菊と白鹿
一白
第1話 留吉
「こりゃあ今年も厳しいかもしれねえな」
畑を耕す手を止めて、太吉は空を見上げた。
太吉の隣では妻のしのが同じように畑に鍬を入れていたが、太吉同様に手を止めた。
鍬の先にはいくつかの芋が実っていたが、そのどれもが小さく、収穫期であるにもかかわらず、十分に育ち切っていないことは明白だった。
天保五年。全国的な規模での災害が多発し、太吉の暮らす村に限らず、近隣の村々でも慢性的に食糧が不足していると聞く。
蔵に保存しておいた穀物でかろうじて食いつないではいるものの、このまま天候に恵まれない年が続くようであれば、一家どころか、村ごと全滅ということもあり得る状況だった。
二人がわずかな収穫物をまとめて帰路に着くと、遠く山の入口付近で、ひらり、と揺れるものを見かけた。
「ありゃあ、六郎んとこのキクか?またあんなところに行って」
「確か、昨日も山から出てきただろ。毎日、何をしてるんだか」
二人して話題に上げるものの、わざわざ山まで行って声を掛けるほどのことでもない。
ひら、ひら、と着物の裾を揺らしながら人影が動く様を無視して家路を急ぎ、家に着くなり戸を開けた。
家内には既に息子の留吉がおり、火鉢に火を入れているところだった。
持ち帰った芋を台所に置いてから、夫妻はすぐさま火鉢に手を当てた。
「あぁ、寒いねぇ。今年の冬も厳しそうだねぇ」
「年貢は何とか納めたが、芋があれだけしか採れないんじゃあ、俺たちの食う分が足りねえ。留吉、六郎のとこはどうだったよ」
「六郎さあのとこも、同じだよ。もしかしたら、うちより厳しいかも分からねえ」
太吉としのとは別に、留吉は、同じ村の六郎の家へ手伝いに出掛けていた。
六郎の家では、家長である六郎はもちろん、妻ヨシと娘ハツが主な働き手だったが、ハツは昨年、隣村へ嫁いでしまっている。
家には末娘であるキクもいるのだが、キクが働き手には不向きであることは、この村に住む者全員の知るところだった。
だから、長年付き合いのある太吉が気を利かせて、留吉を手伝いに行かせたのである。
太吉の想像どおり、六郎の家では喉から手が出るほどに人手を欲していたようで、留吉は大いに歓迎され、また、感謝された。
去年の夏に霜が下りたことがいまだに響いているのか、今年は山でも実りが少ないようで、猿や鹿などが頻繁に山を下りてきては、数少ない作物を食い荒らして帰っていく。
山に程近い六郎の家では特に被害が大きかったようで、ただでさえ実りの少ない畑は、無惨に食い散らかされ、踏み荒らされていた。
手先の器用な留吉が、畑の周りにいくつも罠を仕掛けておいたが、果たしてそれが奏功するかどうか、どうにも分からない。
「キクがまっとうな娘のままだったらなあ。あれは頭が良かったから、罠でも何でも、あっという間に仕掛けられただろうに」
太吉が心底残念そうに呟くと、留吉はふい、とそっぽを向いた。
キクに秘かに想いを寄せている留吉としては、キクの悪口は極力、耳にしたくないのだ。
だが、留吉の淡い想いを知らぬふりで、太吉ら夫妻は二人で、キクの話題を続ける。
「小さいころは、寺子屋でも神童だって言われてたのになあ。なんで急に、だんまりになっちまったんだか」
「畑仕事もできねぇ、家事もできねぇじゃぁ、嫁の貰い手もこないだろうねぇ。顔は悪くないんだから、一人前とは言わずとも、半人前でも仕事ができりゃぁ、留吉に嫁いでもらっても良かったんだけどねぇ」
ひとしきりキクのことを話し終えると、しのは重い腰を上げ、台所へと移動した。飯を作るのだろう。
このところは思うような量が収穫できず、徐々に粟や稗の割合が減り、代わりに芋や葉などが増えていっている。
太吉としのの会話を、寝たふりをして聞かないようにしていた留吉だったが、話し相手を留吉へと変えた太吉に肩を叩かれ、渋々と顔を上げた。
「村じゃあみんな言ってるし、留吉も薄々気付いてると思うけどよ、ありゃあ何かに憑かれちまったんだよ。お前の心を知らねえわけじゃあねえが、キクのことはもう、諦めろ。お前もそろそろ夜這いの一つや二つしとかんと、先がないぞ」
ぽん、ぽん、と宥めるように背を叩く太吉に対し、留吉は、ぐ、と唇を引き結んだ。
力を込めておかないと、いくら太吉が親であるとはいえ、暴言を吐いてしまいそうだったのだ。
事実、幼い頃の寺子屋仲間らには、つい先日も、キクのことでからかわれ、怒鳴り声を上げてしまっている。
留吉にとって、キクはとても大切に想っている少女なのだ。
キクを娶ることをいまだに夢見ている留吉にとっては、他の村娘などには、なかなかどうして興味がわかない。
留吉の脳裏には、ほんの二年前のキクの姿が、いまでも鮮明なまま残っていた。
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