最終 第11話 (2)
弧を描いて跳ね飛ばされた短剣の刃は陽光を写してきらめき、地に落ちたときに土を少量抉った。刃と均衡をとる柄もそれなりの重量をもっていて、そちらもすぐに地に着き、短剣は激しかった打ち合いから沈黙する。
短剣の持ち主は、その跳ね飛ばされた短剣の行方を無意識に目で追い、それが自分の失策だったと気づいたときには、胸元に相手の振るっていた模擬刀がゆっくりと押し込まれていた。その力が強くない分、相手の技量に敵わないことを、かえってはっきりと突きつけられる。
エルは張り詰めていた集中力が切れて霧散したのを、荒いままの呼吸で胸をひどく痛めながら感じた。デットが持つ模擬刀はエルの胸を横にゆっくり薙ぎながら引いていった。
デットは飄々とした笑顔でエルを見下ろし、片手で持っている模擬刀の刃を肩にかついだ。彼の赤銅色の髪は無造作にしていた分、うなじでひとつにできるくらいには伸びてしまっていた。そろそろ切らなきゃなあと言いながらも、くしゃりと後ろで縛るくらいで、切らずにいまだそのままだ。
食えない笑みを浮かべるデットの薄い琥珀の瞳は、表情に反して鋭く、エルを真っ直ぐに見つめている。
「早く拾わないと、こちらから攻撃するぞ?」
からかうような響きの声でデットが言う。
両膝につきたいと伸びかけていた両手はすんでのところでその場に留まり、酷使していた全身の痛みで崩れ落ちそうな体を踏み堪える。落ちている短剣の元へと歩くのにも未熟な体は痛みを訴えた。屈んで短剣を拾い、その重さをまた自分の手で感じながら、エルはまたゆっくりとデットへと体勢を整え、大きく息を吐いた。
デットから譲られた短剣は硬度が高く、結構な重みがある。エルは模擬刀ではなく、この真剣を使わされていた。
“真剣”にやんなきゃ、身につかないだろ?
笑顔で言ったデットの意図は、そのときはわからなかった。短期間で剣技や体術を会得しなければならない身となったエルにとって、模擬刀での生ぬるい鍛錬では時間がいくらあっても足りないと暗に言ったのだと実感させられたのは、初めて訓練を受けた瞬間だった。
真剣を手にデットと相対したそのとき、これがすでに命のやりとりなのだと突きつけられた。
打ち合いは、エルからの踏み込みのみ。
デットから攻撃はしない。
言われたことは、それだけだ。
だがそこは、小さいながらも戦場だった。
エルが遠慮がちに踏み込めば、短剣はデットの模擬刀で容赦なく即座に打ち落とされた。それでも一切歯こぼれのない鋭い刃。じんじんと、叩き落とされたときの手の痛みは強く、ほら拾えとデットに言われても、すぐには動けなかったくらいだ。
何度も何度も踏み込んでは、何度も何度も剣を打ち落とされる。
そのうち、だんだんとわかってくる。体がまだ作られきっていない、いまのエルが求められているのは、力ではなく、速さと、間合い。そして、判断力。
この鍛錬が始まってから、体の使い方や姿勢は、自然と身に付いてきた。
デットは多くは語らない。
エルが失敗するたびに、ひと言ふた言、エルが自ら気付ける範囲のことを指摘してくれるだけだ。
エルはデットから戦い方を教えてもらっているというより、やってはいけないことを行動で受け続けていた。それをしてしまえば、即座に命を落とす、そういった失敗をひとつひとつ反撃でもって潰されていく。同じような失敗には、言葉の指摘はもはやかけられることはない。ただただ無慈悲な反撃を強めに受け、そんなときは二度と立ち上がれるような気がしないほど打ちのめされた。
エルは短剣を手に、再度デットに相対した。
兄のように短く刈られた薄茶の髪は、陽光にきらめいて金色に反射した。薄く透き通る翠の瞳で戦う相手を見据える。成熟する前の野生動物のような若々しくしなやかな体を存分に生かすべく、呼気を鋭く吐き出し、片足に一気に力を込めもう片方の足で速く駆け出す。
剣を持つ相手に打ち勝つ方法を、自分の持つ能力すべてをもって見出すために。
フォルッツェリオ国王城の一角にある、円形の闘技場。
かつては一流の戦士たちが闘いを繰り広げた地は、いまは贅沢にも戦士見習いとなったばかりのエルの鍛錬場となっていた。
中央の闘技土場の周囲は階段場の観覧席となっていて、そこには一人の見物人がいた。
見物、といっても、目の力で見ているわけではないのは、盲目の術者イグニシアス。
肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪と整った相貌が可憐で美しい女性のように見えるが、彼の特徴の中でも際立っている金色の瞳がなにかをひたと見つめるとき、それを真髄から見通すように光る。いまも、エルがデットと向き合う姿を見えぬ目ではなく、心に焼き付けるように見つめていた。
イグニシアスには、デットの動くさまが力の本流となって見えていた。自分の持つ精霊の力と己の持つ魔法力が合わさり、もう自然に一体となった力で、見えぬ目の代わりに感じられるのだ。視力として色や姿形が見えなくとも、魔法力を持つ者が動いているとわかる。イグニシアスには、デットが大きな力を持つ者として見えている。
デットとは真逆に、エルは魔法の力が一切見えない。精霊を持たない他の人間と同じだ。初めてエルと会ったとき、これから精霊が得られて、よい方向に成長すればいいと思っていた。
だがそれが叶わぬこととわかると、違うものが見えてくる。
自然界のあらゆる物質には、魔法力の残滓、自然の持つ力の流れ、そういったものが必ず存在し、イグニシアスにはそれらも自分の持つ能力で見分けて過ごしてきた。だからこそ健常者のように一人で行動することができている。
エルが動くとき、周囲の力が途切れるように感じられなくなる。そのせいでかえってそこにエルがいるのだとわかる。
人は、ある程度は周囲の力を自然と被ったり受けざるを得ない状況になったりする。自然界でも、風を仰ぎ、火で炙られ、水を被り、癒しを取り込み、地から響きを受ける。これらを精霊が与える力と置き換えれば、人間が放つ魔法となる。
自然界からでも人間からでも、なにかしらの力を受けることで、必ず反応というものが起こる。風を受ければ髪が靡き、火で炙られれば火傷を負い、水を被れば濡れ、癒しを受ければ元の状態に戻ろうとし、地が響けば立ち続けることは難しい。
エルは、魔法の力であれば、一切を弾いて、受け取ることができない。
精霊の召喚術は跳ね返った。フォルッツェリオに着くまでの道中ちょっとした馬車事故があり、軽く怪我を負ったため癒しの魔法をかけたが、まったく効かなかった。
他にも試しにこっそりとエルに魔法をかけてみて、効かないのをむきになって色々試していたら、デットから頭に拳骨を食らって涙目になった。エル本人には絶対に内緒だった。
エルについている、黒き精霊。
間違いなく、あれの力だと、イグニシアスは悟らざるをえなかった。
光と闇。
闇に影響を与えるのは、光のみ。
黒き精霊をイグニシアスが見たのは、あのときだけだ。エル本人はときおり、内面であれと会話をしたらしきことがうかがえたが、エル自身も自分の持つ黒き精霊の力がどういうふうに自分に関わるのかわかってはいない。
エルは、本当にまだ気づいていないようだった。
あの光に照らされていることを。
イグニシアスは自分の立ち位置を考えている。
二人と出会ってから、ずっと。
ようやく前へと進み始めた一人の少年と、存在が謎そのものの若き男。
彼らが進んでいく道を、彼らがいることで影響を受けていく人々を、イグニシアスはきっとこれからも見続けていくのだろう。
できれば、彼らと同じ場所から見届けられればいいと願っている。
光に気づいている者は、まだ多くはない。闇についても未知数。
この二つの存在が世界へともたらす影響は計り知れない。
不安に思うわけではない。むしろ、胸が躍る。
ああそうとも、楽しみで仕方がない。
二人が、どう生きていくのか。
イグニシアスは、デットとエルのほうから視線を上げ、近寄ってくる人のほうへ顔を向けた。
数人の侍女を従え、食事の用意を運ばせやってきたのは、小柄な少女だった。
亡国の王女はゆっくりとした足取りでイグニシアスのいるほうへと歩いている。足取りはややぎこちないが慣れた動きだ。
「ご機嫌麗しく、はないみたいだね」
イグニシアスがかけるおどけた声に、フレンジアが少々険を含んだ瞳で返してくる。
「姫の機嫌を損ねたのは、誰でしょう?」
イグニシアスがフレンジアを紹介されて会ってから、彼女が普段は穏やかな少女であると知っていた。それが珍しく乱れた気を発しているのを感じたのだ。
「“姫”ではないと、何度言ったらわかるのだ?」
フレンジアは自分の不機嫌を隠そうとはせず、尖った声を出した。それでも彼女の印象は陰険とはならない。逆に可愛らしく拗ねているように見える。
フレンジアは、確かにフォルッツェリオの姫君ではない。だが、待遇は大国の姫君と同等。いや、それ以上に大切に大切にされている。いつも彼女には侍女が数人付き従い、護衛の兵も陰ながら彼女を護っている。
「姫は、姫だよ。他の何者でもない。それに、名を呼ぶなど、俺にはできないね」
「なぜだ?」
フレンジアはイグニシアスが座る観覧席の隣に座る。
「こうして敬語ではなく言葉を交わすことはできるが、名はどうしても“様”づけでしか呼べないと思うからさ。姫も、“フレンジア様”って俺に呼ばれたくはないだろう?」
「だから、どうして“様”づけになるのだ。呼び捨てでよいと言っているだろう」
フレンジアは自分が姫君であるとは思っていない。いつも自分を姫扱いするなと人に言っているが、素直に従う者は皆無だった。
「無理無理」
イグニシアスは笑って手を振る。
「誰もあなたに言ったことはないかい? 姫はなにをしても“姫”なんだと。あんたたちもそう思うだろ?」
食事の用意を整えていた侍女たちに対してイグニシアスは言葉を向けた。侍女たちが大きくうなずいたのを見て、フレンジアは不機嫌を表していた態度をあらため、不思議そうな顔で首をかしげた。
確かにフレンジアに“姫”と呼ぶ理由を述べた者はいなかった。イグニシアスほど気さくに接してくれる者が少ないこともある。
「確かにこの国の王女ではないけど、あなた自身が“姫様”なんだよ。もしも俺の目の前にいるのがあなたではなく、どこかの国の王女様だったとしたら、俺はその人を姫とは呼んじゃいないだろう。あなたがあなただから、俺はあなたを姫と呼ぶのさ」
フレンジアは、イグニシアスの言葉は難解で理解できないといった表情となる。
「みんなが護りたいと思ってる存在、ってことさ」
またも侍女たちが自分たちの仕事をしながら大きくうなずいていた。そんな大層な人間ではないのにとフレンジア自身は思っているようだが、だからこそ周囲の人間は彼女を護りたいと思っているのだとイグニシアスは知っていた。
「エル! デット! 食いもんが来たぞ!」
フレンジアに対して幾ばくかの気を遣っていたイグニシアスも、闘技場で汗を流す二人には遠慮がない。
イグニシアスが声をかけてからあまり間を置くことなく、デットが観覧席に上がってきた。
文字通り、直接上に上がってきた。闘技土場から正規の順路であれば観覧席まで来るまでに本来は時間がかかる。デットは土場から周囲の高い壁に手をかけ、ぐいと自分の膂力で壁を乗り越えて、最短距離でやってきたのだ。普通の人間なら簡単にできることではない。
実際、エルが来るまでは結構時間がかかった。エルがデットの真似をするには、なにもかもが同じような領域まで成長しなければならない。いまのエルは到底デットに追いつくことはできない。エルはそのことを悔しく思っているだろう。それでいい。悔しさが、エルの成長を飛躍的に伸ばすことになる。それがわかっているからのデットの行動でもある。
闘技場の観覧席で広げられた料理の品々は、王城の中でのものにしては一般的なものだ。野外で食べるためもあるが、この場にいる者は豪勢な宮廷料理に興味はない。重い食事ではなく、消化によく、美味しいものであればなんだっていい。デットがそのように初めに注文をつけ、栄養がとれ、地肉をつくる消化のよいものを用意してフレンジアが届ける、それがほとんど毎日の日課となった。
この面々で昼食をとるのがあたりまえとなってそんなに日は経たないが、皆この時間を楽しみにしていた。異なった場所で生きてきたそれぞれが、人と会話をしながら食事をすることがほとんどなかったからだ。
エルは孤児だった。使用人の子として育てられ、使用人として生きてきた。兄となってくれた人に拾われ、食事で楽しんだのは兄と二人での会話だ。
デットの素性はいまだ謎だった。若い頃から戦場にいたのだろうと推察できるが、どちらかといえば一人での食事を好んできたようだ。
大勢の人間に育てられてきたイグニシアスは、寂しい思いをしなかったが、仲間と呼べる人はいなかった。イグニシアスにとってはデットとエルが初めての仲間だ。
フレンジアは、この面々の中では、一番この場を楽しみにしていた。彼女の過去は、豊かな感情を表すいまの様子からうかがうことができないほど、苦痛を味わってきた。その過去を詳しく聞くことは、普通の者ならば彼女を慮ってなかなかできないものだ。
だが、イグニシアスという男は、いい意味で遠慮がない。
「それで、姫の不機嫌の原因はなんなの」
食べながらの、とくに詮索するものではないイグニシアスの問いに、フレンジアも気にする様子もなく答える。
「言いたくない」
「俺が推察するに、姫のご機嫌の一端はこの国の王が担っていると思うんだけど」
「だから! 言いたくない!」
フレンジアはイグニシアスのからかうような言葉を強い口調で遮った。明らかに彼の人のせいだと言っているようなものだ。フレンジアの憤然といった様子に、イグニシアスもさすがにそれ以上の追求はしない。あっそうと、素知らぬ顔で話題を逸らす。
「エルも大分動きが良くなったんじゃないか?」
その問いにはデットが答えた。
「そりゃ毎日やってれば、それなりにはなるもんだ。それが実戦に生かせるようになるかは、本人の努力次第ってことだ」
「わかってる」
エルは他に答えようがない。いまは黙々と、血肉となる食事をとり、睡眠を得て、体をつくり、努力を続けていくだけだ。
「ずっと、誰かに訊いてみたかったんだけどさ」
他愛ない会話の中で、イグニシアスが唐突に言い始めた。
「でもミーサッハは育児で忙しそうで、当の本人の国王さんはもっと忙しそうだし、ビルトランはもーっと構ってくんないし。他の人はまだそんなに親しくないから、姫に訊こうかなって」
「なんのことだ?」
フレンジアが小首をかしげる。
「本当は、気軽に訊いちゃいけないんだろうけど。姫の過去でもあるから。でも、知っとかなきゃとも思うんだ。エルにとっても」
「うん?」
フレンジアはそんなに気にしていないように訊き返す。
「エルの兄さんが、この国にどう関わっていたのか」
確かに、この話題が出たことはなかった。
「そうか。まだ言ってなかったな」
フレンジアは小さく笑った。
「この国は、シリューズがいなければ、できてはいなかった」
亡き人に思いを馳せた。
エルとフレンジアにとっては、いまだ切なく苦しい、それでも、幸せだった理由でもある人。
少女は語り始める。
これからを生きる、彼の大切な弟のために。
剣と鞘のつくりかた 《宿世の章》 完
剣と鞘のつくりかた 《宿世の章》 橘都 @naokit
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