最終話 終幕は虹色
「……千雨」
きらきらと空気中を舞い踊っていた光の粒子が、少しずつ数を減らしていく。
どこか幻想的な風景をぼんやり見つめていたところで、憑代に声をかけられた千雨はゆっくりした動作で彼のほうを見た。
からんころん。もうすっかり聞き慣れてしまった下駄ブーツの足音を奏でながら、こちらへ近づいてきた憑代が手を伸ばし、千雨の頭を一度だけくしゃりと撫でた。
「お疲れ様」
たった一言だったが、その一言には千雨の心を温めて涙腺を緩ませる力がある。
今にも泣きだしそうになるのをこらえ、目をこすって千雨は口を開く。
「憑代さんこそ。誘導、ありがとうございました」
「別に……千雨にはああいう仕事、できないだろ」
手を引っ込め、そう返事をした憑代は、壁にかけられた『最後の愛』を見上げる。
キャンバスの中で紫苑の花束を持ち、こちらを見つめ返してくる女性の表情は、はじめて目にしたときよりも穏やかなように見えた。
じっと『最後の愛』を無言で見つめていた憑代が、ふいに表情を緩めて笑った。
「まさか、こんな封印の仕方を思いつくとは。僕はいつもぐしゃぐしゃの台無しにしてたから、少し新鮮だ」
「憑代さんが言ってたように、ぐしゃぐしゃにするのも一瞬考えたんですけど……今回は、それじゃあ駄目だったような気がしたので」
だから、千雨は新たなものを描き足すことで封印処置を施すのを選んだ。
もし、あそこで力任せに絵美理を封印する方法を選んでいたら、不満を撒き散らすかのように大暴れしていたかもしれない。
(多分、これで呪い絵の力の大部分は削げたと思うから、あとは回収するだけ)
あとは回収してしまえば、今回の事件は幕を下ろす。
そこまで考えたところで――千雨はふと、首を傾げた。
「そういえば……呪い絵の回収ってどうやるんですか? これで終わりですか?」
「いや。あと、この空間内にある呪い絵を壁から外したらいい。……外した瞬間、この空間から弾き出されるから気をつけてくれ」
そう断ってから、憑代が両手を伸ばした。
彼の白い手が額縁に触れ、壁に飾られている『最後の愛』を取り外した。千雨の手によって力を削がれたそれは、抵抗することなくあっさりと壁から憑代の手の中へ移動した。
次の瞬間、ふわっと足元が盛り上がるような感覚が千雨を襲う。驚く間もなく、真っ白な色で目の前が塗りつぶされた。
次に視界が開けたとき、千雨の目に真っ先に映ったのは陽也の部屋の天井だった。
憑代とともに『最後の愛』が作り上げた空間へ飛び込むときは、大量の絵の具でおどろおどろしいことになっていた部屋は、千雨がよく知る元の状態を取り戻していた。
「お疲れ、ツキちゃん。千雨ちゃん」
「……羽々屋、さん……」
「いやぁ、結構手こずったんやなぁ。うわ、ツキちゃんなんか怪我した痕跡あるやん。ホンマお疲れさん……ってうわ、千雨ちゃん危ない危ない」
四季が口にした一言に、は、と千雨は目を見開いた。
床に寝そべっていた状態から慌てて飛び起きた。こちらの顔を覗き込んでいた四季が慌てて背筋を伸ばし、飛び起きた千雨と額がぶつからないようにした。
彼を驚かせてしまったのは申し訳ないと思うが、それ以上に確認しておきたいことがあった。
「あ、あの! 兄さんと憑代さんは……!」
「うん? なんや、一緒に仕事して迷わず心配するほど仲良うなったん? ツキちゃんならそこやで」
四季の指がぴんと伸ばされ、千雨からほんの少し離れた場所を指差した。
壁際に倒れていた憑代を見て思わず悲鳴をあげそうになるが、千雨の喉から悲鳴じみた声があがるより先に憑代の指先が動いた。
「ツキちゃん、はよう起きんと相棒が悲鳴あげんで?」
「……わかってる、ちょっと疲れたんだよ……お前の言うとおり、怪我もしたし……」
彼の白い喉から掠れた声が紡がれた。
千雨の視線の先で寝返りを打ち、緩慢な動作で瞼を持ち上げ、憑代は疲れを滲ませながらも笑ってみせた。
「無事に戻ってこれて何より。相棒」
「……憑代さんこそ」
ほ、と千雨も表情を緩めて言葉を返す。
あの空間の中で負った傷も塞がったままのようで、心の底から安心した。
「ちょっとは落ち着いたみたいやな。千雨ちゃんのお兄さんも無事やで。ただ、結構弱っとるから病院での処置が必要やけど」
その言葉とともに、四季は背後で寝かせていた陽也の身体を軽く叩いた。
姿勢を変えて四つん這いになり、千雨は陽也へと近づいていく。
床に寝かせられている陽也の顔からは苦しそうな気配はなく、落ち着いているようだった。口元に絵の具のような汚れがかすかに付着しているのを見つけ、千雨は服の裾でそれを拭き取った。
「呪い絵の汚染は……」
「もちろん、それもなんとかしとるよ。はー……思うとった以上に汚染がひどくて、千雨ちゃんのお兄さんにも無理させてしもたんは申し訳ないけど……」
そういいながら、四季は懐から極彩色の絵の具が入った瓶をゆらゆらと揺らした。
透明な瓶の中で揺れているその色は、はじめて千雨がパンセリノスに来たときに吐き出したものと同じ色をしている。同じ方法で浄化したとすれば、確かに陽也の身体はかなりの無理をしていそうだ。
「けど、もう大丈夫やで。呪い絵からの汚染は取り除いた、直接的な原因の呪い絵も大人しくさせた。次第に千雨ちゃんのお兄さんは元気になってくで」
千雨ちゃんも頑張ったな、お疲れさん。
四季の優しい声が鼓膜を揺らし、千雨の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
もう大丈夫。
全てが無事に終わったことを意味する言葉を聞けば、気が緩んだ影響で千雨の身体から力が抜け、どっと疲労感が襲いかかった。
身体が急速に重たくなっていき、それに従って瞼も下へ下へと下がっていってしまう。
ちゃんと起きていないと――頭ではわかっているのに、千雨の身体はなかなか言うことを聞いてくれなかった。
「……慣れないことをして疲れたんやね」
「当然だろ……。普通は、一般人が修繕画師の仕事を手伝うことなんてないんだから」
四季の声に、憑代の声が混ざる。
なんとか瞼を持ち上げて視線を向ければ、起き上がってこちらに近づいてくる憑代の姿が見えた。
千雨が名前を呼ぶよりも早く、憑代の手が頭に触れる。
一回、二回。まるで壊れ物を扱うかのような手付きで千雨の頭を撫で、憑代は表情を緩ませた。
「……少し休んでろ。あとのことは、全部僕と四季でやっておくから」
「具体的には、千雨ちゃんのお兄さんを病院につれてったりとかな。千雨ちゃんはちょいと休んどき」
そういうわけにはいかない――と言葉を返したくても、安堵感から強い眠気に襲われた身体では上手く言葉が出てこない。
憑代の手が眠気を誘う手付きで頭を撫でてきていることもあり、千雨は真白い眠気に囚われたまま、かくんと頷いた。
「……良い子だ」
憑代が小さな声で呟く。
彼の表情を直接見ることはできなかったが、おそらく穏やかな顔をしているだろうことは予想できた。
一定のリズムで撫でてくれていた憑代の手が離れ、かわりに彼の唇が耳元へ寄せられる。
「おやすみ、相棒。僕の恩人。きっと、僕とあんたが出会うことはもうないだろう」
耳元で囁かれた言葉の意味を完全に理解する前に、千雨の意識はぷつりと途切れた。
千雨が再び目を覚ます頃には、世界は呪い絵の存在を知る前の状態に戻っていた。
さすがに全てが全て元通りというわけにはいかなかったが、呪い絵の影響を受けていたように理解できない現象が次から次に起きることはなかった。
(まあ、よくよく考えたら呪い絵の力が抑え込まれたわけだから……そうなって当然だよね)
ところどころに爪痕は残っているけれど、ようやく戻ってきた日常を、千雨は噛みしめるように過ごしている。
「兄さん、具合はどう?」
普段どおりに授業を受けた放課後。
真っ白い廊下を歩き、ここ数日ほぼ毎日のペースで通っている病室を覗き込み、千雨は室内にいる陽也へと声をかけた。
呪い絵の影響から逃れた陽也は、四季や憑代の手引きもあり、ここ数日彩鳥総合病院で入院している。千雨は後に連絡をとってきた四季から聞いただけだが、陽也を診察した医師は衰弱した彼を見て、あっという間に入院を決定してくれたらしい。
完全に体調が戻り、検査でも問題ないと判断されるまでは入院が続きそうなくらいの勢いやったで――と語ってくれた四季の声は、今でもはっきり思い出せる。
清潔感に溢れた白い部屋の中で、上体を起こした状態で窓の外を見ていた陽也は、千雨の声が聞こえた途端にこちらへ顔を向けた。
「今日も来てくれたのか、千雨」
「当然でしょ? お父さんとお母さんにも、兄さんの状態を教えなきゃいけないんだから」
そういって、千雨は病室内に足を踏み入れた。
千雨が頻繁に陽也のお見舞いに来るのは、彼のことが心配だったという理由の他に、両親に彼の状態を伝えるためという理由もあった。
さすがに全てをそのまま伝えるわけにはいかなかったが、陽也が入院したことは両親にも伝えておいたほうがいいと判断し、定期連絡がきた際に千雨から伝えたのだ。
お見舞いの品物として持ってきたフルーツの盛り合わせをサイドテーブルに置き、ベッドの傍に設置されているパイプ椅子に腰掛ける。
「それで、体調は? 悪化してない?」
「平気平気。体感ではもうすっかりいつもどおりなんだけどなぁ……」
「駄目だよ兄さん。ここ最近、体調が悪い日が続いてたんだから。部屋で倒れてたんだし、しっかり入院して診てもらわないと」
唇を尖らせ、千雨は持ってきたフルーツの盛り合わせの中からリンゴを選んで手にとった。赤くつやつやとしたそれにナイフの刃を当て、するする皮をむいていく。
部屋で倒れていた――表向きは、そのようなことになっている。実際、千雨は倒れていた陽也を目にしたわけであって、まるっきり嘘ではない。
ただ、真実を話しても信じてもらえなさそうな部分――呪い絵という絵画に宿る怪異が原因であることは伏せているだけだ。
「わかってはいるんだけど、やっぱり暇なんだよなぁ……。まあ、退院許可が出るまではしっかり身体を休めるよ」
リンゴの皮をむいていく妹を見つめながら、陽也は苦笑いを浮かべて言葉を続ける。
「本当にありがとう、迷惑かけて悪いな」
「気にしないで、兄さんはしっかり体調を整えることに集中して」
絵美理さんも心配するんだから――。
口から出てきそうになったその一言を飲み込む。
呪い絵の影響から抜け出した結果、陽也はあれだけ親しくしていた絵美理のことを綺麗さっぱり忘れていた。
彼の記憶だけでなく、世界のありとあらゆる場所から羽井絵美理という人物が存在していた事実は消え去っている。
故に、今の陽也にその名前を出しても首を傾げられるだけだ。
「千雨?」
「……なんでもない。とにかく、兄さんはしっかり入院すること。じゃないと、お父さんもお母さんも心配するんだから」
綺麗に皮をむいたリンゴへナイフの刃を滑り込ませながら、千雨も苦笑いを浮かべる。
不自然なところで言葉に詰まった千雨の様子を不思議そうに見つめていたが、あまり深く追求する気はないらしく、陽也は再び苦笑いを浮かべた。
薄く黄色に色づいたリンゴを食べやすい大きさに切り分けた千雨は、さも今思い出しましたと言いたげな様子で言葉を重ねた。
「そういえば……兄さんの部屋にあった絵、修復しないといけない箇所があったから業者の人に持っていってもらったよ。上手く修復できるかわからないそうだけど……」
「そうなのか? 保存には気を使ってたつもりなんだけどな……まあ、修復したほうがいいところがあるなら業者の人に任せるか」
食べやすい大きさになったリンゴを乗せた紙皿を陽也へ差し出す。
真実を伝えずにいるのは少々申し訳ない気持ちもあったが、正直に話しても陽也は首を傾げてしまうだろう。
それに、絵画の中に潜むものに狙われていました――なんて話したら、不安を感じてしまうだろう。
それなら、おそらくだが話さないほうがいい。
(本当のことを知っているのは、私だけで十分だ)
実の兄に対し、嘘に嘘を重ねてしまうのには罪悪感があるけれど。
今の今まで人間ではないものに命を削られていたのだ、これからは普段どおりに――絵美理と出会う前のように過ごしてほしい。
真実を知っているのは、春咲家の中で千雨ただ一人だけでいい。
陽也のお見舞いが終わったあと、千雨はその足でもう一つの目的地に向かった。
陽也が入院しているという現実はあるけれど、呪い絵に日常を侵食される日々は過ぎ去った。このまま何事もなく、元の日常に戻っていく選択肢もあったが、千雨はそれをする気はなかった。
病院から向かうのは、何度も歩いた道。今回の事件が起きている間、何度か世話になった店だ。
車が道路を走っていくのを横目に、通りを大股で進んでいく。喫茶店をはじめとしたさまざまな店が並ぶ中から目的の店を選ぶと、千雨は迷いのない足取りでそこの扉を開いた。
千雨が足を踏み入れたのは――四季が店主を務めるカフェバー。パンセリノスだ。
「うん? お客さん? 悪いけどまだ準備が……」
「こんにちは、羽々屋さん」
店内は相変わらず落ち着いた雰囲気でまとめられており、まだ準備中のため、千雨以外の客は一人も見当たらない。
店主こと四季はカウンターの向こう側にしゃがんで作業をしていたが、千雨の声を聞いた瞬間にひょこりと顔を出した。
「あれ。千雨ちゃんやん。どうしたん? もうウチらの手は必要のうなったはずやろ?」
そういって、四季は不思議そうに首を傾げる。カウンターの向こう側から顔を出した姿勢をやめて立ち上がり、千雨へ手招きをした。
「そうなんですけど……少し、羽々屋さんにお聞きしたいことがあって」
彼の手招きに応じ、千雨は返事をしながら四季がいるカウンターのほうへ向かっていった。
憑代に話を聞いてもらったあのときと同じように、椅子に座る。
四季も四季で、手早く飲み物を用意して千雨の前に置くと、適当な椅子を用意して腰掛けた。
「ウチに聞きたいこと? ええよ、ウチが答えられることやったら何でも答えたる」
「ありがとうございます。……その……」
用意してもらった飲み物で喉を潤してから、千雨は口を開いた。
「羽々屋さんは……憑代さんの正体について、ご存知ですか?」
恐る恐る千雨が問いかけた瞬間、四季の動きが一瞬止まった。
彼の顔からいつも浮かべている笑みが消え去り、真顔に変化する。
普段へらへら笑っている相手の真顔にはかなりの威力があり、千雨は一瞬問いかけたことを後悔したくなった。
「そういう言葉が出るっちゅうことは……千雨ちゃんはツキちゃんの正体について、知ったんやな?」
「は……はい。その、『最後の愛』を回収したときに……。絵美理さん……じゃなくて、『最後の愛』が裏切り者の同族殺しって言ってたので……」
「あー、あんときか……。無駄に怖がらせとうなかったから、できれば秘密にしときたかったんやけどなぁ……」
でも、知ってしもたんならもう隠す必要もないか。
小さな声で呟いて、四季は深く溜息をつき、苦笑いを浮かべた。
テーブルに頬杖をついた彼からは、先ほどまで確かにあった威圧感は全く感じなくなっていた。
「知っとるよ。ウチはツキちゃんの正体を知っとる。知っててバディを組んどる」
まあ、今回はそのバディの座に千雨ちゃんを座らせたわけやけど。
からから笑って付け足したあと、四季は目を細めてどこか寂しそうにも見える笑みを浮かべた。
「……ウチはツキちゃんが修繕画師になる前、前のバディと一緒にツキちゃんの回収に向かったんよ」
「え……でも、憑代さんは人間を食べないって」
あの空間の中で憑代が口にしていた言葉が、千雨の頭の中に思い浮かぶ。あのとき、憑代は人間を食べないと確かに口にしていたはずだ。
自然と唇からこぼれた疑問に対し、四季の声が答える。
「せやで。当時のウチと……前のバディは、人間を食らう呪い絵しか知らんかったから、今回もそうやと思っとった。けど、ツキちゃんは当時から人間を食べようとせんかったんよ」
どこか懐かしそうに目を細め、四季は昔話を語り始めた。
「呪い絵は、自らの目的のために人間を食らうっちゅう話は覚えとる?」
「はい……」
「ツキちゃんこと『紅玉の瞳の子』は、作者が死亡する直前に完成させた絵なんよ。若い頃、一度だけ会うたことがある人にもう一度会いたいと願いながら。自分の命が尽きる直前まで抱え続けた願いは、ツキちゃんを呪い絵にするには十分すぎるほどやったんやろうなぁ……」
命を落とす直前に完成した、一枚の絵画。
『紅玉の瞳の子』を描きながら、目的の人物にもう一度会いたいと願い続けた作者は――一体、どれだけの思いをキャンバスに詰め込んだのだろう。
「そうして生まれた『紅玉の瞳の子』は、作者が会いたいと思うとった人物と同じ見た目を得た。せやから、人間になって作者の目の前に現れることを目標としとったんやけど……作者はキャンバスに描かれたツキちゃんを見て、満足してしもうた」
自分が生まれたその日に、憑代は自分が生まれた意味を達成してしまった。
作者に強く強く望まれて生まれ、その日のうちに作者がずっと抱えていた願いを叶えてしまった。
それはつまり、憑代が人間を食らう必要がなくなったということだ。
「じゃあ、憑代さんは……」
「人間を食らって力をつけて、人間になる理由を生まれた瞬間に見失った……そういう特殊な呪い絵なんよ。あの子は」
当時の四季とバディは、そのことを知らずに『紅玉の瞳の子』の回収へ向かった。そして、他の誰でもない憑代自身の口から彼が抱えていた真実を聞かされた。
呪い絵は人間にとって危険なものだという意識が強かったため、それはそれは四季もバディを組んでいた修繕画師も驚いた――と四季は語る。
「当時のツキちゃんからは、他の呪い絵みたいな殺気とか敵意とかは感じられへんかったんやけど……なんせ相手は呪い絵や。最終的にどうするか、ウチとバディの間ではかなりの言い争いに近い相談があった」
「それは……やっぱり、憑代さんが人間を食べる種族だから……でしょうか」
「せやで」
予想はできていたとはいえ、返ってきた言葉は千雨の心をわずかに刺した。
「今は目的を見失って大人しい。でも、他に目的ができてしまった場合は? その場合、確実に人を食う。なら、無害なうちに封印しとくんがいい……ってのが、当時のウチの意見」
「対するバディさんのほうは……?」
「飼いならすべきやって言うたんよ」
四季の口から語られた一言に、千雨は思わず目を見開いた。
今、彼は――正確にいえば、彼の元バディは飼いならすと口にした。
人間を食らうものを飼いならすというのは、当時の修繕画師も思いついたことがなかったことなのではないか。
千雨の顔から、その疑問を読み取ったのだろう。四季はくつくつと肩を揺らして笑い、「そのとおり」と呟いた。
「ウチも正気か思うたで。けど、あの人は本気やったみたいでなぁ……なーんも目的がなかったツキちゃんに名前を与えて、呪い絵やなくて人間みたいに接して、修繕画師の立場を与えたんよ」
なるほど、呪い絵の身でありながら修繕画師になったことに対する疑問が今まであったが――憑代には、そういう事情があったのか。
納得するように頷いた千雨を見つめ、四季もつられるように小さく頷いた。
「ま、そういう事情があったから、ウチはツキちゃんが呪い絵って知っとるんよ」
「よくわかりました。答えてくれてありがとうございます、羽々屋さん」
深々と頭を下げ、千雨は感謝の言葉を口にする。
前提条件が成り立つのなら、千雨が本当に知りたいと思っていることも聞ける可能性が高い。
もう一度喉を潤し、大きく深呼吸して、千雨は口を開いた。
「……じゃあ、人間を食べない呪い絵は……最終的にどうなるのか、知ってますか?」
絵美理が言っていた『人間を食べずにいるのは自ら餓死しようとしているようなもの』という言葉。この言葉から、ずっと人間を食べずにいることは呪い絵にとって良くないことだと予想がつく。
では、具体的にどのような悪影響があり、最終的に憑代は――千雨の恩人はどうなってしまうのか、気になって仕方がなかった。
真っ直ぐな目で問いかけてきた千雨を見つめ、何やら思考を巡らせたのち、四季は小さく息を吐いて口を開いた。
「白状すると、最終的に消滅する」
「……!」
「なんも食べへんでおると、人間やって餓死するやろ? それと似たようなもんや。自分のことを覚えくれとる人間がいれば、それを生命線にできるけど……ツキちゃんは現状、多くの同業者に呪い絵であることを隠しとる。せやから、だんだん弱っていっとるんよ」
昔はウチともう一人おったけど、今はあの子もおらへんし、ウチ一人だけじゃツキちゃんの存在を繋ぐんは限界がある。
四季が苦々しい顔をして、深く息を吐きだした。
(憑代さんと私がバディを組むときに羽々屋さんが言ってたのは、そういうことだったんだ)
困るのはツキちゃんやで――。
憑代が千雨とバディを組む際、反対する憑代へ言い放った四季の言葉がよみがえる。
あの瞬間は必死すぎて深く考えていなかったが、おそらくここで憑代の正体を知る人物を新たに獲得しなければ、将来存在を保てなくなる可能性が高かったのだろう。
(……そういう背景があるのなら)
千雨の心の奥底に、密かに存在していた決意が急速に固まっていく。
膝の上で手を握りしめ、数秒の空白ののち、千雨は口元にゆっくりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、羽々屋さん。……ところで、憑代さんは今どちらに?」
「ツキちゃん? ツキちゃんなら、奥の部屋におると思うけど……なになに、千雨ちゃんなんか企んどるん?」
「企んでるなんて失礼な」
椅子からゆっくり立ち上がりながら、千雨は苦笑いを浮かべた。
企んでいるというわけではないけれど、四季にはここまでいろんなことを教えてもらったのだ。彼には先に何を考えているのか伝えてもいいかもしれない。
「私は、ただ――」
心の奥底に抱えている、ささやかな思いを口にする。
それを聞いた四季は目をまん丸く見開いたのち、楽しそうに口元を歪めてみせた。
「……千雨ちゃん、この一件でずいぶん勇気のある子になったやん」
「非日常の世界にがっつり触れてしまったので、それならもういけるところまでいったほうが……と思ったので」
一度足を踏み入れたことがある、パンセリノスの奥の廊下。
そこにもう一度足を踏み入れた千雨は、以前とは異なり、迷いのない足取りで廊下を進んでいった。
今回目指すのは、以前来たときに見つけた呪い絵が保管されている部屋でもなく、応接室でもない――よりプライベートな空間にある部屋。憑代の私室だ。
『ツキちゃん、ここ数日ずっと部屋の中におるみたいなんよ。『最後の愛』との戦いで結構疲れたやろうから、そのせいかなーとは思っとるんやけど』
千雨がここへ足を踏み入れる前、四季はカウンターに上体を預けながらそういっていた。
『最後の愛』の回収はそれなりに手がかかったうえに、憑代も負傷していた。回復のために部屋で大人しくしているという可能性は十分ありそうだが――今、憑代が部屋で閉じこもっているのはそれだけではないような気がした。
(だって、憑代さん、あのとき一生の別れみたいなことを言ってた)
『おやすみ、相棒。僕の恩人。きっと、僕とあんたが出会うことはもうないだろう』
『最後の愛』の回収を終えて戻ってきたあの日、千雨の耳元で憑代はそういった。
一体どういうことなのか聞き出す前に千雨の意識が途切れてしまったので、どういうつもりであの言葉を口にしたのか謎に包まれたままだ。
けれど、あの日から千雨は憑代の姿を見なくなった。憑代も、あの事件が終わってから部屋に閉じこもるようになった。
(もしかしたら、憑代さんは私ともう会わないつもりなのかもしれない)
もう会わないつもりだったからこそ、一生の別れのような言葉を口にしたのかもしれない。
そのように考えたら彼の行動にも納得がいくが、あまりにも一方的すぎる。
(私はまだ、憑代さんとさよならする気はないのに)
最終的に彼が消滅してしまう可能性があるのなら、なおさらだ。
千雨の足音だけが響く廊下の奥。少々わかりにくい箇所にある虹色のプレートで飾られた扉を見つけると、千雨はその前で足を止めた。
『虹色のドアプレートがついた扉がツキちゃんの部屋やから。そこ覗いたら、かなりの高確率で会えると思うで』
「……羽々屋さんがああいってたから……ここだ」
大きく深呼吸をし、千雨は軽く扉をノックした。
扉の向こう側から返事はない。けれど、ほんのわずかに誰かが動いたような気配を感じた。
ここに、憑代がいる。
確信してからの千雨の行動は、とても早かった。
「憑代さん! お邪魔します!」
「!? は、なっ……え、千雨!?」
綺麗に磨かれたドアノブを握り、大声で呼びかけながら千雨は勢いよく扉を開けた。
鍵はかけられていなかったらしく、なんの抵抗もなく扉は開き、室内の様子を千雨の視界に映し出した。
シンプルにまとめられた室内には、私物らしいものはほとんど置かれていない。黒と白を基調にした必要最低限の家具と仕事に使われると思われる絵筆や画材が設置されている。
そして、壁には憑代と瓜二つの少年が描かれた一枚の絵画が飾られていた。
呪い絵の世界に触れた今ならわかる。あの絵画は、呪い絵『紅玉の瞳の子』――憑代の本体だ。
絵画の前に座り、扉に背を向けていた憑代が慌てて振り返る。
唐突に現れた千雨の姿に目を白黒とさせている様子は、少しだけ意外なように映った。
数日ぶりに目にする憑代を前に、千雨はわずかに表情を緩めてから室内に足を踏み入れた。
「ひどいじゃないですか、憑代さん。最後の最後で、あんなに寂しいことを言うなんて」
「ちょっ……と待て。待て!」
後ろ手で扉を閉め、千雨は憑代との距離をどんどん詰めていく。
呆然としていた憑代だったが、我に返ると慌てて片手を前に出して千雨へ制止をかけた。
ちょうど憑代の真正面に来たところで、千雨の足がぴたりと止まる。
しばらくの無言が続く。
憑代の部屋に広がった静寂を打ち破ったのは、部屋の主である憑代自身の声だった。
「……千雨は、気味が悪いと感じないのか。自分の傍にいたのが、兄を苦しめてるのと同じ呪い絵だったって知って」
千雨が何か言う前に、憑代がさらに言葉を重ねる。
「今回の事件、あんたははじめて呪い絵に遭遇して、呪い絵の被害を受けた。事件の最中だって、たびたび怯えた顔をしてた。……あのときは相棒として封印処置を手伝ってくれたが、正直もう呪い絵とは関わりたくないだろう?」
「だから、最後にあんなことを言って関わりを断とうとしたんですか?」
憑代からの返事はない。
それを無言の肯定と捉え、千雨は深く溜息をついた。
はじめて遭遇した呪い絵の事件で疲れ切っているだろう千雨を気遣ってくれたのは、正直なことを言うと嬉しい。けれど、こちらに選択するチャンスを与えず、一方的に繋がりを断とうとしてきたのは少し気に入らない。
「……憑代さん。確かに私は今回の事件で怖い思いをしたし、平凡とは言えない非日常の世界に触れました。でも、怖いから見なかったことにはしたくないんです」
呪い絵という、日常を知らない間に侵食してくるものの存在を知った。そして、実際に被害を受けた。
そのような経験をしたあとでは、怖かったから見なかったことにする気にはなれなかった。
むしろ、現実逃避をせずにきちんと向き合うべきだと――千雨はそのように考えたのだ。
「一度知ってしまったからこそ、ちゃんと向き合いたい」
「……」
「それに、憑代さんには飢え死にしてほしくありませんし」
は、と憑代の目が再び見開かれた。
一体誰からそれを――と唇が動きかけ、すぐに四季から聞いた可能性に気付き、厄介そうな顔をして舌打ちをした。
忌々しそうにも見える顔に一瞬怯みかけたが、即座に気を取り直し、千雨はさらに言葉を続けた。
「私も正式に憑代さんを――『紅玉の瞳の子』を覚えている一人になれば、憑代さんを支えられる。修繕画師になることができれば、もっと憑代さんを支えられるかもしれない」
憑代は、なんの言葉も返さない。
「……憑代さんは、私のことを恩人だって言って助けてくれたじゃないですか。なら、今度は私が憑代さんを助ける番です」
そうだ、憑代は道案内しただけの千雨を恩人と呼んで助けてくれた。千雨を守り、陽也を助け、呪い絵の支配を受けていた春咲兄妹を日常に戻してくれた。
一連の事件を経験した今の千雨にとって、憑代は恩人だ。ならば、恩返しとして同じことを返したい。
「お願いします。私も、憑代さんを助けたいんです」
念押しするように一言付け足し、千雨は唇を閉ざした。
再び物音一つしない静寂が千雨と憑代を包み込む。
はたしてどれくらいの時間が経っただろうか――長い静寂のあと、憑代が大きく息を吸い、深く吐き出した。
「……変な人間だな、あんたも」
独り言のように呟き、憑代は困ったように笑う。
「いいのか? これ以上踏み込んだら、平凡な日常には戻ってこれなくなる」
「……わかってます」
「もしかしたら、今回以上に怖い目にあうかもしれない。僕みたいな例外もいるが、呪い絵のほとんどは人間にとって恐ろしいものだ」
「覚悟も、できてます」
返す言葉には、一切の嘘は含まれていない。
不安ではないのかと問われたら嘘になるが、恩人が消滅するかもしれない恐怖に比べたらなんてことはない。きっと、乗り越えられるはずだ。
「簡単に揺らぐような覚悟ではありませんよ、私の覚悟は」
千雨はそういって、唇の端を持ち上げて笑みを浮かべてみせた。
再びの数分の空白を置き、憑代はぐしゃぐしゃと自分の髪を乱暴に混ぜ、溜息をついた。
さらに少しの時間が空いてから、憑代の唇に不器用な笑みが浮かんだ。
「本当に……変な奴」
ほんのわずかに肩を揺らし、紡がれた言葉はどこか柔らかく聞こえた。
「……後々から後悔しても知らないからな」
「後悔なんかしないから大丈夫ですって」
苦笑いを浮かべつつ、憑代は目の前にいる千雨に向かって手を伸ばす。
千雨も少し得意げな笑みを浮かべ、憑代の手を握ると、あのときのように何かが繋がるような感覚がした。
平々凡々の日常を捨て、非日常と同居する世界へと向かうのは、恐怖や不安もある。
それでも、目の前の相棒と一緒ならどんなものとでも向き合えるような気がした。
「これからよろしく、相棒」
「こちらこそ、よろしくお願いします。パートナー」
その言葉とともに、千雨と憑代はどちらからともなく笑いあった。
リペティファクターの絵筆 神無月もなか @monaka_kannaduki
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