第2話 不安は鈍色

 目の前に、見覚えのない洋館の景色が広がっている。

 窓から見える空はどこまでも青く晴れ渡っており、その下に広がっている庭は手入れが行き届いているようで、みずみずしく美しい薔薇の花が咲き誇っている。一番多いのは薔薇の花だが、他にも様々な花を植えているようで、色とりどりの花が見る者の目を楽しませる庭に仕上がっていた。

 窓から室内へ目を向けると、丁寧な作りのアンティーク調の家具が視界に飛び込んできた。テーブルはもちろん、椅子も、棚も、テーブルの上に並べられているティーセットも、全てが高価なものだとわかる。床には上品な赤いカーペットが敷かれており、まるで物語に出てくる貴族の家のようだった。

(……どこだろう、ここ)

 ぼんやりと目の前に広がる景色を眺めながら、千雨は考える。

 ここは一体どこなのか、どうして自分がこんなところにいるのか、考えても何も思い出せない。

 少し部屋の中を見て回ってみようと思い、一歩を踏み出してみるが、本来聞こえるはずの足音は一切聞こえなかった。

 自分の足元を見て、首を傾げる。どうして音がしないのか疑問に思いながら顔をあげ――思わず出そうになった悲鳴を飲み込んだ。

 千雨が自分の足元を見る前に眺めていた景色。ついさっきまでは誰もいなかったそこに、いつのまにか一組の男女が現れていた。

(びっ……くりした)

 男女は千雨がいることに気付いておらず、二人で楽しそうに話をしている。

 ――否。今、千雨の目の前にいる二人には、千雨のことは見えていないようだった。

「本当に、あなたは絵を描くのが上手ね」

 女性が鈴を転がしたような、綺麗な声でそういった。

 彼女の手の中には一枚の紙が握られており、庭の景色が描かれていた。

 女性と向かい合って座っている男性は照れたように笑いながら、手に持っているティーカップに口をつけた。

「これでも画家を目指している身だからね。でも、画家になるにはもっと腕を磨かないとならない」

「まあ、今でも十分上手なのに?」

「画家の世界には、もっと上手い人がたくさんいる。今の腕じゃあ売り物にならない」

 そういって、男性は悔しそうに表情を歪めた。テーブルの上に置かれた彼の片手が、感情を表すかのように強く握り込まれる。

 対する女性は一度瞬きをして、けれどすぐに穏やかな笑みを浮かべるとテーブルに一度風景画が描かれた紙を置いて彼の手に自分の両手を重ねた。

「そんな顔をしないで、×××」

 女性が優しい声で目の前の男性に話しかける。

 確かに彼女は男性の名前を呼んだはずなのに、肝心の名前の部分だけが聞き取れなかった。

「すまない、×××」

 そして、それは男性が女性の名前を呼んだ場合でも同じだった。

 二人がお互いの名前を呼んだ。そのことは不思議とわかるのに、何故か肝心の名前だけが聞き取れない。

 千雨は確かにここにいるはずなのに、二人が千雨に全く気付いていない状況といい、名前だけが不自然に聞き取れないことといい、少々不気味に感じてきた。

 眉根を寄せて表情を曇らせる千雨の目の前で、二人は言葉を交わし続けている。

「いつか……いつか、今よりももっと良い絵を描けるようになる。そして、今を生きる画家の一人になってみせる。だから……ついてきてくれないか、×××」

 ほんの少し間のあと、男性は顔をあげてすぐ目の前に座っている女性を見つめる。

 真剣な顔でそういって、返答を待つように唇を閉ざした。

 対する女性はぽかんとした顔をしていたが、彼の言葉がどういうことなのかを理解し、頬を赤く染めた。

「……ええ、もちろん。あなたについていくわ、あなたが立派な画家になったあとも」

 心底幸せそうに、嬉しそうに、女性は男性へそう返す。

 開かれた窓から吹き込んできた穏やかな風が、彼女の美しい金糸の髪を揺らした。


 ――金糸の、髪?


(え……)

 まるで霧が晴れるように、先ほどまであまり気にならなかった彼女の顔をはっきりと認識した瞬間。

 千雨の視界は、絵の具で塗りつぶされたかのように真っ黒に染まった。





「……っていう夢を見たんだよね……」

「ふぅん。お兄さんの部屋に飾ってある絵の女性が夢に出てきた……ねぇ……」

 ざわざわと多くの生徒たちで賑わう教室。すっかり聞き慣れたクラスメイトたちの声で満たされた空間で、千雨は自分の机に突っ伏した。

 時刻は朝。憑代と出会った日の翌日、朝から不思議な夢を見た千雨は深く息を吐き出した。

 まさか、陽也の部屋に飾られている絵の女性が夢の中に出てくるとは思わなかった。それも、少し不気味なものを感じた日の夜に。

 千雨の話に耳を傾けてくれていた友人は、突っ伏したまま動かない千雨の頭をつつきながら言葉を続けた。

「夢って変な内容のもあるし、気にしなくていいんじゃない? あたしなんか街中ゾンビで溢れて大パニックになる夢見たことあるよ」

「そうかもしれないけど……。でも、ちょっと不気味な絵だなーって思った日にそんな夢見たんだよ? ちょっと怖くない?」

「お兄さんの部屋に飾ってるのを改めて見たから、強く印象に残って夢の中に出てきただけじゃない? 全く、千雨の怖がりちゃんめ」

 からかうような声に反応し、千雨はゆっくりと顔をあげた。

 友人はすかさず千雨の頬に手を伸ばし、片手で頬をむにーっと伸ばしてきた。

「ちょっと、何するの」

「ふはは、相変わらず千雨の頬はよく伸びるなぁ」

 友人はけらけらと笑い、しばらく千雨の頬を伸ばしたあとに手を離した。

 わずかにひりつく頬を擦る千雨へと、友人は言葉を続ける。

「そんなに考えすぎなくても大丈夫だって。夢はただの夢なんだから」

「……ただの夢……うん、そう、そうだよね」

 小さな声で友人の言葉を復唱してから、千雨はへなりと苦笑いを浮かべた。

 こっちは本当に不安に思っているのにという気持ちもあるが、友人はあえて普段どおりに振る舞って元気づけようとしてくれている。ならば、いつまでも元気のない顔をしていたらかえって心配させてしまうかもしれない。

 それに、少し話を聞いてもらったことで気持ちが少し楽になった。ただの夢の話なのに、真剣に聞いてくれた友人には感謝しなくてはならない。

「ありがとう、はーちゃん」

「いいってことよ。それよりさー、千雨んとこのお兄さん、具合大丈夫なの? あたしはそっちのほうが気になる」

「兄さんの具合は……うん、相変わらず良くなさそうなんだよね」

 そう答え、千雨は今朝の陽也の様子を思い浮かべた。

 昨日、千雨が帰ってきた時点で疲れ切った顔をしていた陽也だったが、朝を迎えてもあまり疲れが取れていなさそうだった。目の下のクマは少しマシになっていたが、全体的な様子から疲労感は残ったまま朝を迎えたようだった。食欲はあった――というより、絵美理が作り置いてくれたものだったので口にしたように見えた。

 そのことを友人に話すと、友人は腕組みをして考えたあと、スマートフォンを取り出して操作を始めた。

「それってさ、よく眠れてないってことじゃない? 不眠症になったりしてるんじゃないの?」

「やっぱりそうなのかな……このままだと体に良くないよね?」

「良くない良くない。下手したらいつか倒れるんじゃないの? ちょっと不眠症対策したほうがいいんじゃないの……っと、ほら。簡単に対策できるみたいだしさ」

 そういって、友人はスマートフォンにどこかのサイトを表示して千雨に見せた。

 彼女のスマートフォンには、不眠症に悩む人に向けて作られたサイトが表示されている。実際に不眠症になってしまった場合の対処法も詳しく書かれており、参考になる様々な情報が掲載されている。

 友人に許可をもらってからスマートフォンの画面に触れ、スクロールしていくつかの情報に目を通す。その中から、今日からでも始められそうなものにいくつか目星をつけてから、千雨は友人を見た。

「ねぇ、このサイトのアドレス送ってくれない?」

「別にいいよ。他の人にも見せるの?」

「うん。絵美理さんにも見せようかと思って」

 ふ、と。サイトを見ているときに千雨の頭に浮かんだ、絵美理の姿。

 今は海外にいる両親にこのことを相談するのはもちろんとして、他に相談しておきたい相手は誰かを考えたら絵美理の姿が浮かんだ。

 陽也と交際し、彼のことをあれこれ気にかけてくれている人だ。彼女にも、念の為に相談しておいたら二人で対策を考えることができる。

「絵美理って……お兄さんの彼女さんだっけ?」

「そうそう。よくご飯作りに来てくれるから、絵美理さんにも相談しておきたいなって思って」

「おうおうラブラブじゃん、お兄さん。ちょっと羨ましい」

 そんなことを言いながら、友人は再びスマートフォンを操作して表示していたサイトのアドレスをメールに貼り付けて送信した。

 まもなくして、千雨のスマートフォンがメールを受信した通知音を鳴らす。千雨もスマートフォンを取り出してメールボックスを確認すると、友人が目の前で送ってくれたメールが入っていた。

「うん、ちゃんと届いてる。ありがとう」

「どういたしまして。大事な家族だからねー、気にかけてあげなよー」

「わかってる」

 ひらひらと片手を振り、また放課後ねと一言付け足してから友人は自分の席に戻っていった。

 友人に小さく手を振り返し、千雨は改めて手元のスマートフォンを見る。メッセージアプリを立ち上げ、送ってもらったアドレスを絵美理と共有し、溜息をついた。

「……今日も真っ直ぐ帰ろうかな、心配だし」

 頭の中に、未だに疲れが残っている陽也の様子が思い浮かぶ。

 彼の身体の中で何が起きているのかわからないが、少しでも早く良くなってほしい。

 残りの授業が終わったあとの予定を頭の中で立てながら、千雨は自分のスマートフォンを鞄の中にしまいこんだ。





 もう何度も聞いたチャイムの音が鳴り響く。

 全ての授業が終わった放課後。部活動がある者は部室へ向かい、特になんの予定もない者は我先にと教室を飛び出していく。休憩時間とはまた違った賑やかさがある中で、千雨は休憩時間のときと同じようにスマートフォンを確認した。

 通知欄には、休憩時間に立ち上げたメッセージアプリからの通知が一件。タップして確認してみれば、それは絵美理のアカウントからメッセージが送られてきたことを知らせるものだった。

 続いてメッセージアプリを立ち上げ、返事を確認する。


『共有ありがとう 不眠症の対策っていろいろあるんだね』

『確かに、眠そうにしてるときがあるからよく眠れてないって可能性はありそうだよね』


 吹き出しに表示されている文字を目で追い、千雨はその場で一人頷いた。

(でも、こういう返事がくるってことは、兄さん大学でもしんどそうなんだ)

 本当に、大学でもしっかりと陽也の様子を見てくれている絵美理には感謝しなくてはならない。

 今度、彼女に何かお礼のものを用意しよう。

 静かに決意しつつ返事を送ろうとした瞬間、ぴこんとスマートフォンからメッセージの受信音が奏でられた。

 画面には、新しく絵美理からのメッセージが表示されている。


『千雨ちゃん、まだ学校?』


「……まだ学校だけど、どうしたんだろう」

 小さな声で呟いて、千雨は返事を入力して絵美理へ送信した。

 あんなに賑やかだった教室はいつのまにか静かになっており、未だに教室に残っているのは千雨一人だけになっていた。

 静まり返った教室の中に、ぴこん、とまた通知音が響く。


『一緒に帰りたいなって思ってるんだけど』

『帰るというより遊びに行くかな、私の場合』

『とにかく、一緒に陽也君のところに行きたいんだけど』

『いいかな?』


 最後に、キャラクターが両手を合わせてお願い事をしているスタンプが送られてくる。

 続けて送られてきた一連のメッセージを読み返し、千雨は首を傾げた。

「珍しいな、帰る時間がかぶるなんて」

 普段は例外を除き、千雨のほうが帰ってくる時間が早い。そのため、千雨が家の中で陽也が絵美理と一緒に帰ってきたのを迎えることが多かった。

 理由はよくわからないが、絵美理と一緒に帰ることができるのは個人的に嬉しい。

「別に、構いませんよ……っと」

 ぽちぽちスマートフォンを操作して、返事を送信する。

 すかさず絵美理から喜びを表すスタンプが送られてきたのを確認し、千雨はずっと手に持っていたスマートフォンを鞄の中にしまった。

 鞄をしっかりと閉めて、いつものように肩にかける。静まり返って一種の寂しさも感じる教室から一歩外に出れば、どこか遠くから部活に勤しんでいる生徒の声が聞こえた。

 頑張っているだろうクラスメイトや友人に、心の中でエールを送りながら昇降口に向かう。上履きから履き慣れたローファーへと履き替え、千雨は校舎の外へ出た。

「……えっ」

 直後。

 校門付近に立っている、あまりにも見覚えがある女性の姿を見つけて目を丸くした。

 彼女――絵美理は手元のスマートフォンを見ていたが、千雨に気付くとこちらを見て、ゆったりとした動作で手を振った。

「千雨ちゃん。お疲れ様」

「絵美理さん、わざわざ来てくれたんですか?」

「近くまで来たから、迎えに行っちゃおうかなって思って。びっくりした?」

「すごくびっくりしました……」

「でしょうね。さっきの千雨ちゃん、すっごく驚いた顔してたもの」

 片手を口元に当て、絵美理はくすくす笑う。その笑顔は、小さな子供がいたずらに成功したのを喜ぶような無邪気なものだった。

 千雨の前では大人びた、落ち着いた女性を思わせる上品な笑い方をすることが多かったため、今の彼女の笑みは少し意外に見える。

 まだ少し驚いた顔をしていた千雨だったが、絵美理の笑みにつられてだんだん笑顔になり、最終的には千雨も彼女と同じように笑った。

「絵美理さん、ドッキリとかもするんですね。なんだか意外でした」

「イメージと違った?」

「違いました! でも、なんだか親近感がわきました」

 確かに、千雨が抱いていた絵美理のイメージとは異なる行動だった。

 だが、それで嫌いになったり失望したりしたかと言われたら、答えはノーだ。むしろ、普段大人びて見える彼女の新しい一面を知ることができて純粋に嬉しい。

 どちらからともなく一歩を踏み出し、二人並んで歩きながら千雨は続けて問いかける。

「兄さんにはこういう……いたずら? みたいなことはしたんですか?」

「実はまだ。陽也君のイメージと違ったら嫌われるかも……って思うと怖くて」

「別に、兄さんはそれくらいのことで嫌ったりしないと思いますよ。兄さん、絵美理さんにベタ惚れみたいだし」

 そういいながら、千雨は絵美理と交際を始める前の陽也を頭の中に思い浮かべた。

 いつも真っ直ぐで、自分の興味があることに打ち込みがちな陽也。その打ち込み癖は厄介で、自分のことも他人のことも疎かにしてしまう。

 絵美理以外にも何人かの女性と交際したことがあるが、その誰もが陽也の打ち込み癖を許容できずに長く交際が続くことはなかった。故に、千雨は心の片隅で陽也が恋人を作るのは無理だと思っていた。

 ところが、どうだ。絵美理とだけは長く交際が続いている。まるで人が変わったように絵美理に尽くし、絵美理もまたそれに応えるように陽也へ尽くす。傍から見ると、二人の関係はまるで夫婦のように見えるくらいだ。

(きっと、相性がいいんだろうなぁ)

 ふ、と千雨の口元に笑みが浮かぶ。

 この調子で、二人の交際が長く続いてほしい。可能ならば、二人が本当に夫婦になるまで。夫婦になったあとも、末永く。

 いつか形になってほしい未来を思い描きながら、千雨はかつんと靴音を鳴らした。

 二人で歩くうちに学校はすっかり遠ざかり、もう何度も見てきた景色になっている。この道をもう少し歩けば、小さな公園が見えてくるはずだ。

(……そういえば、憑代さんを運んだのもあの公園だったよね)

 つい最近、助けたばかりの少年を思い浮かべる。

 彼を一旦運び込んだのも、あの公園だ。改めて思い出すと、憑代は千雨の自宅周辺で倒れていたんだなと思う。

 同時に、憑代が入っていった店であるパンセリノスのことも思い出し、千雨は口を開いた。

「そういえば、この辺りに新しいお店ができてたんですよね。絵美理さん、知ってます?」

「新しいお店?」

 絵美理はきょとんとし、わずかに首を傾げた。

「はい。この道を歩いた先の通りにあったんです。パンセリノスって名前のお店で……」



「ないよ」



 千雨が言い切るよりも前に、絵美理の声が重なった。

 絵美理が発した声は、先ほどまでの楽しそうなものとは正反対の声だった。

 ぞっとするほど冷たい、威圧感を感じさせる声。

 思わず黙り込んだ千雨に対し、絵美理はゆっくりとこちらを見て言葉を続けた。

「ないよ。そんな名前のお店」

「……で、も……昨日、確かに見て……そこに行こうとしてた人を、案内して……」

 千雨の声が尻すぼみになっていく。

 何が引き金になって、絵美理が豹変したのかわからない。千雨はただ、新しい店ができている話をしようとしただけだ。

 だが、店の名前を聞いた瞬間、絵美理は突然不機嫌になったかのように態度を豹変させた。

 ぞっとするほど感情のない目が、表情が、千雨の心を静かな恐怖で蝕んでいく。

「ないよ、そんなお店。あの通りなら私も歩くけど、一度も見たことないもの」

「……そ、んなはず……」

「ねぇ、千雨ちゃん」

 名前を呼ばれ、千雨の喉がひゅっと音をたてる。

 無言で絵美理を見つめていると、絵美理はゆっくりと表情を変え、笑みを浮かべた。

「そういうお店はないんだよ。わかった?」

 わかったと答えろ。

 声には出さないが、笑顔の裏にそんな言葉が隠れているようだった。

 喉の奥に声が張り付いて、思うように言葉を紡げない。それでも絵美理の機嫌を損ねないため、千雨は何度も頷いた。

 緊迫した空気が千雨と絵美理の間に流れる。

 絵美理は無言で千雨を見つめていたが、ゆっくりといつも浮かべている笑みを浮かべ、千雨の頭を優しく撫でてきた。

「……うん、わかってくれたならいいの。怖がらせちゃってごめんね、千雨ちゃん」

「い、いえ……そ、その、私も変な話をしてすみませんでした」

「ううん。きっと夢を見てたんだよ、千雨ちゃん。そんな名前のお店なんて、どこにもないもの」

 まるで、念を押すように最後にもう一度口にして、絵美理は千雨の家に続く横道へと入っていった。

 ゆっくりと歩くスピードを落とし、千雨はあの通りに続いている道へと目を向けた。

「……夢だったのかな」

 ぽつり。風やその他の音にさらわれてしまうような、とても小さな声で呟く。

 憑代との出会いは本当に夢だったのだろうか?

 いや、そんなはずはない。確かに夢か何かのような不思議な出来事だったが、あれは間違いなく現実のはずだ。憑代の顔も、声も、姿も、しっかりと思い出せる。もちろん、店の場所も。

 ――けれど、それは本当に現実なのか? 千雨が現実と思い込んでいるだけで、本当は絵美理の言うように夢だったのではないか?

 頭の中で対照的な考えがぐるぐると巡り、千雨の記憶を混乱させていく。

 可能ならば、今すぐ走ってあの店があるかどうか確かめにいきたい。だが、一度絵美理の前であのような返事をしたのだ。今すぐに確かめにいくのは不可能だ。

「千雨ちゃん?」

 隣に並んでいないことに気付いた絵美理が足を止め、こちらに声をかけてくる。

 瞬間、先ほどまでの彼女の姿を思い出し、千雨は慌てて絵美理のほうを見た。

「ごめんなさい。ちょっと考え事してて」

「そう? なんでもないのなら、いいんだけど……」

 早く帰りましょう、陽也君を待たせすぎちゃう。

 一言付け加え、絵美理はいつも浮かべている柔らかい笑みを浮かべた。

 そんな彼女へ頷き、千雨は彼女の傍に駆け寄って隣に並んだ。





 絵美理と陽也の二人と一緒に夕食をとり、自室に戻ってきた千雨はベッドの上で普段使っている学生鞄をひっくり返した。

 頭に残っているのは、放課後に絵美理が見せた姿と彼女の言葉。彼女は千雨が見た店は夢だと強く口にしていたが、やはり千雨にはあれが夢だとは思えなかった。

 絵美理の勢いに飲まれて一度は頷いてしまったが、時間が経つとあれは夢ではなく現実だったと千雨の心が主張した。千雨自身も、あれは現実だと思っている。

 故に、確かめようと思ったのだ。

 あれが夢ではなく、本当に起きた現実のことなのだ――と。

「確か鞄の中に入れたはずだから……」

 呟きながら、千雨は空っぽになった学生鞄を手に届く範囲に置いた。

 ベッドの上には、普段使っている教科書やノート、ペンケースなどが散らばっている。ほかにも、どうしても小腹が空いたときに食べることにしているキャンディの袋や最近休憩時間に読んでいるお気に入りの本、ウォークマンなど勉強とはあまり関係がないものも入っている。

 それらを手にとって、違う場所に移動させてを繰り返して目的のものを探す。

 教科書をどかし、ノートを移動させ、ペンケースをノートの上に重ね――やがて、物と物の間に挟まっていた名刺を見つけると千雨は迷わず手を伸ばした。

「あった……!」

 白地に黒い文字がプリントされた、シンプルな名刺。憑代を店まで案内したときに受け取ったそれは、千雨の手の中に収まっている。

 夢ではなく、確かな現実だった。

 その事実が胸の中に溢れ、身体から力が抜ける。後ろへ勢いよく倒れ込み、千雨は名刺を蛍光灯の明かりにかざした。

「よかったー、絵美理さんが言うみたいに夢だったらどうしようって思った」

 あまりにも絵美理が強い口調で千雨の話を否定したため、混乱したりもしたが、これでもう混乱せずに済む。

 名刺の表と裏をひっくり返しながら、思い出すのはあのときの絵美理の様子だ。

 普段の穏やかな雰囲気はなく、冷たい声と表情で威圧してくる絵美理。よく知っている絵美理の姿とかけ離れていたからこそ、強い恐怖を感じた。

(絵美理さん、どうしてあんなに否定してきたんだろう……)

 冷たく言い放った絵美理の声が、頭の中でよみがえる。


『ないよ』

『ないよ、そんなお店。あの通りなら私も歩くけど、一度も見たことないもの』

『そういうお店はないんだよ。わかった?』


 今、改めて思い出すとあそこまで強く否定してくるのは少々不自然だ。

 まるで、パンセリノスという店が存在してはならないというような様子だった。

 けれど――なぜ。どうして、あそこまで強く否定するのだろう。過去に絵美理があの店に行ったことがあり嫌な思いをした可能性も思い浮かんだ。けれど、あんな変わった名前の店、ほかにあるのだろうか。

「……わかんないなぁ」

 直接絵美理に聞いてみてもいいかもしれないが、あそこまでの反応を見せた。聞いても答えてもらえない可能性のほうが高いと予想できる。

 それに、あんなに怖い態度になるのを知っている状態で、もう一度パンセリノスについての話題を振るのは正直恐ろしい。

 もしかしたら、いつか理由がわかるかもしれない。そのときまで、絵美理の前でパンセリノスについての話題を出すのは避けよう。

 心の中で一人頷き、千雨は両足を大きく振って起き上がる。ベッドの上に置いていたものを再び鞄の中に戻していき、いつも置いている場所へと学生鞄を戻した。

 手の中に残ったのは、憑代からもらった名刺だけだ。

「……これは、ちょっとわかりにくそうなところに置いておこう」

 なんとなくだが、これは絵美理に見つかってはいけないような気がした。

 いざというときのための切り札――ではないが、逃げ道のようなものになってくれるかもしれない。

 そう考えてしまうくらいに、今日の絵美理の様子は恐ろしかった。

 ベッドから起き上がり、自分の机に並べてあるノートへ視線を向ける。その中に紛れ込んでいる日記帳へと手を伸ばし、千雨は日記帳を開いた。

 日々の記録を記しているほうとは反対側、一番最後のページに憑代の名刺を挟み込み、もう一度本棚へと戻した。

 再びベッドの上に戻ってくると、千雨は再び勢いよく倒れ込んだ。

「……明日になったら、絵美理さんにもう一回謝ろうかな……」

 自分が悪いことをしたとは、あまり思えないけれど。

 絵美理の気分を害してしまったことは確かだから、もう一度謝っておいたほうがいいかもしれない。

 改めて顔を合わせるのは怖いけれど、だからといってメッセージで済ませてしまうのも何か違うように感じられた。何より、メッセージだと相手の表情が見えないので本当に許してくれているのかがわからず、逆に恐怖が増してしまう。

 どうか許してくれますように。

 静かに祈りを捧げつつ、眠るために部屋の照明を落とそうとしたときだった。

「千雨、まだ起きてるか?」

 ノックをする音とともに、扉の向こうから陽也の声がする。

「兄さん? どうかしたの?」

 陽也がこんな時間に部屋へやってくるなんて珍しい。最近では、夕食を食べたあとは電源が切れたように眠り続けていたから余計に珍しいと感じてしまう。

 だが、この時間に眠っていないということは、今日は少し具合がいいのかもしれない。

 ベッドから離れ、部屋の扉を開ける。

 扉の向こう側には、疲労感がほんの少し抜けたのか、普段に比べると少し柔らかい表情をした陽也が立っていた。

「悪いな。寝るところだったか?」

「まあ、これから寝るところだったけど……何かあったの?」

「いや……最近、千雨には結構迷惑かけてるから改めてお礼言いたくなったというか……なんだろうな。自分でもよくわからないんだけど、とにかくお礼を言わないとって思ったんだ」

 頭をかきながらそういった陽也に、千雨は首を傾げた。

 本人にもよくわかっていない、けれど感謝の気持ちを相手に告げなくてはならないというのは、なんだか少しだけ不思議なように感じられた。

 けれど、陽也が調子に良さそうにしているのは嬉しいし、千雨も頑張って支えてよかったと感じる。

 千雨の口元に笑みが浮かび、それに伴い先ほどまで感じていた不安や心配も一時的に吹き飛んだ。

「気にしないで、兄さん。兄さんがちょっとでも元気になってくれたなら嬉しいし、それで十分だから」

「……ずいぶん迷惑かけてるのに、お前は優しいなぁ」

 陽也が呟くようにそういって、わずかに表情を緩めた。

 その後、おもむろに千雨の頭へ手を伸ばし、くしゃくしゃと少々乱暴な手つきで撫でた。

「ありがとな。頑張って前みたいに元気になるから」

「どういたしまして。私だけじゃなくて、絵美理さんにもちゃんとお礼言ったほうがいいよ。絵美理さんもいろいろサポートしてくれてるんだから」

「そうだな……そうする。んじゃ、本当に礼を言わないとって思っただけだから俺は戻るよ」

 最後に、軽く叩くようにして千雨の頭を撫でてから陽也は手を離した。

 その手をひらりと動かして、一言、最後に付け足す。

「おやすみ、千雨」

「うん。おやすみ、兄さん」

 千雨も小さく手を振り返し、同じように就寝前の挨拶の言葉を口にする。そのまま、部屋の前を離れて自分の部屋へと戻っていく陽也を見送った。

 彼が部屋の中に入っていくのを見届けてから扉を閉め、今度こそ部屋の照明を落とす。

 真っ暗になった部屋の中、ベッドの中に潜り込み、千雨は目を閉じる。

(急にお礼を言いたくなっただなんて、変な兄さん)

 でも、少しでも元気になった姿を見れたのは本当に嬉しいしほっとした。

 このまま調子が戻っていってほしいところだが、まだ油断せずに様子を見ることにしよう。

 とろとろとした眠気が訪れる頭でそう考えたところで、ふと、部屋に戻っていく陽也の背中を思い出した。

(そういえば……)

 あのとき、陽也が部屋に入る一瞬。

(女の人の姿が見えたような気がしたけど……)

 陽也の背中に手を添えて、彼を優しく支えているかのような女性の姿が見えたような気がしたけれど――あれは一体なんだったのだろう。

 瞬きの瞬間には消え去っていたけれど、あの一瞬、陽也の後ろには確かに女性が立っていた。それも、どこかで見たような覚えがある女性が。

 一体どこで見たのか、具体的な答えを出す前に千雨は眠りの中へと落ちていった。

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