第3話 恐怖は極彩色

 その日の夜。千雨は、再び夢を見た。

 綺麗に整えられた薔薇園が見える、アンティーク調の家具で飾られた洋館。テーブルの上に並べられているティーカップからは、かすかな湯気が漂っており、中に入っている飲み物がまだ温かいことを示している。

 ぱっと見た印象では、前に見た夢と同じ景色に見える。だが、よく観察すると窓の外から見える空は曇り空になっており、庭の花たちも前より元気がないように見えた。

(もしかして……前の夢より、時間が経ってるとか?)

 窓の外を見ていた千雨は、首を捻って考える。

 静かに首を横に振り、視線を室内に戻すと、以前見た夢と同じようにいつのまにか男性と女性が向かい合って椅子に座っていた。

 しかし、前回と異なり、二人の表情は深刻そうだ。

 二人を支配している重々しい空気に引っ張られ、千雨の表情も自然と強ばる。

 どれくらい黙り込んでいたのだろうか。ティーカップの中身にも口をつけず、無言で向かい合っていた二人だったが、やがて男性が苦々しい顔のまま、口を開いた。

「……×××、どうしても駄目なのか?」

 男性が口にした名前は、今回も上手く聞き取れなかった。

 彼の目の前に座っている女性は、悲しそうに表情を歪め、膝の上にのせている手を強く握った。

「ごめんなさい、×××。何度も説得しようとしたの、でもお父様は私を違う人のところに嫁がせるって言って聞かなくて……」

「そんな……」

 絶望したような表情で男性が目を見開き、すぐに俯いた。

 女性も同じように悲しそうな顔をして、今にも泣き出しそうなのを抑えている。

 以前、見た夢の中では将来を語り合うくらいに幸せそうだった二人。しかし、今はそのような気配はなく、深い悲しみと絶望に満たされていた。

「お父様は、私が金持ちの家に嫁ぐのが一番の幸せだって思い込んでるんだわ。私は×××と一緒に生きていられたら、それが一番の幸せなのに」

 震える声でそういって、女性は両手で顔を覆った。肩はかすかに震えており、涙を必死でこらえようとしているのがよくわかる。

 男性もまた、絶望した表情のままで俯いた。

「……俺の身体が、病に冒されてさえいなければ。今すぐに君を連れて逃げ出したのに」

 吐き出した声は重く、苦々しい。

 二人の様子を無言で見つめていた千雨は、ぎゅっと唇を噛み締めた。

(この人たちは、引き裂かれようとしてるんだ)

 前回の夢の中では、幸せに満たされていた恋人だった二人。

 一体二人の間に何があったのか、詳しくはわからないが――何かがあって、男性は病気になった。女性は親に男性以外の結婚相手を決められた。それ故に、お互いに想い合っているのに別れなければならなくなっている。

 千雨は当事者ではない、見ているだけの赤の他人だ。そんな千雨の胸も苦しくなるくらい、二人を支配する絶望や悲しみは深い。

「……×××」

 俯いた状態で黙り込んでいた男性が、おもむろに女性の名前を呼んだ。

 彼の呼びかけに反応し、女性が顔を覆っていた手をゆっくりとどかし、男性を見つめる。

「君の絵を、描かせてくれ」

「……私の絵を……?」

「ああ。叶うことなら、今すぐ君を連れて遠く離れた国へ行きたい。……だが、病に冒された身体では不可能だ。なら、いつまでも君を忘れないために――君の姿を、残しておきたい」

 別れずに済む道はないと気付いてしまった者の選択だった。

 男性は、女性の父親を説得するのも、彼女とともに駆け落ちするのも不可能だと結論を出した。彼にとっても苦しい選択だったに違いない。

 女性は何かを言おうとして口を開き、すぐにまた閉じる。しばしの沈黙の後、彼女は泣きそうになりながらも笑ってみせた。

「わかった。あなたに私の絵を描いてもらう夢が、こんなに最低な形で叶うのは悲しいけれど……描いてちょうだい。あなたを愛している女の姿を」

 そして、いつまでも忘れないで。私のことを。

 震える声で女性はそういい、ゆっくりと立ち上がった。

 男性も静かに頷き、椅子から立ち上がる。

 テーブルから離れた場所、本棚の近くに設置されているキャンバスと絵を描くための道具のほうへ二人が静かに歩いていった。


 そこで、千雨の視界は以前と同じように真っ黒な絵の具で塗りつぶされた。





 沈んでいた意識がゆっくりと引き戻されてくる。

 セットしておいた目覚まし時計のアラームが鳴り響く中、千雨はぼんやりと自室の天井を見上げていた。

「……夢……」

 寝起き特有の掠れた声で呟き、ゆっくりとベッドから起き上がる。

 サイドテーブルに設置されている目覚まし時計へ手を伸ばし、少々乱暴な手付きでアラームを止めると、深く息を吐きだした。

 以前といい、今日といい、不思議な夢を連続して見ている。夢の中に出てくる女性は、やはり兄の部屋にある絵画と同じ顔をしているので正直不気味なものを感じてしまうが。

「今回のは、ちょっと悲しい夢だったな……」

 静かな部屋で呟きながら、千雨はベッドから出て着替え始めた。

 今日は土曜日。学校は休みのため、自由に過ごせる曜日だ。今日が土曜日でよかった、こんな沈んだ気持ちのまま学校に行っていたら先生や友人に心配されていたかもしれない。

 カーテンの隙間から入り込んでくる光は明るい。シンプルなブラウスにスカートという服装に着替えてからカーテンを開ければ、予想どおり晴れた空が千雨の目に飛び込んできた。いつもだったら天気につられて自分も明るい気持ちになるけれど、まだ夢の名残がある今の状態ではそのような気持ちになれなかった。

「……そうだ、兄さんの様子を一回見ておこうかな」

 昨日は調子が良さそうだったが、もしかしたら今日はまた体調が悪くなっているかもしれない。それに、家族と少し話をしたらなんともいえない胸のモヤモヤも少しは晴れるかもしれない。

 気晴らしに陽也を使うのは少々申し訳ない気持ちもあるが、今回ばかりはどうか許してほしい。

 一人で苦笑いを浮かべつつ、千雨は自分の部屋を出る。静かな廊下を歩き、陽也の部屋の前に来ると目の前にある扉を軽くノックした。

「兄さん、おはよう。起きてる?」

 こんこん。

「……兄さん?」

 こんこん。

 ノックを続けながら呼びかけてみても、部屋の中から返事が返ってくる気配はない。

 少し強めにノックしても返事はなく、千雨は首を傾げた。

「兄さん、寝てるのかな……」

 ノックをする手を止め、今度は扉のノブに手をかける。レバーハンドル式のそれを軽く下へ押し込んでみると、扉にほんのかすかな隙間ができた。

「兄さん、入るよ?」

 一言、呼びかけてから扉をゆっくりと開ける。

 カーテンが閉められたままの室内は薄暗く、ほんのわずかな寂しさを感じさせる。部屋の中は比較的片付いているほうだが、ところどころに画材が落ちていた。

 ざっと室内を見渡してみても、陽也の姿はどこにも見当たらない。

「珍しいな……出かけてるのかな」

 もしそうなら、それはそれで良いことだ。積極的に外へ出かけるくらいには、回復してきているということになるだろうから。

 もし出かけているのなら、スマートフォンは持ち出しているはずだ。どこまで出かけたのか、あとで電話をかけて確認しよう。

 そう考えた次の瞬間、部屋を見渡していた千雨と、壁に飾られている絵の女性の視線があった。

「――……ッ」

 嫌に心臓が跳ねたのが、自分でもよくわかる。

 目の前にあるのは絵だ。生きた人間ではない。故に、普通の人間や動物が発するような生きた視線は感じない――はずだ。


 しかし、先ほどあの絵の女性から感じたのは『生きた視線』だ。


 ドッドッドッ、と心臓が嫌な音をたてている。

 きっと気のせいだ、そうに違いない。絵から生きた視線を感じるなんて有り得ない。

 自分に繰り返し言い聞かせながら、千雨はゆっくりと絵画へと近づいていく。別に近づく必要はないと訴えている自分も心の中にいるが、もう少し至近距離で何もないことを確認したいという気持ちもあった。

 いつもより速い呼吸を落ち着かせながら、一歩、また一歩と絵画との距離を詰めていく。ある程度の距離を縮めたところで足を止め、深呼吸をしてからじっくりと絵全体を見渡した。

「……うん、やっぱり、気のせいだ……」

 少しの間、無言で目の前と絵画と見つめ合ってみたが先ほどのような生きた視線は感じない。

 やはり気のせいだった。今日も不思議な夢を見たから、きっとそのせいだ。

 安堵の溜息をつき、今度こそ絵から視線をそらそうとした――が。

(……え?)

 じっくり見つめたことで、気付いた。気付いてしまった。

 描かれている女性の背後。今まではどこかの風景としか思っていなかったが、よく見てみると見覚えのある室内の風景だった。落ち着いた色合いの壁紙。アンティーク調の家具やインテリア。窓の外に描かれた薔薇園。それらは全て、千雨が最近連続して見ている夢の中で見た景色だ。

 それだけではない。キャンバスに大きく描かれた女性の顔。髪の色も目の色も違うが、優しそうな印象を受ける顔は――絵美理と全く同じだ。

 体温が急激に下がり、歯の根が合わなくなる。心臓が急激に騒ぎ出し、それに伴い恐怖が膨れ上がっていく。思わず後ろへ下がり、せっかく一度詰めた距離を再び開けてしまった。

 静かに膨れ上がる恐怖を抱える千雨の目の前で、描かれた女性の口元がゆっくりと弧を描いた。

「――!」

 声にならない悲鳴をあげ、千雨は爆発した恐怖に突き動かされるまま陽也の部屋を飛び出した。そのまま階段を駆け下りて、そのまま自宅を飛び出した。

 鍵をかけなくてはならないのに、それもせずに千雨は走る。

 あの家から逃げなくては。あの絵がある空間にいたくない。怖い。気のせいじゃなかった。怖い。不気味なんてものじゃない。怖い。

 さまざまな色の絵の具を突っ込んだように、千雨の中でさまざまな感情や思いが溢れてはぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。陽也が大切にしているあの絵が、とにかく恐ろしくてたまらなかった。

「ッは……ぁ、けほ、げほっ――」

 ひたすら走り続けていた千雨だったが、身体が限界を訴え、がくんと膝から力が抜ける。そのまま前のめりに姿勢が崩れ、咄嗟に道路へ両手をつけて崩れた身体を支えた。

 走っていた勢いのままに転倒したため、両手の手のひらが痛みを訴えている。荒い呼吸を繰り返し、少しでも呼吸を整えようとしながらゆっくり立ち上がった。

 どうやらあの公園の前で転倒したらしい。両足へなんとか力を入れた千雨の視界に、近所の公園の景色が飛び込んできた。

「……ちょ、ちょっとだけ……けほっ、休もう……」

 元気のない足取りで公園の中に入る。

 公園の中は珍しく人気がなく、静まり返っていた。ある意味好都合だ、こんな状態を他の人に見られたら何があったのか問い詰められるに決まっている。

 公園内に設置されている水飲み場へ歩いていき、蛇口をひねって水を出す。自宅から走ってきたことですっかりカラカラになった喉を潤すと、少しだけ気分が落ち着いたような気がした。

 軽く息を吐き、蛇口を閉めてから、千雨はベンチに座り込んだ。

 晴れ渡った空を見つめながら考えるのは、ついさっき陽也の部屋で見たものだ。

 絵から感じた生きた視線。千雨が見ている夢の中に出てくるものと完全に一致する景色。絵美理と全く同じ顔をした絵画の女性。そして――その女性が浮かべた笑み。

 恐怖からわずかに解放された頭で考えると、どれもこれも本当に起きたとは信じがたいものだ。

 だが、あれは気のせいではなかった。確かに起きたことなのだ――と千雨の心が叫んでいる。

「……どうしよう……」

 恐怖のあまり飛び出してきてしまったが、あそこは千雨の家だ。

 普段ならしている家のことを全くしていない。そもそも衝動的に飛び出してきてしまったので、扉に鍵もかけていない。帰らないといけないけれど、今はあの家に帰りたくなかった。

 帰らないといけないと考えている冷静な自分と、とにかく怖いと感じたものがある空間の中に帰りたくないと叫ぶ自分。二つの感情に板挟みになり、思わず頭を抱えた。

 どうすればいいのかわからない。誰かに相談したい。けれど、こんなこと、誰に相談すればいいのかわからない。


『――何かあったら、力になると約束する』


 ぐちゃぐちゃでまとまらない頭の中に、一度聞いた声が響いた。

 その声を思い出した途端、感情や思いをぶちまけた頭の中が一瞬で静まり返った。

 不思議な雰囲気をまとった少年の顔が、声が、混乱した千雨の頭を落ち着かせていく。

 他の人に相談しても信じてもらえなさそうなことも、そもそもの出会いが特殊だった彼なら信じてくれそうな気がした。

「……憑代さん、なら」

 唇から彼の名前がこぼれた瞬間。


「どうかしたか?」

「っ!?」


 すぐ近くで憑代の声が聞こえ、反射的に千雨は顔をあげた。

 いつから立っていたのか、ベンチに座り込んだ千雨のすぐ前に憑代が立っていた。出会ったあの日と同じ衣服に身を包み、不思議そうな顔で千雨を見下ろしている。

 気配も足音もしなかったため、心臓が口から出そうになるほど驚いたが、彼の瞳を見ていると次第に気持ちが落ち着いてきた。

 ようやく安心できるものを見つけることができたときのような、迷子の子供が親を見つけたときのような安心感。

「憑代さん……いつからいたんですか?」

「あんたが呼んでくれたから来た」

 いつから来たのか問いかけたのに、千雨が呼んだから来た――とは。

(相変わらず、不思議な雰囲気の人だな……)

 だが、今はそれがありがたい。

 身体に入っていた余分な力が抜け、ぐったりとベンチの背もたれにもたれかかった。

 じっと千雨を見つめていた憑代の瞳が、何かを警戒するかのようにわずかに細められる。

「……何かあったのか?」

「ちょっと……すぐに信じてはもらえなさそうなこと、なんですけど……」

 小さく頷きながら、千雨は憑代の問いかけに答えた。

 憑代は片手を口元に当て、何やら考え込んでからもう片方の手を千雨へ差し出す。

「話しにくいことなら、場所を変えよう。外よりも落ち着いて話せるところのほうがあんたもいいだろ」

「あ……は、はい」

 もう一度頷いて、千雨は差し出された手に自分の手を重ねる。

 憑代の手が優しく千雨の手を引き、ベンチから立ち上がらせた。

「……話、聞いてくれるんですか?」

「もちろん」

 問いかけた千雨に対し、憑代はゆるりと笑みを浮かべて言葉を返す。

「何かあったら力になる。前にそういっただろ?」

 そういって、得意げに唇の端を持ち上げた憑代の姿に、千雨は思わず泣き出しそうになった。





 からんからん。ドアベルの綺麗な音が空気に溶ける。

 憑代に頼み込んで自宅に鍵をかけたのち、彼とともにやってきたのは、あの不思議な店――パンセリノスだった。

 花で飾られた外見からはカフェのような印象を受けたが、店内は意外にも大人っぽく落ち着いた雰囲気でまとめられていた。

 店内にはダークブラウンの木材で作られたテーブルや椅子が設置されており、店の前方には同じ木材で作られたカウンターが設置されている。少し開けたスペースには大きめのピアノが置かれており、壁にはいくつか絵画が飾られている。その様子は、おしゃれなカフェというよりバーのようだった。

 大人の女性や男性のための店というような雰囲気に、千雨は少しだけ居心地の悪さを感じた。こんな場所に自分がいていいのか、場違いではないのか、不安になってしまう。

 憑代は居心地の悪さを感じている千雨の手を引き、カウンター席に座らせた。

「あ……あの、私、ここにいていいんでしょうか……。場違いじゃありません?」

 思わず憑代の服の裾を掴み、問いかける。

 憑代はきょとんとした顔をして、すぐに納得したような顔をして口を開いた。

「別に大丈夫。僕が連れてきたんだし」

 短くそう言葉を返し、憑代は店内を見渡して声をあげた。

羽々屋はばや。羽々屋、起きてる?」

 大きな声で店内へ呼びかけるが、店内はしんと静まり返っている。

 なんの返事も返ってこないことに少々不満そうな顔をし、憑代は下駄の音をさせながら憑代の傍を離れ、再度呼びかけた。

「羽々屋!」

「……ん、んぐ……聞こえとる、起きとる起きとる……。やから、そんな大声出さんで……」

 いや、明らかに寝ていただろう。

 喉まで出かけていた言葉を飲み込む。

 しかし、憑代はそうではなかったようで物言いたげなじとっとした目をすると、カウンターの後ろを覗き込んだ。腰に手を当てて、深い溜息混じりに呟く。

「いや、どこからどう見ても寝てただろ……せめて、その寝起きですって感じの声をどうにかしてから言え……」

 口には出さないが、千雨は思わず小さく頷いて同意した。

 カウンターの向こう側で何かが動くような音がし、憑代の呼びかけに反応した人物がカウンターに手をついて立ち上がった。

「あっはっは、本当に手厳しいやっちゃなぁ……昨日も頑張って『探しもの』しとったんやから、ちょっとは労ってほしいわぁ」

 関西弁のような、そうでないような――複数の方言が混ざったような印象がある独特の口調で話すのは、一人の男性だった。先ほどまで寝ていたためか、後ろで適当に結んだ髪はボサボサで疲れ切った人のような印象がある。着ている衣服も皺が寄っており、全体的にダボダボしているせいか、だらしなさそうに見える。

 だが、憑代を見る瞳には凛とした光が宿っており、見た目と瞳から見える本質のようなものが一致しない。どちらが本当の彼なのか、混乱しそうになる。

「……うん?」

 男性は起き上がったことで店内にいる千雨に気付いたらしい。垂れ目がちな焦げ茶色の目が千雨へ向けられ、不思議そうに首を傾げた。

「なんやお客さん? 店にクローズの札かけとったと思うんやけど」

「あ、あの……私、憑代さんに案内されて……」

「ツキちゃんに? ってことは……なんやツキちゃん、そっち方面の客なん?」

 男性が発した一言に、今度は千雨が首を傾げた。

 千雨は憑代に場所を変えようといわれて、ここに連れてこられただけだ。何か特別な用事があってここに来たわけではない。

 ここへ千雨を連れてきた張本人は、静かに首を横に振って千雨の隣に腰かけた。

「まだそうと決まったわけじゃない、とりあえずは話を聞きたくて連れてきた。というわけで、何か飲み物を出してやってほしい」

「はいはい。ちょいと待ち」

 へらりと気が抜けそうになる笑みを浮かべ、男性はボサボサの髪を片手で軽く整えながら店の奥へと引っ込んでいった。

 彼が去っていった方向を少しの間無言で見つめていたが、千雨はやがて隣にいる憑代のほうを見た。

「憑代さん、さっきの人は……」

「ここのマスターみたいな奴。あと、仕事仲間でもある。見た目は胡散臭いが、悪い奴ではないから安心してほしい」

「胡散臭い奴って失礼なやっちゃな。ツキちゃんかて、だいぶ怪しい見た目しとんで?」

 奥の部屋から声がする。

 まもなくして、男性は緑茶が入ったグラスと氷が入ったグラス、そして紅茶とコーヒーが入ったハンディクーラーを載せたトレイを持って戻ってきた。

「いやぁ、おまたせしてもうたなぁ。お嬢さん、なんていう名前なん?」

「えっと……千雨です。春咲千雨」

「千雨ちゃんな。ウチは羽々屋四季はばや しきいいます。ツキちゃんがさっき言うとったように、パンセリノスのマスターとツキちゃんの仕事仲間兼任してまーす」

 男性――改め、四季はへらへらとした笑みを浮かべ、簡単な自己紹介をした。

 トレイに載せていた緑茶のグラスを憑代の前に置いて、千雨の前に紅茶とコーヒーのハンディクーラーを置いて言葉を続ける。

「千雨ちゃんは紅茶とコーヒー、どっちが好み?」

「え、ええと……紅茶です。コーヒーは苦味が少し苦手で……」

「紅茶な」

 千雨の返事を聞いた四季は、一度コーヒーが入ったハンディクーラーをカウンターの隅へと寄せた。

 次に、カウンター横にある冷蔵庫からタッパーとソーダ水が入ったボトルを取り出し、タッパーからカットされた苺やブルーベリーを取り出してグラスの中に入れる。さらに、紅茶とソーダ水を注ぎ、最後に甘味料のようなものを注いだ。

 あっという間に目の前で完成したティーソーダは、店内の照明の光を反射してきらきら輝いているように見えた。

「ほい、ティーソーダの完成。ツキちゃんとどんなお話するかわからへんけど、まずはこれ飲んで落ち着き」

「あ、ありがとうございます……!」

 にやりと笑った四季の手がストローをさしてから、ティーソーダのグラスを千雨の前に押し出す。

 千雨は早速グラスに手を添えて、まずはストローでグラスの中身をかき混ぜた。氷がグラスに当たり、からころと透き通った音をたてる。あらかた混ざったところで口をつけると、紅茶の風味とソーダの爽やかさ、そしてそこに混ざった果物の甘酸っぱい味が千雨の舌を楽しませた。

「美味しい……ティーソーダってはじめて飲んだ……」

「気に入ってもらえたみたいで嬉しいわ。んじゃ、ウチのことは気にせんでゆっくり話し」

 その言葉を最後に、ひらひら片手を振って四季は再び奥の部屋へ入っていた。

 店内にいるのは千雨と憑代の二人きり。千雨がグラスをかき混ぜるたびに奏でられる氷の音や、憑代が緑茶のグラスをカウンターに置く音がはっきりと聞こえる。

 どこから話したらいいのかわからず黙り込んでいた千雨だったが、やがてゆっくりと深呼吸をしてから口を開いた。

「……私の家、兄が買ってきた絵があるんです」

 憑代の目が動き、千雨を見る。

 我ながら唐突な切り出し方だと思ったが、憑代は何も言わず、無言で続きを促してきた。

 ティーソーダの爽やかな味を楽しんでから、千雨は言葉を続ける。

「フリーマーケットで五千円くらいで買ったとかいう、誰が描いたのかわからない絵なんで……兄さん、それをすごく気に入ってて。最初は、私も普通の絵だと思ってたんですけど……」

「……普通の絵じゃなかったわけか?」

 心なしか、憑代の瞳に鋭さが混じる。

 彼の問いかけに静かに頷いて、千雨は溜息をついた。

「なんか、不気味なんです。夢の中に絵の中の女性が出てきたり、絵から視線を感じたり……。ただの偶然とか気のせいとかって思ってたんですけど、兄さんの彼女と全く同じ顔をしてることに気付いて……それで、家を飛び出してきちゃったんです」

「ずいぶん疲れ切ってるように見えたのは、そのせいか……」

「はい。……で、でも、やっぱり変な話ですよね。絵の中の人と彼女さんが同じ顔なんて。ごめんなさい、変な話をして。忘れてください」

 後半は少々慌てたようにそういって、千雨は再びティーソーダを口にした。

 実際に言葉に出してみると、ただの気のせいで済ませられそうな話だ。話を聞いてくれると言ってくれたのは彼だが、こんな話をされても反応に困ってしまいそうだ。

 ティーソーダで喉の乾きを潤していく千雨の隣で、憑代が首を振る。

「いや。この世には不可思議な出会いや現象がごまんとある。別に、あんたの話を変な話だとは思ったりしない。……それに」

 一度言葉を切った憑代が、真っ直ぐに千雨を見る。

「あんたが感じたのは、きっと気のせいではない」

 そういった憑代の目や表情は、とても真剣なものだった。

 一体どういうことなのか――千雨は問いかけようとしたが、それが言葉になることはなかった。

「ッげほ……!?」

 突然、身体の奥から何かがこみ上げてくる。

 千雨は反射的に片手を口元に当て、身体をくの字に折り曲げて激しく咳き込む。咳き込む波はなかなか収まらず、少し息を吸ってはまたすぐに咳き込んでを何度も繰り返した。

 憑代の手が優しく千雨の背中に触れ、穏やかな手つきで擦る。

 激しく咳き込みながらも憑代の顔をちらりと見上げると、彼は相変わらず真剣そうな顔をしていた。

「大丈夫、次第に収まる」

「っが、ぇほっ、げほっ、ごほ……っ!」

 その呼びかけに返事をすることもできない。

 大きな波が嘔吐感とともに襲いかかり、そのまま何かを吐き出す。店の中で何かを吐き出してしまったことに焦りながら口元から手を離し――千雨は呼吸をつまらせた。

 先ほどまで口元を覆っていた手の中には、色とりどりの絵の具がべったりと付着していた。

「何、これ」

 吐き出した? 何を? 絵の具を?

 絵の具なんて口にした覚えはない。そもそも絵の具を食べたこと自体が人生の中で一度もない。じゃあ、何故自分は今絵の具を吐き出した?

 現実を理解できず、頭の中で同じ言葉や思考がぐるぐると巡る。

 静かに混乱する千雨の背中を擦り続けながら、すぐ隣にいる憑代が奥の部屋へ向かって声をあげた。

「羽々屋、『奴ら』の案件だ」

「……『奴ら』……?」

 憑代が口にした言葉は、明らかにこれが何であるかを知っている言葉だ。

 思わず震える声で憑代の言葉を繰り返したが、彼は横目で千雨を一瞥するだけで具体的に答えることはなかった。

 奥の部屋から足音が近づいてきて、身体をくの字に曲げた姿勢のまま、顔をあげられずにいる千雨の前で止まる。

「やっぱりか。千雨ちゃん見たときに覚えのある匂いがしたから、まさかと思って仕込んでみたけどビンゴやったんやな」

「何……何、入れたんですか」

 彼らが口にしている言葉が理解できず、だんだん恐怖を感じてくる。

 憑代に頼ったのが間違いだったのではという思いもわいてくる。

 だが、千雨の背中を擦り続ける憑代の手は、危害を加えてこようとする恐ろしいものではなく千雨を落ち着かせようとしている穏やかなそれだった。

 奥の部屋から戻ってきたらしい四季も同様に千雨の背中へ触れ、小さな子供をあやすようにぽんぽんと撫でた。

「なぁに、悪いもんちゃうし毒でもないから安心し。デトックスみたいなもんと思ってくれたらええよ」

「デトックス、って」

 四季の手が千雨の手に触れ、優しく引き寄せる。不気味な極彩色で彩られた千雨の手のひらをタオルで優しく拭き取りながら、彼は千雨の呟きに答えた。

「さっき、千雨ちゃんが話してくれた絵。あれなぁ、悪いものなんよ。知らんうちに人を蝕んでおかしくする。千雨ちゃん、このままやとその絵に取り込まれるとこやったから」

「……助けて、くれたんですか?」

「せやで。でもごめんなぁ、一言添えとくべきやったな。怖がらせてしもて堪忍な」

 穏やかな手付きが、穏やかな声が、混乱していた千雨の心を少しずつ落ち着かせていく。

 ぎこちない動きで顔をあげると、千雨の手に付着していた絵の具で汚れたタオルを手にした四季が申し訳なさそうに笑っていた。

 たったそれだけ。たったそれだけだが、千雨の心の奥底に芽吹いていた恐怖は引いていた。

「どういうことなのか、説明してもらえますか」

 呟くように問いかければ、憑代も四季も静かに頷いた。

「もちろん。あんたが巻き込まれてるのは、僕らの得意分野だからな」

「そうそう。それに、知らん間にこっち側の世界に足突っ込んだ迷子を放り出すほど、ウチらはひどい奴らちゃうよ」

 真剣な顔でそういった憑代と、からから笑いながら返事をした四季。

 二人の様子は正反対だったが、目の奥にある真剣な光だけは同じだった。 





「まずは改めて自己紹介するわ。さっきも名乗ったばっかやけど、ウチは一級呪探査士ソルシエールの羽々屋四季。こっちはツキちゃんこと白筆憑代。一級修繕画師をやっとる」

 千雨の状態が完全に落ち着き、普段と同じようにティーソーダを飲める状態になってから。

 自分の胸を軽く叩き、改めて四季はそう名乗った。彼の紹介を受けた憑代も、一度千雨の傍を離れてカウンターの向こう側にいる四季の隣に並んだ。

 一級修繕画師――千雨がはじめて憑代と出会った日に受け取った名刺にも書かれていた名称である。

 あのときは変わった名前の仕事だとしか思っていなかったが、非日常にはっきりと触れた今ならなんとなくわかる。この仕事は、千雨だけでなく多くの人が知らないだろう職業だ。

「聞いたことあらへんって顔しとるなぁ。まあ、これ表に出てこん仕事やし、しゃーないか」

「その……一体、どんなお仕事なんですか。その……一級修繕画師って」

 ティーソーダのストローから口を離し、千雨は質問した。

 憑代が『奴ら』と言っていたため、陽也の絵は修繕画師が関係している何かであると予想できる。けれど、肝心の修繕画師がどのようなものかわからない。

 困惑の表情を浮かべている千雨に対し、四季は口元に笑顔を貼り付けたまま答えた。


「――この世には、呪いまじないえと呼ばれる絵画が存在する」


 切り出した言葉は、たった一言。

 だが、その一言を聞いた瞬間、ぞわ――と悪寒が走った。

 四季の表情は先ほどまでと変わらない。口元に笑みを貼り付けたまま。だが、彼が今まとっている雰囲気は気怠げでいい加減なものではなく、触れたものを切り裂くような鋭いものだ。

「呪い絵っちゅうんは、簡単に言うと強い思念と力を持った特別な絵画のこと。絵の中には、無性に惹きつけられたり不気味に感じたり、作者の思いが感じられたりする作品があるやろ? そういったものの中には、本当に何かが宿った『本物』が存在しとる。そういうんが呪い絵になる」

「強い力がある絵……」

「わかりやすい例えを出すと……そうやな、千雨ちゃんは音楽室に飾ってある音楽家の絵画とか見たことある? 夜中に涙を流すとか、動き出すとか、そういうよくある七不思議がつきまといそうな奴」

「あ、それなら聞いたことがあります。私が通ってた小学校にそういう噂がありました」

 千雨の頭の中に、小学生の頃、耳に挟んだ噂話がよみがえる。

 ちょうど千雨の母校に、その手の噂があった。何番目の七不思議だったかは忘れてしまったが、音楽室に飾られている絵画は夜中になると血の涙を流したり歌いだしたりするという内容で、当時通っていた小学生たちはきゃあきゃあ声をあげて怖がったり面白がったりしていた。中には本当なのか確かめてやると言い出す猛者もいたが、夜中に学校へ忍び込むのは容易ではなく、大人にこっぴどく叱られていた。

 千雨が少しの懐かしさを感じながらその話をすると、四季はゆったりとした動作で一回頷いた。

「そうそう、そういうの。あれも一種の呪い絵なんよ、かなり力は弱いし人を驚かせて遊んどる悪戯好きの奴らやから、そんなに警戒せんでもええけど」

「ああいうのも、呪い絵の中に含まれるんですね……」

「せやで。……けど、呪い絵は全部が全部、無害っちゅうわけやないんよ」

 四季の口元に浮かんでいた笑みが消え去り、真剣な表情だけが残る。

 真っ直ぐで鋭利な視線に貫かれ、千雨は再び自分の背筋が伸びるのを感じた。

 四季が話している間、彼の隣で静かにしていた憑代が腕組みをし、彼の言葉を引き継ぐ。

「呪い絵の中には、宿った思いが強すぎて人に害をなす奴らもいる。人を魅了し、引き込み、取り込んで自分の糧として成長する――そういう呪い絵は、自分たちの目的のために人間を食料にして成長していく」

「……それって……かなり危険じゃないですか!」

 目を見開き、千雨は思わず声をあげた。

 音楽室の絵画と同じようなものであれば、呪い絵の見た目はただの絵画だ。素人目には、その絵が呪い絵か否かなんて見分けがつかない。おまけに、呪い絵は世界の裏側に隠れている存在だ、そんなものが存在するなんて知らない人がほとんどだろう。

 そういったものが人間を食料にするなんて、危険すぎる。

「それには僕も同意見だ。そこで誕生したのが、僕たち修繕画師と呪探査士だ」

 憑代の手が、彼の胸に添えられる。

「修繕画師は特殊な絵筆を使うことで、呪い絵の力を削げる奴らのことだ。呪い絵の力を削いで、封印し、回収する。そうして一般人が呪い絵の餌食にならないように守るのが、僕たちの仕事だ」

「けど、修繕画師の多くは呪い絵の居場所を探知できへん。呪探査士は修繕画師のかわりに、呪い絵がどこに潜んどるか調べて居場所を見つけ出すことができるから、修繕画師のかわりに呪い絵を探すのが仕事」

 二人の話を頭の中で繰り返し、千雨は考える。

 修繕画師は呪い絵に対し対抗手段を持っていて、呪探査士は修繕画師のかわりに呪い絵の居場所を探り、最終的には力を削いだうえで回収する。

「つまり……ツーマンセルで呪い絵を封じて回収するお仕事……っていうことですか?」

「そういうことになるな。……なんだ、結構あっさり信じるんだな」

 憑代がきょとんとした顔をして、首を傾げた。

「いや……正直なことを言うと、空想のお話を聞いてるような気分です。でも、さっき私は絵の具を吐いたから……有り得ない話でも、信じる気になれたというか……」

 こんな話を聞いても、すぐには信じられない。

 だが、千雨はつい数分前に絵の具を吐き出すという奇妙な現象を体験した。あの経験があるからこそ、二人の話を信じる気になれた。

 それに何より、憑代は千雨の話を聞いてくれた。ならば、こちらも真剣に彼らの話を聞かなくては。

「あはは、律儀な子やなぁ。信じられへん! 嘘言うな! 店の扉ばーん! で、飛び出してく客がほとんどやのに。むしろ、それが正しい反応なんやで?」

 からからと四季が笑う。

 ごく自然に具体的な反応が出てきた辺り、そのような反応をする客に何度も遭遇したことがあるのだろう。

 へなりと少し困ったように苦笑いを浮かべ、千雨は人差し指で自分の頬をかいた。

「そうなんでしょうけど……でも、憑代さんは私の話を静かに聞いてくれましたから。気のせいだって切り捨てられそうな、私の話を」

「ほんま優しいし真面目やなぁ。まあ、今回は千雨ちゃんの真面目さに助けられとるから、ええっちゃええんやけど」

 ころころ、からから。

 四季の楽しそうな笑い声が店内の空気を震わせる。

「話を戻そか。さっき千雨ちゃんが言うとったように、修繕画師と呪探査士は二人で一つのツーマンセル。二人で協力して、人の世を脅かす呪い絵を回収するんがお仕事や」

「じゃあ……私が絵の具を吐いたのは? それも呪い絵や修繕画師に関係あるんですか?」

「ありあり。それも大ありよ」

 四季の表情から再び笑みが抜け落ちる。

「呪い絵の中には、人間を自分の眷属にしようとする奴らがおるんよ。少しずつ内側から汚染して、自分たちが作り出す世界に取り込んで、眷属にする。千雨ちゃんがされそうになってたんは、それ」

 ひゅっ、と。千雨の呼吸が一瞬だけ詰まった。

 呪い絵の中には、人間を取り込んで眷属にしようとするものがある。取り込んで、人間とは異なるものにしようとするものがある。

 つまり、千雨は呪い絵に人間ではないものに作り変えられそうになっていたということだ。

 自分の身に起きていたことを具体的に知ったことで、一度は忘れていた恐怖が再び戻ってくる。

「今はウチが混ぜたお薬のおかげで、呪い絵からの汚染を吐き出したから大丈夫やで」

「……汚染は、どうやるんですか? 私、憑代さんたちに出会ったのと兄さんの部屋の絵画のこと以外で変な経験をしたことなんて」

「料理を」

 千雨が最後まで言い切る前に、憑代の声が重ねられた。

 ゆっくりと憑代の紅玉色の瞳が動き、千雨の姿を映し出す。

「料理を食べなかったか? 家族以外の第三者の。呪い絵たちは料理の中に自分たちの力を混ぜて、少しずつ汚染するのを得意としている」

 千雨の頭に浮かんだのは、最近こまめに自宅へ来ていた絵美理だ。

 ここ最近、千雨と陽也は絵美理が作った料理をよく食べていた。家族以外の人が作った料理といえば、絵美理の手料理しか思い当たらない。

 絵美理の料理を食べていたから、内側から呪い絵による汚染を受けていた。

 そこまで考えたところで、千雨の頭の中に最悪の仮定が浮かぶ。

「……まさか……」

 陽也のことを大切に思い、大学では陽也の様子をしっかりと観察し、こまめに千雨たちの家に来てくれていた絵美理。パンセリノスの話をしたらなぜか急に態度が変わったが、それ以外では穏やかで優しい彼女。

 疑いたくなかった。考えたくなかった。けれど、揃っている情報から考えられるのはただ一つ。

「絵美理さんが……呪い絵と関係ある……?」

 陽也の恋人らしく、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた絵美理が呪い絵と何かしらの関係があるなんて考えたくなかった。

 しかし、今手元に揃っている情報や自分の身に起きたことを考えると、絵美理と呪い絵には何かしらの関係があると考えるのが自然だった。最近絵美理の料理を食べていた千雨が絵の具を吐き出したのも、絵美理と絵画の中の女性が同じ顔をしていたのも、納得できてしまう。

 けれど、これは今、千雨が向き合わなくてはならないことだ。

「絵美理って人間のことを、僕は具体的には知らない。でも、その人の料理を食べていたのなら絵美理は呪い絵と関係がある可能性が高いと思う」

「……」

 上手く言葉が出てこず、千雨は唇を噛む。

 状況から考えて、千雨もその可能性が高いとわかっている。しかし、頭では理解していても肝心の心が突然の現実についてこれていなかった。

 姉のように慕っていた人物が怪異といえる存在と繋がりがあるうえに、水面下で危害を加えてきていた――なんて、すぐに信じられるわけがない。

(でも、多分、これは嘘じゃないから。信じなくちゃ)

 無理をしてでも。

「……ま、急にこないなこと言われても困るとは思うけどなぁ。千雨ちゃんは今までずぅっとウチらが生きる世界のことを知らんで生きてきたわけやし」

 すっかり重苦しくなった空気を、四季の一言が吹き飛ばした。

 くるくる表情を変える彼は、今は千雨と出会った直後に見せていたへらへらとした笑みを浮かべている。彼がまとう空気からも重苦しさは消え、柔らかいものになっている。

 四季は身をかがめるとカウンターに頬杖をつき、すっかり不安げな顔になった千雨を片手でくしゃくしゃ撫でた。

 小さな子供を元気づけようとしている手付きだったのは少々不満だが、不安や恐怖などの感情が渦巻いていた心がほんの少し落ち着いたため、千雨は文句を飲み込んだ。

「せやから、ゆーっくり考え。ゆっくり考えて、ウチらの言うことを信じよう思うたら、またここにおいで。ウチかツキちゃんに連絡するんでもええよぉ」

「……羽々屋さん」

「呪い絵は時間が経つとどんどん厄介になってくから、ほんまはすぐにでも対処しにいきたいくらいやけど……千雨ちゃんにも心の整理が必要やろうし」

 千雨ちゃん、無理にでもウチらの言うこと信じようとしとったやろ?

 くしゃくしゃと千雨の頭を撫でる手を止めずに告げられた言葉は、千雨をドキリとさせた。

 見抜かれていた。千雨が無理をしてでも、呪い絵の存在や修繕画師たちの世界のことを信じようとしていたのが。

 千雨が慌てて四季を見ると、彼は楽しそうにけらけらと笑っていた。

「やっぱりそうなんや。無理にでも信じよ思うてくれるなんて、ほんまに良い子やねぇ」

「……だ、だって信じるしかないじゃないですか。実際に私の身体に有り得ないことが起きちゃったんですし……」

「でも、だからって無理に自分を納得させて信じようとしても、心の奥底には疑惑が残るだろ」

 千雨の言葉に、すかさず憑代が反論した。

 思わず唇をきゅっと結んだ千雨へ、憑代はさらに言葉を重ねる。

「依頼人が本当に納得したうえで依頼してくれないと、僕は動きづらい。やっぱり信じられないから依頼を取り下げるなんて後から言われても困る」

 そういった瞬間の憑代の顔は、どこか苦々しそうなものだった。

 具体例を自然とあげた辺り、過去の依頼でそのようなことがあったのかもしれない。確かに、一度依頼を引き受けたあとに途中でやっぱりやめるなんて言い出されても困ってしまうだろう。

 なら、千雨なりにじっくり考えて、彼らのことを信じるかどうか決めるのは憑代たちのため――ともいえる。

「……わかりました。そういうことなら、少し考えてみます」

 その言葉とともに、千雨はわずかに頷いた。

 千雨の反応に満足げな様子で頷き返した四季は、ようやく満足したのか千雨を撫でる手を止めた。

「うんうん。連絡してくれるか、また遊びに来てくれるんを楽しみにしとるで」

「ほら、これが僕と羽々屋の連絡先。店に来づらかったら、ここに連絡するといい」

 撫でる手を止めた四季と入れ替わるように、憑代は近くにあったメモに連絡先を素早く書いて千雨へ手渡した。

 真っ白なメモ用紙に書かれた、二人分の連絡先。使い所はよく考えないといけないが、いざというときに縋れるものができたのは、ほんの少し安心できた。

「ありがとうございます、お二人とも。……よく考えて、結論を出したら連絡します」

「ああ。待ってる」

「いつでも連絡してきてな」

 千雨は改めて感謝の言葉を告げて、憑代と四季へ頭を下げた。

 その後、受け取った二人分の連絡先を書いたメモをしっかりと握りしめ、カウンター席から立ち上がった。

 そのまま店の出入り口へ向かう千雨の背中を追いかけるように、カウンターの向こう側から出てきた憑代が千雨の後に続いた。

「千雨」

 店を出ようとドアノブに手をかけた瞬間、憑代が名前を呼んだ。

 片手をドアノブにかけたまま、千雨は振り返る。

「どうかしたんですか? 憑代さん」

「……あんたは僕の恩人だ。だから、僕はできるならあんたを助けたいと思ってる」

 少しだけ空白をあけて、憑代はぽつり、ぽつりと呟くように言葉を吐き出す。

「あんたのことは、わりと気に入ってる。初対面であそこまで親切にしてくれた人間は、あんまりいない」

 相変わらず憑代の言うことは大げさだと思うが、そのことを口に出すのは少々憚られた。

 きっと、憑代がどこまでも真剣で、真っ直ぐな目をしているからだ。

 あまりにも彼が真剣だから、千雨も余計な口を挟まず、彼の言葉に耳を傾けなければ――という気持ちになる。

「だから……どうか、信じてほしい。僕のことを。僕らが言ったことを」

「……憑代さん」

 小さく名前を呼んだ千雨に対し、憑代は申し訳なさそうに表情を崩した。

 口元に苦笑いを浮かべ、ドアノブにかかっている千雨の手に自分の手を重ねて扉をそっと開かせた。

「言いたいことは、それだけ。……またのご来店か、連絡をくれるそのときをお待ちしています」

 その言葉の直後、軽く背中を押されて千雨は店の外に大きく一歩踏み出した。

 振り返った瞬間見えたのは、しまっていく扉の隙間から少し困ったような顔をした憑代の姿だった。

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