彷徨う武蔵野

江野ふう

1

 住吉遥香すみよしはるかが大学院に進学したのは、別にイギリス文学の研究を続けたかったからではない。

 漫画家になりたかったからだ。

 漫画家として食べていくつもりだったから、就職活動はしなかった。


 漫画家として食べていくつもりなのならば、アルバイトをすればよいだけであって、大学院に必要はなかったが、遥香は自分の将来に保険をかけた。

 結局のところ、漫画家として食べていく覚悟がしきれなかっただけなのだが、「大学院生」という肩書があったほうが親は安心するという理由に全力で甘えていた。

 そもそも大学生のうちに描けなかったのだから、大学院に行ったところで描けるわけがない。

 今から思えば分かりきったことなのに、なぜ当時の自分は分からなかったのだろうと思う。きっと根本的にバカだったんじゃないか。


 大学院生時代に、一度だけ御茶ノ水にある出版社に持ち込みをしたことがある。

 窓のない紺色の壁に囲まれた小部屋で、眠そうに目をしょぼしょぼさせた若い編集者が原稿に目を通すのを居た堪れない気持ちで待っていたのを覚えている。


「……どういう人が読むかですよね」


とかなんとか、具体的になんと言われたか今となっては覚えていないけれど、要するに「おもしろくない」だとか「下手だ」とかいうのを傷つけないように表現した、感情のない一言だけもらって追い返された。


「またできたら来てください」


 と言われたような気もするけれど、遥香は二度と行かなかった。

 二個目の作品は永遠にできないまま、大学院を卒業した。

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