アグトネブリ

安良巻祐介

 ひた、ひた、と。

 静謐に沈んだ道を歩くたびに、後ろから、踵を舐めるものがある。

 ひどく低い姿勢で、こちらの背後にずっとついてきている。

 それを知りながら、ただ、一歩、一歩を続けていく。

 もういつから歩いているかしれない。どこから来たかも、もはや覚えていない。

 顔を上げ、天頂を見れば月。真っ白い雪玉に一滴、藍を滲ましたような、凄絶な色をした月。

 それが、赤紫の氷硝子を張った大空の真ん中に象嵌されて、しらしらと光を放っている。

 尋常の世界ではない。正しき者の棲む壌土ではない。

 往来に描き逃げされた無残絵の中に踏み込んだような、どこか誇張的で、刹那的で、忌まわしい風景。

 けれども、自分には、それがこの上もなくふさわしいのだとわかっている。

 大きく息を吸い込めば、紫陽花の香りに似た空気が肺を満たして、蜘蛛が糸を巡らすように、両の目玉が血走ってゆくのを感じる。

 ひた、と、また踵を舌が舐める。

 その感触が、幾らか頭を涼しくしてくれる。

 口の左端、右端を順に釣り上げて、裸足の歩みをつかの間止めれば、後ろにいるものも、ぴたりと動かなくなる。

 それを確かめ、静かに再び笑ってから、呟く。

 お前が何者で、なぜそこに居るのかは知らぬが、そこに居る限り、お前は俺の影だ。

 その言葉に反応するかのように、後ろの何かはひたり、とまた踵を舐めた。

 承諾なのか、拒絶なのか、わからない。

 だが、それでいい。

 この行く果てない夜道を、一人で歩くよりは、きっと、一人と一頭の方がいい。

 これが夢であることも、夢から二度と醒めないという事も、ずっと前から、とっくにわかっているのだ。

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アグトネブリ 安良巻祐介 @aramaki88

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