緑色のカーディガン

秋色

第1話


「水平面と45度をなす、なめらかな斜面上の物体の運動を考える。重力加速度の大きさを……」


 ――これって計算してる間に物体は斜面を滑り落ちるんじゃないか? 早く滑り落ちるのを止めないといけないだろ――


 そこでハッとした。何考えてるんだ。これは物理の問題。こんなおかしな事考えてるから浪人してるんだ。いや浪人生活も半年経つと頭がどうかしてくるのだろうか。そう考えると全身の力が抜けていくのを感じた。


 ここは大手予備校の自習室。と言っても大きなバス通りの交差点にある、ガラス張りの自習室だ。程よく繁華街から離れていて地域の安全性もある。ガラス越しに自由を満喫した連中の闊歩かっぽする姿なんてのを見る心配はない。

 自習室を利用するのは契約している浪人生と現役高校生。自習室を利用出来るのは夜の十時までとなっていた。


 そのタイムリミットまであと三十分。今日もまたあまりはかどらなかった。焦りとそして取り敢えず今日一日は終わりだという虚しい安心感。その複雑な思いでため息をつきかけた時、目の前に鮮やかな緑色がチラついた。目を上げるとそこには夏も終わりかけで夜は涼しいというのに襟ギャザーのノースリーブTシャツに薄手の緑色のカーディガンを羽織った十代後半のやせっぽっちの女の子がいた。ちょっと現代風ではないかわいい女の子といった感じ。バブルの頃か、いやゆとりの頃なのか?


 その女の子は事もあろうに真向かいの席に座ってオイラの勉強している問題集をじっと見つめていた。


 ――何なんだよ。こいつ――


 そう思い、苛立った眼でにらむように相手を見ると、相手はまるで無頓着むとんちゃくに微笑んでいる。

「いつもこうやって勉強してるのよね、みんな」


「当たり前だろ。いい大学に入りたいからさ。きみ誰?」


「わたし? 緑色よ」


 ――バカにしてんのか! もう相手するまい――


 そう思って一生懸命問題集に集中しようとするけど、コイツはいなくならない!

 問題集の開いたページの斜面の図を指でたどったりしている。

「それ、今やっている所なんだけど。そんな風にすると見えないだろ! ここにいるって事はきみも受験生なんだろ? 勉強しなくていいのか? 大体何で真正面に座るんだよ」


「ここが一番明るいからよ。勉強なんてしない。せっかくの夏なのに」


「勉強しないのにここを使うのか?」

 思わずあきれて言った。「じゃ百メートルも先に行けばもっと明るい24時間営業の店がいっぱいあるんじゃね」


「そんな遠くまで行けない」


「へー意外とお嬢様なんだ」


「ええ、お嬢様なの」


 お嬢様というのはまんざら皮肉でもなかった。そこはかとなく漂う気品みたいなのがこのコにはある。


「勉強しないなら一体何して生きてくんだよ」


「歌ったり」


 じゃあ尚の事、街なかのカラオケ店にでも行けばと言おうとしたら女の子はもういなかった。




 翌日の夜の自習室


“In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice"


「私がまだ若く傷つきやすかった頃、父があるアドバイスをしてくれた…」


 ――若い方が傷つきやすいのか? 年とったら傷つきにくい? うちの斜め向かいの家のおばあさんは最近だんなさんが亡くなってうつ病になったって聞いたけど?――


 そこでハッとした。ダメだダメだ! 何考えてるんだ。これは英語の長文問題。こんなおかしな事考えてるから浪人してるんだ。いや浪人生活も半年以上経つと頭がどうか……してる!


 眼の前に飛び込んできたのは昨日と同じ緑色のカーディガンだった。あの女の子だ。目の錯覚かと思ったけどやはり同一人物だ。


「なんだ。性懲しょうこりもなくまた来たのか…」


 女の子はこちらの不機嫌も気にせず、相変わらずオイラの眼の前に広げられた問題集のページを興味深そうに見つめている。


「ねえ、ここだけどうして色が違うの?」


 それは問題集の中の大事な熟語にピンクの蛍光マーカーを引いた箇所だった。

 ―― feel like――

 そしてその下には「〜したい気がする」とオイラのちっぽけで薄い字。


「どういう意味?」


「後に 〜ing を持ってきて『〜したい気がする』って事。覚えとこうと思って目立つようにしてみた」


「ええと。覚えときたいのは……何かをしたい気がするって気持ちの事? それを覚えておけないの?」


「あー!もうイライラする! 頭が悪いのか、わざとイライラさせてんのか! ほら2つの熟語、2つの固まりで意味するようなのって覚えておいた方がいいから印をつけてんだよ」


 そう思い切り早口で言ったけど、その説明も頭のいい人の説明の仕方では全然ないと自分で思った。


「じゃ、この2つの固まりには印をつけないの?」


 女の子の華奢な白い指の指す先には ページの下の方にポツリとある会話文中の "Thank you"の二文字。


 ――やっぱ頭悪いんだ――


 一見したら賢そうにも見えるのに可哀想に、と思いながら言った。


「これは『ありがとう』だろ? こんな簡単な言葉には印なんてつけない」


「ありがとうって簡単なの? よく使う?」


 瞳をのぞきこんで聞かれ、どきりとした。皮肉を言われたのかと思い、彼女を見た。肩すれすれの黒髪ときりりとした黒い眉。その下のうるんだような瞳に悪意は無さそうだった。蛍光マーカーに付けたお守りのチャームが面白いのか、クルクル手の中で回して、そのチリンチリンという鈴の音を楽しんでいた。


 母親はガミガミ言うタイプだが、父親は穏やかだ。この春全ての大学にすべってしまったその時に、そして予備校の手続きをした時に、ただオイラの肩に手をかけただけで、父は何も言わなかった。実はこの春、父親の会社が業務不振のため、つまらなくてそのくせ面倒な業務に降格こうかくさせられたらしい。だからお金のやりくりだっていろいろ大変そうだった。なのにダメな自分はごめんとかありがとうとか言えなかったのを実は気にしていた。


 ――あ、もしかして…?――


「ね、もしかしてきみ宗教の勧誘か何か…」と聞こうとした時、緑色のカーディガンのコはもう眼の前にいなかった。だから心の中でそっと言った。


 ――じゃあきらめた方がいいよ。オイラ興味ないからサ、神様に――


 でも神様に興味なくても彼女に興味がないのかどうか自分でも怪しかった。





 さらにその翌日の自習室


「9〜10月頃にかけてできる停滞前線を秋雨前線と言い…」


 今夜は何度辺りを見回しても、あの緑色のカーディガンの女の子は現れない。もう一度ガラス越しに外を見た。

 昼過ぎから降り始めた雨は激しさを増していた。ガラス張りの自習室から見えるのは、空から地面へ強く打ち付けられるおびただしい大粒の雨。


 ――そうだよな。こんな天気の晩に出歩くようなやつなんて、普通いないよな、たとえ予備校に行くんだって――

 

 自習室のフロアにいるのは自分一人きり。夕方には女子高生が二人いたけど、親が車で迎えに来て帰って行った。

 今日はウチの母親も、「こんな日に行くの? そんな勉強熱心だったっけ?」なんて驚いていた。

 せめて勉強しよう、そう決意した自分に霧雨のシャワーのような冷たさが降りかかる。予備校の職員がおもての自動ドアを開けた瞬間に風と一緒に入り込んできた小さな雨の粒子だ。まるで火照った誰かの心を冷やそうとしているかのように。





 その二日後の自習室


「星はそれぞれ寿命を持っていて、どのような最後を迎えるかは星の質量によって異なります。例えば、太陽の場合は、誕生から百億年ほどたつと大きく膨らんで赤色巨星となり、さらに白色矮星はくしょくわいせいという天体になります。太陽より質量が大きい星は、大きく膨らんだのちに超新星爆発を起こして一生を終えます」


 ――そうか。星にだって寿命があるんだ。そう言えば生物では恐竜だって栄華をきわめてたのに絶滅してしまったとあったな。人類もいつかは地上からいなくなるのかもしれないな…――


 遠い眼をしていたと思う。今日、雨上がりの空に虹が架かって綺麗だった事を誰かと共有したいっていう思いが自然と芽生え、そういう気持ちになったのは久し振りだった事に驚いていた。

 その時、眼の前にあの女の子が現れた。前に見た時より元気なく見えた。心なしか頬がこけ、綺麗な緑色のカーディガンも裾にわずかにほつれが見えた。

 でもオイラの心は虹が架かった時の青空より晴れていた。


「や、久し振りに現れたよね? 緑……ちゃん」


「ええ、建物の中でも雨が降り込んで大変だったわ」


「どんなとこに住んでんだよ。でも晴れた。もう湿気に悩まされなくていいよ。ね、見た?今日の虹?」


「虹?」


「そう、あの七色のさ」


「そうか、虹が好きなのね?。七色は私の色よ」


確かにただの緑色に見えていたカーディガンには虹のような光沢があった。


「ここから見ると洋服が七色に光ってる。きれいだ」


 正確には「きれいだ」は洋服にかかっている形容詞ではなかった。オイラの言葉に彼女は少し力ない微笑みで答えた。だから続けて話しかけた。

「今日会えて良かった。親がもっと安い別の学習塾の自習室の契約してさ。だからここ八月で終わりなんだ」


「私もね、そうなのよ。もう来られない」


「何だかさびしいね。いや、また別な所で会えるさ。それとさ、いつも突然いなくなるの、あれ今日はやめろよ。何か本当にムナシイから」


 ――本当にあのコが眼の前から消えたって分かる瞬間、いつだって心の中に秋風が吹いてる――


「分かった。本当はね、ここが急に真っ暗になるのがイヤで逃げてたの。今日出ていく時私も一緒に出てもいい? 明るい道だけを一緒に歩いてくれる?」


「ああ、もちろん」


 目の前の地学のテキストに書かれた退屈な文章さえ自分には、これから待っているひと時への序章に思えてきた。


 そして十時になり、学生達も私服の浪人生達も帰り支度を始めた。バス停も電車の駅もすぐ近くにあった。

 八月の終わりと言っても、もう初秋と言って良かった。街の灯りを見ながら二人で舗道を歩くのは初秋にふさわしい感傷的なひと時だった。


「ねえ、帰りの交通機関は何? バスか電車に乗る所まで明るい道を送っていくよ」

「私ずっと明るくて、飲み物を置いたお店の近くまで送ってほしいの」

「いや、いいから。心配だから乗り物に乗る所まで見送りたいんだ。あ、喉がかわいているんなら、そこの自販機で飲み物を買うよ。何がいい?」

「果汁がいい」

「変わった言い方するね。分かった」

 APPLE100と書かれた缶ジュースを二本買い、一本を彼女に渡すと、建物の縁の段になった所に二人で座った。カーディガンの女の子、緑ちゃんはとても美味しそうにりんごジュースを飲んだ。

 オイラはいい気分になって星空を見上げた。そし地学のテキストにあった言葉を思い出していた。


「星はそれぞれ寿命を持っていて、どのような最期を迎えるかは星の質量によって異なります」


 横を見ると彼女はいなかった。あれだけ突然いなくなるのはムナシイって言ったのに。


 ふと見ると親子三人が手をつなぎ舗道を賑やかに歩いている。母親が二人の娘を連れて歩いているのだった。一人の娘は八才位でもう一人は五才位とまだ幼い。この街では深夜でも小さい子ども連れは珍しくなかった。小さい方の女の子が話す声が聞こえてきた。

「見て。これ、私のブローチよ。キレイでしょ?」

「わぁ、ステキ。ルリちゃん貸して」

「だめ。これ、私のだから」


 それを見たオイラは近眼の目を細め、よく確認しようとした。女の子のクリーム色のワンピースにキラキラ輝くブローチが付いている。

 いや、違う。遠くからそれが何か見極めたオイラは静かにルリちゃんと呼ばれた小さな子に近付いて、言った。

「ね、お兄ちゃんにそのブローチをくれる?」


「イヤよ。これ、私のだもん」

 母親がたしなめた。

「もう! 渡しなさいよ。そんなの、どんなバイ菌がついてるか分からないんだから!」


 半ば強制的にワンピースから「ブローチ」を外すと女の子は恨めしそうにワーンと泣いたが、若い母親からは感謝の眼で見られた。まだ飲んでなかったりんごジュースを手渡すと女の子の涙もたちまち止まった。


 手のひらを開けるとそこにあるのは抹茶のような緑色のカナブン。目の覚めるような緑色に虹色がかっている。貴重なやつだ。胸の中にいつかあのコの言った言葉がよみがえった。

――七色は私の色よ――


 そうか、そうだったのか。そっと親指と人差し指でつまむとカナブンは離してほしいというように身動きした。それで指の力をゆるめるとかすかにブーンという羽音を残し、夜空に飛び立っていった。

 

 その夜、家に帰り、部屋に入ると自分らしくなく涙ぐんでいた。それで勉強に集中しようと、オイラはあわてて乱暴にカバンの中身を机の上にぶちまけた。床に落ちた英語の問題集を拾おうとかがんだ時、開いたページに自分ではないマーカーの引き方のピンク色を発見したんだ。


 ――"Thank you"――


 その瞬間、季節外れの新緑の風が吹いたのを感じた。




 ※中国の伝奇小説集「聊斎志異」の中の「緑衣」をリメイクしたものです。































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