。


 そして、どのカップルも当然のように距離零で身体を寄せ合っているわけで、「フウン」と、ぼくはあきれて鼻で笑うしかなかった。隣のゆりも驚いたように息を呑んでいる。


「まぁ、話には聞いていたけど、マジで目にすると驚くな」

「ほんと」

「ゆりも初めて?」

「そうよ」と、少し怒ったように。


「忘れてるでしょうけど、一年の時、行ってみないと誘ったのに無視したのよ」

「そうだったかな」

 ゆりは少し唇を尖らせてぼくの腕を取る。


 知り合いの子がいたらしく、胸の前で小さく手を振って合図した。


 一組のカップルが手すりから離れた後に滑り込み、ぼくは手すりを背にして屋上を見回した。

「えー、報告します。ただいまキス実行中二組。なにやらトラブル中一組といったところです」

「やめなさいよ。趣味悪いわ」


 少し頭をかき、ふと見た向こう側で、緊張した顔つきで今にもキスしようとしている男子生徒が同じクラスの同級生であることに気づいてあわてて視線を背けた。


 ここでは、身体を寄せ合い見つめあいながら静かな会話をするか、軽いキスをするのが主流のようだ。

 それもそのはずで、少しでも視線をそらせばほかのカップルの光景がいやでも目に入るわけで、自分の相手から視線を外すのはある意味難しい。


「やれやれ」

 ゆりと肩を並べ、手すりに肘をついて街並みを見下ろす。陽は半ばを街並みに隠し、赤くくすんだ弱い日差しの中を下校の制服の列が長く駅へと続いている。

 

「しかし、よくこんなとこでキスなんてできるよな」

「好きならできるんじゃない」

「ぼくには無理です」と、早めに断言した。


「根性ないの」と、笑うゆりのお尻をスカートの上から触った。

「こら」

「うむう。学校で堂々とゆりのお尻を触れるところがあるとは思わなかったな」

「ばか。声大きいわよ」

 制服の胸にいたずらな目をやると、危険を察知したゆりが「そこはだめよ」といって両手で覆う。


 こんな悪ふざけをしているのぼくたちだけらしく、左隣の一年生同士らしい小柄なカップルの男の子が驚いた目でこちらを見ていた。ぼくはそっとウィンクをしてみせる。ゆりの背に手を回し抱き寄せた。ゆりは嫌がらない。


「ここでは、どこまで許されるんだ?」

 閉鎖時間を記したドアの張り紙には、薄く汚い文字で「セックス禁止」と落書きされていた。


「人に迷惑にならないまでじゃない」

 ゆりは素知らぬ顔で答えるが、左隣の一年生カップルは初めてらしく、女の子がキスを嫌がっている。右隣のカップルは見知らぬ顔だけど、かなり慣れている様子なので二年生だろうか。手すりに置いてある手にお互いの手を重ねて見つめあい身じろぎもしない。というか、生きているのかどうだか疑いたくなるほど二人とも身動きもせず会話もない。それぞれ、左右二メートルの距離。少し視線を動かすだけで、いやでも視界に入る。


「こんなのが視界に入るだけで、十分迷惑なんだけどな」

 ゆりの耳元で左右に目を動かしてささやいた。

「我慢しなさい。なかなか恋人同士が安全に話ができる場所ってないんだから」


 それはそうだった。週末の公園なんか、数メートルおきにカップルが並ぶなんてよくあることだし、人気の減った深夜なんかは危険過ぎて近寄れない。


 なおことデートする時は、何時どこでキスするか思い悩んだものだ。 


「まぁ、なんだな。あんまり新鮮なカップルじゃないね。おれたち」

「ほんと。なんででしょうね。ちゃんとつきあい始めてまだ一カ月もたってないんですけど」

 手すりに頬杖をつきいたずらっぽく笑う。


「そういや、お前また変な噂流してないだろうな」

「なによ、またって」

 ゆりが顔を赤くして怒る。

「いや、なんかさ、おれたちが婚約したって」

 そんな噂を誰が流しているのか。物好きなことで。

「そんな噂流すわけないじゃない。でも、まあいいよね。公認なんだし」


 よくはない。誰が公認してくれと頼んだよ。

 ついに左隣のカップルがキスに持ち込めたようで。慣れてないのか、隣で覗き見ていてもすごい勢い。

「かわいそうにあの女の子。あんなに吸われちゃ唇はれるわ」

 キスの音がして、ちらと見たゆりがあきれたように小声でささやく。

「注意してやれよ」

「なんて?」

「もっと練習してからこいって」

 顔を寄せ合い二人で笑った。

「そういや、ゆりには貸しがあるんだ。今度おごるんだぞ」


 この前、ゆりの部屋に行った時のことだった。遅くなるはずのゆりの母親が突然帰ってきた。その日、ゆりはセックスはだめな日だとぼくに言っていて、二人で音楽を聞きながら受験する大学の相談をしていた。


 ゆりの母親の顔を見ることさえ数年ぶりのことだった。ぼくがゆりの部屋にいることに驚きも見せず笑顔をくれ、ぼくも普通に挨拶を返した。夕食に誘われ、学校や進路のことなどとりとめのない話をした。笑顔をつくりゆりの母親に気に入られようとした。ほんの数ヶ月前までのぼくなら、たぶん我慢できず逃げ出していただろう。ゆりに対する責任感から浮きそうになる腰を落ち着かせて我慢していたけれど、ただ、ときおりとがめる視線を送ることは止められなかったわけで、その度にゆりは気まづそうに視線を泳がせていた。

「ごめんね。ごめんね」

 家に帰るぼくを見送るゆりは、小さな声でそう何回も繰り返していた。


「今度、ゆりのおごりでホテルに行こう」

「またそんなこと言って」

「だって、ゆりの家は危ないしな」

 ぼくの軽い嫌味に、ゆりは唇を尖らせる。

「映画ならいい。おごるわ」

「映画二人分のお金でホテルにいけるから」

「しつこいなぁ」

 左隣のカップルの女の子が泣いてしまった。キスがしつこいからだよ。


 ゆりは、手すりの上に置いた手の甲に顎をのせ、少し物思う顔をして見せる。

「家を出る気持ちに変わりはないの?」

「ああ、そうだよ」

 この前からもめている話だった。

「家からでも大学行けるのに」

 予備校も行けるけどね。

「もう大人だから。いつまでも親といるのはよくない」

「おばさんたち悲しむよ。あんなに優しいのに」

「関係ないよ」


 親の優しさは分かっている。愛してくれていることも分かっている。愛され可愛いがられた記憶が暖かく残っている。でも、いつまでも可愛いがられるだけの存在ではない。


「冷たいな」

 非難のまなざしが、少し痛い。

「そうかもな。でも、家にいれば息がつまるんだよ。親と話はしないしさ。家にいても部屋に引きこもり状態だから」

「どうして?」

「そういう年頃なのでしょう」

「変なの」

「そうかな」

 ぼくには、家を出ることが当たり前のことで当然のように思えていた。 

「わたしは無理。家を出るの。母さんを置いていけない」

「ゆりの好きにすればいい」

 ぼくはそう言いきった。


 それはゆりにしか決められないことだ。寂しげに、ゆりは手すりに置いた腕の中に顔を埋める。


「親は親。子は子だと思う。親はこれまで自分の人生を生きてきた。これからもぼくらとは違う人生を生きていくと思う。親と子供は違うんだ。うちの親が二十歳の時、ぼくはいない。ぼくが二十歳の時、親は四十歳以上。今、同じ家で生活していても、違う時代、違う世界を生きている。子供がいようといまいと親は自分の人生を生きていくと思う。だから、無理する必要はない。どちらかが相手の犠牲になるなんて考えるのはおかしいこと。お互い自分の望むことを、できることをすればいい」


「だから、ゆりも自分が思うようにすればいい」

「そうね・・・」

「ぼくが一人前の大人というには無理かもしれない。仕事もない。お金もない。でも、もう子供というには無理があるだろう?。だから自立がしたい。一人で生きてみたい。親の側から離れたいんだ。すぐには無理かもしれない。でも、そう思う気持ちは変わりはしない」

「でもね、そういうとこが子供みたい。本当に大人なら、親と一緒でも離れていても同じでいられるはずよ」


「そうだな。そのとおりかもしれない。でも、ぼくは違う。このままではいけない気がする。家を出て一人で生活する過程が必要だと思う」

「そうしないと立派な大人になれないの?」

 ゆりは少し笑う。

「どちらにしても、大したものにはなれないと思うけどさ。でも、親離れの本能ってやつかな」

「大人ぶっちゃて」

 手すりから身を乗り出して、ゆりが夕闇が迫る地上を見下ろした。


「勝手すぎるわ」

「そうかな?」

「いつもそうよ」


「いつも自分だけ・・・」

「なにかつまんないな。けがしてた時のほうがよかったな」


「どうして?」

「どうしても」

「変なの」


寂しげに顔をそむけたままのゆりの肩をそっと抱き寄せる。泣いてはいない。


 無理はしない。できるだけ誰も傷つけたくない。穏やかな心で、余裕を持ち人と接したい。その気持ちを汲み取り、できるだけ答えてあげたい。うまくはできないのだろうけど、努力はしたい。そう思えるようになっていた。


 顔を覗き込み、顎を上げさせそっとキスをした。唇と唇がこすれあうだけ。ゆりは小さな声を漏らし、少し悔しげに唇を噛んだ。

「女の子の扱い方、少しはうまくなったかな?」

 キスもうまくなったかな?

「あまり、うまくならなくていい」

 うつむいたまま、そう口にする。

 そうですか。むずかしいものだね。

 抱いたままの肩を離さない。


 いつも、ゆりとつながっていたいと思う。それはセックスするとかキスするとかという行為ではなく、ましてや精神的なつながりでもない。ただ、指先だけでもいいから触れ合っていたい。肉体的にその存在を感じていたい。

 その肌の暖かさ。息づかい。


 今度は、長いキスをした。隣の一年生はぼくのまねをして、少しぎこちなさげに優しく女の子の肩を抱き慰めている。その困った瞳と目が合い、もう一度ウインクをして見せた。


 少しは参考になっただろうか・・・。

 ゆりの背にかかる髪先を指先でもてあそぶ。落ち着いた闇の香りが空から舞い降りて光は弱まり、キスをしているカップルの数はいつの間にか増えていた。



 三



 冬が近づき、受験という最大のイベントを間近にして、休み時間の教室のあわただしさは一掃増していたけれど、ぼくは相変わらずの素知らぬ顔で孤高を装っていた。

 しかし、前よりは同級生と話をするようになっていた。少しずつ、受験のためだけの勉強を始めていた。


「今日、早退しない?」

 机に頬杖をついているぼくの前の席に窓を背にして座り、一つ伸びをして見せたゆりがそう誘った。

「どうして?」


「午後の授業、受験に関係ないし。退屈だから」

「少しは息抜きも必要よ」

「息抜きばかりの人には関係のない話だけどね」

 白い歯を見せる、その明るい笑顔が眩しく大切に思えた。


「どこに行こう?」

「海がいいけど・・・」

 ゆりの視線に合わせ空を振り仰いだけど、暑く雲に覆われて今にも雨が降ってきそうだった。

「天気も悪いし、海に行くほどお金ないな」

「水族館でもいいよ」

 そう意地悪げに顔を覗き込んでくる。

「だから、お金ないって」


「仕方ないな。じゃ、いつものとこに行こう」

「いつものとこ?」

「そうよ」

 ゆりは、含み笑いをした。



 四



 いつもの駅から、ゆりを自転車の後ろに乗せて走る。

 駅裏からガードをくぐり、坂を下り住宅街の路地裏を抜けて川沿いの細い道へ。


 コスモスの咲く川岸を遡るとやがて人家も消えてなくなり、山間に田畑だけが広がる光景が続くようになる。

「こんなことに連れてきて、どうするつもり?」

「いつものところって言ったじゃないか」

 早退した時、時間つぶしによく来ていたところだった。


 いいところは、人気の少ないことだけ。なにもありはしない。いつもは時間がありすぎるほどなので、自転車が倒れそうなくらいのゆっくりとしたスピードで来るのだけれど、二人乗りでその速度は無理だった。


 谷沿いの道を途切れるまで登り、せいたかあわだちそうとススキが生い茂る川原に下りた。ぼくは水辺の大き目の石を選んで座り込み、少し考え込むように水面を見た。

 緩やかに流れる川面を見やっても、いつものように落ち着かきはしない。


 こんなことをしている場合かと、誰かがぼくを責め急きたてる。ゆりと二人でいても、そのことに変わりはなかった。


「一人でこんなとこに来てたんだ」

「あぁ。つまらないとこだけど、ほかに行くとこないしね」

「でも、静かなとこね」

 孤独の哀れさを味わうには、いいところだった。


 しかし、二人でいても寂しさと切なさに変わりはないのはなぜだろうか。


「おじさんたち、わたしのこと何か言ってた?」

「何かって?」

「わたしたちがつきあっていることで」

「別に。何も言ってない。どうかしたのか?」

「なにか、この前、あまり歓迎されてないようだった」


「そうだな・・・」

「やっぱり、そうなんだ」

 川辺に、膝を抱えて座り込むゆりが小さくなった。


 数日前、ぼくの部屋で一緒に勉強していたゆりに母親は夕食を一緒に食べて帰るように勧め、戸惑ったゆりのまなざしに、ぼくは小さくうなずいて答えていた。


 その日は父も早く帰ってきて、ぼくの家でゆりがぼくの家族と食事をするのは小学生の時以来だった。話すのは母とゆりだけで、ぼくも父も気まずそうに押し黙っていた。


 夏休み、なおことデートしていた時、街でたまたま父と出会っていた。その時、ぼくは悪びれもせずなおこを紹介し、デート代をせびったものだった。

「可愛い子じゃないか」

 その時、父は言葉少なくそう言っただけだった。


「ゆりのせいじゃない。ただ・・・」

「ろくに学校も行かずに、受験勉強もしないでぶらぶらしているくせに彼女だけはしっかりつくって認めてくれなんて、十年早いらしいよ」と、振り向くゆりに笑いかける。

「あまりうれしげでないのも無理はないさ」

「・・・そうね」

 嘘だった。

 納得した顔も見せず、ゆりはまた足元の水面を覗き込む。


「この前の子はどうしたんだ?」

「振られたよ」

 ゆりが帰った後で聞かれたぼくは、少し頭をかいてそう答えていた。父との会話らしい会話は、数ヶ月ぶりのことだった。

「それで、今、ゆりちゃんとつきあっているのか?」

「あぁ」

「全く・・・。勉強はろくにしないくせに」

「まぁ、そういうことで」

「お前も、もう子供じゃないんだから、つきあう人がいてもいいだろう。しかし、ゆりちゃんには、お前は合わない気がする。ゆりちゃんには、もっと優しい人がいいんじゃないか?」

 どうせ、俺は優しくはないさと頬を歪めた。


「お前は、ゆりちゃんに甘えすぎていないか?。ゆりちゃんはお前の姉でも妹でもない。つきあうなら、気をつけて、大事にしないと取り返しがつかなくなるぞ」

 もう、遅いんだけどな。

 そばで聞いていた母も、父の言葉に同意するかのように何も言わない。

「・・・分かった」

「子供の頃から、お前たち二人は、勝手なことばかりして、あぶなかしくて見ていられなかった」


 そうなの。

 信用なかったんだね、俺たち。


「本気でつきあってると言ってる。そして、うちの親が、賛成しようが反対しようが関係ない」

「うん・・・」

 あまり納得したようでもなく、ゆりはなかなか顔を上げようとしなかった。


 この前の休日だった。ゆりの母親が会社の研修旅行に行くということで、ぼくに寂しいから泊まりに来てと誘われ、友達の家に泊まると親に言ってゆりの家に行っていた。二人だけの静かな家の中で映画を見て、少し勉強をして、ゆりの作った料理を食べるままごとの延長のような時間を過ごした。当然のように何度も愛し合った。


「ほかの人に、こんなことをしちゃだめ」

 夜。灯りを消したゆりのベッドで抱き合ったまま眠りに落ちようとした時、突然ゆりにそう言われていた。


「嫌だった?」

 優しくしたつもりだった。ゆりは何も嫌がらなかったのに。

「違う。そうじゃない」

「そういうことじゃない」

「ほかの人には、絶対だめ」


「許さないから」

「分かった・・・」

 うつむいたままのゆりが、ぼくの言葉を信じていないことが分かっていた。

 暗闇の中、ゆりは瞳を光らせてその髪先をもてあそぶぼくの指先を見つめていた。


「小さな頃ね、ある朝、目を覚ますとお父さんはいなくなっていた。母さんと二人で家中探したけど・・・いなかった」


「そして、もう帰ってこなかった・・・」

「あんなことは、もういや。だから、もし私を嫌いになったら、ちゃんと言って欲しい。勝手にいなくならないで。それだけは約束して」

「うん」

 ぼくは約束した。こんなぼくにも、破ってはいけない約束があることは分かる。

 そしてその夜は、カーテンに朝日が射し込むまで眠りはしなかった。


 川辺に、少し寒げに背を丸めてしゃがみこむ、ゆりは一つ小さな石を広い水面に投げた。小さな波紋が広がり、流されながら消えていくのを見やるぼくの顔を覗き込み大きく舌を見せて笑顔を見せた。そして、翳りを吹き消して立ち上がった。


 川面からの風に腕を広げる。ボタンを外したジャケットが風を受けて受けて翼のように広がった。

 風に向かい微笑みながら、少しうつ向きがちに歩く。


 そんな翼で飛べるものか。

顔を上げ、ゆりは曇った空を仰いだ。


「帰ろう」

 雨音が聞こえた。

 振り返ると、雨粒の白いカーテンが蒼い山嶺を越えようとしている。湿った重い風が川面を波立たせる。

「また来ようね」

冬を思わせる冷たい風が谷沿いに吹き下り、灰色の空を背に立つゆりの髪をそよがせた。



第7章


 一



 冬の夜。

 一人の部屋は耐えられないぐらい寒く凍えていた。

 久しぶりに帰省したぼくの部屋には見慣れぬたんすが置かれ、中には母の服が並んでいた。

 空のベットに何もない机。引越しの度に送りつけた本を抱え込んだ本棚だけが重そうに壁際にたたずんでいる。


 ぼくは寒さをこらえながら、本棚の背表紙に目をやり昔読んだ本のタイトルを懐かしんだ。

 その数冊を手に取り、昔のようにベットにもたれて座り込み足を投げ出すと、目の前にはいつかの制服姿のゆりが見えるようだ。


 ローテーブルに屈みこむように向かい、参考書を時おり開きながら小さく几帳面な字が並ぶノートを作っていた。テーブルの上についた制服の肘と袖先。頬にかかる髪。


 ぼくは本を読む振りをしながらその姿に見とれていた。そして時おり、少しだけ指先を伸ばして触れる。ゆりは微笑を返すだけ。その喜びと安らぎの確認行為。


 あれから、もう何年もの月日が経っていたけれど、驚くほど、ぼくは何も変わっていない。


 相変わらず、胸の中の欲望と衝動に突き動かされ不安定で自信もなく怯えている。いつも何かへの怒りを抱いて猛りに駆られて。そして自分にさえも他人のように冷徹に自省的。結婚し、就職し、子供さえいるのに、ぼく自身はあの頃のままで何が変わったというのだろう。


 久しぶりの生まれた町で変わっていたことは、町が小さくなっていたこと。毎日通った学校や駅が、あの頃はとても遠くに思えていたのに、今では車でわずか数分で通り過ぎてしまうほどの距離でしかない。


 この小さな町さえ巨大な迷路のように思えていたあの頃は、大人にさえなればぼくは変わり、もっと自信を持ち迷うことなく楽に生きれるようになるものだと思っていた。


 それなのに。

 少しつらかった。


 今でも何もかも捨てどこかに逃げ出して楽になりたいと思っている。

 このまま、死ぬまで変わらずこの思い苛まれ生き続けねばならないのだろうか。


「帰れるから、旅は楽しいのであり・・・」

 あの頃好きだった詩の一節を思い出す。


 いつかは、そしていつでも、明かりの灯る家に帰るように死ねるのだから、無理に急ぐことなくこの旅を楽しもう。

 

 頬から力を抜いて、尖りそうになる肩先の力を緩めよう。めまぐるしく過ぎる日々の中で、季節は移ろいのように消え去り、何をなしたのか、何をなすべきであったのかさえ今はもう定かではない。



 二



 高校を卒業してからも、ぼくとゆりとの関係は続いていた。


 ゆりは現役で大学に進学し、四年で卒業した。


 ぼくは一年浪人した後なんとか大学に入学し、家を出て一人暮らしを始めたけれども相変わらずで、大学にもほとんど行かず二年で中退していた。


 一人で暮らしているだけに生活は堕落し、アパートの部屋に引きこもっていた。時おり最低の生活費をアルバイトで稼ぐだけ。生活はすさみ身体は疲れ心は病んでいた。


 大学生になったゆりは痩せ、また細くなった。二十歳の頃、髪を短く切った。どう見ても魅力的で立派な大人の女性で、ぼくとは大違いだった。


 ゆりとの関係は高校生の時と基本的には同じであったけれど、ぼくはより投げやりだった。そしてより陰険で残忍になっていた。

 そんなぼくにゆりは傷つき泣き怒り笑ったけれど、どこか少し距離を置いて余裕を持ってぼくをあしらった。


 大学を卒業を控えたゆりは、就職のため一生懸命勉強し、いくつもの会社訪問を繰り返したりしたけれど、なかなか就職先は見つからなかった。


 苦労してやっと一社の内定をもらったけれど、その時ゆりは妊娠してしまっていた。入社早々、出産のための休暇なんてもらえやしない。ゆりは就職をあきらめた。


 ゆりの妊娠を知らされた時、ぼくは堕ろせとは言わなかった。

 言える立場でもなかった。ゆりののっぺりとしたおなかにぼくの種を宿したいという欲望は年を経るごとに強さを増しており、そして生活態度と同じく、避妊も投げやりでおろそかになっていた。


「産むよ。わたしひとりで育てる。わたしも、母さんと二人だけだったし」


 戸惑うだけのぼくに、迷いもためらいも見せず、凛としてゆりはそう言った。

 妊娠を知ったうちの親もゆりの母親も、まるでぼくなどいないように話を進め、子供は双方の親が援助し育てるということこまで勝手に話は進んでいた。


 ぼくは浪人までさせてもらい大学に行かせてもらっていたのに、誰にも相談せずに勝手に退学し就職する素振りさえ見せなかった。


 心配した親が苦労して就職先を見つけてくれてきたけれど、ぼくは冷たく笑って無視していたのだ。


 見捨てられて当然だろう。


 しかしぼくだって、いつまでもこのままでいられると思っていたわけではなかった。

 モラトリアムは一時だけのものであることは分かっていた。


 そのための準備も始めていた。

 普通の会社では、入社試験を受けることさえ難しい。公務員試験なら、勉強さえすれば何とかなるかもしれない。ぼくはゆりが使っていた公務員試験の案内書と参考書から自分が受かりそうな試験を探し出し、生まれて始めて真剣に勉強した。試験内容を分析し、傾向と対策を考え合格の方策を練った。そして、なんとか大卒程度の試験に合格し採用されることになったけれど、給料は安く、赴任先は遠い地方だった。


 ぼくはゆりの家に行き、つわりに伏せるゆりに結婚の申し込みをした。ぼくと一緒に家を出てくれるように頼んだ。断られるとは思わなかったけれど、心の中の不安を隠すために不機嫌を装っていた。もし断られるようなら、ぼくはゆりとゆりの母親にお下座をしてでも頼み込んでいただろうか。もしかしたら、暴れだし何もかも破壊しゆりを傷つけようとしたかもしれない。


 ぼくの怯えに、「相変わらず、ずるいな」と、 ゆりは少しの笑顔でそう言っただけだった。


 ゆりの母親は「そうしなさい」と言ってくれた。


 ゆりと両親に話をしにくと、父親は「お前の言うことは信用できない。お前はあてにならない。ゆりちゃんと子供は俺たちが面倒を見る」と怒った。


 その通りだと思った。

「自信はない」と僕は言った。

「でも、ぼくはゆりと一緒にいたいし、ゆりも来てくる言っている」

「やってみる」

「もし、ぼくがだめになったら、その時はお願いするよ」


 ぼくは、やっぱりずるかった。


 簡単な式を挙げ、ゆりは家を出た。ぼくと、誰も知る人のいない町に一緒に行ってくれた。


 やっと入学できた大学を勝手にやめてしまったことで、父は寂しい思いをしていたのだろう。

 実はぼくの就職を一番喜んでくれ、会社で少し自慢をしたらしかった。それは、ぼくが恥ずかしくなるほどだった。


 母はまだ疑い、いつまで持つのかといぶかしんでいた。それも当然で、ぼく自身さえ仕事を長続きできるか自信はなかった。


「大丈夫よ」

 なぜか自信ありげで落ち着いていたのは、ゆりとゆりの母親だけだった。


 そして今、自分でも驚くほどに、ぼくは普通に働いている。


 平日は毎日朝起きて、仕事に行っている。

 そして、まじめに働いている。

 それはもちろん当たり前のことであるけれど、就職するまでのぼくにとってはできそうもないことだった。


 今のぼくは、今の職場で十分に近い仕事ができているものと思っていて、また他の仕事でもそれなりにできるという自信をもてていた。

 家庭と仕事という安定を得ていた。


 しかしそれは表面的なことだけで、ぼくは相変わらず壊れかけの飛行機の不安定さでしかなく、少しでも操縦を誤るならすぐにコントロールを失って墜落してしまいそうな危なさを持っていた。


 しかし大丈夫。いつでも帰れるのだから。無理にあせる必要はない。


 そう思うことで、ぼくは旅を続けられる。

 無理に強張って固く操縦桿を握り締め続ける必要はないのだ。

 たまには息をつき、翼を捉える風の音に耳を傾ける余裕を思い出したい。



 三




「風邪引くよ」

「起きたのか?」

「どこ行ったのかと思った。眠れないの?」

 パジャマ姿のゆりは、いつかのように隣に肩を並べて座り込む。あの時と同じように、不安げで落ち着かない素振り。昨夜はゆりの母に子供を預けて、ゆりのベットで二人眠ったのに、ぼくの部屋には入ることさえ嫌がった。


「なぜか、この部屋での楽しいことを思い出せないの。変ね」

 ゆりは、そう言う。


 ぼくがこの家を出た日、手伝いに来たゆりはアルバムや卒業写真が捨てられようとしていることに気づいて驚いていた。

「なぜ捨てるの?」

「もう、いらないんだ」

「なぜ?」

 ぼくは薄く笑うことで答えるしかなかった。

「なぜだろうね」

「私がもらう」

「だめだよ。捨てたいんだ」


 ゆりには分からないこと。無表情のままのぼくの中の怒りを察したゆりは怯えたまま立ち尽くしていた。


 あれから、もう何年経ったことだろう。

 隣で少し寒そうにゆりは震えている。

「先に寝てれば?」

「やだ」

「なんだよ、それ」

 もたれかかり、少しだけ体重をかけ続ける。その肩を抱くと、ゆりはやっと顔を上げ微笑を見せた。ぼくは、その目を覗き込む。


 あれは、ゆりの眼帯の取れた日の朝だった。

 いつものように一緒に登校していると、ゆりはいきなりランドセルを弾ませて走り出し、昨日と同じ公園の片隅にしゃがみこんだ。そして、手のひらを差し上げておいでおいでをするように手を動かしてぼくを呼んだ。


「どうしたの?」

「こっちにきて」

「なに?」

「しゃがんで」

 昨日と同じように、ぼくはゆりの前にしゃがみこむ。

「ママに眼帯とられちゃった」

 幼いゆりは不満そうに唇を尖らせた。


「もう治ったからしちゃだめだって」

「いいじゃない、治ったんだから」

「でも、なんかつまらない」

 そういって額をぼくの額にくっつける。

「ゆりの目を見て」

 しゃがみこんだぼくの両肩にゆりは手を置いた。大きな丸い目がぼくの目を覗き込み、くるくる動いている。

「ゆりの目きれいになった?」

「うん。きれいだよ」

 そう答えるとうれしそうに口を開いて笑う。

「目を閉じて」

「なんで」

「なんでも。早く」

 目を閉じると、ゆりはぼくの唇にキスをした。驚いて目を開くぼくに笑いかける。ぼくもつられて笑った。

「ゆりのこと好き?」

「うん。好きだよ」

「ゆりも。ずっと仲良くしようね」

「うん」

「さ、行こ」

 手をつなぎ、笑いながら走って登校したあの日。


 あの時の喜びは今もぼくを慰める。

 ぼくの肩に置かれた幼い頃のゆりの小さな手のひらの感触。柔らかくすべすべで暖かなゆりの服。


 あの頃は幸せだったろうか。何の不安も怯えもなかったろうか。それは違う。あの頃も友達との関係や学校の成績などのことが不安で悩み苦しんでいた。ゆりのことでも、ささいなことで嫌われるのではないかと恐れ、誰かに取られそうで怯えていた。


 今と同じ。ぼくはとても弱い人間なのだろうか。ほかの人は、もっと力強く逞しく生きているように思えるのに。


 今も、ゆりの手のひらがなだめるかのようにぼくの肩や腕をなでさする。穏やかなまなざしを向けると、うすく微笑みを返した。


「ほら、目を覚ましたじゃないか。泣いてるよ」

 隣の部屋で赤子の泣く声が聞こえた。

「うん・・・」

「あやしにいけよ」

「一緒に・・・」


 当たり前のように、ゆりはむずがる子供をぼくに抱かせる。小さな腕に首を抱かれ、泣き濡れた頬が肩に押しつけられる。肩に乗せられたその小さな腕の感触が、懐かしい記憶を思い起こさせぼくを和ませる。

 

 泣いた子供が少し寝ぼけたままで笑い、ぼくも笑った。

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いつのまにかぼくらは テカムゼ @tekamuze

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