第3話 山

いよいよ本格的な冬を迎えると、かじかむ寒さから屋外でできる作業は少なくなり、留吉ら一家は畑仕事もほどほどに、家内で静かに縄を編んだり小道具を作ったりする時間が増えた。

留吉が通っていた寺子屋へは、日々の糧にも困るほどであったために、納めるべき授業料を捻出することができず、夏に辞めてしまっている。

もっとも、育ち盛りの留吉としては、寺子屋へ通うより椀一杯でも多く食べたい、というのが本音であったため、そう悪いこととも言えなかった。

食卓に華を添えるべく、時には凍える思いをしながらも、川に仕掛けをして魚を捕ろうと試みたが、不作の影響が川にも及んでいるものか、はたまた他の村人が既に釣り上げていたものか、なかなか仕掛けに魚が入ることはなく、つましい食事が続いた。


そんなある日、キクに婚姻話が持ち上がっているようだ、と、寄り合いから帰った太吉がしのに告げた。

六郎たちも、わずかな食糧を切り崩して暮らしてはいたが、これから先、六郎とヨシ、キクの三人で暮らしていくことはできない、と判断されたようだ。


嫁ぎ先は、ハツが嫁いだ村とは別方向にある村の何某であり、別の村であれば、キクの口が利けないことも、十分に伝わっていない可能性がある。

それに、狐憑きのような者とは違い、キクはただ無言で山へ行くだけであり、婚儀の間だけでも静かにしていられれば、案外、先方では受け入れてもらえるかもしれなかった。

あらゆる仕事ができずとも、丈夫な子を産めるようであれば、女としての価値はある。


太吉としのとの会話を聞き流しながらも、留吉は心中、やるせなくて仕方がなかった。

確かキクは今年、十になったばかりだ。

ここまでの飢饉でなければ、早急に嫁がせることなく、もう少し様子を見ておくことも、できたはずである。


しかし、いくら留吉がキクに想いを寄せており、キクの婚姻を厭おうとも、キクの進退を決めるのは、キクの二親である六郎とヨシなのだ。

留吉が夜這いをかけて結婚まで話を持ち込む、ということも、できないわけではないが、留吉もキクも、所帯を持つにはあまりに若すぎる。

また、そもそも、口の利けないキクの意思を確認できないまま、キクを夜這うようなことも、留吉には到底できそうにないのだった。


歯がゆい思いを抱えたまま、留吉は手製の武器を手に立ち上がる。

刃こぼれして切れなくなった包丁を研ぎ直し、長い棒の先に括りつけただけの簡単な槍であり、威力が高いわけではないのだが、罠にかかった獲物を仕留めたり、振り回して小さな獣を追い払う程度であれば役に立つ。

留吉としては鉄砲を持っていきたいところだったが、この村では、鉄砲を持てるのは十五を過ぎてから、と決められていた。

留吉が鉄砲の扱いを学ぶためには、まだ二年ほど待たなくてはならない。


立て付けの悪くなってきた戸を押し開けると、ひゅう、と吹き込んだ風が、留吉の心の臓を縮こまらせた。

薄く雪が降り積もった外でできることは少ないのだが、冬の間にもわずかに葉野菜や根菜を育てている。

この寒さの中では、さして実りを期待できるわけではないが、ほんのわずかな野菜だろうと、あるのとないのとでは、雲泥の差だ。

そのわずかな実りを少しでも多くするためには、面倒でも定期的に見回り、山から降り来る害獣を追い払う必要があるのだった。


身を震わせながら、さく、さく、と、降り積もったばかりの雪を踏みしめて畑に至り、ぐるりと一周する。

ふと、視界の隅、はるか遠くで、ひらり、と動くものがあった。

雪の積もる寒さだというのに、山の方へと向かっている小さな人影は、足を止めることなく一定の速度で進んでいく。


「キク、か」


この寒さの中、村人がわざわざ山へ分け入ることは考えにくい。

例年ならば、山では多少の山菜や茸、木の実などが採れるのだが、今年は獣が食べ尽くしてしまい、ほとんど残っていないのだ。

だから、得るものの少ない山へ向かう人影があるならば、それは十中八九、飢饉が始まるより前から山へ通っているキクなのだった。


留吉はほんのわずかに迷ったが、キクと思しきその人影を、山から連れ戻すことにした。

たとえ自分の妻として迎えられないとしても、婚姻の話が持ち上がっている女を、極寒の中、放置したところで、良いことなど一つもないだろう。

吹きすさぶ風が、幾重にも着込んだ留吉の体を容赦なく冷やす中、ようやくたどり着いた山は、どこか厳かな空気をまとってそびえ立っていた。


「キク、帰るぞ」


留吉は手製の槍を杖代わりに、山裾をいくらか登ってみる。

留吉が山に入るのは初めてではないし、キクを連れ戻すことだって、そう珍しいことではない。

これまで、キクはいつだって山裾でぼうっと佇んでおり、手を引くと抵抗することなく、するすると後をついてきた。


だが、留吉がいくら山裾を探し声を上げても、キクは一向に姿を現さなかった。

それどころか、途中まで確かにあったはずの足跡が、まるで見えなくなっていたのだ。

雪は降り止んでいるため、足跡が新雪に覆われ隠れたわけではない。

普段と様子が異なることに焦りを覚えた留吉が、キクの安否を気に掛け始めた時、不意に後ろから、聞こえるはずのない声が聞こえた。


「お前さあ、そんなところでなにしてるんだ?」


すぐに、キクの声だと分かった。

だが同時に、キクの声であるはずがない、とも思った。

キクはもうずっと、二年もの間、声を発していない。

いくら聞き覚えがあるとはいえ、留吉にとっては二年前の記憶なのだ。


第一、キクとて成長しているのだから、やはり、留吉の記憶と同じ声が出るはずはない。

そう冷静に判断しつつも、それでもどこか期待しながら振り向いた留吉は、先程と同じ山裾の景色が映ったことで、安堵とも落胆ともとれる溜め息を深々と吐いた。


当たり前だ、聞き間違いに決まっている。

知らず閉じていた目を開けて、改めて目を凝らしてみると、視界の中でわずかに動くものがあった。

やれ、ようやくキクが見つかった、と歩きかけた留吉は、あまりの驚きに息を飲んだ。


一面の銀世界の中に、一頭の牡鹿が紛れていた。

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