第2話 キク
留吉とキクとが初めて出会った時、留吉は近所の子どもらにいじめられて、肥溜めの中に落とされていた。
周りよりも発育が遅く、小さい体躯だった留吉は、ろくな抵抗もできなかった。
目と口はかろうじて閉じたが、鼻の穴からも耳の穴からも、糞が入り込んでいる。
顔を伝う糞尿のせいで呼吸もろくにできず、助けを求めるべき相手もおらず、泣きそうになっていた時のことだった。
「お前さあ、そんなところでなにしてるんだ?」
鈴を転がしたような声に顔を上げると、留吉の前方にはキクがぽつんと立っていた。
何と答えるべきか分からず、そもそも目も口もろくに開けることすらできず、ただただ呆然としていると、キクは何を思ったのか、いきなり服を脱ぎ始めた。
少女の突然の奇行にびっくりした留吉は、とりあえず肥溜めから抜け出そうと、留吉なりに必死にもがいた。
だが、留吉の小さな体では、なかなか前へ進めない。
難儀しているところに、小さな細い手がそっと触れる。キクだった。
見た目にそぐわぬ力で手を引かれ、やっとの思いで肥溜めから抜け出すと、キクはそのまま留吉の手を引き、川へと引っ張っていった。
冬に差し掛かろうという時期の川は冷たく、糞尿塗れにも関らず留吉がわずかに躊躇すると、キクは留吉を他所に、さっさと川へ入ってしまう。
そして、キクに手を引かれたままよろよろと川辺ぎりぎりまで迫っていた留吉を、ぐいっと川へと引き込んで、留吉もろとも川中へ倒れ込んだのだ。
キクの唐突な一連の行動を理解できず、思考を停止していた留吉だったが、水中に落ちたことで、一気に目が覚めた。
ばしゃばしゃと水を掻いて、ようやく水面に顔を出した時には、体についていた糞尿はあらかた流れ落ちていた。
キクはというと、留吉よりも落ち着いて行動していたようで、留吉を見下ろして笑っていた。
「これで汚くねえだろ。おれは先に戻るから、お前さあはも少し着物洗ってから来ればいい」
そう言い残して、キクは濡れそぼった肌着のまま、川から上がって元来た道を歩き始めた。
黒々とした髪から次々に落ちる雫が、陽の光に反射してきらりと光る。
ぺたぺたと歩き去るキクの背中を見て、留吉はようやく、キクの一連の行動の意味を理解した。
キクは、肥溜めのところで衣服を脱ぎ、キク自身に付着する汚れを最小限にした上で、留吉を助けたのだろう。
その上で、留吉を連れて小川で肥溜めの汚れを落とし、肥溜めの位置まで戻って衣服をまとえば、キクが被る迷惑は最小限で済む。
そして、キクと留吉が別々に行動することで、後で留吉がからかわれる可能性を減らしたのだ。
自分よりも小さい女子に助けられ、恥ずべきだとは思ったが、留吉は恥の感情よりももっと強く、キクに恋情を抱いてしまった。
留吉に何も聞かず、ただ助けただけのキクに、どうしようもなく惹かれたのだ。
キクの背中が霞んで見えなくなるまで、ぼうっと川中に突っ立っていた留吉は、不意に襲ってきた寒気に我に返り、慌てて衣服を洗って川岸に上がった。
キクを追うように帰路を走ったが、随分先に行っていたものか、キクに追いつくことはなかった。
帰宅するや否や、留吉は熱を出し、両親から怒られたり心配されたりしながら、寝たきりに近い状態で冬を過ごした。
そうして春を迎え、留吉が寺子屋通いを再開させたころには、キクは既に言葉を発しなくなっており、寺子屋ではなく山に通うようになっていたのだ。
それが確か、二年も前の話になるだろうか。
寝込みながらも、いつかキクを妻にすることを夢見ていた留吉が受けた衝撃は、いまだに忘れることができない。
きっと何かの間違いだ、すぐにまた話せるようになる、と、寺子屋でからかわれながらも思い続けること二年。
こうして飢饉にぶち当たったいまとなっては、何をするでもなく山へ行くばかりのキクを庇うものは、留吉以外にはいない。
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