第9場 渡すべき思慕と隠すべき本心

 結架が生家たる折橋邸に戻った。集一とともに。

 それを知った玲子には、安堵するどころか危惧すべきと考えるような知識がある。

「大丈夫かしら……」

 無意識に呟いていたらしい。

「何が?」

 背後から尋ねられた。

 資料室内は無人だと思っていたので、驚いたあまり、手にしていた数枚の紙を落としてしまう。床に散らばった光沢紙に印刷された艶やかな黒と赤が光を反射し、眩しく照る。

 思わず押さえた胸のなかで心臓が跳ね回ろうとするのを、慌ただしい深呼吸で宥めた。

「興甫くん! 吃驚するじゃない。突然、後ろから声かけないでよ」

 拾い上げて揃えた次回の演奏会のチラシ見本と、比較するために取りに来た過去の似たプログラムのチラシを、玲子はファイルに仕舞う。まだ他にも仕事は溜まっているのだ。これだけに多くの時間は割けない。この資料室に長時間いるなど、見つかれば直属の上司から耳障りな小言を頂戴してしまう。鞍木が一緒に事務室に戻ってくれれば、全く問題はないが。

 社長令息である彼は微かに苦笑した。大学で知り合っていなければ、こんなに気安く接することは出来なかっただろう。就職後は態度を改めたほうが良いかと思っていた時期もあったが、彼は不敵な笑みを浮かべて、これまで通りの接し方をしてくれと言ったのだ。明確には言わないが、何かしら、周囲への影響力を考えてのことだろう。おおらかで寛容な人柄と思われるよう振る舞ってはいるが、彼は常態、なかなかに人を喰っている。

「ドアはノックしたんだけどね」

「あ、そうなの? ごめんなさい、気づかなかった」

「いいさ。考え事してたろ」

 即座に返事が出来ない。

 鞍木は、それを特に気にした様子もなく、玲子を手招きして、資料閲覧用の席に対面で腰を下ろした。冷たい座面に気持ちも引き締まる。

「おれで良ければ、聞くよ」

 そう言って笑む顔は、いつもと変わらず優しげであるのに、血色が悪い。目の下に黒々と隈が居座っているのにも、もうそろそろ見慣れてしまいそうだ。

「……あなたの悩みのほうが深刻に見えるわよ」

 そう言うと。

 彼は目を軽く見開いた。

「多分、あたしも、あなたも、心配してるのは結架さんのことだと思うけど。違う?」

「……違わないな」

 鞍木の大きな吐息が、重い荷物を地面に置くのが一時的にしか許されていないのだと暗に語っていて。玲子は、もしや堅人が鞍木にも罪の告白をしていたのかと考えた。

 しかし、それほど待たずに打ち明けられたのは。

「結架くん宛てに堅人の遺書がある」

 思いがけない事実だった。

 あの堅人が?

 数秒間、彼女は反応できなかった。

 その内容が問題だ。

 律儀で誠実で、義理堅い人間である鞍木は、他者宛の信書を盗み読もうとはしない。瞬間的に判じた玲子の考えを、彼は肯定した。

「厳重に封がされていて、でも、渡していいものかどうか判断が出来ないんだ。折角、折橋の家で暮らす決断をするほど恢復しているのに」

 懊悩に疲れはてた、無表情。

「懺悔かしら」

 自身の顔の筋肉が どんな表情を作っているのか、玲子は把握さえ出来ないまま、硬質な声で呟く。

「それなら結架くんの負担にしかならない。性的暴行は魂の殺人だと云うだろう。いくら謝られても、殺された心が元通りになるわけじゃない。赦せと求められるほうが、寧ろ更に傷を負わせるだろう」

 両眼に、まだ激しく燃える怒りがあった。

 懺悔という言葉の意味が自分のそれと違うことに、玲子は小さな吐息を放つ。ならば、この世で堅人の連続殺人を知っているのは。

「なら、渡さなくていいのじゃない?」

「簡単に言うんだな」

 玲子は肩を竦める。恨みがましい目つきをする彼に、気安い調子で答えた。自分が口をつぐめば良いだけだと知り、また堅人が打ち明けたのが自分だけだと確信し、心が軽くなる。

「あなたは責任感が強すぎよ。堅人さんを優先するなら渡せばいい。結架さんを守りきりたいなら燃やせばいい。簡単なことよ」

「おれには、簡単じゃない」

 机に身を伏せた鞍木を、気の毒には思う。

 兄妹との付き合いが長すぎるのだ。玲子とは違い、どちらとも、深い情がある。

「君なら、どうする?」

 くぐもった声の問いかけに、玲子は少し考える振りをしてから答えた。本当は、微塵も迷わず即答できるのに。

「まずは、あたしが読むわ。内容を確認しないと判断できないもの。それでも迷ったら、榊原さんにも先に読んでもらって意見を訊くわね」

 暫く沈黙が続いて。

 やがて、空気が震えた。

「やっぱり、そうか」

「それから、渡すとしても、全文とは限らない。問題があると思った部分は切り取っておくわ」

 掠れた笑い声が小さく漏れる。

「思いきりが良いんだな」

「だって結架さんよ」

 短い答えに、全てを込めた。

「たしかに」

 そうして暫く黙っていた彼が顔を上げたとき。

 その表情からは迷いが消えていた。

「そしたら、頼みがあるんだが」

 とても断れない響きの言葉に、玲子は笑む。

「いいわ。今夜にでも共犯者になってあげる」

 話が早いとばかりに、鞍木も笑んだ。

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