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 大学院を卒業した遥香は、在学中にダブルスクールで通っていたデジタルデザイン系の専門学校の伝手で、赤坂にあるウェブ制作会社に就職した。

 文学の論文を書くことは好きだったので、博士課程に進むことも考えた。大学に残って講師、助教授、教授となっていくとすると、博士課程を卒業後、海外留学もせねばならないし、ひとり立ちできるのは確実に30歳を過ぎるなと思った。

 また、研究者の世界というのは狭いと感じたのもある。親が〇〇大学の教授だとかいうと、箸にも棒にも引っ掛からないトンデモ論文を書いていても講師の口が見つかったり、美人学生が教授に取り入るために愛人のようになることもしばしばで、この必要以上にドロドロとした狭い世界で戦っていくほどの精神力は持ち合わせてはいなかった。

 それに、研究者として大学に残るということは、根本的に大学での教育者なるわけであって、クリエイターではないと考えたのもある。本を読み、論文だけを書いていればいいわけではなく、学生を教育することのほうが本分になるんじゃなかろうかと思った時、果たして自分がしたいことは「教育」なのかと思うに至った。

 漫画家になれないにしても、遥香は創作者クリエイターになりたかった。なりたかったというよりも、創作者以外の何かになるということに違和感しか感じられなかったのである。


 後期課程に進むことを前提とし、30歳を過ぎるまで親の脛をかじり続けるのは居た堪れないと思って、在宅でできる仕事として始めたホームページ制作の勉強が役立った。

 ウェブ制作会社では遥香は、アシスタントディレクターをしていた。


「住吉さん、お昼に行かない?」


 遥香にそう声を掛けた男性社員は、フロントエンドエンジニアの牛玖うしくだった。


「20代女子はイージーモード」とはよく言ったものだ。

 社会人になりたての何も知らない新採女子社員には、何かときっかけを作って声を掛けやすいのだろう。それに遥香の方も先輩からのお誘いを断るのを悪いと思っていたし、また、断る術を、まだ習得していなかった。

 牛玖からの誘いを皮切りに、デザイナーの葦名あしな浜島はましま、プランナーの日端ひばたなどなど、未婚既婚、彼女のありなし問わず、同じフロアにいる半分以上の男性が遥香を誘ってきたため、お昼代には困らなかった。

 浜島などは、毎日のように遥香に個人メールを送ってきた。これには遥香もさすがに気持ち悪いと思って返信をせず、用があって席の近くまで行ったらついでに話すといったことをしていた。


 色白眼鏡がトレードマークですらりと背の高い牛玖のことは、遥香も憎からず思っていた。仕事をしている時、キーボードを叩く節の目立つ長い指が素敵だと思ったし、ランチの時にまっすぐに自分を見て話すその熱っぽい眼差しが好きだった。1時間の休憩時間、ランチから帰る道、会社に帰りたくなさそうに歩を緩める牛玖のことが年上ながらかわいいと思った。


「住吉さんはどのへんに住んでるの?」


「国分寺に住んでます。学生時代から住んでるんですよね」


「へぇ。じゃあ、休みの日はどのへんで遊んでるの?立川とか?」


「あんまり外に出ないんですけど……友だちとよく行くのは吉祥寺ですかね」


「吉祥寺?自分、吉祥寺に住んでるんだよね」


「え!そうなんですか?いいですねぇ!吉祥寺」


 そんなたわいもない会話から、遥香は牛玖と週末吉祥寺でデートを重ねるようになっていた。

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