第4話 白鹿
まるで小さな樹木のように、周りの風景に溶け込んでいる、見事な角。
そのまま野原に横たえたら、雪と間違えて踏んでしまいそうになるほどの、整った白い毛並み。
何を見ているのか、留吉のことなど気にもせずに前方を見据える瞳だけが、黒々と光っていた。
互いにぴくりとも動かないまま、どれほどの時間が過ぎただろうか。
留吉は徐々にキクを探しに来たことを忘れ、目の前の鹿のことで頭がいっぱいになっていた。
見れば見るほどに美しい、立派な牡鹿である。
一目で見惚れた、といっても間違いではなかった。
だが、留吉は美しい鹿を前にして、見惚れる以上に、激しい空腹を覚えた。
鹿は、見たところ病気もしていないようだし、肉付きも良い。
煮ようが焼こうがあるいは干そうが、どう食べても美味い肉だろう、と直感的に思った。
鹿と留吉との距離は、ちょうど、留吉が手にした槍の柄の長さほど。
一歩踏み出して渾身の力で槍を突き出せば、場所がよければ留吉の力でも、一撃で仕留められるかもしれない。
どうして鹿にこれほどまでに近づけたものか分からないが、これだけ近い位置で鹿に遭遇する機会など、おそらく二度と来ないだろう。
鹿がゆっくりと目を閉じていくのを見て、ごくり、と、唾を飲む。
途端、ぴくり、と、鹿の耳が動いた。
吸い込まれるような黒い瞳が留吉を射抜き、鹿が全身に力を入れるのが見て取れる。
留吉は反射的に、前で踏み出すと同時に、鹿へ向けて槍を突き出した。
勢いが強すぎたのか、はたまた棒との接合が甘かったのか、包丁部分が棒から外れて鹿に刺さり、留吉の手には棒だけが残る。
あまり深く刺さった感触はなかったが、ここまでやったなら逃がすまい、とやたらめったらに棒を振り回していると、やがて鹿は、鳴き声もなく静かにその場に崩れ落ちた。
どさり、と、地に倒れ伏す音がやけに耳に響く。
ぴくぴく、と小刻みに動くのみで、暴れる余力もない様子の鹿を見て、留吉はようやく全身の力を抜いた。
これだけの獲物であれば、しばらくの間は、食糧の心配をしなくて済むだろう。
荒れた呼吸を整えるのもそこそこに、喜び勇んで鹿に近づいてみたものの、留吉はぎくり、と足を止めた。
鹿が見据えていた前方に、いつから座っていたものか、キクが声もなくさめざめと泣いていたのだ。
冬の屋外だというのに、さして着込んでいない着物には、点々と、飛び散った鹿の血が付着していた。
「キク、お前」
留吉の脳裏に、いつかの太吉の言葉がよぎる。
ありゃあ何かに憑かれちまったんだよ。
何か、とは、何なのか。
いましがた留吉が刺し殺した、この鹿だとでもいうのか。
キクの頬を伝い落ちる涙は、木漏れ日を受けて淡く光り、雪上に小さなくぼみをいくつも作り出していた。
キクのまとう雰囲気に飲まれてしまった留吉は、何と声を掛けるべきか分からなかった。
キクに手を伸ばしては引っ込め、引っ込めては伸ばして、を繰り返す。
そうこうしているうちにどうにか決心を固めた留吉が、ようやくキクに向けて口を開けた途端、ぽん、と肩を叩かれた。
心の臓が飛び出るほどに驚き、勢いよく振り返ると、そこには六郎が立っていた。
「留吉、お前、籠も何も持たねえままで、なんで一人で山に入ってるんだ」
「なんでって、六郎さあのとこのキクを連れ戻そうと思って。ほらそこに」
突如現れた六郎に驚きながらも、後ろに立つ六郎に見えるよう、横に避けてキクのいた位置を指し示すも、そこにキクの姿はなかった。
つい先程まで小刻みに震えていた鹿が、いまやぴくりとも動かず、深い闇を湛えた目を開いたままに固まっているだけだ。
慌てた様子で周囲を見渡す留吉に、頭に結わい付けていた籠の紐を締め直しながら、六郎は言う。
「なに探してるんだか知らねえけどよ、お前はずっと一人で突っ立ってたろう。キクなら、今日は家から出てねえぞ。勘違いじゃあねえのか」
「そんなこと」
「それより、大した鹿だなあ。お前一人でよく倒したもんだ。さっさと血抜きしちまうぞ。運ぶのは手伝ってやるから、俺にも分けてくれよ」
いそいそと鹿に近づき、突き刺さっていた包丁を抜き取ると、六郎は手早く処理をし始めた。
辺りに血の匂いが満ち、白一色だった世界に朱が混じる。
せっかくの白い毛皮が汚れてしまう、と留吉は残念に思ったが、ふと鹿を見下ろしてみれば、鹿はごく当たり前の茶色い毛皮を血に染めていた。
キクの姿も、鹿の毛色も、留吉の見間違いだったのだろうか。
「ほれ、運ぶぞ。そっち持て」
六郎の指示に従い、太い枝に括りつけた鹿を運びながらも、留吉は一連の出来事がどうしても腑に落ちなかった。
どうにか自分の中で折り合いをつけたくて、六郎とともに家に鹿を運びいれた後、突然の収穫に喜んだ両親が鹿肉を捌いている間に、留吉は落ち着いた頭で改めて山での出来事を振り返った。
きっとあの時のキクの声や姿は、日常的に空腹だったあまりに留吉が見た、幻だったのだろう。
鹿が逃げずにじっとしていたのは、体を休めていたか何かのためで、偶然の産物だったのだ。
いや、そういえばあの辺りには以前、兎獲り用の罠を仕掛けていた気もする。
罠にかかかり、思うように動けなかっただけかもしれない。
そう考え、言い聞かせてみると、なるほどどうして、そのような気もしてきた。
留吉の脳裏では、幼いキクの姿と白い鹿とが交互に浮かび上がっては消えていたが、何度も何度も、あれは幻だった、と自分自身に言い聞かせることで、徐々に留吉の気持ちは落ち着いていった。
空腹を満たして人心地ついた後、分け前の鹿肉を六郎の家に届けに行くと、なにやら周囲が騒がしく、わずかな人だかりができていた。
留吉とともに鹿を運んだ後、六郎はすぐ家に戻っていたはずだが、何かあったのだろうか。
家の入口に足を進めながらも、人だかりの会話に聞き耳を立てていた留吉は、持参した鹿肉を取り落としそうになるほど驚くことになる。
「キクが死んだ、っていうのは本当かい」
「ヨシの話じゃあ、いきなり泣き始めたと思ったら、ばたって倒れて、気付いたら死んでたんだって」
「参ったな。六郎には色々と貸してるんだぜ。キクが奉公に出たら、返してもらうはずだったんだが」
「あれま、おれは嫁に行くって聞いたよ」
「誰がキクなんかを嫁にもらうってんだ。あんなに小さきゃ子も産めねえよ。他所の村の何某に、体よく売るつもりだったんだよ」
聞こえた会話に、思わず足を止めそうになったが、なんとか足を前へ運ぶ。
震える手で戸を叩き、来訪の意を告げると、中からのろりと六郎が顔を出した。
何と言うべきか分からずに、ただ無言で鹿肉を差し出した留吉に、六郎はちょいちょい、と小さく手を招き、留吉に耳を寄せるように指示する。
「お前、山にキクがいたって言ってたな」
「でも、どうやら勘違いだったみてえで」
「いや、いたよ。キクは、山にいたんだ」
低く話す六郎に合わせるように小声で話した留吉だったが、六郎の発言には首を傾げざるを得ない。
山で会った時は確かに、「キクは家から出ていない」と言っていたのだ。
それがどうして、手のひらを返すように発言を変えたのか。
留吉が眉根を寄せると、どこか疲れた様子を見せる六郎は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「そうじゃねえと辻褄が合わねえんだ。キクの裾についてた溶けかけの雪も、服に染みついた血痕も。だから、キクはあの時、確かに山にいたんだ」
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