3
その飲み会の席には、牛玖はもういなかった。
牛玖が心変わりしたのは次の年の四月のことだった。遥香には理由は分からなかった。なにかキツいことを彼に行った心当たりもないが、駅ビルのエスカレーターで話をした後顔色が一変したのを覚えている。その日のデートは途中で切り上げられた。それからというもの彼からの誘いはなくなったし、遥香からの連絡に返事はくれなくなった。さらに困ったことには、仕事の話でさえも目を見て話をしてくれなくなった上に、当てつけのように、新しくアルバイトとして入ってきた若い女の子に手を出し始めたのである。
「……住吉ちゃん、大丈夫?あんまり飲めないでしょ?」
ビールの後、焼酎のロック、それからウィスキーを注文した遥香を、浜島と
「大丈夫です!飲みます!飲めます!」
牛玖と付き合っていたことを同僚に話したのは、遥香はこれが初めてだった。
「あんな男のどこがいいのか分からない」
と浜島は自分のことのように憤慨してくれた。
終電も差し迫り店を出るころには遥香は千鳥足で、榎本の肩を借りなければ歩けないほどになっていた。
「ううう……吐きそう。トイレに……トイレに行かせてください」
遥香は駅のトイレで吐いた。あまりに長いこと吐いていたものだから、榎本が女子トイレの入り口から
「大丈夫!?」
と声を掛けてくれた。深夜0時を越えた時間の女子トイレには遥香しかいなかったが、男性である榎本はやはり、中まで入るのを躊躇したらしい。
総武線の最終電車の終着駅は三鷹駅だった。途中まで浜島がついていてくれたが、彼は阿佐ヶ谷で降りて帰っていった。
国分寺に家がある遥香は三鷹からタクシーに乗って帰ろうと思っていた。三鷹に着くころには酔いも醒めているだろうと思っていたが、思惑は外れた。
酔いつぶれた遥香が三鷹駅のホームにある自動販売機の横にしゃがんでいると、後ろから六十歳ぐらいの白髪の男性が
「大丈夫?」
としきりに声を掛けてきた。
「お水を……いただけますか」
男は隣の自動販売機でペットボトルの水を買ってくれた。
「大丈夫?帰れる?」
「ありがとうございます……大丈夫です。帰ります」
親切な男性は遥香に肩を貸し、駅のロータリーまで送ってくれた。
「ひとりで帰れる?送ろうか?」
男がタクシーに乗ろうとするので、遥香は固辞した。
タクシーが走り出す。しかし――
「……すみません、吐きそうなので!止めてもらえますか?」
車のにおいと揺れで、ものの50メートルも走らないうちに、再び遥香は吐き気を催した。
「車の中で吐いちゃ困るよ!」
タクシーの運転手が言い終わらないうちに、遥香は外に駆け出し、街路樹のところに吐いた。駅から、水を買ってくれた男性が走ってきて、遥香の背中をさすった。さすりながら
「なんでこんなに飲んだの?辛いことでもあったの?」
と尋ねた。胃がムカムカするのが辛かったし、酔いつぶれている自分が情けなくなって、遥香もわんわん泣いた。
「私、牛玖さん、好きだったのに!!!私の何が悪かったの!?」
そういったことを喚いたと思う。すると、遥香を介抱していた男性は、「つらかったねぇ、つらかったねぇ」と言いながら、遥香の背中をさすり、耳元で自分のことを話し始めた。
「妻ががんになってね……」
昨日の夜ふと目を覚ますと、隣に寝ていた奥さんが手淫をしている。男性が背中を向けたままでいると、奥さんは、男性とは別の名前を呼んでいたのだという。
「……だから、おじさんもつらいんだよ。気持ちが分かるんだ。分かるんだよ、ねぇ」
遥香は不意に、この男に障られているのが嫌になった。
「私、帰ります!タクシーで帰ります!!!」
と言って立ち上がると、再び駅のロータリーに戻ってタクシーを待った。
「僕も行くよ。一緒に泊まろうか?」
追いすがって来る男性を、遥香はきっぱり断った。
「おじさん!私に着いて来てもなんもいいことないですよ!!!私、ひとりで大丈夫です!!!」
遥香は三鷹のビジネスホテルにひとりで泊った。
「酔っぱらって鼻とか出てるんですけど……お部屋一つ空いてますかね」
遥香の言葉にホテルのフロントマンは苦笑しながら、「はい」と言いながら、部屋の鍵を渡してくれた。
暗いホテルの部屋に入るなり、再びトイレに駆け込み、ゲーゲー吐いた。しこたま吐いた後、ベッドに横になっていたが、手が震えていた。
――これは、急性のアルコール中毒かな
とぼんやり思っているうちに眠りについた。
朝六時に目が覚めて、ホテルの朝食――ソーセージや目玉焼きにトーストだったと記憶している――をモリモリ食べ、遥香は御礼を言ってホテルを後にした。
立川方面行きの電車のホームに立っていると、朝陽が東の空から昇ってくるのが見えた。白い光が眩しい。遥香の眼に、しみる。
――きっといい日になる。これからきっといい日になる。
遥香は思った。
彷徨う武蔵野 江野ふう @10nights-dreams
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