後編「これも何かのご縁です」

   

 そうだ。

 今日は昼休みに銀行へ下ろしに行くつもりだったのに、直前に課長から押し付けられた仕事があって、それどころではなく……。

 すっかり忘れていた!

「……どうしましたか?」

 理香の尋常ではない表情に、『田中さんもどき』が、心配そうな声をかけてくる。

「いえ、あの……。小銭しかなくて……」

 顔を上げた理香は、申し訳なさそうな口調で返した。

 お札は一枚も財布に入っていないが、一応、硬貨だけはある。ただ、レジで小銭をぶちまけて支払うというのも、それはそれで恥ずかしかったのだ。

 とはいえ。

 他に支払い手段がない以上、恥を忍んで、そうするしかない。理香は財布を逆さまにして、中身を全てさらけ出したのだが……。

「……499円。5円足りませんね」

 小銭を数えてくれた『田中さんもどき』の、非情な声。

 別に彼の声色こわいろそのものは冷たくも何でもなかったが、理香には、氷を浴びせられたように聞こえてしまったのだ。

「あの、ごめんなさい。私……」

 今日のところは、キャンセルで。

 そう言うつもりだったのに、最後まで言わせてもらえなかった。

「いいですよ、お客様。5円くらい、おまけしておきます」

「……え?」

 驚いて、ぽかんと口が開いてしまう理香。

 まるで、その口の中に投げ入れられるかのように、彼の言葉は続く。

「お客様は、毎日利用してくださる常連さんですからね。これも何かのご縁です」

 そう言ってくれる彼の顔には、いつもの営業スマイルとは思えない、本当に優しそうな笑みが浮かんでいた。


 無事に解決して、店を出たところで、理香は振り返る。

 不思議に思ったのだ。

 あの『田中さんもどき』は、ここの店長でもなければ、その家族でもないはず。ただのアルバイトが、勝手に「5円おまけ」なんてして大丈夫なのだろうか?

 ガラス戸越しに店内の様子を見ると……。

 レジの『田中さんもどき』が、ズボンのポケットに手を突っ込んでいた。そして取り出したのは、彼の私物と思われる財布。

「あっ!」

 小さく叫んでしまう理香。

 なんと彼は、自分の財布から小銭を出して、それをレジへ入れていたのだ。つまり、理香の足りない分を、彼が代わりに支払ってくれたのだ。


「ありがとう、河野くん……」

 自然と理香の口から漏れたのは、彼に対する感謝の気持ち。

 しかも『田中さんもどき』ではなく『河野くん』と呼びかけていた。今までネームプレートが視界に入ることはあっても意識することはなかった、彼の本当の名前で……。

 同時に。

 彼の言葉が頭の中に蘇る。

「『これも何かのご縁です』……。そうよね、こういうところから、人間の縁って生まれるのよね」

 と、口にする理香。

 明日からは、きちんと自炊もするようにしよう。料理のレパートリーも増やそう。そして今日のお礼として、いつか彼に手料理を食べてもらおう……。

 生まれたばかりの淡い恋心を自覚しながら、いつもより軽い足取りで、彼女は家へと向かうのだった。




(「これも何かのご縁です」完)

   

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これも何かのご縁です 烏川 ハル @haru_karasugawa

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