第7話 決着は紫苑色(前編)
呪い絵によって作り出された屋敷の中は、どれだけ耳を澄ませても自分たちが発する音以外は聞こえない。
不気味すぎるほどの静寂に包まれており、憑代と千雨の二人に自然と緊張感を与えた。
目覚めた部屋を出てからずっと廊下を歩いているが、廊下の景色も同じようなものが続いており、目立った変化は見当たらない。まるで、ずっと同じところを歩いているかのようだった。
「……さっきから、ずっと同じ景色ですね……」
「ひたすらに同じ場所を歩かされてる可能性もありそうだな……」
憑代が足を止め、千雨も同じように立ち止まる。
二人分の呟きは物音一つしない静かな空気をわずかに震わせ、そのまま溶けて消えていった。
もっと妨害してくるのを想像していたが、その気配もない。憑代と千雨がこの世界に侵入したことに気付いていないのか、それとも違う理由があるのかもわからない。
千雨たちがここへ乗り込む前は積極的に攻撃してきていた相手が、ここへ踏み込んだ瞬間に何もしてこなくなるのは少々気味が悪かった。
「千雨。千雨は何か感じないか?」
周囲を見渡して思考を巡らせていた憑代の目が、こちらへ向けられた。
漠然とした問いかけだったが、千雨の――《パレット》の見え方を頼りにしている。
そう気付いた瞬間、千雨は自分自身に気合のようなものが入るのを感じた。
「えっと……ちょっと待ってください……」
一言断って、改めて目の前に広がっている景色に目を向ける。
ぱっと見た印象では、夢の中の屋敷とよく似た印象のある廊下だ。壁は落ち着いた色合いの木製の壁で、ところどころに誰かが描いた絵画が飾られている。足元はやはり赤いカーペットが敷かれており、廊下の奥は暗い闇に食われていて先が見えない。
見たままに感じたことを伝えるならそうだが、憑代が今必要としているのはそういう感想ではない。
(私が、感じること……)
もっと、目に見えるもの以外のものを。感覚を研ぎ澄ませて、見えないはずのものを。
大きく深呼吸をして景色を睨むように見つめていた千雨の視界に――ふ、と。一つの扉が現れた。
「憑代さん、あれ」
何もないところから浮かび上がってくるかのように、姿を見せた木製の扉。
とっさに声をあげて指差した千雨に反応し、憑代も新たに現れた扉をその目に映した。
「あんなところに扉が……」
「さっき、何もないところから現れたんです。もしかしたら、どこか別の場所に繋がってるかも」
それまで全く変化がなかった状態で、急に現れた変化。怪しいと思う気持ちはあるが、変化があったのに何もしないという選択肢はどこにもなかった。
周囲への警戒はそのままに、憑代と千雨は新たに現れた扉へと近づいていく。アイコンタクトを交わしたのち、憑代がドアノブへと手を伸ばした。
その瞬間。
「!」
バヂッ、と音がして憑代の指先とドアノブの間に閃光が生まれる。
憑代が反射的に手を引っ込めた直後、先ほどまで一つしかなかった扉が壁一面に増殖した。
「だ、大丈夫ですか!? 憑代さん!」
「僕は大丈夫。だが……はは。奴め、よっぽど僕らを惑わせたいらしい」
扉を睨んだまま、憑代は乾いた笑い声をあげた。
「相手が困り始めたところで道を示して、けれど簡単には選ばせずに相手をさらに困らせる……まるで子供みたいなやり口だな」
「お、落ち着いて……落ち着いて憑代さん……」
今の憑代がほんの少しだけ怖く感じられてしまい、慌てて彼をなだめる。
憑代も少し思うところがあったのか、千雨を横目でちらりと見てから、片手で自分の顔を覆ってから深く息を吐きだした。
「……悪い。ちょっと予想以上にイラッときてたみたいだ」
「あ、あはは……でも正直気持ちはわかります……。私も、素直に通らせてくれないのって思いましたし」
まあ、妨害してきている呪い絵からすると、敵が自分たちの作り上げた世界を自由に歩き回るのを許す理由はないのだけれど。
千雨も憑代と同じように深呼吸をし、無数に増えた扉を見つめた。
「これ……どうします?」
「……普通に考えて、この中のどれか一つに正解があるんだと思う。が、ここまでどれも同じに見えるとどれが正解なのか予想をつけにくいな……」
憑代の言うとおり、目の前にある扉はその全てに美しく細かい装飾が施されている。扉の形も材質もドアノブも全く同じで、一つの扉を複製して貼りつけたかのようだった。
この扉を見分けて正解を見つけ出せなんて、不可能に近い要求にしか思えない。
(でも、正解を見つけて先に進まなきゃ、兄さんを助けられない)
絵の具で染め上げられた部屋の中で倒れていた陽也の姿を思い出す。
絵画を手に入れたあとから、少しずつ体調を崩していた兄。呪い絵の存在を知った今なら、呪い絵の影響を受けて弱っていたんだと予想がつく。
(……ここで、諦めたら、多分兄さんは……)
最悪の想像が頭に浮かび、慌てて首を左右に振ってそれを追い出した。
そうさせないために、自分はここにいる。血を分けたたった一人の兄を助けるために、自分は憑代の手をとってここに来た。
千雨の胸に金色の光がぱちぱちと弾ける。小さな決意の炎は不安を燃料に大きく燃え上がり、千雨の背中を強く押した。
(わからないんじゃない、感覚を研ぎ澄ませろ。さっきは見えなかった扉が見えたじゃないか)
繰り返し自分に言い聞かせながら、無数の扉を睨むように見つける。
このうちのどれか1つに正解があるのなら、どこかに答えがあるはずだ。正解だとわかる何かが、きっとどこかにあるはずだ。それを見つけろ。
家族を、助けるために。
(――?)
憑代が見守る中、扉を見分けようとしていた千雨の目がわずかな違いを捉えた。
よくよく目をこらすと、鍵穴近くにとても小さな装飾が施されている扉がある。指先で軽く装飾部をなぞってみると、薔薇の花のような装飾が施されていることが指先から伝わってきた。
他の扉も同様の方法で調べてみるが、指先からは何も伝わってこない。つるりとした金属の感触があるだけだ。
(……これは)
他の扉にはない、目をこらさないと気付かないレベルの違い。
これは、もしかして――。
千雨の手がドアノブに伸びる。握った直後はひやりとした温度がドアノブから伝わってきたが、そっと握り込めばたちまち千雨の体温で温められた。
「……そこなのか?」
千雨の様子を見守っていた憑代が問いかけてくる。
ドアノブを握ったまま、千雨は憑代へと視線を向けて頷いた。
「多分ですけど……この扉にだけ、違いがあるんです。だから、私はこの扉にかけます」
「そうか」
短く返事をした憑代の手が、ドアノブを握っている千雨の手の上に重ねられる。
突然の行動に目を丸くした千雨の至近距離で、憑代がにんまりと笑うのが見えた。
「なら、僕もこの扉にかける。バディの勘を信じる」
バディの勘。
《パレット》の勘ではなく、バディの勘を信じると憑代は口にした。
その言葉は、千雨が持つ《パレット》の特殊な力ではなく、千雨自身を信じると言っているように感じられ、なんともいえないくすぐったさと歓喜が心に広がった。
目をぱちくりとさせて憑代の顔を見つめたのち、千雨も彼と同じようににんまり笑い、勢いよく扉を開いた。
左から五番目。もっとも端っこの扉は、開いた瞬間に真っ黒な空間を見せた。一歩足を踏み入れたら、全て飲み込まれてしまいそうなほどに深い黒。
まさか自分は選択を間違えてしまったのではないか。内心焦りを感じる千雨の足元に、扉から染み出してきた黒が忍び寄ってきた。
「千雨!」
憑代に大声で名前を呼ばれ、はっとする。
しかし、その頃にはすでに染み出してきた黒は千雨の足元全体を覆っていた。
憑代と千雨が何か行動を起こすよりも先に、千雨の足元から地面に立っているという感覚が消えた。
がくんと急速に足元から力が抜け、浮遊感が足元を包み込む。
「ひっ……!」
状況を理解する間もなく、千雨の身体が重力に引っ張られた。
本人の意志とは関係なく黒い海の中へと飲み込まれていく。足をばたつかせても手を動かしても、虚空をかくだけで落下していく身体を止めるものはどこにもなかった。
「ったく、手荒な歓迎をするな……!」
頭上で憑代の声が聞こえた直後、ぐっと何かに強く引っ張られるような感覚がして誰かに抱き寄せられた。
それが憑代なのだと理解した瞬間、千雨の身体を支えている彼の腕に力が込められた。
繋いでいた手をとっさに離していてもおかしくなかったのに、憑代も飛び込んできてくれた。そのことを遅れて理解した千雨が何かを口にするよりも先に、彼が叫んだ。
「危ないからあんまり暴れるなよ!」
普段の落ち着いた雰囲気とはかけ離れた、大きな声。
反射的に頷いた千雨の目の前で、憑代は懐から不可思議な装飾が施された絵筆を取り出した。筆先には何の絵の具もついていなかったが、憑代が暗闇へ筆先を向けた瞬間に白色がじんわりと滲み出してきた。
勢いよく絵筆を振り下ろした瞬間、黒しか広がっていなかった空間に真っ白な一本線が引かれる。憑代が作り出した白色はそのまま周囲の黒い空間を飲み込んでいき、ぐんにゃりと空間を歪めた。
次の瞬間には、永遠に続くかと思われていた黒い空間は消え去り、かわりに先ほどまで千雨が目にしていたカーペットの色が見えてきた。
「っと、と。……大丈夫か?」
「び、びっくりしたけど大丈夫……です……」
千雨を抱えた姿勢のまま、憑代がカーペットの上に着地する。
彼に返事をしながら千雨も両足をカーペットへつけ、まだ早鐘を打っている心臓を片手で押さえた。
まだ少しふわふわした感覚は残っているが、足の裏からはカーペットの感触がはっきりと伝わってくる。その感触は、千雨が無事に地面へ降り立てたことを示していた。
心臓を落ち着かせようとしている千雨の耳に、ふと。
ぱちぱち。
一人分の拍手の音が届く。
足元を見ていた顔をあげ、すぐ隣にいる憑代を見る。
憑代は千雨ではなく違う場所を睨むように見ており、千雨も彼の視線を辿って視線をそちらに向けた。
「お見事、お見事。さすが修繕画師は私たちの妨害をするのがお上手ね。あのクイズに正解した千雨ちゃんだけを招いて、そこの修繕画師は違う場所に吐き出そうと思ったのに、そうするよりも先に対処されちゃったわ」
そういって、千雨と憑代が降り立った部屋の奥にいた人物はころころと笑った。
もう何度も見た姿。もう何度も聞いた声。かつては千雨が姉のようだと慕った彼女の姿が、そこにはあった。
「絵美理さん……」
「あら、千雨ちゃんはまだその名前で呼んでくれるのね。まだ人間扱いしてくれるなんて、優しい子。大事にしたくなっちゃう」
羽井絵美理。そう名乗り、陽也の恋人として春咲家に馴染んでいた女性。
壁に飾られた絵画を背に、椅子に座っていた絵美理はよくそうしていたように笑った。
声は聞き覚えのあるものだが、毛先は金色に染まっており、瞳は『最後の愛』と同じ翡翠色に染まっていた。
羽井絵美理としての姿が剥がれ落ち、本性である呪い絵としての姿が出かかっている。通常ではありえない変化は、絵美理が人間ではなかったという事実をはっきり示していた。
ぎぢり。不可視の茨が千雨の心に巻きつき、強く締め上げる。
「……大事にしたいだなんて、嘘つきだな。あんたたちにとって、人間はただの食料だろう」
「ええ。だから大事にするの、大事に食べるのよ。本当は一口で一気に食べたいけれど、私を人間扱いしてくれた子だもの。少しずつ、大事に食べるわ。それも私たちの愛情表現だわ」
食べたくなっちゃうくらいに可愛いって言葉が、人間の間にはあるんでしょう?
少女のような笑みを浮かべ、どろりと甘い声で絵美理は言う。
言いようのない不気味な気配を感じ、千雨は身を固くする。記憶の中にいる絵美理と、目の前にいる絵美理が同一人物だと信じられなかった。
内心震える千雨の肩を軽く、優しく叩いてから憑代が一歩前に出て、手に持ったままの絵筆を絵美理へ向けた。
「そんなのが愛情表現であってたまるか。千雨の家族を解放してもらおうか」
「あら、そんな脅し文句に私が屈するとでも?」
くすくす、くすくす。
絵美理の笑い声が室内の空気を震わせる。
彼女の声に反応するかのように、空気に絵の具の匂いが混じり始めた。部屋の四隅からインクが滲み出てくるように、先ほどとよく似た黒い何かが這い出てくる。
椅子から立ち上がる絵美理の服装が足元から変化していき、『最後の愛』に描かれていた女性と――バルテレモンの手によって描かれたエメリナが着ていたものと同じドレスへと変わった。
「修繕画師、あなたこそ千雨ちゃんから離れてくれないかしら? その子を食べることができれば、私の夢がきっと叶うの!」
笑顔を浮かべたまま、弾んだ声で絵美理が言う。
心底嬉しそうな彼女とは対照的に、千雨はひっと引きつった悲鳴をこぼした。
陽也に向けられていたものであろう悪意が、こちらにもはっきり向けられるのはとても恐ろしい。
憑代が千雨の前に出る。片手で絵筆を構え、もう片方の腕で千雨を少しでも隠そうとする。
臨戦態勢に入った憑代の前で、絵美理はなお嬉しそうに笑っている。
「ずっと人間になりたかったの、そのためにずっと頑張ってたの! ねえ、人間になるのが私の夢なの。私が生まれた理由なの。だから、私の夢を叶えさせて? 私がこの世に生まれたのは無意味なんじゃないって思わせて?」
――私を、あの人の役に立たせて?
次から次に言葉を紡ぎ、絵美理がこてりと首を傾げる。
憑代はそんな彼女の言葉を鼻で笑い、口を開く。
「叶えさせるわけがないだろ、『最後の愛』。あんたの夢は叶わない。仮にあんたが千雨を食えたとしても、人間になれるわけがないだろ」
あんたは、絵画なんだから。
「……ひどい人。本当にひどい人ね、修繕画師。だから、私たちはあなたたちが嫌いだわ」
憑代の言葉を聞いた絵美理の表情から、感情がごっそり抜け落ちた。
瞬間、部屋の四隅からじわじわ侵食してきていた黒いものから鋭い棘が伸び、憑代へと襲いかかった。
鋭く鋭利な、憑代を貫くという強い意志が感じられるそれは、真っ直ぐ憑代の身体へ伸びていく。
「ッ憑代さん!」
早く、早く逃げてほしい。
あんなもので貫かれたら、大怪我なんてものでは済まない。
悲鳴混じりの声で名前を呼び、とっさに千雨は憑代へ手を伸ばす。彼が身にまとう着物を掴み、自分のほうへありったけの力で引き寄せた。
「そうしてくれるって信じてた、相棒」
千雨に引っ張られたことにより、憑代の身体が後ろへと傾いた。
後ろからかかる力に身を任せながら、憑代は笑みを浮かべる。手の中にある絵筆を一回転させ、虚空を貫いた棘へと先ほどと同じ白い絵の具を浴びせた。
白い絵の具が触れた箇所を中心に、棘が崩れていく。
魔法のような光景に目を丸くした千雨の手からわずかに力が抜け、憑代がその隙をついて自身の着物を掴んでいた手を解いた。
からん、と体勢を立て直した憑代が履いているブーツが下駄の音を奏でる。
「……ふぅん、本当に可愛くない」
感情のない顔で呟いた絵美理が片手を床にかざす。
四隅から、彼女の足元から、家具の下から。さまざまな場所から黒い絵の具が染み出してくる。
喉までせり上がってきた悲鳴を飲み込み、千雨は周囲を見渡した。
「千雨」
そんな千雨の耳に、憑代の声が届く。
「必ず守る、傷一つつけさせないと約束する。だから、少し力を貸してくれ」
はたはた瞬きをして、千雨は小さく頷いた。
頷けば、絵画の怪異と不可思議な力のぶつかり合い――もとい、一種の大怪獣バトルを最前線で目にすることになるとわかっていた。
それでも、千雨は了承した。彼のサポートをすると決めていたから。
「……感謝する」
ふ、と憑代の表情が和らいだ。
次の瞬間には憑代の腕が千雨の肩に触れ、ぐっと抱き寄せられた。憑代の手はそのままするすると千雨の腕を伝い、手のひらへと触れた。
目線は絵美理へと向けたまま、憑代が言葉を重ねる。
「握っててほしい」
シンプルな頼み事。
手を握ったらかえって戦いにくくならないのか心配だが――憑代は修繕画師だ。今回の事件ではじめて修繕画師の世界に触れた千雨よりも、呪い絵と修繕画師の世界に詳しい。
(きっと、私が手を握ることに意味があるんだ)
そう考え、千雨は憑代の手を握った。ただ上から握るのではなく、手のひらを合わせ、指を絡めて、彼の手のひらを握り込む。
ただ上から握り込んだ場合よりも離れにくいであろうその握り方をしたとき、何かが千雨と憑代の間で繋がったような感覚がした。
「……感謝する。これで」
憑代が言い切る前に、染み出してきた黒から再び鋭い棘が伸びてきた。今度は一本ではなく、複数の棘が憑代と千雨を串刺しにしようと迫る。
迎え撃つ姿勢をとった憑代が先ほどと同じように絵筆を構え、勢いよく振るった。動作は先ほどまでと同じだが、今度は一振りで大量の棘に白い絵の具が付着し、瞬きの間に棘が崩れ去っていく。
修繕画師の戦いに詳しくない千雨の目から見てもわかるくらいに、先ほどまでの憑代とは何かが違っていた。
(もしかして……これが、《パレット》の効果?)
先ほどまでと今の憑代の違いといえば、千雨と手を繋いでいるか否かだ。
手を繋いでいない状態でも、憑代は絵美理の攻撃を凌ぐことができた。しかし、千雨と手を繋いでからはそれが段違いに強くなっているように感じられた。
修繕画師や呪探査士の力を強化できる《パレット》の力は、千雨が思っている以上に強いのかもしれない。
「……っはは、《パレット》がいるだけでこんなにも違うのか……」
そう感じていたのは千雨だけではなかったらしい。
絵筆を振るった本人である憑代も同じことを感じていたらしく、目を丸くして崩れ去っていく棘を見つめている。
しかし、じわじわと心の奥からわいてくる感情につられ、憑代の横顔はだんだんと強気な笑みへ変化していった。
対する絵美理は、憑代と千雨の二人と同じように目を丸くしていた。一瞬何が起きたかわからないと言いたげな顔だったが、憑代が呟いた《パレット》という単語を聞いた瞬間、憎々しげに表情が歪んだ。
整っている顔をしているからこそ、負の感情を隠しもしない怒りや憎しみを全面的に出した顔はとても恐ろしい。
「……そう、《パレット》だったの。千雨ちゃん。だから、あのとき修繕画師の気配がする店に出入りしたがったのね。悪い子」
「あ……」
千雨の脳内に、絵美理へはじめてパンセリノスの話題を振ったときに見せた絵美理の様子が思い浮かぶ。
あのときの絵美理は、恐ろしくなるほどにパンセリノスという店があることを否定していた。
なるほど、あのときにはすでに憑代たち修繕画師の気配を感じ取っていたのか。
密かに胸につっかえていた疑問が解け、千雨は一人納得した。
「悪い子、本当に悪い子ね。千雨ちゃん。……悪い子は」
絵美理の手が千雨へと向けられる。
「悪い子は、ちょっと痛い目を見ないといけないわよね?」
彼女が発した一言は、攻撃の対象が千雨へと移った事実を示していた。
は、と憑代が紅玉色の瞳を見開く。
次の瞬間、千雨の足元にまで滲んでいた黒いものから、千雨めがけて棘が伸びてきた。
「千雨!」
繋がれていた憑代の手が振りほどかれ、千雨を強く突き飛ばした。
彼に庇われたと理解した千雨の目の前で、憑代の身体を鋭い棘が貫いた。
目の前の光景に、一瞬で血の気が引いた。
(――嘘だ)
頭の中をその一言が埋め尽くしていく。
嘘だと思いたかった。嘘だと叫んで、目の前の景色を否定したかった。
だが、先ほどまで千雨を支えてくれていた憑代の身体には――確かに、黒い棘が突き刺さっていた。
急に突き飛ばされてバランスを失った身体が、重力に従って床へと落ちる。その場に盛大に尻もちをつき、痛みが走ったがそんなことを気にしている余裕はない。
「憑代さん!」
悲鳴にも似た声で千雨は憑代の名前を呼ぶ。
即座に立ち上がり、急いで憑代へと駆け寄る。近づいたことで、棘が深々と容赦なく憑代の胸を貫いているのが見え、全身が凍りついた。
急速に絶望が千雨の心に根を張り、芽を出し、花を咲かせる。
胸を貫かれたのなら、おそらく助からない。即死していてもおかしくない。現に、憑代は俯いた状態のまま全く動いていなかった。
手も足も凍りついたまま、動かそうと思っても動いてくれない。どうしたらいい、この状況をどうやって切り抜けたらいい?
まとまらない思考のまま、どうにかして今の状況を好転させようと千雨は必死に考える。だが、自分にとって頼りであり希望でもあった憑代がこのような状態では、何を考えてもこの状況を切り抜けられそうになかった。
憑代の身体から伝ってきた血液がぱた、ぱたた、とカーペットに落ちる音がやけに大きく聞こえた。
(……あ、れ……?)
そのとき、かすかに覚えた違和感が千雨に冷静さを取り戻させた。
血の匂いが全くしない。これだけの大怪我なのだから、血液の独特の匂いがする可能性は十分ありそうだが、全くそれらしい匂いはしなかった。
あるのは、濃厚で頭が痛くなりそうなほどの絵の具の匂いだけだ。
千雨の目がゆっくりと動き、カーペットに滴っている憑代の血を注視する。観察する。そして、気付いた。
カーペットを汚しているのは、千雨が思っているような鮮血の色ではなかった。
赤い色も確かにある。だが、その中には青や紫、白、さまざまな色が混ざり合ってマーブル模様を作り出している。パレットの上でかき混ぜられた絵の具のような色は、地球上に存在するどの生物も持っていない色だった。
ちらりと絵美理へ視線を向けると、彼女も憑代の血がありえない色をしていることに気付いたようで、信じられないものを見たかのように目を見開いていた。
驚愕する二人の目の前で、棘に貫かれたままの憑代の指先が――わずかに動いた。
「――……あー……くっ、そ……こんなもの、一般人に……向けてんじゃねぇよ……」
掠れた声が、憑代の喉から絞り出すように発される。
彼の手がゆっくりと動き、深く身体を貫いている黒い棘へとそえられた。
「何が、ちょっと痛い目を見るだ……完全に、殺す気……じゃねぇか……」
恨みを込めた声で忌々しげに呟きながら、憑代がゆっくりと顔をあげる。
唇の端からは床に斑点模様を作っているものと同じ、ありえない色合いをした血液が垂れていた。
「あ――つ、憑代、さん。怪我、私――」
まだ混乱の残る頭では、言いたいことを上手く口にすることができない。
憑代が生きていてくれた。無事とは言えないけれど、生きていた。
彼を失っていなかったことに対する安堵感と同時に、足を引っ張ってしまったことに対する罪悪感と申し訳なさが千雨の胸の中を支配していた。
光を取り戻した紅玉色の瞳で泣きそうな顔をした千雨の顔を捉え、憑代は苦笑いを浮かべる。
「……悪い、な。避けれるかと……思ったけど、駄目……だった」
「あ……謝らないでください。悪いのは、私で」
「ついでで、悪いけど……その絵筆で……この棘、塗って……くれないか。邪魔で、邪魔で……仕方ない」
千雨の言葉を遮り、憑代はそういうと首を傾げた。
もっといっぱい謝らなくてはならないと頭の片隅では思っているが、今はそれよりも憑代の頼みを優先したほうがよさそうだ――そのように判断し、千雨は彼の片手から絵筆を抜き取った。
まだ先端に付着していた白い絵の具を棘に塗っていけば、憑代の胸を貫いていた棘はボロボロと崩れて形をなくしていった。
支えを失った憑代の身体が大きく傾き、千雨はとっさに両手を伸ばして憑代を受け止めた。
両腕から伝わってくる彼の体温は、温かい。
――生きている。あれだけの大怪我を負ったけれど、彼の心臓はまだ動いている。
「……そんな……あぁ、まさか。そんな。あなたが、そうなの。そうだったの」
片手を口元に当て、絵美理が呟いた。
呆然としていた瞳にゆっくりと、けれど確かに敵意が戻っていく。
それを見た千雨の中にも警戒が宿り、憑代を抱きしめて支える手に力がこもった。
「千雨ちゃんたちのところに来る前にいたところで、耳にしたことがあるわ。私たちと同じなのに、人間に加担している同族がいるって」
千雨の腕の中にいる憑代の表情が歪んだ。
怒りと敵意に燃えた翡翠色の瞳で憑代を睨んでいる絵美理は、さらに言葉を続けるために口を開いた。
「あなただったのね」
一言、そういった絵美理の視線ははっきりと憑代へと向けられていた。
見えない鈍器で突然頭を殴られたかのような衝撃が千雨を襲う。思わず腕の中にいる憑代を見れば、気まずそうな顔をした彼が見えた。
ついさっきまでとは違った感覚が千雨から体温を奪い、心臓の鼓動を早めた。
続きを聞きたくない。その先の言葉を口にしてほしくない。
必死に願うが虚しく、絵美理は大きく息を吸って大声で吠えた。
「裏切り者の同族殺し――『紅玉の瞳の子』!」
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