第8話 決戦は紫苑色(後編)

 世界がひっくり返ったような衝撃が走った。

 千雨の中でも大体の予想はできていたが、自分の中だけに出ている予想なら違うと否定することもできた。しかし、実際に口に出されてしまえば現実を認めるしかなかった。

 裏切り者の同族殺し。『紅玉の瞳の子』。

 絵美理が口にした言葉は、ずっと頼りにしてきた憑代が人間とは異なる存在である事実を示していた。

 人間とは異なるもの。生き物の血液ではなく、ぐちゃぐちゃに混ぜた絵の具のような血をもつもの。

 絵美理、もとい『最後の愛』の同族――呪い絵。

「……憑代さんが……呪い絵……?」

 唇からこぼれ落ちた千雨の声は、はっきりと震えていた。

 視線の先にいる憑代は、苦々しい顔のまま傷口と思われる箇所を押さえている。

「でも、憑代さんは……人間じゃ……」

「千雨ちゃんがそう思い込んでただけよ。千雨ちゃんだってもうわかってるでしょう? 私たちは、人の姿を得て人の世界に溶け込むものもいるって」

 それは――千雨の頭の中にもしっかり刻み込まれている事実だ。

 実際に、絵美理がそうしていた。羽井絵美理という名前を名乗り、人間の世界に溶け込み、生活を送っていた。普通の人間たちと同じように。

 憑代も、同じようにしていたのだ。人の姿を得て、普通の人間と同じように生き、修繕画師として筆を振るっていた。

 否定してほしい。憑代本人の口から、違うという言葉が聞きたい。

 けれど、現実はことごとく千雨の願いとは正反対になるもので、憑代の口から呪い絵であることを否定する言葉は紡がれなかった。

 ぐっと唇を固く結び、気まずそうな顔をする憑代の姿は、きちんと言葉にしなくても絵美理が口にした言葉が真実であると肯定している。

 何も言わない憑代に対し、絵美理は腕組みをして理解できないと言いたげな顔で呟いた。

「……人間の世界に溶け込んで人間を食らうんじゃなくて、修繕画師になって私たち他の呪い絵の邪魔をするなんて。一体何を考えているの? 人間なんて、私たちにとって願いを叶えるために必要な餌みたいなものじゃない」

 その言葉を耳にした瞬間、憑代の目に剣呑な光が宿った。

 千雨がよく知っている穏やかな赤ではなく、勢いよく燃え盛る炎を思い出させる強く鮮烈な怒りに満ちた瞳。

 片手で傷口を押さえたまま、憑代が千雨の腕の中で身じろぎする。絵筆がなくなり、自由になった手で千雨の肩に触れて立ち上がった。

 彼の指の間からマーブル模様をした絵の具が流れ、ぼたぼたとカーペットの上に落ちていく。

「つ、憑代さん、そんなに急に動いたら……!」

「大丈夫だ」

 千雨は慌てて憑代を引き留めようと手を伸ばしたが、彼の声を聞いた瞬間に動けなくなった。

 色鮮やかで、ぞっとするほどの感情は怒りを通り越して殺気に近いものすら感じさせた。

 懐からもう一本絵筆を取り出した憑代の唇から、怒気に満ちた声が紡がれる。

「僕にとって、人間は餌じゃない。寄り添っていきたい大切な存在だ。大切で、守るべき存在」

 憑代が持つ絵筆の先に、臙脂色の絵の具が染み出してくる。

 それを自分の身体に――ちょうど傷口の辺りに塗り込んで、憑代は手の中で筆を回転させた。

 ぽたぽたとカーペットに滴っていた絵の具がなくなっている。おそらく、あの一瞬で手当をしたのだろう。

「呪い絵の中では異端だってわかってる。けど、僕は人間が好きだ。僕ら呪い絵だけじゃない、いろいろな美しいものを作り出す人間たちが好きだ。とても気に入っているし、尊敬もしている」

 ほんの一瞬だけ、憑代の表情が和らいだ。

 何かを愛おしく思う、穏やかな笑顔。

 次の瞬間には、再び色濃い憤怒で塗り替えられたが、ほんの一瞬だけ見せた彼の表情に嘘はないと感じられた。

「だからこそ、僕はお前たちが許せない。人間に害をなし、自身の欲望を満たすために人間を食らうお前たちが許せない」

「だから、わざわざ修繕画師になったの? 正気じゃないわ」

「どうとでも言えばいい。僕からすれば、お前たちのほうが正気じゃない」

「私たち呪い絵の本能を否定する気? 人間気取りなんて、虚しくならないのかしら」

 馬鹿にするかのように絵美理が唇を持ち上げて笑う。

 彼女の笑みと言葉に対し、憑代は一瞬表情に強い怒りを滲ませたが、深い吐息とともにそれを吐き出した。

「虚しくなんてならないさ」

 短く返事をした直後、憑代がカーペットを蹴って駆け出した。

 軽やかな下駄の音をたてて開いていた絵美理との距離を詰め、筆先に付着していた絵の具で絵美理の腕へ臙脂色の一本線を描いた。

 絵の具が肌に付着した瞬間、絵美理の表情が揺らぐ。描かれた線からは細かい線が伸びて根を張り、絡みついていく。臙脂色の根が張った絵美理の片腕は次第に色あせていき、肌の表面が乾いた絵の具のようにひび割れていった。

 続いて二筆目を浴びせかけようと憑代の手が動く。しかし、憑代の筆が届くよりも早く絵美理が動き、力強く床を踏み鳴らして棘による壁を作り出した。

 振るった筆先は棘を臙脂色に染め、本来狙っていた絵美理に届くことはない。

「とっさの判断が速いな、腹が立つ」

「腹が立つのはこっちよ。これだから嫌なのよ、修繕画師どもが使う筆は!」

 苛立ちが混じった声で絵美理が吠え、絵の具がついたところを中心に棘が崩れ去った直後に憑代の身体を思い切り蹴飛ばした。

 人ではないものだけあって、身体能力や力の強さも人間からかけ離れているのだろう。憑代の身体が一瞬床から離れ、重力に従ってカーペットの上へと叩きつけられた。

 人外同士の戦いをどうすることもできず、眺めるだけだった千雨の口から思わず悲鳴が溢れた。

「大丈夫ですか、憑代さん!」

「ッげほ……だ、い、じょうぶ、だ!」

 床に転がった姿勢で苦しそうに咳き込んでいたが、千雨の悲鳴を聞いた瞬間、憑代は手元の筆を握り直して再び立ち上がった。

 紅玉色をした瞳の奥では、呪い絵に対しての怒りのほかに強い意志が燃えている。

 大きなダメージを受けてもなお立ち上がる憑代を見て、絵美理は鬱陶しそうに顔を歪めた。

 かと思えば、何かを思いついたような顔をし、ちらりと千雨を見た。

「……ねえ、千雨ちゃん。千雨ちゃんは、この裏切り者を許せるの?」

「え……?」

 許せるとは――一体?

「あなたがずっと一緒に行動してきた修繕画師は、人間のふりをした呪い絵だった。修繕画師のふりをして、あなたに近づいて、相談に乗って――普通の人間ですって顔をして、あなたをずっと騙していたような奴だわ?」

 千雨の唇が真一文字に結ばれる。

「人間は餌じゃないなんて言ってたけど、嘘をついてるだけかもしれない。そもそも、私たち呪い絵が人間を食べずにいるなんて不可能に近いのよ。意図して人間を食べないなんて、自ら餓死しようとしてるようなものよ」

「千雨、聞き流せ」

 絵美理の唇から流れるように言葉が紡がれていく。

 彼女が紡ぐ言葉一つ一つが、千雨の心を揺さぶって憑代への疑心を植え付けた。

 絵美理が何をしようとしているか気付いたらしく、憑代が慌てて千雨へと呼びかけるが、絵美理はさらに疑心へと繋がりそうな言葉を口にした。

「ほら、今だって必死に遮ろうとしたじゃない。もしかしたら、嘘をついて千雨ちゃんを騙して、千雨ちゃんも陽也君も食べようとしてるのかも」

 その可能性だって――ゼロではない。

 唇を結んだまま、何も言わない千雨へとしっかり視線を向け、絵美理は笑顔で首を傾げた。

「ね? そう考えたら、許せないでしょう? 騙して良い人の顔をしていたことが許せないでしょう? 私がかわりに千雨ちゃんの怒りを代弁してあげるから、私についてくれないかしら?」

「千雨」

 焦った口調のまま、憑代が千雨の名前を呼んだ。

 はっきりした返事はしないまま、千雨はゆっくりと視線を憑代へと向ける。その瞬間、真剣な紅玉色の瞳と視線が絡んだ。

「……僕は確かに呪い絵だ。人間だって顔をして、あんたを騙してたことは謝る。……けど」

 一呼吸おいて、憑代は真剣な声のまま言葉を続けた。

「助けるよ。あんたも、あんたの家族も。春咲千雨、あんたは僕の恩人だから」

 彼の言葉に反応し、千雨の脳に憑代とはじめて出会った瞬間が思い浮かんだ。

 道端で倒れていたのを発見したのがきっかけで、出会った相手。いろいろと心配になりつつ、目的地だったパンセリノスまで案内した際に、憑代は似たようなことを言っていた。

「だから――僕を、信じてほしい」

 いつかのときも彼が口にした言葉が、憑代の唇から発された。

 一回、二回、深呼吸をする。

 絵美理と憑代、二人の言葉を何度か頭の中で繰り返したのちに、千雨は一歩を踏み出した。

 そのまま二歩目も踏み出し、迷いのない足取りで駆け寄った。


 ――憑代のほうへ。


「……そいつを信じるっていうの?」

 絵美理が浮かべていた笑顔が歪み、すぅっと表情が抜け落ちていく。

 憑代のすぐ傍まで駆け寄った千雨は、彼の身体を軽く支えながら唇を動かした。

「私には」

 千雨がゆっくりと絵美理へと視線を移し、彼女を睨みつける。

「私には、憑代さんがずっと私を騙していたとは思えない」

 空腹で行き倒れていたときの憑代の顔。

 真剣に千雨の話に耳を傾けてくれたときの姿。

 助けを求めた際に迷わず引き受けてくれたときの表情。

 そして、人間が好きだと――だからこそ人間を食らう呪い絵を許さないと語った声。

 これまで見てきたさまざまな憑代の姿が千雨の頭の中に浮かんでは消えていく。彼が見せてきた表情や姿はもちろん、人間が好きだと語った言葉にも、嘘偽りはないように感じた。

 千雨を騙していたわけではなく、憑代は人間として寄り添おうと――支えようとしてくれていたように思える。

「それに……今の私は、憑代さんの相棒ですから」

 千雨が無理を言って同行を求めた結果、一時的に組まれたバディ。

 最初に反対していた憑代からすると不本意なバディだろうに、彼は千雨を相棒だと呼んでくれた。

 ならば、自分もそれに応えたい。

「……だから、私は憑代さんを信じます」

 千雨がわけのわからない恐怖を抱えていたときに、迷わずに手を伸ばして助けてくれた彼を――相棒のことを信じる。

 人間を愛し、修繕画師として生きる道を選んだ呪い絵『紅玉の瞳の子』を信じる。

 絵美理に対して、きっぱりとした口調で宣言する千雨の目の奥には、憑代の目の奥にあるものとよく似た光が宿っていた。

 千雨のすぐ傍で、彼女の意志を聞いた憑代が目を丸くし、安心したように――どこか嬉しそうに表情を崩す。

 対する絵美理は、心を揺るがす囁きに惑わされずに憑代の手を取った千雨を睨み、激しい憎悪と激怒の色を滲ませた。

「せっかくチャンスを与えてあげたのに。なら……痛い目にあってもいいってことよね!」

 激しい怒りのままに絵美理が叫んだ。

 彼女の怒りに呼応して、彼女の背後に飾られている絵画――『最後の愛』から、一気に黒い色が広がった。紙の上に零したインクのように壁を飲み込んでいき、天井にまで広がって巨大な足を作り出した。

「しゃがめ!」

 は、と目を見開いて憑代が叫ぶ。

 危機感を滲ませた声に従い、千雨は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。

 憑代も即座に千雨の隣で片膝をついて座り、絵筆でカーペットに線を引く。臙脂色の線が千雨と憑代を囲ったかと思えば、引かれた線からドーム状の壁が作り上げられ、その中に千雨と憑代を包み込んだ。

 直後、何か硬いものがドームの天井にぶつかった音がして、衝撃を受けたらしいドームがほんのわずかに揺れた。

「間に合った……大丈夫だったか?」

「は、はい……なんとか……」

 憑代がほうっと安堵の溜息をつき、千雨の顔を見た。

 至近距離で見る彼の顔は、やはり人形か何かのように整っている。彼の正体を知った今なら、こんなにも綺麗な顔をしているのも彼が『描かれたもの』だからだと納得できた。

 力任せにドームに何かをぶつけてくる音は、まだ響いている。

「……感謝する。僕を信じてくれて」

 憑代の唇から小さく呟かれた、感謝を告げる言葉。

 思わずきょとんとした顔で憑代を見つめたあと、千雨はわずかに表情を緩めた。

 感謝する――だなんて。それを口にしたいのはこちらのほうだ。

「こちらこそ、ありがとうございます。今までも、そしてこの瞬間も助けてくれて」

「言っただろ。僕は人間が好きだし、千雨は僕の恩人だ。守って当然だろ」

 がんがん、がつんがつん。

 絵美理からの攻撃は、緩む気配がない。

 千雨と憑代の間で紡がれていた言葉が消え、力任せにドームの壁を突破しようとする音だけが中の空気を震わせていた。

 しばしの沈黙のあと、憑代がおもむろに口を開いた。

「……千雨。僕の恩人。僕の相棒。『最後の愛』の封印と回収に手を貸してくれないか」

 その言葉は、再確認のようだった。

 一回、二回と瞬きをしたのち、千雨は憑代の顔を見て頷いた。呪い絵『最後の愛』の回収に協力する覚悟なら、もうすでにできている。

 憑代の唇に笑みが浮かぶ。

「サンキュー。なら、少し作戦があるんだ」

「作戦……ですか? 私にも何かできることはあります?」

「もちろん。むしろ、あんたの力がないと実行できない作戦だ」

「……なんでしょうか」

 表情を引き締め、千雨は問いかける。

 どのような作戦かはわからないが、自分の力がないと実行できないと聞いたら自然と表情が引き締まった。

 憑代の唇が千雨の耳元へ寄せられ、作戦の内容を告げられる。

 彼が発する言葉を一つ一つ拾い上げ、脳内へしっかり刻みつけ、千雨は自分の手の中にある絵筆を握りしめた。

 作戦を話し終えた憑代が少しだけ千雨から離れ、確認を取る。

「できるか?」

「……やります」

 大きく息を吸って、吐いてを繰り返したのちに、やや強い口調で返事をした。

 正直なところ、不安はあった。憑代が考えた作戦は千雨が鍵になっており、千雨が頑張らなくては失敗するようなものだ。

 けれど、憑代が考えてくれた作戦以外に現状を切り抜ける方法は思いつかない。ならば、答えは一つだけだ。

 できるかどうかではない。自分がやるしかないのだ。

「よし。なら、この作戦でいくぞ。……準備はできてるか?」

「大丈夫です」

 あんなに聞こえていた硬い音は、今は聞こえない。

 攻撃の手が一時的に緩んでいるのなら、おそらく今が作戦を実行するチャンスだ。

 手の中にある絵筆を強く握ったまま返事をした千雨の頭に、憑代の手が触れる。少々乱暴にぐしゃぐしゃ撫でたのち、憑代はドームの壁へと視線を向けた。

「良い子だ。頼りにしてるぞ、相棒」

「こちらこそ。作戦を成功できるかどうかは、憑代さんの暴れ具合にも左右されますから……お願いしますね、相棒」

 そんな会話の直後、憑代はドームの壁に白い絵の具を走らせて崩壊させた。

 間髪入れずに憑代が床を蹴り、息切れしていた絵美理へと飛びかかっていく。

 千雨もまた、床を蹴って物陰へと転がり込み、作戦を実行するべく足を動かした。





 物陰から物陰へ、身を隠しながら千雨は部屋の一番奥――『最後の愛』が飾られている場所を目指す。

 数分前まで隣にいてくれた憑代は、彼が考えた作戦どおりに派手に立ち回っている。絵筆を振るい、かと思えば絵美理から距離を取り、少しずつ絵画の前から彼女を引き離していっていた。

 物陰からその様子を伺いつつ、千雨も『最後の愛』を目指して動かす足の速さを少し速めた。

 憑代が考えた作戦は、至ってシンプルなものだ。絵美理とまともに渡り合える憑代が彼女へ喧嘩を売り、注意を引く。その間に残された千雨が核になっていると思われる『最後の愛』に接近して封印処置を施す――憑代が囮になり、千雨が相手に大打撃を与えて封印する。そういう作戦だ。

(私はできる、私ならできる、私なら絶対に大丈夫)

 繰り返し繰り返し、何度も自分へ言い聞かせながら千雨は進んでいく。

「ああもう、ちょこまかと鬱陶しい……!」

「ちょこまか逃げて当然だろ、あんたから貰った一撃は結構重たかったんだから……っと」

 少し離れた場所から、苛立った絵美理と落ち着いた憑代の声が聞こえる。

 ちらりと彼のほうへ一瞬だけ目を向ければ、『最後の愛』から離れた場所へ上手く絵美理を誘導できていた。千雨が何かしようと気付いても、これなら即座に絵画の前へ戻られることはない。

 隠れていた家具の後ろから飛び出し、千雨は壁にかけられている『最後の愛』の前に立った。

 至近距離で見る『最後の愛』は、額縁に入っているはずなのにアクリル板を感じさせない。絵美理の姿を――彼女のもとになった人物であるエメリナの姿を形作っている絵の具は、瑞々しさを残しており、描かれた直後のような状態を保っていた。

(これに、修繕画師の絵筆を使って手を加えたら、呪い絵の力を削げる)

 耳元で囁かれた作戦の内容を思い出し、手に持っている絵筆を絵画へ向けた。

 憑代はぐしゃぐしゃに絵の具を塗りたくってやればいいと言っていたが、そんな方法で封印処置を施す気にはなれなかった。

 筆先にじわじわ絵の具が染み出していき、千雨が今求めている色が用意されていく。

 もう一度大きく深呼吸をしたのち、千雨は筆先を目の前の絵画へ触れさせようとした。

「……! 待って!」

 背後で大声が聞こえる。

 絵筆を持ち上げた姿勢のまま、ゆっくり振り返る。

 視線の先では、千雨が何をしようとしているのか気付いたらしく、絵美理が焦った顔でこちらを見つめていた。

「やめて、千雨ちゃん。それだけはやめて」

 今にも絵画に手を加えそうな千雨を必死に止めようとしながら、絵美理は一歩を踏み出した。

 その姿からは、先ほどまで見せていた獰猛さも憎悪も激しい怒りもなく、焦りと恐怖だけが存在していた。

「……絵美理さん」

 一歩、また一歩と絵美理が近づいてくる。

「私は人間にならないといけないの!」

 どうしても、絶対に。人間にならないといけない。人間になって、やらなければならないことがある。

 何度もその言葉を繰り返しながら、絵美理はどんどんこちらへ近づいてくる。

「絵美理さん……」

「筆を下ろして。その邪魔な筆を下ろして。早く、今すぐに!」

 懇願と恐怖、焦燥。さまざまな感情が入り混じった絵美理の声が鼓膜を震わせる。

 再び彼女の声に空間が反応し、千雨を妨害するために棘や茨を形作った。

「千雨! 何を言われても気にするな、一思いにやれ!」

 しかし、即座に憑代がそれらに白い絵の具を塗り、千雨へと向けられる前に棘や茨を崩した。

「絵美理さん」

 もう一度、千雨は絵美理の名前を呼ぶ。

 思い出すのは、この空間に来てから千雨が見た夢の内容だ。

 キャンバスに向かい、おそらく絵を――『最後の愛』を描いているバルテレモンを、キャンバスの内側から見ていた夢。

 おそらくあれは、絵美理の記憶だ。彼女が作り出した世界に足を踏み入れたことによって目にした、『最後の愛』がこの世に生まれたときの記憶。

(……『最後の愛』は、バルテレモンが恋人のエメリナと会える最後の日に描いたもの)

 心から愛していた恋人を強制的に手放さなくてはならなくなったときに描かれた、彼女への愛と現実の納得できなさが詰め込まれた一枚。

 その背景をふまえて考えれば、絵美理がどうして人間になりたがっているのか予想ができた。

 もしかして、絵美理は――否。『最後の愛』は。

「絵美理さん」

 もう一度、絵美理の名前を呼ぶ。

 心苦しいけれど、告げなくてはならなかった。彼女がずっと求めていたものを跡形もなく崩してしまうけれど、これだけは告げなくてはならなかった。

 正面から絵美理を見据え、わずかに震える唇をゆっくりと開き、千雨は告げた。

「バルテレモンさんとエメリナさんは――あなたが誕生するきっかけになった二人は、多分、もういないんです」

 絵美理の喉が、ひゅっと音をたてたような気がした。

 みるみる間に彼女の顔が驚愕と絶望に染まっていく。目を大きく見開き、わずかに唇を震えさせる姿は、人間と何も変わらなかった。

「……嘘よ」

 吐き出された声も、かすかに震えている。

 その姿や声は茨のように千雨の胸へ絡みつき、強く締め上げて棘を食い込ませた。

 絵美理の反応から確信した。

 やはり、『最後の愛』は――己を生み出した画家とその恋人のために、人間になろうとしていた。バルテレモンに描かれた絵画であるからこそ、二人が引き裂かれてしまうのを防ぐのを願った。

 静かに首を横に振り、千雨は痛む胸を抑えながら彼女へ答えた。

「嘘じゃないんです。絵美理さんが……『最後の愛』が描かれてから、多分、かなりの時間が流れてるんです」

 陽也の部屋に飾られている『最後の愛』をはじめて目にしたときのことを思い出す。

 はじめてあの絵を目にした際、千雨は古い絵だという印象を抱いた。夢で見た光景も、現代というよりは昔という印象を受けた。そのことを考えると、『最後の愛』が描かれてから現代まで、かなりの月日が流れている。

 彼女たち呪い絵のベースは絵画だ。適切に管理されれば何年先までも存在し、生きていくことができる。しかし、人間はそうではない。

「人間は、うんと長い月日を生きていけるように作られていないんです」

 絵画の命は、管理の仕方によっては永遠だ。

 しかし、それを作り上げる人間の命は有限で、永遠の時に耐えられるものではない。どうあがいても、寿命が来てしまう。


 『最後の愛』の願いがバルテレモンとエメリナが一緒にいられるようにすることなら。

 悲しく苦しいことだけれど、絵美理の願いは仮に人間になったとしても叶わない。

 ――もう、叶うことはない。


 胸が訴える痛みをごまかしながら告げた瞬間、絵美理の足から力が抜けてその場に座り込んだ。

「……ずっと昔に死んでしまった人たちを助ける方法なんて、どこにもない」

 重くのしかかってくる現実と真実に、千雨はそこで一度唇を結んだ。

「……もう、死んでしまっているの? お父様も、シャンポリオン様も?」

 数分間の時間をおいて、絵美理が呟くようにそういった。

 お父様――というのは一瞬考えたが、すぐにバルテレモンのことだろうと思いあたった。

 彼女から視線をそらさず、千雨は重たい動作で頷いた。

「……そう……」

 絵美理は床に座り込んだ姿勢のまま、ほんの少しだけ肩を揺らして笑った。声は次第に大きくなり、乾いた笑い声が室内を満たしていく。

 突然笑い出した絵美理に驚き、思わず身構えたが、少し前まであった強い敵意や害意は全くといっていいほど感じられなかった。

 やがて、笑い声をこぼしながら天を仰ぎ、絵美理は大きく息を吸って吐き出した。

「なら……私が人間になれたとしても、私が身代わりになってお父様とシャンポリオン様をもう一度引き合わせることは、もうできないのね……」

 笑い声が止み、紡がれた声は失意に満ちていた。

 その声が一層強く千雨の胸を締め付け、心に棘を深く食い込ませてくる。

 ゆっくりとした動きで千雨へ視線を戻した絵美理の口元には、諦めたような――悲しそうな笑みが浮かんでいた。

「……私がやろうとしていたことは、無駄だったのね……」

 壁や天井を満たしていた黒色が消えていき、本来の景色を取り戻していく。

 絵美理からはもう、戦おうとする姿勢も抗おうとする意志も感じられなかった。

「ねえ、千雨ちゃん」

「……なんでしょうか」

 名前を呼ばれて返事をすると、少しの時間をおいて絵美理が言葉を続けた。

「私が最初に見た二人は、とても悲しそうな顔をしていたわ。見ているこちらが悲しくなるほどに。だから私は人間になって、お父様以外の人間に嫁がなければならなくなったシャンポリオン様の身代わりになろうと思ったの」

 今はもう、必要なくなってしまったけれど。

 小さな声で一言付け足し、絵美理は寂しげに目を細めた。

「……千雨ちゃん。お父様とエメリナ様は、引き離されたあと幸せになれたのかしら?」

 問いかけられた内容に、千雨は言葉を詰まらせた。

 引き離されてしまったあとのバルテレモンとエメリナは幸せになれたのかどうかなんて、千雨にはわからない。

 夢という形で二人の情報に触れることはできても、千雨は今の時代の人間だ。二人が生きていた時代に生まれ、二人を傍で見守っていたわけではない。

 どう返すのが正解なのか考えたのち、千雨は首を左右に振って口を開いた。

「……残念ですが、私にはわかりません」

 千雨には、せいぜい二人がどうなったのか想像することしかできない。

「でも……そのときは駄目でも、空の上で、また再会はできたんじゃないでしょうか」

 あんなにも想い合っていた二人だ。今生では結ばれることはできなかったかもしれないが、空の上で再び出会うことはできたかもしれない。

 もしくは、来世で再び出会って今度こそ幸せになろうと約束したかもしれない。

 千雨の言葉を聞いた絵美理の瞳が数回瞬き、間をあけたのちに柔らかく細められた。

「……そっか」

 暗く沈んでいた翡翠色の瞳に、ほんのわずかな光が差し込む。

 千雨が放った言葉を何度も心の中で繰り返し、噛み締めて、絵美理は笑った。

 瞳に少しの涙を浮かべて、まるで雨露に濡れた蕾が花を開くように。

「そうだったらいいなぁ……」

 幼い子供のような口調で、どこか安心したようにも聞こえる声で、絵美理は呟いた。

「きっと、そうですよ。きっと……生まれ変わっても出会って、今度こそ、幸せになっています」

 彼女につられ、千雨もまた、泣き笑いに近い表情を浮かべる。

 そうしながら、『最後の愛』へと向けられていた筆をそっと触れさせた。絵画へと向き直った千雨の手によって描き足された紫苑色は、筆先が動くたびに形を変えて花へ変化していく。

「だから……絵美理さんは少し休んでいてください」

「……そうするわ。なんだか、とっても疲れてきちゃったから。きっと頑張りすぎたのね」

 絵美理がそういって、よく千雨や陽也の前でしていたように穏やかに笑った。

 千雨が操る筆先は、描かれた女性の手元に紫苑色の花びらをした花束を作り出した。

 追憶を意味し、決して相手のことを忘れないという誓いが込められた花――紫苑の花束を。

「……おやすみなさい、『最後の愛』」

 その一言とともに、千雨が絵画に触れさせていた絵筆を静かに離した。

 瞬間、千雨が描き足した紫苑の花束から光が放たれ、そこを中心として絵画を包み込んでいく。床に座り込んだままの絵美理も同様に足元から薄い光に包まれ、光の粒子へと変化し、光に包まれた箇所からほどけていった。

(……あ)

 彼女の姿が完全に消えてしまう直前。

 光の粒子がのぼっていく先――その先で、絵美理に向かって手を伸ばす男性と金糸の髪の女性が、視界に映った。

 二人の姿に気づいた絵美理が今にも泣きだしそうなくらいに表情をくしゃくしゃに歪め、男性の手を握る。そのまま男性に抱きついて小さな子供のように涙を流した。

 子供にするかのように絵美理を撫で、金糸の髪の女性がこちらを見る。夢の中でも見たことがある姿は、やはり絵美理と同じ顔をしていたけれど――どこか、彼女のほうが穏やかな表情をするように感じられた。



『ありがとう』

『ありがとう、優しく小さな修繕画師』



 悲劇に引き裂かれた恋人と二人の幸せを願い続けた呪い絵が再会する光景が、光とともに完全に消えてしまう直前。

 聞き慣れない海外の言葉で、優しく柔らかなソプラノとテノールの声で、誰かに感謝の言葉を告げられた気がした。

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