第6話 潜入は黒色

 千雨が憑代たちに同行――もとい憑代と一時的なバディを組むことが決定すると、後の話はトントン拍子に進んでいき、今日中に呪い絵『最後の愛』を回収することが決定した。

 本来の持ち主である陽也の許可なしにこういった決定をするのは少々申し訳ない気持ちがあったが、肝心の陽也はこの場にいない。後々で文句を言われるかもしれないが、危険なものを陽也の手元に置いておき取り返しのつかない事態になるほうが嫌だった。

「それじゃあ、そういうことで。千雨、問題の兄の部屋を一度見せてくれないか」

 話が一段落したタイミングで憑代にそのような声をかけられ、千雨は今、憑代と四季の二人を連れて普段生活しているマンションへ戻ってきていた。

 オートロックの鍵を操作して、二人をマンションのロビーへ通し、いつものようにエレベーターに乗って上の階を目指す。少しずつ、けれど確かに自宅へ近づいていくたびに内心緊緊張するが、これも兄を助けるためだと千雨は自分を励ました。

 三人を乗せたエレベーターは少しの間動き続け、やがて動きを止める。

 最初に降りた千雨は、もう何度も歩いたマンションの廊下を進んでいき、自宅に繋がる扉の前で足を止めた。

「ここが千雨ちゃんの家なん?」

「はい。今は訳あって両親が海外にいるので、兄さんと私の二人暮らしです」

 話しかけてきた四季に返事をしながら、千雨はドアノブに手をかける。銀色をしたそれを軽く握り込み、軽く引っ張る。すると、扉はなんの抵抗もなくあっさり開き、ドア枠と扉の間に隙間を作った。

(兄さん、戻ってきてるのかな)

 パンセリノスへ行くとき、千雨は確かに鍵をかけた。陽也は先に出かけて、自宅には自分以外に人がいなくなるため、防犯のためにがちゃりと。だから、扉の鍵が開いているのなら陽也が帰宅しているということになる可能性が高い。

 それ以外だったら嫌だな、警察に連絡しなきゃな――頭の片隅で考えながら、千雨はそうっと扉を開いて玄関を覗き込む。まず最初に視界へ飛び込んできたのは見覚えのある陽也の靴で、ほっと安堵の溜息をついた。

 直後。何度も感じたあの絵の具の匂いが、安堵感を崩した。

「ッ憑代さん、羽々屋さん!」

 弾かれたように振り返り、焦った声で二人の名前を呼んだ。

 それだけで二人は異常事態が起きていると判断してくれたようで、二人とも一瞬で険しい顔になった。

 扉を大きく開き、千雨は憑代と四季を招き入れる。玄関に一歩入った瞬間、憑代と四季の鼻も強い絵の具の匂いを感じ取った。

「……留守の間に何かしてきたか」

 忌々しげな声色で憑代が呟く。

 彼の声色からも、現在の自宅の状況が異常であることがひしひしと伝わってくる。その空気に引っ張られるかのように、千雨の脳内で次から次に悪い想像が浮かんでは消えていった。

「兄さん、兄さんを探さなきゃ……家の中にはいるはずだから」

 玄関で靴を脱ぎ、憑代は自宅の中を大股で進んでいく。背後からは憑代と四季、二人分の足音が聞こえてくる。

 自分一人だけでは恐怖に呑まれてしまいそうな状況でも、憑代と四季がいると思うととても心強かった。

 玄関を離れ、キッチンを覗き込み、リビングを確認する。念の為にバスルームも確認してみたが、そのいずれにも陽也の姿はなかった。


 となると、あと残されているのは。


「……大丈夫か? 千雨」

「大丈夫です……二階、二階へ行きましょう。二階には私と兄さんの部屋、あと両親の部屋があるんです、一階のどこにもいないのなら二階に……兄さんの部屋にいる可能性が高いと思うから」

 そういいながら、千雨は二階へ繋がる階段へと足を向ける。

 千雨が陽也の部屋に起きていた異常事態を目にしたときと同じように、階段からは絵の具の匂いがはっきりと感じられた。

 しかし、前回とは異なり、今度は階段に赤い足跡がついていた。

「ッ」

 ひぅ、と引きつった声が喉からこぼれる。

 赤い足跡、まさか――。

「……いや。血液ではないな」

 嫌な想像をしかけたが、即座に憑代の声がそれを打ち砕いた。

 階段の傍に片膝をついて座り、指先で赤い足跡に触れた憑代が千雨と四季を見上げてそういった。

「絵の具だ、これ」

「絵の具……」

 血液ではなかったことに安堵して、けれどまたすぐに不安が千雨の心に芽生えた。

 よく見ると、部屋を見て回っていた直後は慌てていたので気付かなかったが、室内のあちこちに赤い足跡がついていた。まるで、何かが部屋中を歩き回ったかのように。

 千雨が自宅を離れている間に、得体の知れない何かが自宅を歩き回っていた。その事実をはっきりと示している足跡は、ぞっとするほどの恐怖を千雨に与えた。

 同時に、不安が増す。千雨が帰ってきて、部屋中を見て回ったりして騒いでいるのに、姿を全く見せない陽也は大丈夫なのだろうか――?

「千雨」

「千雨ちゃん」

 立ち上がった憑代が汚れていない手で千雨の手を取る。

 四季が千雨の両肩に触れ、ぽんぽんと痛くない程度の力加減で優しく叩く。

 無意識のうちに俯いていた顔をあげると、笑顔でこちらを覗き込んできている四季とこちらをじっと見つめている憑代の姿が見えた。

「大丈夫だ」

「大丈夫やから安心し」

 もう何度も繰り返されてきた言葉。

 何度も千雨の耳に届いた言葉だが、やはりそこには千雨が感じる恐怖や不安を振り払う強い力が込められていた。

「……はい。ありがとうございます、お二人とも」

 憑代の手を強く握り返し、四季には緩く笑みを浮かべてみせる。

 今回の事件に巻き込まれてから、何度二人に励まされてきたか。一連の事件が落ち着いたら、改めて二人には何らかの形で感謝の形を示したほうがいいだろう。

 無事に解決したあとのことを思い浮かべ、心を奮い立たせる。軽く自分の両頬を叩いて活を入れ、千雨はゆっくりと階段を登っていった。





 かすかに軋む音と、一段登るごとに強くなる絵の具の匂いを感じながら階段を登っていく。

 ゆっくりとした歩調で慎重に二階へと移動した千雨を最初に出迎えたのは、一階で感じていたものよりも強い絵の具の匂いだ。一階では漠然と絵の具の匂いとしかわからなかったが、二階までやってくるとおそらく油絵の具の匂いだと予想がつけられるほどに変化した。

 千雨が何度か周囲を見渡したのち、足元へ視線を落とす。階段についていた足跡は、他の場所へ移動することなく、真っ直ぐと陽也の部屋に向かっていた。

「……やっぱり、兄さんの部屋なんだ」

 か細い声で吐き出された千雨の声を、最初に拾ったのはもっとも近くにいる憑代だった。

「あんたの兄の部屋というと、絵の具が一面にぶちまけられてた部屋か」

「はい。兄さんのプライベートな場所だから、兄さんもそこにいる可能性が高いとは思うんですけど……」

 一階と異なり、二階には家族のプライベートな部屋が集中しているので行き先は自然と限られてくる。千雨の部屋はもちろん、両親の部屋も特別な用事がないと入らない場所のため、陽也がいそうな場所といったら彼の部屋に限られてくる。

 今まで何度も出入りした陽也の部屋の前に立ち、千雨は大きく返事をしてから扉をノックした。

「……兄さん、ただいま。一階にいなかったけど、そこにいるの?」

 できるだけ普段どおりに声をかけるが、返事はない。

「兄さん?」

 もう一度呼びかけ、先ほどよりも強く扉をノックした。

 それでも返事が返ってくることはなく、耳を澄ませても中で誰かが動いているような音は聞こえなかった。

 一度ノックする手を止めて、千雨は憑代と四季へ振り返る。

 二人は何やらアイコンタクトを交わしたのちに、ゆっくりした動作で頷いた。

「……入るよ、兄さん」

 千雨も二人へ頷き返し、もう一度呼びかけてからドアノブに手をかける。

 玄関の扉と同じように、陽也の部屋の扉は少しドアノブに力を入れるとあっさり開き、わずかな隙間を作り出した。

(鍵、かかってない)

 呼びかけても返事はなかった。

 玄関を含む扉には鍵がかけられていない。

 普段ならそれほど深刻に物を考える材料にならないが、異常事態が起きている今の状況だと嫌な方向へ物を考えてしまう材料になった。

 大きく深呼吸をして、扉を大きく開け放つ。

 即座に千雨と憑代、四季の視界に飛び込んできたのは、千雨が出かける前に見たときよりも悪化した光景だった。

 千雨がスマートフォンで景色を切り取ったときは、壁や床にさまざまな色の絵の具が飛び散り、部屋中を彩っていた。しかし、今は壁や床だけでなく、部屋中にあるありとあらゆるものに絵の具が塗り込められていた。今度はさまざまな色ではなく、赤一色で。

 前よりも異常性を増した部屋の中。ちょうどベッドからすぐ傍の位置で、陽也が床に倒れていた。

「ッ兄さん!」

 千雨の口から悲鳴にも似た声があがる。

 反射的に駆け寄りそうになったが、千雨が陽也の下へ駆け寄るよりも早く、憑代が千雨の前に片腕を出して制止した。

 かわりに、四季が大股で倒れている陽也へと近づいていき、彼の片腕をとって手首に指先を当てた。

「……大丈夫。生きとるよ」

 数分の間のあと、四季の口から紡がれたのは陽也の無事を知らせる言葉だった。

 命を落としていない。まだ生きている。

 まだ彼が無事であることに心の底から安心したが、四季の顔が緩むことはなかった。

「けど、正直危ない状況やとは思うわ。……ちょいと呪い絵の気配が濃い。千雨ちゃんみたいに汚染の影響から抜け出せとるわけやないし」

 そうだ。千雨は四季の手によって、途中で絵の具を――呪い絵『最後の愛』からの汚染を取り除いている。だから、過度に生命力を奪われずに済んでいるが、陽也はそうではなかった。途中で呪い絵の汚染から逃れる手段もとっていないし、ざっくり考えただけでも陽也は千雨より呪い絵の影響を強く受けている。

 千雨が思っている以上に、今の陽也の状況はあまりよろしくない。

「……わかった。羽々屋、まずは部屋の外で生存者の安全の確保を」

「わぁっとる。この部屋ん中やと、『最後の愛』からの妨害が入りそうで危ないしな」

 四季の報告を受けた憑代が、落ち着いた声で指示を出す。

 憑代の指示を受けた四季もすぐに言葉を返し、倒れたままぴくりとも動かない陽也の身体を持ち上げた。

 四季の手によって持ち上げられた陽也の目は固く伏せられ、出かける前はマシになっているように見えた顔色は真っ青だ。

 陽也を連れて部屋から出ようとした四季へ、千雨が思わず手を伸ばす。

「あの……兄さんは大丈夫なんですか? 大丈夫なんですよね?」

 四季の衣服の裾を軽く掴んで制止し、千雨は問いかける。

 大丈夫だと言ってほしい。その場しのぎの答えでもいいから、陽也は大丈夫なのだと、心配しなくてもいいのだと言ってほしい。

 そんな思いを抱きながら四季の顔を見上げると、四季は少し驚いた顔をして――けれど、千雨の心の中を見透かしたかのように穏やかに笑ってみせた。

「そんなに不安そうな顔せんでもええよ。千雨ちゃんのお兄さんは大丈夫、大丈夫にするのが――ウチら呪探査士の仕事や」

 千雨が望んでいる言葉に、もう一言添えて。

 緩やかで大した力もこもっていない千雨の拘束から抜け出し、四季は陽也を連れて今度こそ部屋を離れた。

「千雨」

 二人を見送った千雨へと、憑代の声がかけられる。

「あんたの兄なら、羽々屋に任せておいて大丈夫。あいつは生存者を生かすことに長けてる」

 千雨の目が、ゆっくりと憑代へと向けられる。

 一時的なパートナー関係にある彼の瞳を見つめ返し、次の言葉を待った。

「だから、僕らも動こう。さっさとこいつを無力化させて、あんたの兄を助けよう」

「……わかりました。でも、どうやって……わ、わわ」

 どうやって無力化させて呪い絵を回収するのか。

 憑代へ問いかけようとしたが、千雨が疑問を全て口にするよりも先に憑代が手を引っ張った。

 急に手を引かれたため、千雨の姿勢が大きくぐらついた。なんとか足を一歩前に踏み出して身体を支えるも、憑代に再び手を引かれてもう一歩踏み出すはめになった。

 そのまま、彼に手を引かれるままについていき、壁に飾られている絵画の前へと移動する。

 壁や床、家具にまでも赤い絵の具が塗り込められた部屋の中で、相変わらずこの絵画だけは美しい状態を保っていた。

「手を離すなよ」

 しっかり握っててくれ。

 一言、そういった憑代の指先が絵画に触れる。

 本来なら額縁やアクリル板に遮られるはずの指先は、遮るものを突き抜けて絵画の中へと沈み込んだ。驚く千雨の目の前で、憑代の指先はどんどん絵の中へ飲み込まれていき、指先ではなく腕までも絵画の中へ沈み込んでいく。

 否――沈み込んでいるのではなく、吸い込まれているようだった。

 憑代の片腕が完全に飲み込まれたタイミングで、絵画から無数の黒い手が伸びてくるのが見えて――千雨の視界は、黒い絵の具で塗りつぶされた。





 黒く塗りつぶされた視界の中に、一つの光景が浮かび上がる。

 窓から夕日が差し込んでくる部屋の中で、一人の男性がこちらと向かい合っていた。時折違う場所へ視線を移しながらも、手に持った筆をこちらに向けて、パレットの上で違う色同士を混ぜ合わせて、また筆を向ける。肌に筆先が触れるたびに、黒く沈んでいた世界に自分の姿が浮かび上がってくるようだった。

 頭がぼんやりとだが認識する。目の前の男性が向かい合っているのはキャンバスで、自分はキャンバスの中からその様子を見ているのだと。

 彼が動かす筆先がキャンバスに触れるたびに、自分の姿がどんどんはっきりと浮かび上がっていく。

 金糸の髪。

 翡翠色の瞳。

 髪と瞳の色を引き立てるドレス。

 筆先で色をのせられるたびに見えてくる姿は、とても見覚えのある姿だった。

「……できた」

 やがて、目の前の男性が静かな声でそういった。

 こちらを見つめる瞳は優しく、達成感に満ちている。けれど、その奥にはどうしようもないほどに深い悲しみが揺らめいていて、こちらの胸を深く締め付けた。

「できたよ、エメリナ」

「本当? ……あら、本物よりも綺麗になってる。ふふ、ノルベールは本当に上手ね」

 目の前の男性が視線を違う場所へ移し、誰かに呼びかける。

 軽い足音のあと、こちらを――キャンバスを覗き込んだ女性は、黒の中に浮かび上がった自分と同じ姿をしていた。

 夕日を絡めてきらきらと輝く金髪も、エメラルドのような光を放つ瞳も、どれもが美しい。道を歩けば、多くの男性を振り向かせることができそうな、絶世の美女という言葉が似合いそうな女性だった。

 けれど、彼女の瞳の奥にも、男性と同じように深い悲しみと寂しさが揺らめいていた。

「これでも画家を目指す者だからね。けれど、本物よりも綺麗という言葉は否定させてくれ。俺は見えたものをそのまま描いているんだから」

「なら、あなたの目には私はこんなに綺麗に映っているの? なんだか少し照れちゃうわね」

 そういって、二人はくすくすと笑いあう。

 しかし、その笑い声もすぐに消えてしまい、女性はまだ絵の具が乾いていないキャンバスを寂しそうな顔で見つめた。

「……あなたの描く絵を一番傍で見れるのも、もう終わりなのね……」

 彼女が呟いた一言で、ようやく頭の中で点と線が繋がった。

 この二人は、もうすぐ別れなくてはならない。こんなにも仲が良くて幸せそうなのに、その幸せを手放さなくてはならない。そして、それは本人たちも望んでいないことだ。

 今、自分がキャンバスの内側から見つめている光景は、二人がともに過ごせる最後の時間だ。

「……ごめんなさい。本当にごめんなさい、ノルベール。こんなことになってしまうなんて」

 今にも泣き出しそうな声で、女性が言う。

 すぐ隣にいる彼女の横顔を見つめたのち、男性は自身の腕の中に彼女を閉じ込めた。

 優しく、壊れ物を扱うかのような腕。彼の両腕の中で、女性は美しい翡翠を潤ませて両手で顔を覆った。

 見る者の胸も切り裂くような悲しい光景――だが、その光景が、とても美しいもののようにも思えた。

「泣かないでくれ、エメリナ。それに謝るのは俺のほうだ、俺が病にさえ冒されなければ」

「何を言うの。絶対に病気にならないことなんて不可能だわ。あなたは悪くない、お父様を説得しきれなかった私が悪いのよ」

 ごめんなさい、ノルベール。あなたとともに生きると約束したのに。ごめんなさい――。

 震える声で紡がれる謝罪の言葉は、何よりも鋭い刃となる。次から次にわいてくる悲しさと現実への納得のいかなさ、悔しさは男性の胸にも深く突き刺さり、彼の表情を歪めさせた。

 二人がまとう空気に引っ張られるかのように、自分の目からも透明な雫がこぼれ落ちた。

「私の身代わりがいれば。私が二人いれば。あなたと一緒に添い遂げることができたのかもしれないのに。ごめんなさい、ノルベール。ごめんなさい――」

 女性を抱きしめる男性の腕に、さらに力が込められる。

 幸せになってほしい。真っ暗な世界の中に自分を生み出してくれた二人に、幸せになってほしい。


 あなたの隣にいる人が二人いれば、あなたたちは引き裂かれずに済んだかもしれないの?

 彼女の身代わりがいれば、あなたたちは涙にくれずに幸せになれるかもしれないの?


 彼女と同じ姿を手に入れた私が、彼女の身代わりになれば。

 あなたたちは、幸せになれるのかしら?





「――千雨!」

 己の名前を呼ぶ声が、目の前に広がっていた景色を大きく切り裂いた。

 一瞬で視界が白く塗りつぶされ、次に目を開けると心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる憑代の顔が見えた。

 自分の身に何が起きたのかいまいち理解できず、ぱちぱち瞬きを繰り返している前で、憑代はほっと息を吐いた。

「とりあえず気がついたか……大丈夫か? この指は何本に見える?」

 その言葉とともに、千雨の前に憑代の指が突きつけられた。

 指先が絵の具で少し汚れた指は、千雨の目の前で三本立てられている。いまだに少し状況の処理が追いついていないままに、千雨は本数を答えた。

「えっと……三本……?」

「うん、意識もしっかりしてそうだ」

 本当によかった。

 吐息混じりに呟かれた言葉には、彼が心の底から千雨を心配してくれていた事実が含まれている。

 そこまで見届けたところで、かなり遅れて今自分は床に寝そべっている状態なのを理解した。ゆっくり目を動かすと、憑代と手を繋いだままの己の手が視界に入った。

 繋いでいた手を離し、千雨はずっと寝そべっていた身体をゆっくり起こした。

「あの……一体、何が起きて……」

 そういいながら改めて辺りを見渡した千雨は、目を大きく見開いた。

 千雨が寝そべっていたのは、見慣れない部屋の中だった。足元は上質そうな赤いカーペットが敷かれており、アンティーク調の家具でまとめられている。窓の外には、美しく整えられた薔薇園が広がっていた。

 見覚えがある。ありすぎるほどの景色が、千雨の目の前に広がっていた。

「つ、きしろさん、ここって」

 もう何度も有り得ない事態を体験しているのに、脳が今の状況を否定したがっている。

 だって、ここは絶対に足を踏み入れることができないはずの場所だ。


 ここは――千雨が夢の中で見た屋敷の中だ。


「……ここは、呪い絵が作り出した世界の中だ」

「呪い絵が作った世界……」

 小さな声で憑代の言葉を復唱する千雨へ、憑代は頷いてみせた。

「呪い絵は、自分が描かれたときの記憶をもとに、自分たちの世界を作り出してそこに核を隠す。だから、ここに乗り込む必要があった」

 そうか――だから、千雨が夢の中で見た景色と同じだったのか。

 千雨は今まで、夢という形で呪い絵『最後の愛』の情報を得ていた。『最後の愛』がバルテレモンの手によって描かれた記憶を覗き見ていた。

 千雨が憑代とともに降り立ったこの場所も、『最後の愛』が自分を描いてもらったときの記憶を頼りに作り出した場所だ。故に、千雨の夢と景色が一致している。

 差し出された手を軽く握り、千雨は座り込んでいた状態からゆっくりと立ち上がった。

「呪い絵が作り出した世界なら……ここは、向こうのホームってことですよね?」

「そういうことになる」

 憑代が静かに言葉を返し、千雨の問いを肯定した。

「なら、こっちが圧倒的に不利……」

「ああ。基本的に、修繕画師は不利な状況での戦いを強いられる」

 そのような言葉を紡ぐ間も、憑代の視線は周囲へ向けられていた。

 千雨が立ち上がる際に貸した手をそのまま千雨の手に絡め、再び手を繋いだ。

「でも、安心してほしい。必ず守るから」

 真剣な瞳で告げられた言葉。

 そんな状況ではないとわかっているが、緩やかに顔へ熱が集まってしまう。

 このような状況ではなくもっと平和的な状況で、とても綺麗な顔立ちをした憑代にこのようなことを言われたら勘違いする女の子は多そうだと考えてしまう。

(……って、現実逃避してる場合じゃない!)

 現実逃避をしそうになった自分の頬を片手でひっぱたき、自身に活を入れた。

 突然の千雨の行動を目にした憑代は、紅玉色をした綺麗な目を丸くしたあと、押し殺した声で肩を揺らして笑った。

 今度は千雨がぽかんとした顔をして、憑代をじっと見つめる。

 口元に手を当てて笑う憑代の姿は、千雨がずっと目にしていた専門家の顔ではなく年相応の少年のように見えた。

 同時に、たまらなく人を惹きつけるような――妙な力を感じた。

「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか……」

「くく、悪い悪い。まさかそんな行動をするとは思わなくて……」

 憑代がひとしきり笑ったところで一言文句を言うと、彼は目を軽くこすりながらそういった。表情はすっかり緩みきっており、先ほどまでの緊張感や真剣さはすっかり抜けていた。

 無駄な力が入っていたのが、良い感じに抜けているように見えた。

「気を取り直して……行くぞ。さっさと核を見つけて封印処置をしてしまおう」

 そういった憑代の表情は柔らかく、けれど凛とした強い意志を持つ者にも見えた。

 見る者を安心させ、ともに歩く者に強い勇気を与える瞳。

 彼に助けを求めたのはきっと間違いではなかったのだと、憑代の手を強く握り返しながら千雨は確信した。

「……はい。私も、できる範囲でお手伝いしますから」

「すぐ傍にいてくれるだけでも、僕にとっては十分手助けになるからそこまで気負わなくてもいいさ」

 くつりと笑ってそういった憑代が、優しく千雨の手を引いて扉を開けた。

 人の声も鳥のさえずりも聞こえない静寂の中、赤いカーペットが敷かれた廊下を歩く千雨の頭に、ふと一つの光景が思い浮かんだ。

 真っ暗な空間を切り裂くかのように現れた、見ているこちらが悲しくなってくるような光景。

(……私が目を覚ます前に見てた夢)

 キャンバスの中から、絵を描いていた男性――おそらく、バルテレモンを見ていた夢。

 彼が動かす筆がキャンバスに触れるたびに、黒い海の中に沈んでいた姿が少しずつ見えていくようになる夢。

(あの夢は……)

 あの夢は、もしかして――。

 ぼんやりと思考を巡らせる千雨の頭に、いつも陽也の隣にいた彼女の顔が思い浮かんだ。

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