エピローグ

ある晴れた日に ~降り注ぐ陽光を浴びて生きること

 その美しい二人を見つめる涅色くりいろをした瞳には、控えめな満足がある。

 どうしてだか、羨望より強い想いが胸に浮かぶのだ。

 晴れ渡った空から世界をくまなく照らす陽光が、分け隔てすることなく無限に優しいように。

 長い悪夢から醒めたような心地。

 ずっと暮らしてきた場所が、あまりにも暗かったことに、今更ながらに気づく。

 光の溢れる庭で幸福に満ち足りた笑顔を向け合っていた二人が、手を取り合って歩きだし、掃き出し窓から室内へと消える。カーテンが揺らめいて、甘い香りの風をも招き入れている。

「──良かった、やっと見つけた」

 背後からの声に振り返った。

 平凡な、けれど素朴で愛らしい、若い女性。

 この身を心から案ずる純粋な瞳。

 頬が緩み、その名を呼んだ。

六花りっか

 駆け寄ってきた彼女は、人間にしては驚くほど純真な心を持っている。この悲嘆に満ちた絶望を、僅かながらも和らげてくれるほどに。

「大丈夫? まだ退院したばかりなのよ。は上手くいったそうだけど、いきなり健康体になったわけじゃないでしょう。声だって、まだ元通りじゃないわ。風邪が治りきってないのかしら」

「悪かった。ずっと歩いていられるのが楽しくて、つい」

 そう言い訳を告げれば、彼女は微笑まざるを得ない。

「そうね。きっとこれからは、もっと歩けるわ。いずれ走ることも出来るでしょうね」

「ああ、楽しみだ」

「じゃあ、今から無理しちゃ駄目よ。ちゃんとリハビリで──あら──?」

 ふと、耳を澄ませる。

 甘やかで優美な音色が、彼女にも聴こえたのか。

 洗練された、清らかなアルビノーニの響き。

「……綺麗ね。なんの楽器かしら?」

「オーボエだ。オーボエ・ダモーレ。伴奏はチェンバロ」

「伴奏?」

 彼女には聴こえない音量だったかと気づいて、誤魔化すように微笑む。

 窓を開けていても、距離がある。

 訓練されていない人間の耳には届かなくて当然だ。

 亜麻色の輝き。

 胸に思い起こす、黄金と漆黒の音楽。

 はないけれど、でも。

 黄金と白銀に、虹色までもが加わったかのような。

 全てを凌駕し、超越した、崇高なる調和。

 目を閉じて、聞き入る。

 それを六花は邪魔しないでいてくれた。

 やがて、素晴らしい合奏が止まった。

「──はい」

 手巾ハンカチを差し出されて、戸惑う。

 すると、彼女は小さく声をあげて笑った。

 手にしたままの手巾を、そっと頬にあててくる。そうされて初めて、涙が止めどなく流れていたのを知った。

「今度、演奏会に行きましょう。映画でもいいわね。美術館でも博物館でも、遊園地でも、水族館でも、動物園でも。一緒に行きましょう!」

 つられるようにして笑う。

 この胸で脈打つ心臓の持ち主が流した涙を拭いながら。

「もう、自由に、何処にだって行けるわ。病院のベッドに戻ることもない。だから」

「ああ、行こう。一緒に」

 手をとって繋ぐ。

 あの二人とは違う。けれど、同じほどに尊い。生き長らえることが出来た自分には。

 嬉しげな笑顔が陽に照らされて、世界で一番、綺麗に見えた。天使ではない。けれど、きよい笑顔と息吹で周りを安らがせる女性。最初は拒絶してしまった。違和感に耐えられなくて。けれど、それをものともしない、総てを許容する偉大な力を当然のように行使する姿が、眩しくも憧れで。

 健康で、血色のよい、色づいた頬。輝く瞳と、ふっくらした口唇。そこから紡がれる、愛に満ちた言葉。その愛を、彼女から初めて教えられた。世界中の、あらゆる神も人も認めるであろう、絶対的な愛。

 胸に満ちる幸福が、罪悪感も不安も残らず包んで和らげてしまう。まるで聖人の、あるいは王の奇蹟。

 やわらかに澄んだ音楽的な声が優しく響く。

「私たち、これから、ずっと一緒よ、信堅のぶかたさん」

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恋慕の鎖 La Catena d’innamorarsi 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni

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