光の君
星樹 涼
第1話 教室の窓際の、一番後ろの君
ふと、目が覚めた。
枕元にある眼鏡を手探りで探し当て、前髪をはらってそれを耳にかけ、テンプルを持ってきちんとかけなおす。
眼鏡をかけてもまだぼんやりする視界はきっと、まだ脳が起ききっていない証拠だろう。
ベッドにかかる柔らかい光は窓から差し込んできた朝の報せで、いつもと同じ朝に大きく伸びを一つして足を下した。
そう、いつもと変わらない日々。
だけど確かに、いつもとは違う日。
―――恋をすると世界が違って見えるなんて、嘘だと思っていた―――
でも、それは本当のことだった。
いつもよりも光が明るく見えた。
いつもよりも早く目が覚めた。
いつもよりもワクワクしていた。
学校に行くのが憂鬱だったはずなのに、早く早くと気が急いた。
ベッドから出たくなかったはずなのに、会えると思ったらそわそわして落ち着かない。
スカートはやっぱり標準服にしよう。
ブラウスはどれがいいかな?この淡い黄色のやつにしようか、でもちょっと胸元が開きすぎかな?
……だけど、ちょっとくらい背伸びしてもいいよね。
靴下は膝上までの長いやつ。
髪型は……男子ってポニーテールが好きって本当なのかな?
あ、いけない。汗拭きシートを忘れるところだった。ちゃんと持って行かないと、なんか汗臭いって思われたらいやだもんね。特に、隣の席だし。
髪型崩れちゃうかな?櫛と手鏡を持っていこう。
バスの時間が近付いている。いつもより三十分ほど早いバス。
手早くお弁当箱にご飯を詰め込んで、朝ご飯用におにぎりを作って家を走って出た。
重い荷物も、遠い道のりも、満員電車も、いつもより気にならない。
はやる気持ちを抑え、体力のない自分の体を恨みながら坂道を早足で上る。
長いそれを上った先に見える、白い校舎。
入ってすぐの階段を三階まで上がって、左から二つ目の教室。
昨日と同じくらいの時間に、果たして彼はそこにいた。
一番窓際の、一番後ろの席。私の隣の席。
電気もつけられていない、窓も開けられていないその教室で、彼は自分の腕を枕にして机に突っ伏していた。
彼を起こしてしまわないように、そっと、音をたてないようにカバンを机にかける。
薄いカーテンによって柔らかくされた光が、彼の顔を淡く照らしていた。
きらきらと光が踊っている、なめらかな黒髪。男の子にしては少し長いような気がする。
「ん……」
軽く心臓がはねた、気がした。
耳元でジン……ジン……と血が流れる音がする。
「あれ……園宮。おはよ。今日も?」
「あ、えと、うん、そう。今日は英語。早坂君も、今日も?」
「うん、寝不足。宿題終わんねー」
「わかる。多いよね。もうちょっと、寝てたら?みんなが来るまでまだ時間あるし」
「ん、そうする。おやすみ」
おやすみ。やっとのことでそう返す。おやすみ、だなんて。
いつも使っているふつうの言葉のはずなのに、なんだろう、なぜか、ソワソワする。何がどうしてそう感じるのかは言葉にできないけれど、たった一言が、宝物みたいだ。
ああ、「普通に話す」ってどうやるんだったっけ?
昨日、私は宿題をするためのワークを学校に忘れてしまって、早くに学校に行った。
いつもは結構ぎりぎりだから、静かな教室は初めてだった。
誰もいない、そう思っていたけれど、自分の席に向かったときに、教室の一番端に彼を見つけた。
授業中にも寝ているやつ。
それしか印象はなかった。
授業中に寝ていて、よく先生にあてられて、それでも問題を聞かれたら答えられてしまうやつ。
ただ、さすがに寝ているときに問題を言われていたら答えようがなく「寝ていました」と言って、それがあまりにも堂々としていたものだから先生に苦笑されていたやつ。
授業中に寝るなんて。
いつも、不真面目な奴だと思っていた。だけど、朝の光の中で静かに呼吸している彼は、気高い一枚の絵のようだった。
それがわずかに身じろいで、気怠そうに起き上がってぱちぱちと瞬きをした。
「ん……、園宮。おはよ」
寝ぼけてかすれた声がセクシーで、動きが止まってしまった。
「今日、早いじゃん。どした?」
「園宮?」
「……あ、おはよう。えっと、数学のワーク、忘れちゃって」
「あーね」
「えっと、」
名前もあやふやだった彼だった。
「早坂君、は?」
なんとか思い出した彼の名前。そうだ、たしか弓道をやってるって言ってた人。
「俺は、寝不足」
「弓道、やってるんだっけ?」
「ん。よく覚えてたな。遅くまで、練習だから。それと、課題で寝不足」
「そうなんだ、大変だね。がんばれ」
「ん。ありがと。園宮も」
交わした会話は、たったそれだけ。
だけど、それから、隣が気になって仕方がなかった。
何度でも、寝ていた彼の横顔が思い出された……といっても、授業中に横を向けば高確率で見られたのだけれど。
授業中眠るのなんてありえないといつも思っていたのに、驚くほど、彼を否定する感情が湧いてこなかった。
彼があてられるたびに私もドキッとしたし、体育では、隣のコートでバスケットボールが目の前を通り過ぎても気だるげにあくびをしている彼から目が離せなくなったり。
私よりは高いけれど、それでもさほど高くない身長のはずなのに、なぜか彼の姿だけはすぐに見つけられた。
その時に女子コートで行われていたバレーのボールが私の横顔に直撃したのはタイミングが悪かったとしか言いようがない。
私はずっと、真面目だって言われ続けてきた。校則を破ることはないように気を付けていたし、どんなに短い横断歩道で、しかも車が来ていなかったとしても、信号無視をしたことは一度もない。
中学の時は面白みのないやつだって、遠巻きにされていた。でも、それでもよかった。
私には本があったから。
だけどそれは言い訳だった。
やっぱり友達が欲しかったし、お弁当を一人で食べるのも嫌だった。
ペアを組むように言われたときにいつも最後まで残るのは私だったし、
休み時間もずっと一人で本を読んでいた。
本が友達、なんて。
私がみんなと一緒にいる努力をしないための、言い訳でしかなかった。
多くの人が、私を馬鹿にした。
連絡事項があって話しかけた時に、遊んでばかりで勉強もしていないくせに
「お前いい点数ばっかりとって腹立つ」っていう理由で、いきなり「話しかけんな」と怒鳴りつけてきたやつもいた。
私が頑張ってやってきた宿題を、そういう時だけ話しかけてきて「写させて」って、返事も聞かずに持っていったやつもいた。
授業も真面目に聞かずに、「あの先生は授業がへたくそ。何にもわからん」っていうやつらもいた。聞いていれば、わかるはずなのに。
――――大嫌いだった。
不真面目な奴らが。
私を馬鹿にするやつらが。
そう、授業中に寝るような不真面目な奴は「嫌い」の範囲内だったはずなのに。
「なんでかなぁ……」
ただ、彼の寝顔をきれいと思っただけ。
ただ、声が素敵だと思っただけ。
ただ、もっと見ていたいし、もっと話してみたいと思っただけ。
『好き。』
恋愛小説に出てくるヒロインが感じていた気持ちが私の中でストンと落ちて、私の気持ちになった。
恋というには足りない気がして、
だけどこれを恋と言わずしてなんというのだろう?
英語表現Ⅱの教科書と、すでに予習の終わっているノートを広げて筆箱から空色のシャープペンシルを取り出す。空色に透けるような薄くて淡い、光の丸に一目ぼれして買ったもの。
カチカチとそれの頭をノックして、ノートに芯を這わす直前に一瞬、左隣を盗み見た。
今日も、いい天気。窓から差し込む光が、淡い黄色のカーテンを通してぼんやりとした光の球になって彼を包んでいる。
なめらかに滑る黒鉛。
板書を取るために開けられた右側のページの、一番左上。枠の外。
教室の窓際の、一番後ろの君の名前……
早坂 晃。
誰にも見られないよう、その上に付箋を貼った。
光の君 星樹 涼 @Re3s_Hoshinoki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます