第10場 最期の想いを、願いを、贖罪にかえて

 全身の関節が凍りついているように、或いは存在を忘れられていたブリキ玩具おもちゃの身体になってしまったかのように、固まって動かしづらい指で封筒を開ける。折り畳まれた便箋を取り出し、呼吸を整えてから、意を決して、ゆっくりと紙面を開いた。

 朽葉色のラインの上に、細くて鋭く角張った書体が整然と並ぶ。よく知っているようで、あまり見る機会のなかった手跡。

『結架へ』という書き出し。

 一瞬、時間が止まる。

 そして、その直後、あらゆる感情の入り交じった暴風が心に吹き荒れた。

 言いようのない懐かしさと、忌むべき瞬間の記憶の苦痛と、喪った悲哀が、凄まじい津波のように押し寄せてくる。

『おまえは俺を決して許さないだろう。それは理解している。きっと誰も俺を許さない。おまえが死を選ぶほどに傷ついたのなら、俺自身も俺を許せないのだから』

 ならば、何故。

『それでも、あの激情が俺から渦巻いて放たれてしまった。時間を遡っても、何度でも、同じことだろう。俺は、もう、止まれない。だから信じられないだろうが、おまえは汚れていない』

 呼吸が止まる。

『俺などに、おまえは汚せない』

 それは──その意味は──でも……!

 視界が揺らぐ。

 肘に触れた優しい手がなければ、便箋を握りしめてしまったかもしれなかった。

 ともに読む鳶色の瞳に、どんな光が宿っているのか。後込みしてしまい確かめられない。

『だから許せと求める訳じゃない。そこまで醜悪で暗愚な者になりたくはない。だというのに』

 手紙を持つ手の甲に、あたたかな掌が触れる。震えを支える、その柱が、読み進める勇気を与えてくれた。

『駄目だ。おまえを誰かのもとに送り出すのが、俺には、どうしても出来ない』

 懊悩の深さと苦患の果てしなさが伝わってくる。

 そうね。

 あなたは私よりも長い時間を苦しんでいた。

 ずっと。

 想像するより、多分、長く。

 苛まれながら。

 兄としての責任から逃げることなく。

 私は、それを知らなかった。知ろうともしなかった。

『だから、結架。俺が傍にいることが、おまえの不幸であるなら、俺は生きてはいられない。生きているかぎり、俺は、おまえを求めてしまう。どうしても欲さずにはいられない。俺ではない者が、おまえに触れるなどと、考えるだけで耐えられない。いつか、その者を殺してしまうだろう』

「……おにいさま……」

 怒りも恨みも消えはしない。憎む気持ちは変わらない。

 けれど。

「……気の毒な人だ」

 呟きが耳許で聴こえる。

「絶対に許せはしない。でも、憐れには感じる。僕は幸運だったけど、彼は不運だった」

「肉親だろうと他人だろうと、相手の心を押さえつけて自分の欲望を通してはいけない。集一くんは結架くんと兄妹だったとして、想いを遂げるために無体を強いるなんてしないだろう。君たちが堅人を慮ることはない」

 慈愛に満ちた表情で断言した鞍木さんを見上げる。

 強く光る瞳に、深い後悔が見えた気がした。

「……でも……きっと誰のせいでもないわ。絶対の悪なんて、この世には無いのだもの」

「そうだな。それでも、絶対の罪はある。許そうとしなくていい。おれのこともだ」

 思わず微笑んでしまった。

「あなたのことは許させて頂戴、興兄さま。失えないの。もう一人だって大切な人が居なくなるのは厭」

 泣き出しそうな表情に、笑みが混じる。

「……そうか。なら、これからも君たちの傍にいるよ」

「ありがとう」

 お兄さまにも、そう言ってもらいたかった。

 私たちと生きてほしかった。

 明るい未来に、ともに進みたかった。

『愛している。結架。俺は、おまえの唯一になりたかった。おまえの世界の総てでありたかった。これを愛ではないと判じる者もいるだろう。だが、俺には、こう言うしかない。愛している。永遠に。俺の存在が世界から消えても。魂ごと滅んでも』

 私も愛していたわ。あなたのそれとは違う種類のものだけれど、確かに愛していた。幸せを願ってた。いつか誰かと、あなたが幸福な家庭を築いて暮らしていくように。私にとっての集一と、あなたが出逢えると信じていた。

 この苦しみが薄れて消える日が、いつか来たとしても。

 あなたを許そうとは思えない。

 でも。

 せめて生まれ変わったら、そのときは。

 あなただけの幸せを手にしてほしい。

 便箋を畳んで封筒に戻す。

 そして、鞍木さんの差し出した手に渡した。

 この家で煙草を吸う人間は昔からいない。

 だから、それは鞍木さんが持参したものだ。

 硝子の灰皿の上に置いた封筒の角にライターの火が近づく。朱色の炎が侵食して、白い紙が黒く変わっていくのを、全員が黙ったまま見守った。

 切実で痛ましい想いを吐露した手紙を、誰も保管しようとは思わなかったから。

 さようなら。

 どうかもう目覚めないで眠って。

 子どもだった私を守ろうとしてくれて、ありがとう。

 けれど、私は、あなたを許さない私を受け入れると決めたの。

 さようなら。

 どうかもう私に忘れる努力をさせて。

 未来のために。

 明日を恐れないために。

 恋慕の鎖は束縛の枷などではなく、互いの心を支える命綱となるべきなのだから。

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