第5話 決意は金色
「おー、千雨ちゃん。いらっしゃい、待っとったで」
朝食を食べ、手早く準備をしてパンセリノスに向かった千雨を最初に出迎えたのは、昨日耳にしたばかりの独特な口調だった。
日曜日の昼。多くの人が休みを満喫している休日のパンセリノスには、以前来たときとは対照的にたくさんの人で賑わっていた。千雨と同じ高校生はもちろん、大学生や社会人らしき人もテーブル席に座っている。
ぽかんとした顔で店内を見つめている千雨に対し、声をかけてきた相手である四季はイタズラ好きな子供のように笑ってみせた。
「驚いたっちゅう顔しとるなぁ。びっくりした?」
「は、はい……。前に来たときは誰もいなかったので……」
素直に頷いて答えれば、四季はからから笑う。
「ウチ、昼間はカフェみたいな感じで営業しとるんよ。昼はカフェ、夜はバー。カフェバーっちゅうんやっけ。そういうのみたいな感じ。昨日は休んどったんやけどな」
「あ、それで昨日はあんなに人がいなかったんですね……」
納得した声で呟き、改めて店内を見渡す。
四季や千雨以外の人間が大勢いるからだろうか。以前は大人のための店という印象があったが、今はちょっと大人びた雰囲気のカフェのように見えた。夜は大人が多く来店するはずだから、そのときは再びバーのような印象を抱くのかもしれない。
店内を見渡す千雨の頭を四季の手が撫でる。
くしゃくしゃ少し乱暴に撫でる手に反応し、彼を見上げると優しく細められた瞳と目が合った。
「大体の話は聞いとるで。お兄さんのこと、不安やったな。大変やったな。ツキちゃんに任せたらもう大丈夫」
幼い子供に言い聞かせるかのような、穏やかで優しい声。
聞く者に不思議な安堵感を与えるそれは、強い恐怖に襲われたり混乱する事態を目の当たりにしたりして疲れ切っていた千雨の心に優しく浸透していく。
思わず泣きそうになるのをぐっと堪え、千雨は言葉に出すかわりに小さく頷いた。
「奥の部屋で待っとき。こっちは今お客さんおるからゆっくり話されへんけど、奥の部屋なら静かやし、ツキちゃんもすぐに来ると思うから」
「……すみません、ありがとうございます。羽々屋さん」
「ええんよ。奥の部屋はそこから行けるから」
四季の指先が、前に彼が出入りしていたところとは異なる扉を示す。
少々わかりにくいところに設置された扉には、スタッフオンリーの札がかかっている。四季や憑代のプライベートな空間があの先に広がっているのだろう。
「ウチもあとで話聞きに行かせてもらうさかい。またあとでな」
「わかりました。お仕事頑張ってください」
「かあいらしい子に応援してもらえるとやる気出るなぁ。さっさと終わらせられるよう頑張るわ」
四季がそういったタイミングで、店員を呼ぶためのベルの音が空気を震わせた。
即座に四季が伝票を手に、千雨へ軽く片手を振りながらベルを鳴らした客の下へ向かっていく。
仕事を頑張る四季の背中を見つめてから、千雨も教えてもらったばかりの扉をくぐり、奥の部屋へと向かった。
扉の向こう側は廊下に続いており、そこからさらに違う部屋へ移動できる作りになっていた。扉を一枚挟んだ先は多くの人で賑わっているが、千雨が今いる場所は静寂に包まれている。扉の向こう側から聞こえてくる音や人の声がなんだか遠く感じられた。
「憑代さん、どこにいるんだろう……」
四季は奥の部屋で待っていたらいいと言っていたが、具体的にはどういった部屋のことを指していたのだろう。もうちょっと詳しく聞いておけばよかったが、引き返して尋ねるのもなんだか申し訳なくて実行できそうになかった。
とりあえず、止まっていた一歩を踏み出して手前にある部屋の扉をうっすらと開いて覗き込んだ。
部屋の中は綺麗に整頓されており、憑代が背負っていたような木箱が床に置かれている。壁に目を向けると、さまざまな絵画が飾られており、千雨の心臓が大きく跳ねて思わず身構えた。
(……あれ?)
が、すぐに違和感に気付く。
つい最近、千雨が相手にしているのは生きている視線を感じるような妙な絵画だ。ここにある絵画も同じようなものではと思ってしまい身構えたが、ここの絵画からは生きた視線や不気味さを感じない。
しかし、普通の絵画とも違う。見る者の目を惹き付ける魅力を放っており、奇妙な印象を千雨に与えた。
「普通の絵画……とは違うよね? 多分……」
「違いがわかるのか?」
「びょあっ」
独り言を呟いた瞬間、すぐ近くで返事が返ってきた。
突然の自分以外の声――それも至近距離から聞こえたそれに思わず変な声をあげ、千雨は両肩を大きく跳ねさせた。
即座に声が聞こえたほうへ勢いよく顔を向ける。
はたしていつやってきたのかわからないが、千雨のすぐ近くには朝に電話をした相手であり、千雨が助けを求めた人物でもある憑代が立っていた。
プライベートな空間だからか、憑代は出会ったときとはまた異なる着物と袴に身を包んでいる。シンプルな白い着物に深く濃い赤色の袴は、彼がもつ不思議な雰囲気に不思議と噛み合っているように感じられた。
「つ……憑代さん……いつからそこに……?」
「さっき、羽々屋から千雨が到着したって連絡もらったから。出迎えに行くかと思って出てきたら、ちょうど千雨がいたから声をかけた」
ということは、本当についさっきやってきたところなのだろう。
近づいてくる気配と足音に気付きもしなかったとは――思っていたよりも、目の前にある絵画に惹き付けられていたのかもしれない。
憑代はわずかに開いていた千雨との距離をさらに詰め、ドアノブを握ったままの千雨の手に自分の手を重ねた。
大きさの違う彼の手が重なっている光景を見た千雨の顔に、一気に熱が集まる。
千雨が内心慌てている一方で、憑代はうっすら開かれた扉の先にある部屋を見て「納得した」と呟いた。
憑代の手が千雨の手ごとドアノブを握り込み、ゆっくりした動きで扉を閉める。うっすら開いた先に見えていた光景はどんどん細くなり、最終的には完全に見えなくなった。
「この部屋、回収して封印した呪い絵を置いてる部屋なんだよ。だから、普通の絵画とは違うって感じたんだと思う」
「えっ……あれ、全部呪い絵なんですか? 不気味な感じとか嫌な感じとかしなかったのに?」
「でも、妙な感じがするのはわかったんじゃないか? だから、普通の絵画とは違うって呟いてたんだろう?」
「それは……まあ、なんとなくですけど」
するりと憑代の手が千雨の手から離れていく。
時間にして数分、または数秒という非常に短い時間だったが、憑代の手のぬくもりが離れるのはなんだか寂しかった。
憑代は、そのまま軽く握りこぶしを作り、手の甲で扉を軽くノックした。
「言っただろ、回収して封印した呪い絵だって。不気味さや嫌な感じが薄れてたのは、封印して力を発揮できないようにしてあるからだ」
「あ……な、なるほど。封印されてるのは印象が変わるんだ……」
納得したような声色で呟く千雨。
そんな千雨の様子をじっと見つめたのち、憑代はとても小さな声で一言、口にする。
「……ただの人間なら、気付かないはずなんだけどな」
ギリギリまでボリュームを絞った、とても小さな声は千雨の耳に届かずに空気へ溶けて消える。
彼が何を呟いたのか聞き取れず、首を傾げた千雨へなんでもないと言いたげに首を振り、憑代はくるりと背を向けた。
「その部屋は使えないから、違う部屋で話そう。こっちに来て」
「あ、わかりました」
そう声をかけた憑代が先導して歩き出す。千雨も素直に従い、彼の背中を追いかけて止まっていた足を動かした。
からころ。
ぱたぱた。
雰囲気の異なる二人分の足音が鼓膜を震わせる。
彼の背中を大人しく追いかけていけば、応接間という手作り感満載のプレートがかけられた部屋へと案内された。
応接間の中は、その名に恥じない内装になっていた。おしゃれな印象がある大きめのガラステーブルが置かれており、黒いシンプルなソファーがテーブルを挟んで向かい合うように設置されている。部屋の広さはそこまで広くないため閉塞感を感じそうなところを、大きめで作られた窓がそれを緩和していた。
きょろきょろと部屋を見渡す千雨の背後で、扉が閉まる音がする。
「どうぞ、座ってくれ。……そして、話を聞かせてほしい」
片手で片方のソファーを示した憑代の声に、真剣な色が混ざる。
彼に促されてソファーへ座った千雨も、彼の声につられて表情を引き締める。数回軽い深呼吸をしたのち、憑代が正面に座るのを待ってから口を開いた。
話すのは、今日の朝に千雨が体験したばかりの出来事。兄である陽也と話したことと、彼の部屋に起きていた異常な現象だ。
千雨が話し始めた直後は普段どおりの顔をしていた憑代だったが、千雨の話が進むごとに少しずつ表情が曇っていく。陽也の部屋がさまざまな色の絵の具でべたべたに汚されていた話に入るころには、すっかり険しい表情になっていた。
もしかして、予想以上に深刻な事態になっているのでは――と千雨の心に不安が芽を出す。
「……その部屋の惨状は、何かに記録してきてくれたか?」
千雨の話がだいたい一段落すると、憑代は険しい顔のまま問いかけた。
以前話したとき以上に真剣で深刻そうな雰囲気に押されそうになりながらも、千雨は頷いてスマートフォンを取り出した。
電話口でも言われたのだ、しっかり撮影してきている。
「えっと……これなんですけど……」
撮影した陽也の部屋の写真をスマートフォンの画面に表示し、憑代へ差し出す。
一度自分の手を拭いてから、憑代はスマートフォンを受け取って写真を確認した。
千雨のスマートフォンには、部屋中に色とりどりの絵の具が塗りたくられた陽也の部屋が綺麗に切り取られて表示されている。
はじめて目にした瞬間も感じたが、改めて目にした陽也の部屋の様子は、この手のことに詳しくない千雨から見てもやはり異常にしか映らない。
そして、それは専門家である憑代の目から見ても同じだった。
「……見るからに異常事態が起きてるな」
「なのに、兄さんは変わったことは何もなかったって言ってて……」
頷きながら、千雨は表情を曇らせる。
憑代はじっと手元のスマートフォンに視線を向けたまま、軽く曲げた指で自分の唇に触れた。ゆっくりと紅玉色の瞳が細められ、思考を巡らせる姿はまるで一枚の絵画のように美しい姿に見えた。
思考していた時間は数分。結論を出した憑代の目が開かれ、千雨へと向けられた。
「おそらくだが、この呪い絵は相当成長している」
「……え」
千雨の頭の中で、四季の声がよみがえる。
憑代に連れられてはじめてパンセリノスへ来た日、四季が呪い絵の説明で言っていた。人間を魅了して取り込み、糧にして成長する――と。
成長しているということは、力をつけているということだ。憑代の目から見て相当成長していると判断できるほどなら、かなり厄介なものになっている可能性が高いのではないか。
ふつり、ふつりと少しずつ不安が染み出してくる。
「呪い絵の中には、ある程度の力をつけると人の世に溶け込むために、人間の姿をした自分を作り出すものがある。絵画としての自分を核にして、人間の姿をした自分を動かして人間と変わらない生活を送る――まあ、わかりやすくいうなら端末を増やすんだ」
「人間の姿の……」
千雨の背中を冷や汗が伝う。
「積極的に人の世に溶け込めるほどの力をつけた呪い絵は、こうやって自分の力を張り巡らせて、より効率よく人間を食えるようにする。……この惨状は、呪い絵がこの部屋を自分の領域……あー……そうだな、縄張り。縄張りにした結果だと思う」
喉が急速に乾いていくのを感じる。
憑代が話せば話すほど、呪い絵がいかに千雨の想像を超えた存在であるかがよくわかる。成長していけばしていくほど、どんどん厄介な存在になっていくことも。
そして、できれば気付きたくなかったことにも、気付いてしまう。
「……絵美理さんは……呪い絵そのものだったんだ……」
わずかに震える唇で紡いだ千雨の声は、細くかすれていた。
呪い絵と何かしらの関係がある可能性はあった。けれど、心のどこかで絵美理は人間だとずっと思っていた。
だが、実際には人間ではなかった。そのことを知ってから改めて絵美理を思い出すと、絵画の女性と同じ顔をしていたのも、彼女が作った手料理で千雨が絵の具を吐くことになったのも納得がいく。
今の今まで、人の姿をした人間ではないものが近くにいたという真実は、平凡で平和な日常を送ってきた千雨には少々刺激が強すぎた。
「……でも、予想よりも成長が早すぎる……。部屋の主が手に入れる前にも、何人か人間を食ってきたな? こいつ」
ひゅっと千雨の喉が恐怖で引きつった音をたてた。
知れば知るほど、陽也の部屋にある絵画が怖くなってくる。
そして、確信する。やはり、あの絵画と陽也は引き離したほうがいい――たとえ、彼に嫌われることになったとしても。
スマートフォンをずっと見ていた憑代が顔をあげた。
千雨から借りていたスマートフォンを一旦スリープモードに切り替え、本来の持ち主である千雨へと差し出しながら、言う。
「何があったのか大体わかった。情報提供感謝する。……今回の依頼内容は、この呪い絵をどうにかしてあんたの兄を助けるって内容でいい?」
「はい。どうか……兄さんを助けてください。お願いします」
スマートフォンを受け取りながら、千雨は憑代を見つめてそういった。
彼も仕事だ、無償でやってくれる可能性はゼロに近い。故に、後々で代金か対価を要求されるだろう。この手の仕事はどれくらいの料金が必要になるのかまるでわからないが、たとえどれだけ高くても時間をかけて必ず支払おうという覚悟が、今の千雨にはあった。
改めて助けを求める言葉を紡いだ千雨に対し、憑代は好戦的にも見える笑みを浮かべて電話でも口にしていた一言を口にした。
「拝命した」
その一言は、やはり千雨の心を落ち着かせるには十分すぎるほどの力を持っていた。
不安が和らいでいき、恐怖が押し込められていく。
千雨にとって未知の存在である呪い絵に対し、有効手段を持っている憑代という存在は一種の精神安定剤になっている。
(憑代さんと知り合えてて、よかった……)
もし、あの日憑代と出会えていなかったら。呪い絵の存在や絵美理の正体を知ることなく過ごしていたら。千雨は何も知らないまま、わけのわからない恐怖に包まれていたのだろう。
――想像するだけで恐ろしい。
「さて……そうと決まったら、まずはどんな呪い絵なのかを知りたいところだが……」
そこまで口にしたところで、憑代が言葉を切った。
彼の紅玉色の瞳が、ついと閉ざされたままの扉へと向けられる。
一体どうしたのか疑問に思いつつも、彼の動きにつられて千雨も扉へと目を向けた。
かつり、かつり、かつり――静かになった応接間の中に、扉の向こうから聞こえてくる足音が響く。足音はどんどんこちらに近づいており、少しずつ音が大きくなっていった。
陽也の部屋の前で体験した出来事を思い出し、千雨の身体に力が入る。ここは陽也の部屋の前ではないが、どうやら自覚している以上に精神的なダメージを受けてしまっているらしい。
かつり。足音が扉の前で止まる。
数分の空白があいてから、閉ざされていた応接間の扉が勢いよく開かれた。
「おまたせ、千雨ちゃん。ツキちゃん。もう大体の話は一段落してもうた?」
「遅いぞ、羽々屋」
「羽々屋さん……」
憑代は不満げに。
千雨は心底安心したというように。
それぞれが新たに部屋へ入ってきた四季を出迎える。
四季は片手に三人分の飲み物が載せられたトレイ、もう片方に暗い色合いの表紙をした画集を思わせる本を持っていた。
「やー、すまんすまん。お客さんの最後の一組がなっかなか帰ってくれへんかったんよ」
「それはお疲れ様。店のほうはちゃんと閉めてきた?」
「もちろん。そこは忘れてへんから安心してや」
憑代に返事をしながら応接間に入ってきた四季は、まず片手に持っていた画集をテーブルに置いた。次にトレイを置いて、持ってきた飲み物を千雨と憑代の前に置き、最後の一つを二人の分から少々離れた箇所においた。
千雨にはアイスティーフロート。憑代には以前と同じ冷えた緑茶が置かれている。
わざわざ飲み物を持ってきてくれた四季に一言お礼を言い、千雨は早速アイスティーフロートに口をつけた。
千雨がすっかり乾いていた喉を紅茶の爽やかさとアイスの甘みで癒やしている間、憑代と四季の二人はこれまでに千雨から得た情報を共有していた。
「なーるほどなぁ、大体どないな呪い絵かはわかった。……千雨ちゃんの兄さん、面倒で厄介な奴に目ぇつけられたんやなぁ」
「部屋一つを領域化した辺り、力はかなり強まってる可能性が高い。これ以上好き勝手やらせると、千雨の兄だけじゃなく千雨にも危険が及ぶ」
「せやね。依頼人ちゃんにも危険が及ぶのは、ウチらの望んでることやない」
そういいながら、四季はテーブルに置いた画集を開いた。それぞれのページにたくさんの絵画の写真が掲載されており、簡単な解説と思われる文章も下のほうに書かれていた。
ふいに、四季の瞳が千雨へと向けられる。
「なあ、千雨ちゃん。千雨ちゃんがお兄さんの部屋で見た絵画って具体的にはどんなん? こん中に掲載されとったら、これやって教えてくれへん?」
「別に構いませんけど……」
けれど、誰が描いたのかわからないあの絵画が、この画集の中に載っているのだろうか。内心首を傾げつつも、千雨は頷いてアイスティーフロートのグラスを置いた。
ソファーから少し身を乗り出して、四季が開いている画集を覗き込む。掲載されている絵画一枚一枚を丁寧に見ながらページをめくっていく。
何度も何度もそれを繰り返し、千雨は画集をどんどん読み進めていった。
「……あ」
十三ページめに行き着いたころに、その手が止まる。
十三ページには、綺麗な金糸の髪に翡翠色の瞳をした女性が描かれた絵画が掲載されていた。背景には見覚えがある屋敷の景色が描かれており、中央に配置された女性の表情は穏やかだが寂しそうにも見える。
見覚えがある。ありすぎるほどに。
「……これ?」
それまでとは違った様子を見せた千雨へ、四季が問いかける。
千雨は小さく頷き、金糸の髪をした女性の絵を指差した。
「これ、です」
「これなんやな、あんがとさん。……『最後の愛』か」
四季の手が優しく千雨の頭を撫でる。
片手でそうしながらページに視線を落とし、四季は下のほうに書かれている絵画のタイトルらしき言葉を呟いた。
「私が調べたときはこの絵画が載った画集はなくて、タイトルも、誰が描いたのかもわからない作品だったのに……」
「んー、そりゃあ普通に調べたら出てこんと思うで? 呪い絵は日常の裏側にあるもの。普通やったら目にすることもできへんようなもんやから。これはウチらが使う仕事道具で、現在確認されとる呪い絵の画集なんよ」
せやから、この画集の中には掲載されとるんよ。
千雨が思わず呟いた言葉に返事をし、四季は少々得意げに笑ってみせた。
「え……じゃあ、どんな絵画かもわかるんですか?」
「わかるよ」
きっぱりとした口調でそういって、四季は言葉を重ねる。
「『最後の愛』は、海外に住んどったって言われとる画家、ノルベール・バルテレモンっちゅう人が二十代の頃に描いたって言われとる作品なんよ。当時、バルテレモンには心から愛しとったエメリナ・アナ・シャンポリオンちゅう名前の恋人がいたって言われとる」
――本当に、あなたは絵を描くのが上手ね。
四季の話に耳を傾けていた千雨の頭の中で、女性の声が響く。
それに伴い、柔らかく笑う金糸の髪をした女性の笑顔が頭の中に浮かんだ。
「二人の仲は良好で、バルテレモンがまだ見習いの画家やった頃にいつか有名になるからついてきてほしいってエメリナに言うたら、エメリナは即答でオーケーするほどだったんやって。傍から見てもラブラブってわかるほどの相思相愛っぷりだったんだとか」
アンティーク調の家具でまとめられた部屋の中で、幸せそうに笑う男女の姿が思い浮かぶ。
『……エメリナ、どうしても駄目なのか?』
『ごめんなさい、ノルベール』
ずっとノイズで聞こえなかった名前が、頭の中で聞こえた。
知っている。千雨は二人のことを一方的に知っている。
何度か見た不思議な夢。あの夢に出ていた二人が――バルテレモンとエメリナだ。
「結婚も秒読みって思われとったんやけど……数年後、バルテレモンが治るか治らんかわからん病気になった。それを知ったエメリナの父親が、エメリナに相談なしでバルテレモンよりも金持ちの奴との婚姻を取り決めてしもた。『最後の愛』は、二人が会える最後の日にバルテレモンが描いたもんで、そのときのバルテレモンの思いがこの絵を呪い絵にしたって伝えられとるんよ」
愛していたのに、一緒になれなかった恋人同士。
その背景を知ると、あの夢の中でバルテレモンとエメリナが悲しそうだったのが納得できた。
夢から目覚めた直後に感じた寂しさと悲しさが千雨の中でよみがえり、視界が涙でわずかに滲んだ。
「……そっか……それで、悲しそうだったんだ……」
「……え?」
憑代と四季が目を丸くする。
飄々とした態度を崩さない四季でさえも、ぽかんとした顔で千雨を見つめていた。
「千雨ちゃん、バルテレモンとエメリナのこと知っとったん? っちゅうか、それで悲しそうだったって……なんや実際に二人をおうたことあるみたいな言い方やな?」
「あっ、いや、実際に会ったことはもちろんありませんよ? その……不思議な夢を何度か見たことがあって。その中に出てきたんです。夢を見たときは呪い絵の作者と恋人だって知らなかったけど……」
顔の近くで手を振りながら、千雨は慌てて四季と憑代を見てそういった。
どうしてあのような夢を見たのはわからないが、千雨は確かに二人を夢の中で見た。断片的なシーンのみだったが、今思うとあれは二人で過ごしていた幸せなときと呪い絵『最後の愛』が生まれるきっかけになった瞬間だった。
目を皿にしていた四季の表情が少しずつ変化していき、まるで面白いものを見るかのように細められた。唇の端が弧を描き、何度か目にした笑みへと切り替わる。
何度か目にしたことがある笑い方のはずなのに、何かやってしまったのではと不安にさせる力があった。
「へーぇ……千雨ちゃん、呪い絵の作者が出てくる夢を見たんや」
「え……そ、そうですけど……」
自分は何か良くないことを言ってしまったのだろうか。
四季の反応に少し焦りつつ、千雨は後ろに下がって四季から少しでも距離を取りたい気持ちになった。ソファーに座っているため、後ろに下がることはできないが。
助けを求めて憑代へと目を向けるが、憑代も憑代で何やら考え込んでいるようだった。
「あの……何か変なことか、お気に触るようなことを言っちゃいましたか……?」
表情がひきつるのを感じながらも、千雨は二人へ問いかける。
「んー? そんな怖がらんでもええよぉ。ちょっとおもろいなぁって思うただけやから」
「お……面白い……?」
「やって、呪い絵に関係する夢なんて、普通の人は見ぃへんもん」
楽しげな声色で告げられた言葉に、一瞬千雨の動きが固まった。
普通の人は見ないはずの夢を、自分は見ている?
「……そういえば、さっきは封印された呪い絵を見て、普通の絵画とは違うって言ってたよな」
「千雨ちゃん、そないなこと言うとったん? ふーん」
思考を巡らせていた憑代が呟くように言い、紅玉色の瞳を千雨へ向ける。
彼の呟きを聞いた四季は、ますます楽しそうに声を弾ませて目を細めた。口元に浮かんでいる笑みがさらに深くなっていく。
意味ありげな視線と言葉が千雨から余裕を削り取り、焦るようなそうでないような気持ちにさせていく。
憑代と四季の考えていることがわからず、問いかけようとした千雨よりも先に、四季が再び口を開いた。
「呪い絵に関する夢を見て、封印された呪い絵と普通の絵画の違いに気付いたんなら、千雨ちゃんは《パレット》なんかもしれんなぁ」
「《パレット》?」
その言葉を聞いて、最初に思い浮かべたのは絵の具を使って絵を描くときに使うあれだ。だが、四季が言う《パレット》という言葉が、それを指しているわけではないのは予想がつく。
にやにや笑う四季の言葉を引き継ぎ、憑代が話し始める。
「ごくたまにいるんだ。修繕画師や呪探査士とは違った手段で呪い絵に関する情報を得られて、修繕画師と呪探査士の力を高められる奴らが。そういう特別な奴らを、僕らは絵を描くときに使う道具にたとえて《パレット》って呼んでる」
千雨の目が大きく見開かれていく。
突然そのようなことを言われてもぴんとこない――が、千雨だけが『最後の愛』に関する夢を見たのもこれなら納得できてしまう。
「《パレット》は体質のようなものだ。自分の力を高めることはできないけど、修繕画師や呪探査士にとって最高のパートナーになる。……まあ、あれだ。修繕画師や呪探査士になれる才能を持ってるみたいな感じだ」
それが、《パレット》。
憑代のような修繕画師や、四季のような呪探査士をサポートすることができる者。
千雨はまだ《パレット》の可能性があるというだけで、確定ではない。けれど、もし。もし《パレット》であれば憑代や四季を手伝える。
――自分も、陽也を助けるために協力できるかもしれない。
千雨の胸の中で、金色の希望が弾けた。
「千雨ちゃんはまだ可能性があるっちゅう段階やけど、ほんまに《パレット》っちゅう可能性は高いと思うんよ。……ってわけでぇ、ウチから一つ提案あるんやけど」
人差し指をたてて四季が口にした提案は、千雨の胸に弾けた希望をさらに煌めかせるものだった。
「ツキちゃん、今回はウチだけやのうて千雨ちゃんも連れてったら?」
「!」
「……は?」
目を輝かせた千雨とは対照的に、憑代が理解できないと言いたげな顔をする。
見る者に威圧感とわずかな恐怖を与えそうな顔だったが、四季には通用していないようだ。にこにこと笑みを全く崩さずに、たてた人差し指を左右に動かしている。
「やって、《パレット》やったら大チャンスやで? 《パレット》がバディを務めてるんとそうでないんとでは大きく違う。相手がすでに何人か食っとるような大物や、こっちも《パレット》と組むくらいの準備が必要やろ」
「悪いけど僕は反対だ。千雨は一般人だったんだ、いきなり僕らの仕事に連れていくのは刺激が強すぎる」
憑代の表情が険しくなり、少々強い口調で反論した。
彼の主張にも納得できるものがある。確かに千雨はつい最近まで一般人だった身だ、彼らの仕事につついていったら迷惑をかける可能性がある。
けれど、四季が考えている《パレット》の力が必要というのもわかってしまう。
二人の主張に挟まれた千雨は、何度も憑代と四季の顔を見比べていた。
「まーそれはあるかもしれんけど。でも、いい加減ツキちゃんもウチ以外の誰かと組んだほうがええよ。困るんはツキちゃんやで」
「けど」
「あ、あの!」
だんだん剣呑になっていく憑代の様子に耐えきれず、千雨は大声をあげた。
自然と二人の視線が千雨のほうへと向けられる。
不機嫌そうな憑代の視線が突き刺さり、思わず声をあげたことを後悔したくなったが、それを無理やりにでも飲み込んで千雨は口を開いた。
「私、やります、お手伝いさせてください!」
この数日、何度も恐ろしい思いをした。不気味な瞬間を目にした。
あの恐怖や不気味さを持った相手と再び向き合うのは、白状すると恐ろしいし逃げてしまいたくなる。しかし、家族なのに千雨だけ陽也に対して何もできないのは苦々しくて仕方がない。
ほんの少しでも、自分にできることがあるのなら。
ほんの少しでも、千雨が動くことで陽也を助けられる可能性が高まるのなら。
――その希望を捨てる理由は、どこにもない。
「……あんた、わかってるのか?」
数分の空白。
大きな声で手伝いを申し出た千雨に対し、言葉を返したのは憑代が先だった。
「僕らが相手にするのは呪い絵、あんたに何度も怖い思いをさせたものだ。あんたが数日前までは存在すら知らなかったものだ。化け物と戦うようなもんなんだぞ、怖くないのか」
「う……正直に言うと怖いんですけど……。でも、私だけ……兄さんに何もしてあげられないのは嫌だから」
本来なら、憑代と四季に全てを任せて千雨は大人しく待っているのが正解だ。それが正解で、最適解。花丸をもらえる選択だ。
憑代もおそらく、千雨がそれを選ぶのを望んでいる。
「私が《パレット》で、憑代さんや羽々屋さんをお手伝いできて、間接的に兄さんを助けられるなら。私も、兄さんを助けるために何かしたいんです」
けれど、千雨の思いはこっちだ。
ほんの少しでも陽也を助けるために力を貸せるなら、力を貸したい。不気味で恐ろしいものともう一度向き合わなくてはならなくなったとしても。
真正面から自分の思いを吐き出した千雨の視線の先で、憑代が唸り声を出した。ぐしゃぐしゃと白い髪をかき混ぜ、数分ほど空白をあけ、長く息を吐きだす。
その仕草は、思っていたよりも早く憑代が折れたことを示していた。
「……あんまり前には出ないでくれよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
ぱっと目を輝かせ、千雨は勢いよく頭を下げる。
少々心配そうな顔をしている憑代のすぐ傍で、四季は楽しそうににやにや笑っていた。
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