雨傘の旅路

きさらぎみやび

雨傘の旅路

 梅雨の合間、どうにか雨粒が落ちてくるのをこらえているような曇り空の日。昨夜の雨であちこちに出来た水たまりを、スカートに飛沫しぶきが撥ねないように避けながら私は学校へ向かう。通学路の途中、黄色い帽子をかぶった小学生の集団とすれ違った。


 彼らは水たまりをものともせずに勢いよくカラフルな長靴で突破していく。

 午後からの雨予報に備えてか、手には黄色い傘を握りしめている。


 私も小学生の時は長靴をはいてわざわざ水たまりに踏み込んでいき、水に包まれているのに足が濡れないのが面白くて、何度もそこで足踏みをしていたと思う。手には傘。そういえばとても大事にしていたお気に入りの傘があった気がする。


 薄い水玉模様の赤い傘。ちょっと透けていて、雨の中を歩いているときに上を見上げると、弾かれた雨粒がビニールの上でダンスをしているように跳ね回っていた。



 あの傘はどこへいったんだろうか。



 夕方からは予報通りの雨だった。

 折り畳み傘を広げて校門を抜け、家路を急ぐ。


 私はしとど降る雨の中を歩きながら、あのお気に入りの傘のことを思い出そうとしていた。


 初めて自分の好みで選んだ傘だったと思う。

 売り場に並んだ色とりどりの傘の中で、それはひときわ輝いて見えた。

 てっきりキャラクターものを選ぶと思っていた両親が、わたしがその傘を選んだ時に驚いた顔だったのを覚えている。子ども心にもちょっと大人びたデザインだったように思う。


 家に帰ってきてから母親に、ねえ、覚えてる?と言ってあの赤い傘のことを尋ねてみる。母親は頬に人差し指を当てながらちょっと右上を見上げて記憶を辿る。


「そうそう、確かに持っていたわね。ずいぶんとお気に入りだったみたいだけど」

「その傘ってどうしたんだっけ」

「あら、あなた覚えていないの?風の強い日に橋の上から飛ばされて川に落ちちゃったんじゃない」


 言われて私は思い出した。風が強く吹く雨の日に、母親から雨合羽を着るように言われてもかたくなにその傘を差して出かけたのだ。

 橋の上を渡っているときにいよいよ風が強くなり、私は持っていた傘を風に持っていかれたのだった。


 なすすべもなく空高く舞い上げられ、橋の欄干を飛び越えて川面に落ちていく赤い傘を、私は悲しみの底に転げ落ちながら見つめていたのだ。


「あの時は大変だったわ。そりゃもうわんわん大泣きして、その場にうずくまっていたもの」

「その時は結局どうしたの?」


 私は気になって聞いてみる。自分の身に起きたことなのに、その出来事はどこか記憶の霞の向こう側に漂っていってしまっていた。


「確かね、この川は海へ続いているから、あの傘は海を越えて、どこか遠くまで旅に出かけたのよと言ったの」


 その言葉をきっかけに、私の記憶の霞がすっと晴れ渡っていった。

 そうだ。私はそれを聞いて、とても悲しかったけど、ちょっとだけわくわくしたんだ。


 私のお気に入りのあの傘は、川を下り、海まで着いて、それからどこまで行ったのだろうと真剣に考えた。


 南の島を通り過ぎただろうか、波をかき分け泳ぐクジラに出会っただろうか、水面を跳ねるイルカを見かけたのだろうか。

 想像の翼が際限なく膨らみ始め、私はその想像を画用紙一杯に描き付けていたように思う。


「そうね、急に黙ったかと思うと、家に帰ってからそのまま無言で画用紙に何か描き始めていたわね」


 ああ、どんどんと思い出してきた。記憶の糸がするすると引き出されていく。赤い雨傘の遥かな旅路はどこまでも続き、最後はついに南極までたどり着く。傘は南極に住むペンギンと出会い、彼らの乗り込む船として、第2の人生を送るのだ。

 そしていつか、雨傘に乗って、ペンギン達が私の家までたどり着く。地球をぐるっと回る壮大な冒険。

 私の心の翼は、雨傘に導かれて世界を駆け巡っていた。


 リビングの窓をたたく雨音に、私の意識は私の体へと帰還する。


 遥かな冒険を終えたペンギンが、お気に入りの赤い傘を持ち、幼い私と手を繋いでひょっこりとリビングの扉を開けて目の前に現れるのを想像して、私はなんだか嬉しくなったのだった。

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