第4話 異変は紫色

 しんと静まり返った部屋の中。時刻は夜、深夜一時。すっかり夜の色に染まりきった自室のベッドに寝転んでいる千雨は、ゆっくりと閉じていた目を開けた。

 憑代と四季の二人から呪い絵の存在について聞いたあと、重い足取りで自宅に戻った千雨を待っていたのは、いつもどおりの日常だった。どこかに出かけていたらしい陽也も戻ってきていて、絵美理もいつものように陽也の様子を見に来ていて、至っていつもどおりの時間だった。一瞬、憑代たちとの時間は夢だったのではと思ってしまいそうになるほど。

 けれど、彼らから聞いた話は千雨の心に残り続けている。信じてほしいと口にした憑代の声もしっかりと覚えている。

(……考えすぎて、眠れない)

 今日一日だけで気になることや考えることが急速に増えてしまった。そのせいか、普段ならもう眠れている時間になっても上手く寝付けない。

 被っていたシーツをはねのけ、千雨はベッドから起き上がる。部屋の中を満たす宵闇はどこまでも深く、何もせずにじっとしていると吸い込まれてしまいそうだ。

「一旦、水でも飲みにいこうかな……」

 眠れないときは、無理をして寝ようとするのは好ましくない。

 以前、友人に見せてもらった不眠症に関する情報を掲載しているサイトの中にもそのような情報が掲載されていたのを思い出しながら、千雨はそうっと両足を床につけた。

 闇を照らすライトのかわりにスマートフォンを手に取り、足元に画面を向けた状態で静かに部屋を出た。

 深夜の廊下も、部屋の中と同様に宵闇に満ちている。よく知っている自宅の中の景色も、時間帯が違うだけでまるで違う場所のように見えてくるのだから不思議だ。

 一歩、また一歩と極力音がしないよう気をつけながら、千雨は廊下を歩く。ここまで暗い中を歩くのは少々緊張するが、陽也の部屋の前を通り過ぎれば一階に続く階段はすぐ近くだ。

「……?」

 ふいに、誰かの声が聞こえた気がした。

 千雨の足が自然と止まる。

 聞こえた声は気のせいかと思うほどに小さかった。だが、ほとんどの生き物が寝静まった深夜はさまざまな音が普段以上にはっきりと聞こえる。故に、それほど小さな声でも千雨の耳にはしっかり届いた。

(兄さんの部屋のほうから……?)

 ゆっくりとした動きで、千雨は陽也の部屋のほうを見る。

 声が聞こえたのは陽也の部屋の前を通り過ぎる途中だった。千雨が足を止めたのも、彼の部屋の前。視線を横に動かすと、暗闇に慣れた目が陽也の部屋の扉を捉えた。

 真っ暗な中ではわかりにくいが、普段はしっかり閉じられている扉の隙間にさらに黒い闇ができている。スマートフォンの光を少し弱めてから向ければ、扉がしっかりと閉まらず半開きになっていた。

 いつもは閉まっている扉が半開きになっているだけ。たったそれだけなのに、千雨は自分の身体に緊張が走るのを感じた。

 深呼吸をし、スマートフォンを一旦スリープモードに切り替える。物音をたてないように気をつけつつ、隙間から陽也の部屋の中を覗き込んだ。

 隙間から見える陽也の部屋は暗く、どこに何があるのかわかりづらい。適当に閉められたカーテンの隙間からは外の光がわずかに入り込んできており、それがぼんやりと彼の部屋の一部を照らし出していた。

 そんな暗い部屋の中で、おそらく陽也が眠っていると思われる場所の前に、一人の女性が立っている。

「――ッ……!」

 咄嗟に口へ手を当て、悲鳴を飲み込んだ。

 現在の春咲家には、女は千雨一人しかいない。本来ならいないはずの女性が兄の部屋の中にいるというのは、千雨の心臓を縮み上がらせた。


「……まだ、まだ……もう少し……」


 静寂を切り裂き、ぼそぼそと自分のものではない声が千雨の耳に届いた。

 その声は、千雨が陽也の部屋の前を通りかかったときに聞いたものと同じだった。

 眠っている陽也を見つめている女性は、こちらに背を向けたまま、一定のリズムで動いている。


「あともう少しで……きっと……」


 呟かれている言葉は、一部分しか聞き取れない。何を言っているのかよくわからず、それが千雨の中にある恐怖を増長させた。


「きっと……、……も、……間に……」


 再び女性が何かを呟いた直後、カーテンが大きく揺れて外の光が部屋の中に多量に入り込んだ。

 夜の光に照らされて、ぼんやりとしか捉えられていなかった女性の姿がはっきりと見える。

 ふわふわとした金糸の髪に、高級そうな布で作られたドレス。異国の人だとひと目でわかるその姿は、千雨が夢の中で何度か目にした女性――陽也が気に入っている絵画の女性と全く同じだ。

 夢の中に出てきた女性が、絵美理と同じ顔をした女性が、絵画の中にしか存在しないはずのものが――兄のすぐ傍に立っている。

 口元を押さえている手に力を込め、恐怖から荒くなっている呼吸を必死で殺す。できるだけ吐く息を細くし、後ずさりをした。

 気付かれてはいけない。

 できるだけ静かに、見なかったことにして立ち去らないといけない。

 気付かれてはいけない。見られてはいけない。脳がガンガンと警鐘を鳴らしている。

 物音をたてずに、猫のように、何も見ていなかったと自分に言い聞かせて――。



「千雨ちゃん」



 背中を向けて一歩を踏み出した瞬間。

 聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、千雨の背筋に悪寒が走った。

(絵美理さんの、声)

 おかしい。

 絵美理の声が背後からするのは、おかしい。

 時折、彼女が春咲家に泊まっていくことはあるが、今日はそうではない。それに、泊まっていくときは陽也の部屋ではなく客間に使っている部屋に泊まる。今、この場で絵美理の声が聞こえるのはおかしい。

 動けなくなった千雨の背後で、一歩、また一歩とゆっくりした歩調で誰かが近づいてくる。

 誰がこちらに向かってきているかなんて――考えなくてもわかる。

「起きてたのね、千雨ちゃん。こっそり覗き見していたなんて」

 語る声はどこまでも穏やかだ。

 穏やかだからこそ――妙に不気味で、恐ろしいと感じてしまう。

「良い子だと思ってたのに、実はとっても悪い子なのかしら」

 気配が少しずつこちらに近づいてくるごとに、絵の具独特の香りが強くなっていく。

 この場にいないはずの存在や声だけでなく、するはずのない香りまで感じられるようになったことに、頭が追いつかずに混乱する。その混乱はやがて恐怖へと置き換わり、全身の体温を低下させていく。

 今すぐにでも走ってこの場を離れたいのに、足の裏を固定されたかのように動かなかった。

(どうしよう)

 恐怖に塗りつぶされた頭では、良い対処法が思い浮かばない。それでも必死に今の状況を切り抜けるための方法を考える。

 その間にも、背後から近づいてくる気配と香りはどんどん強くなっていった。



「――ねえ、千雨ちゃん」



 足音が止まる。

 気配が千雨のすぐ後ろから感じられる。

 頭が痛くなりそうなほどに濃厚な絵の具の香りの中、千雨の肩に温度を感じられない手が触れた。

「――!」

 その瞬間、振り切れた恐怖が千雨の身体を突き動かした。

 喉が声にならない悲鳴をあげ、肩に触れていた手を乱暴に振り払った。自由になった足を動かし、弾かれたように階段を駆け下りる。

 最後の一段を飛び降りて、目的地であったキッチンに駆け込むと明かりをつけた。

 ぱっと白熱灯が光を放ち、キッチン全体に広がっていた宵闇を吹き飛ばす。闇を明るく照らし出してくれる光は、恐怖で混乱しきった千雨を安心させるのに十分だった。

「……はぁっ、は……っ」

 安心できる場所に逃げ込んだことで、詰まっていた呼吸が元の状態に戻った。

 口を覆っていた手を下ろし、新鮮な空気を取り込んで体内の空気と入れ替える。

 先ほどまで感じていた絵の具の香りは薄れ、感じ慣れた空気の匂いが千雨の肺の中を満たしていった。

「今の……今の、は」

 それに伴い、混乱しきっていた頭も少しずつ冷静さを取り戻していき、まともに物を考えられる状態になってきた。

 先ほど目にしたあの光景は、一体なんだったのか。

 兄の傍に、絵画の女性が立っていた。絵美理と同じ顔をしているだけでなく、声まで彼女と同じだった。そんな偶然があるのか――いや、あるわけがない。

 できることなら偶然だと思いたいが、ここまで共通点ができると偶然などではない。


 呪い絵。


 千雨の頭に、まだ明るい時間帯に聞いた話がよみがえる。

 強い思いが込められて描かれた絵画。そのうちの、本当に思いが宿って生み出されてしまったもの――呪い絵。

 絵美理はそれと何らかの関係がある。確定だ。

「……兄さんに、どう説明すればいいんだろう……」

 確か、憑代や四季は呪い絵を危険なものとして話していた。人間を魅了し、食料にして成長していくものだ――と。

 千雨は実際に、気付かない間に呪い絵の力で汚染されていた。危害を加えられている以上、もしかしたら危険じゃない呪い絵なのではないかなんて逃避はできない。

 危険なものである可能性が圧倒的に高い以上、これ以上あの絵を陽也の部屋に置いておくのは好ましくないだろう。


 ――けれど、どうやってこのことを陽也に説明する?


 もともと空想の物語が好きで、それを絵として描くのが好きだった千雨とは対照的に、陽也は空想の話をあまり好まない傾向にある。千雨が空想的なら、陽也は現実的なところがあった。

 そんな彼に、憑代たちから聞いた呪い絵の話をしても素直に信じてはくれないだろう。

(それに、兄さんはあの絵をすごく気に入ってる)

 フリーマーケットで購入し、自分の部屋にずっと飾るほど、陽也はあの絵を気に入っている。

 気に入っているものは大切にしまっておきたいタイプの人もいるが、陽也はそのタイプには当てはまらない。何らかの理由をつけて物置にしまってもらおうにも、よほどの理由がなければ片付けてくれないだろう。

 千雨だって、お気に入りのものをずっと飾っていたのに、急に片付けろなんて言われたらどうしてなのか理由を尋ねるし、理由によっては素直に従わない。

 堂々巡りで答えが出てこないまま、壁に背中を預けてずるずると座り込む。

 どうするか、答えを出さないと――頭の片隅でそう考えながら、千雨は視界がゆっくりと暗くなっていくのを感じた。





「……め、……さめ」

 ゆさゆさと一定のリズムで誰かに揺さぶられながら呼ばれている。

 起きないといけないと思っても、強い眠気の中にある身体は思うように動かない。とにかく眠くて眠くて、もう少しだけ眠っていたい気持ちが強い。

「千雨、……おい……千雨」

 まだもう少しだけ――。

 小さな声で呼びかけに返事をしても、揺さぶる動きは止まらない。

 唇から唸り声がこぼれ、身じろぎをして姿勢を変えようと身体を動かした。

「……っひえ!?」

「とと。……大丈夫か?」

 がくん。

 身体を動かして向きを変えようとした瞬間、大きく身体が傾き、まどろんでいた意識が一気に浮上した。

 バランスを崩した身体は勢いよく床へ吸い込まれそうになったが、誰かの腕が千雨の身体を支えたため、床と勢いのある口付けをすることはなかった。

「は、え、何……え、兄さん……?」

「おはよう千雨。やっと起きたか」

 寝ぼけた頭のまま、状況を理解しようとする千雨の耳に聞き慣れた声が届いた。

 倒れ込みそうになった千雨の身体を支えている陽也は、真っ直ぐにこちらを見て苦笑いを浮かべた。

「え、兄さん……なんでここに」

「それはこっちの台詞だ。なんでまたキッチンで寝てたんだ? それも電気つけっぱなしで。びっくりしたんだからな」

「え……」

 陽也の言葉で、千雨は自分がどこにいるのかようやく思い出した。

 兄のすぐ後ろに広がっている景色は、見慣れた自室のものではない。幼い頃から何度も出入りし、家族とともにさまざまな料理を作ってきたキッチンだ。

 深夜、キッチンに逃げ込んで考え事を始めたあとの記憶がないため、どうやら壁にもたれた姿勢のまま眠ってしまっていたらしい。普段はしない姿勢で眠ったためか、首や身体のあちこちが固まって鈍い痛みを放っていた。

「あー……えっと……」

「もしかして、怖い夢でも見たのか?」

「まあ……そんなところ。ごめん、兄さん。朝から驚かせちゃって」

 心配そうに首を傾げた陽也に対し、千雨は苦笑いを浮かべた。

 怖い夢――夢ではないが、似たようなものではある。兄の部屋の中に絵画に描かれた女性がいたなんて、素直に口にしても信じてもらえないだろうが。

(夢……だったのかな)

 いや、おそらくだが夢ではないのだろう。

 以前の千雨なら夢だったと考えたかもしれないが、今の千雨はあの絵画の裏に非日常の世界が広がっていることを知っている。

 すっかり覚醒した頭を軽くかき、千雨は壁にもたれて座り込んでいた姿勢からゆっくりと立ち上がった。

「ちょっとね、結構怖い夢見ちゃって……どんな内容かは忘れちゃったんだけど。自分の部屋に戻るのも怖くて、時間を潰してたら寝ちゃってたみたい」

「そうなのか? 珍しいな、千雨がそこまで怖がる夢なんて……まあ、体調が悪いとか、そういうのじゃないんならいいけど」

「ありがとう。ごめんね、兄さん」

 キッチンに逃げ込むことになったそもそものきっかけは、陽也の部屋の前で起きた出来事だが陽也本人は何もしていない。何もしていない相手を驚かせてしまったのは申し訳ないと感じた。

 苦笑いを浮かべて謝罪を口にした千雨に対し、陽也はいつものように笑顔を浮かべると千雨の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「気にするな! 誰だって怖い夢を見るくらいのことはあるって。俺も小さい頃、すっげー怖い夢を見て母さんを夜中に叩き起こしたことあるし」

「あはは……すっごく怒られそう」

「そのときは仕方ないなぁみたいな反応してくれたが、もちろん後から怒られた」

 ふっと一瞬遠い目をした陽也の姿に、千雨は思わず吹き出した。

 それを見た陽也も、かすかに笑みを浮かべて千雨の頭から手を離した。

「ま、俺にだってそういうときがあったんだ。あんまり気にしすぎるなよ」

「うん、わかった」

「じゃあ、俺はちょっと出かけてくる。飯作ってそこに置いてあるから、ちゃんと食べろよ」

 そういって、陽也はテーブルを指差した。

 彼の仕草につられて目を向けると、テーブルの上にラップをかけた朝食が用意されているのが見えた。近づいてみると、用意されているのはトーストとベーコンエッグにサラダという陽也がよく朝に作るメニューだった。

 まだ温かさが残るそれに、千雨は表情を緩ませる。同時に、陽也が朝食を作っている間、自分はずっと眠っていたままだったのかと改めて申し訳ない気持ちにもなった。

 再び陽也のほうを見ると、彼は千雨に軽く手を振ってからキッチンを離れようとしているところだった。

「あ、待って! 兄さん!」

 はっとし、慌てて千雨は陽也の服を掴んだ。

 このまま陽也を見送ってしまう前に、二つほど彼に問いかけたいことがあった。

「あ、あのね、兄さん。その……昨日、何か変わったことはなかった?」

 唐突な問いかけに、陽也は目を丸くした。

 だが、すぐにいつもの表情に戻ると、顎に手を当てて考える。

「変わったことなぁ……特に何もなかったぞ。いつもどおりに目が覚めて、いつもどおりに起きてきたけど」

 陽也の返事を聞いて、千雨は考える。

 いつもどおりに目が覚めた――ということは、おそらく特に変わったことは何もなかった。昨夜、絵画の女性が陽也に何か危害を加えていたらと不安だったが、そういった心配はしなくてよさそうだ。

(……いや、私が汚染されてたんだし、兄さんも同じ手口で危害を加えられてる可能性は高いよね……)

 そういった意味では、全く危害を加えられていないというわけではなさそうだが。

「変わったことがなかったなら、よかったけど……」

「なんだなんだ、夢の不安がまだ残ってたのか? そんなに心配しなくても大丈夫だって、今日は比較的調子もいいし」

「なら、いいんだけど……。……あ、じゃあ、もう一個聞いてもいい?」

「なんだ?」

 不思議そうな顔をした陽也の顔を見つめながら、千雨は軽く深呼吸をする。

 千雨にとって、こちらの問いのほうが本題だ。

「もし……もし、私が何か不思議なものを手に入れて……そこから、少しずつ様子がおかしくなっていったら……兄さんは、どうする?」

 たとえ話の中に、真実を織り交ぜて千雨は問う。

 たった今、千雨が口に出したのは自分ではなく陽也のことだ。呪い絵を手に入れ、少しずつ体調を崩している今の彼のこと。とっさに思いついた問いかけだったが、これなら千雨が思っているような返事が返ってくるかもしれない。

 突然のたとえ話に、陽也はぽかんとしていた。だが、いつもより真剣な顔をしている千雨と同じように、彼もまた真剣な顔をすると思考を巡らせた。

 時間にして数分。普段なら短いと感じる時間だが、今回はうんと長く感じられた。

「……それは、千雨が手に入れた不思議なものが原因ってはっきりわかってるのか?」

 声に出すかわりに、静かに頷いて答える。

 それならと前置きをしてから、陽也は口を開いた。

「原因になってるものをどうにかして千雨から引き離す」

「……私が、それをすごく気に入っていて、大事にしていても?」

「千雨がすごく大事にしていても、だ」

 きっぱりとした口調でそういった陽也の顔は、一人の妹を心配する兄の顔だった。

「そりゃあ、千雨が気に入ってるものなら取り上げたくないけど。そのたとえ話だと、手に入れたもののせいで千雨がおかしくなってるんだろ? なら、心を鬼にして取り上げる」

「取り上げたせいで、避けられたり怒られたりするんじゃないか……って心配にはならないの?」

 それは、千雨が心のどこかで不安に思っていることでもあった。

 陽也を助けたい――それが千雨の願いだ。だが、陽也を助けるということは、彼が気に入っているものを強制的に取り上げるということでもある。

 その結果、陽也との仲が悪くなったら? 望まない方向に転がってしまったら?

 仕方ないと割り切ってどちらを取るか選択できるほど、千雨はまだ大人ではなかった。

「それは少し心配になるが……そんなものよりも、家族の命のほうが大事だろ」

 陽也の言葉に、千雨は目を見開いた。

 助けなくてはと思っている相手の言葉が、千雨の脳内を包んでいた靄を切り裂いて吹き飛ばしていく。

「千雨は大事な妹だし、家族だから仲が悪くなったらつらい。けど、だからって何もせずにいて千雨がますますおかしくなったり、死んだりしたらそっちのほうが嫌だ」

「……兄さん」

「信頼関係はまた築き直せばいい。命を落としたらそれすらもできなくなるんだから」

 一回、二回、瞬きをして――少しの空白のあと、千雨は笑みを浮かべた。

 いつも真っ直ぐで、一生懸命な兄としての言葉は迷っていた千雨の足元を照らし出す強い力があった。

「……そっか、そうだよね……」

 小さな声で呟いて、千雨は再び深呼吸をした。

 信頼関係を失う恐怖よりも、優先するべきは家族の命――全くもってそのとおりだ。

 もしかしたら家族仲が悪くなるのではないかと怯えていた自分と反対に、迷わずに家族を優先した陽也の姿は、なんだかとても眩しく感じられた。

 目を細め、口元に笑みを浮かべ、千雨はずっと掴んでいた陽也の服を離した。

「ごめん、兄さん。変なことを聞いて」

「うん? まあ、気が済んだなら別にいいけど。気にすんなって」

 じゃあ、俺は今度こそ出かけてくるからな。

 最後に一言そういって、陽也は緩く手を振って今度こそキッチンを離れた。千雨よりも重い足音がどんどん遠ざかっていき、扉が開いて閉まる音が空気を震わせる。

 千雨以外の住人がいなくなったことで、自宅は再び静寂に包まれた。

 静かなキッチンの中で、いざ朝食をとろうと千雨はラップに手をかけた。


 瞬間。

 ふわり。


 嗅いだ覚えのある、独特の香りをわずかに感じた。

 目の前にある朝食からではない。風にのって移動してきた、気をつけていないと感じ取れないような、かすかなこの香りは。

(――二階からだ)

 二階。

 昨夜、悪い夢のような体験をした場所から感じられた。

 千雨の表情に再び緊張が走る。

 陽也との会話でだいぶ和らいではいたが、完全に昨夜の出来事に対する恐怖が消えたわけではない。今の千雨にとって、陽也の部屋の前は一種のトラウマスポットだ。

 しかし、だからといって何も確認しないわけにもいかない。

(……本当に何もなかったんだっていうのを確認して、安心したいし)

 自分の両頬を軽く叩き、手に持ったままだったスマートフォンを握りしめ、千雨はキッチンを出た。ひたひた廊下を歩き、大きく深呼吸をして階段を登っていく。

 一段、一段。しっかり踏みしめて登っていくにつれて、昨夜感じたばかりの絵の具の香りは強くなっていく。それに伴い、千雨の足取りもどんどん重たくなっていった。

 それでも足を止めずに階段を登れたのは、『確かめたい』という切実な思いからだった。

 最後の一段を登りきり、二階の廊下に両足をつける。一階ではうっすらと感じ取れなかった香りも、二階までくると気のせいではないと確信できるほどになっていた。

「……大丈夫、大丈夫」

 千雨は自分に何度も言い聞かせながら、陽也の部屋の前に移動する。

 いつものようにしっかり閉まっている扉のドアノブに手をかけ、そうっと開いて部屋の中を覗き込んだ。


 最初に認識したのは、赤だった。


 壁に。床に。家具に。カーテンに。部屋中のありとあらゆる場所に、べったりと赤色が付着している。その上に重ねるようにして緑色、青色、紫色――ありとあらゆる色が部屋中を極彩色に彩っていた。

 目にした直後は、一体何で彩られているのか理解できなかった。しかし、鼻を刺激する濃厚なまでの香りと直前までの情報を組み合わせたら、すぐに答えが導き出された。

「……絵の具だ」

 部屋中が、ありとあらゆる色の絵の具で彩られている。

 一体いつからこのような惨状になっていた?

 まさか、昨夜のうちにはすでにこのような事態になっていた?

 呆然と部屋の出入り口で立ち尽くす千雨の頭の中に、ついさっき陽也が口にしていた言葉がよみがえった。


『変わったことなぁ……特に何もなかったぞ。いつもどおりに目が覚めて、いつもどおりに起きてきたけど』


「……嘘だ」

 本当に何もなかったのなら、陽也の部屋がこんな異常な事態になっているわけがない。

 いつもどおりだと彼は言っていたが、こんなことは今まで一度も起きたことがなかった。千雨を心配させないためにそういった可能性もあるが、それにしては態度が普段どおりすぎた。

 陽也は、自分の部屋が明らかな異常事態に陥っているのに、そのことを全く気に留めていない。

「何か起きてるじゃん、兄さん」

 震える声で独り言を呟く千雨の視界の先で、天井から滴ってきた赤い絵の具が床を汚した。

 恐怖と混乱が戻ってきた頭を必死に動かし、部屋の中を見渡していく。足の踏み場もないほどにどこもかしこも絵の具だらけの部屋の中、壁にかけられたあの絵画だけは一切絵の具が付着せずに綺麗な状態のままだった。

 それが、不気味で不気味で仕方ない。


 助けないと。


 唇をぐっと噛み、目の前の光景から目をそらさずにスマートフォンを操作する。

 視線をそらして、見なかったことにしたい気持ちもあるけれど、千雨はそうしたい気持ちを押し留めた。

 現実を見なかったことにして逃げるよりも、優先してやらなくてはならないことがある。

 千雨は、陽也をこの異常事態から助け出せる方法を持つ相手を知っているのだから。

(仲がこじれる不安はまだあるけど、多分、もうそんなことを言ってられる状態じゃない)

 自分が予想している恐怖と陽也がどうにかなってしまうのではないかという恐怖なら、断然後者のほうが恐ろしいに決まっている。

 自分の足元を照らし出した陽也の言葉を思い出しながら、スマートフォンで電話をかける。

 一回、二回、三回――電話をかけた相手は、三回目のコール音で電話に出た。

「――もしもし」

 つい最近、耳にしたばかりの声が千雨の鼓膜を震わせる。

 その声は恐怖や混乱でこんがらがった頭を少しずつ落ち着かせてくれるような、不思議な力に満ちていた。

「もしもし、朝からすみません。憑代さんですか?」

「……千雨? どうしたんだ、朝から」

 電話の向こう側にいる憑代が驚いたような声を出した。

 彼の中では、千雨が電話をかけてくるのはもう少し時間が経ってからだったのかもしれない。昨日の時点ではそうなる可能性が高かったが、実際には一日で電話をかけなくてはならない事態になってしまった。

 大きく深呼吸をし、千雨は要件を口にした。

「昨日聞いたお話、信じます」

 現実的とはいえない不思議な非日常の話を信じる。

 自分を無理に納得させて信じるのではなく、そういうものがあるのだと認識して、心の底から信じる。

「ですから――お願いです」

 だから。

「兄さんを……私の兄を、助けてください」

「――」

 電話の向こう側で、憑代が息を吸った音がした。

 わずかな呼吸音のあと。


「拝命した」


 凛とした声での返事。

 非常に短い返事だったが、その声は相手に安心感を与えるものだった。

 スマートフォンを握る千雨の手がわずかに緩み、気付かない間にこわばっていた表情も緩んでいく。

 常識を超えた事態が起きたとき、頼れる先があるのとないのとでは精神的な負担が大違いだ。

「状況を確認したい。何か異常事態が起きた場所があれば、その場所を撮影するか何かして、パンセリノスまで来てほしい。……あれだったら、僕がそっちに向かうけど」

「ううん、私がそっちに行きます。依頼する側ですし」

「わかった。なら、待ってる。もし何か危険なことが起きたら、すぐに連絡してほしい」

 またあとで。

 その一言で通話を締めくくり、憑代との通話が切れる。

 千雨は改めて深呼吸をすると部屋の風景をスマートフォンで撮影し、出かける準備をするために一度自室へ向かっていった。

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