第1話 出会いは白色

 春咲千雨はるさき ちさめは、自分のことを可もなく不可もない『平凡な人間』だと考えている。

 この世に生まれてから十八年。幼い頃から絵を描くことが好きな大人しい少女であった千雨は、小学校、中学校、そして高校といじめに遭うことも巻き込まれることもなく、実に平和に過ごしてきた。

 自分はもちろん、家族が大きな怪我を負ったり病気になったりすることもなく、何か大きな事件に巻き込まれたこともない。

 見た目も地味で、髪を染めたりカラーコンタクトを入れたりもしていない。低い位置で二つに結った黒髪に丸い焦げ茶色の瞳をした千雨の姿は、まさに平凡という言葉が似合いそうなものだ。

 外見も、日常も、少々退屈に感じそうなほどに特筆のない普通のもの。物語の中で描かれているような刺激溢れる非日常は起きない、普通の日々。それがこの先もずっと続くのだと考えていた。

「……」


 ――今日、このときまでは。


 生まれ育った彩鳥いろどり市の片隅で、千雨は一種の非日常と遭遇していた。

 時刻は夕方。場所は道端。いつものように学校で授業を受けて部活動をした帰り道、もう何度も歩いた道の中央に人間が倒れていた。

 ぱっと見た印象では、おそらく千雨と同じくらいか一つ下くらいの少年だ。

 たまに落とし物を見かけることはあっても、倒れている人間を見るのははじめてだ。

「……って、いや、見てる場合じゃない……!」

 状況がすぐに飲み込めず、呆然とその場に立ち尽くして彼を見つめていた千雨だったが、我に返ると慌てて少年へ駆け寄った。

 不思議な格好をした少年だ。うつ伏せになって倒れているその少年は、フードがついた黒い外套を身に着けている。臙脂色の着物に黒い袴という現在ではあまり見なくなった古めかしい格好をしており、背中にはベルトを取り付けて背負えるように改造した奇妙な木箱を背負っている。よく見れば、木箱には引き出しがついていて物を簡単に出し入れできるようになっている。道具箱か何かの一種なのだろう。

「だ、大丈夫ですか? しっかりしてください……!」

 混乱する頭を必死に動かして、千雨は少年へ呼びかけながら両肩を軽く叩いた。

 ここは道の真ん中だ。幸い、今は車や自転車は通っていないが、全く通らないわけではない。意識があるか確認して、安全な場所に移動させなくてはならない。

 過去に本で読み、話を聞いたきりで終わっていた救命の知識をたぐり寄せながら、千雨は彼の手首にも触れた。手首の血管からは脈が感じられ、ひとまずは生きていることに安堵した。

「……う……」

「!」

 呼びかけてから数分の間のあと、少年の指先がわずかに動いた。

 目を見開き、千雨は慌ててもう一度彼へ呼びかけた。

「大丈夫ですか? 話せますか? 今、救急車を呼びますから」

「……怪我でも病気でもない……救急車は必要……ない……」

 絞り出すような、うめき声に近い声で返事が返ってくる。

 怪我でもなければ病気でもない。とりあえず救急車が必要になるような事態ではないのなら安心だが、どちらでもないのなら道端で倒れて動けなくなっている理由がわからない。

 状況がわからず、さらに混乱する千雨の手を弱々しい力で握り、少年は言葉を続けた。

「それよりも……頼みたいこと……が……」

「えっ……えっと……」

 突然お願いしたいことと言われても、何を頼まれるかわからない以上、すぐに返事ができない。

 戸惑い、すぐに言葉を返せない千雨の目の前で、少年はゆっくりと顔をあげた。

 うつ伏せになっていたため、ずっと見えなかった彼の顔を見て――千雨は息を呑んだ。

 人形のように整った顔。雪のように白い髪に、宝石を思わせる紅玉色の瞳。非常に整った顔立ちの少年は、震える声で頼み事の内容を口にした。

「……何か……食べるもの……」

 そこまで口にしたところで、少年は再び地面に突っ伏した。

「……え?」

 どこか遠くでカラスが鳴いているのが聞こえる。

 なんともいえない沈黙が、千雨と少年の周囲に広がった。





 とりあえず倒れた少年をなんとか近くの公園にあるベンチまで運んでから、千雨は近場のコンビニまで走った。ずらりと並んだ商品の中から、鮭とツナマヨのおにぎり、ペットボトルのお茶を購入して与えると、少年はみるみる復活した。

 心の片隅で冗談だろうと思っていたが、本当に空腹で倒れていただけらしい。自己申告のとおり、起き上がった彼の様子を観察してみたが痛がる様子や苦しそうな様子は一切なかった。

 ひとまずは大事にならなかったことに安堵しつつ、千雨は表情を緩めておにぎりを頬張っている少年の隣に腰掛けた。

 それにしても、食べるものには困らないはずの今の世の中で、飢えて行き倒れるとは。一体彼の身に何があったのか、不思議で仕方なかった。

「はー……悪い、助かった……」

 夢中でおにぎりを頬張っていた少年が、ペットボトルのお茶を飲んで一息ついた。

 物足りなさそうだったら、今度は少年を連れてコンビニに足を運ぶつもりでいたが、どうやらその必要はなさそうだ。今の彼は、とても満足そうな顔をしている。

「いえ……何か事件に巻き込まれたわけじゃなさそうで、安心しました」

 千雨も自分の鞄の中に入れていたお茶を飲み、返事をする。

 最初に倒れている少年を見つけたときは本当に驚いたし、ぞっとした。誰かが倒れているという、まるで物語で描かれるような出来事に遭遇するとは思わなかった。

 緊張と不安で乾いていた口の中をお茶で潤してから、千雨は問いかけた。

「それにしても……なんで行き倒れてたんですか? この辺りはコンビニもあるし、少し歩いた先には飲食店もあるから、お腹がすいてもそうはならないと思うんですけど……」

「あー……それは、うん……」

 少年が何やら気まずそうな顔をし、千雨から視線をそらした。

 口元には苦笑いを浮かべ、紅玉色の瞳をあちらこちらへと向けたのちに、深い溜息をついて答えた。

「……恥ずかしい話なんだが、財布をなくして……。もともと中身がほとんど入ってない財布だったから別に惜しくもなんともないし、目的地に到着したらどうとでもなるって考えてたら……道に迷ってな……?」

「……」

 ……なんというか。

 なんというか、いろいろと大丈夫なのだろうか。この少年は。

 千雨はなんともいえない顔をし、半目で隣に座っている少年を見つめる。

 彼自身はずいぶんと軽く考えているようだが、財布をなくすのはもっと慌てるべき事態だろう。たとえ中身がほとんど入っていなくても探すべきだろうし、どうしてそこでなんとかなると考えてしまったのか不思議で仕方ない。

 もうこんな年齢だし恥ずかしいな、と少年は苦笑いを浮かべているが、そんなに軽く済ませていい問題ではないはずだ。思わず頭を抱えたくなる。

「ちなみに、どこに行くつもりだったんですか? 私が知ってる場所だったらになりますけど、よかったら案内しますよ」

 半目になったまま、千雨は思わずそう口にしていた。

 この少年をこのまま放っておくわけにはいかない。千雨の第六感が告げていた。

 今回は運良く千雨が通りかかったが、次にどこかで行き倒れたときも親切な人が通りかかるとは限らない。最悪の場合、事故に遭う可能性だって考えられる。

 次も必ず彼が行き倒れるとは限らないが、またどこかで倒れそうな気がした。

 千雨の申し出に対し、少年は紅玉色の瞳を丸くした。

「それは助かるが……いいのか?」

「もちろん。これからどんどん暗くなっていくから、早く目的地についたほうがいいと思いますし……ここでさよならするのも、なんだか落ち着きませんし」

 本音は、少年が危なっかしいからだ。

 だが、これから夜になっていくため、早く少年の目的地についたほうがいいと考えているのも嘘ではない。

 少年は何やら考えている様子だったが、一人で頷き、申し訳なさそうに笑った。

「なら、もう少し手を借りよう。悪いな」

「お気になさらず。それで、どこに行こうとしてたんですか?」

 首を左右に振り、千雨が目的地を教えるよう促す。

「パンセリノスって名前の店だ。聞いたことはあるか?」

「パンセリノス……」

 少年が口にした店の名前を復唱し、記憶を探る。

 千雨の記憶が間違っていなければ、過去にそのような名前が書かれた店を見たことがある。友人の家へ遊びに行く途中にちらっと見かけた程度の記憶だが、変わった名前だったので印象に残っている。見かけたときはまだ開店準備の最中だったので、一体どのような店なのか、詳しくは知らないが。

 肝心の場所は、ここからそう遠くないところにあったはずだ。もう少し歩けば、無事に目的地に到着するだろう。

「一応知ってますよ、私が見かけたときは開店準備をしているところだったのでどんなお店かはわかりませんが……」

「本当か? なら、道は間違えてなかったんだな。よかった」

 少年が目を輝かせ、ほっと安心したように表情を緩める。

 つられるように千雨も表情を緩ませ、軽やかな動きで立ち上がった。

「近くに目印になるものもあったはずだから、一度行ったらどこにあるか覚えられると思います。案内しますので、ついてきてください」

「わかった。悪いな、世話になる」

 少年に立つように促せば、彼は一つ頷いて立ち上がった。

 彼が履いている下駄とブーツを一体化させたような、特殊な靴が地面に触れた。靴底が土を踏む音がかすかに空気を震わせた。

 こっちです、と一言声をかけてから、千雨は彼を案内するために一歩を踏み出した。





 頭の中に思い浮かべた地図に従い、夕暮れに染まった道を歩く。

 公園から出て道なりに進んでいる間、千雨と少年は細々とだが言葉を交わした。沈黙が落ち着かなかったというのもあるが、それ以上に彼の正体が気になったためだ。

 曰く、彼は今まで違うところで暮らしていて、今回仕事の都合で彩鳥市にやってきたらしい。大体同じくらいの年齢に見えるのに仕事とはと疑問に思ったが、そこは相手の深いところに踏み込むようで尋ねられなかった。

 あの公園を出て道なりに十五分ほど歩いた先にある通りまでやってくると、千雨はぐるりと通りを見渡した。小さな洋服店や喫茶店などの店が並んでいる中、目的の店は準備中と書かれた看板を店先に出していた。

 今日も看板を出してくれていたことにほっとしつつ、千雨はその店の前まで歩き、後ろからついてきていた少年へ振り返った。

「ほら、ここです。隣にある喫茶店が目印になりますし、ちょうど……あそこ。あそこにある駐車場も目印になると思うので、次からはきっと簡単に来れますよ」

「本当だ。駐車場ならそう簡単に変わらないだろうし、良い目印になりそうだ。ありがとう、おかげで助かった」

 からん、という下駄のような足音とともに少年も足を止める。

 千雨が口にした言葉に反応して、彼は周囲を見渡して納得したように頷いた。その後、改めて千雨のほうを向いて笑みを浮かべた。

 綺麗な笑顔に一瞬千雨の心臓が跳ねたが、すぐにこちらも笑顔を返す。

「いえいえ。もし迷ってしまっても、隣の喫茶店の名前を入れてルート検索をかけたらすぐにたどり着けると思います」

「そうか、ルート検索という手があったな……。わかった、覚えておく。何から何まですまない」

 そういったところで、少年はふと何かに気付いたような顔をした。

「そういえば、まだ名乗ってなかったな。僕はこういう者だ」

 懐から名刺を取り出し、少年は千雨へと差し出した。

 白地に黒文字という洒落っ気が一切ないシンプルな作りの名刺には、少年の名前と肩書らしきものが記されていた。


『一級・修繕画師リペティファクター 白筆憑代しらふで つきしろ



 白筆憑代。字面も響きも、とても変わっている名前だ。だが、少年本人が人間離れした美しさをもっているからか、その名前は少年にぴったりであるかのように感じられた。

 肩書きは正直よくわからないが、少し前に仕事と口にしていた。おそらく、これが少年の職業なのだろう。

「えっと……白筆さんっていうお名前なんですね」

「ああ。でも、憑代で構わない。同僚からもそっちで呼ばれてるから、白筆って呼ばれるのはちょっと落ち着かない」

「えっ。……まあ、白筆さん本人がそういうのなら……」

 正直、知り合ったばかりの人を名字ではなく下の名前で呼ぶのは、千雨の中で少々抵抗がある。

 しかし、他の誰でもない憑代本人が落ち着かないと言うのなら、本人が希望する呼び方に合わせたほうがいいかもしれない。

 そう考え、小さく頷くと憑代は満足げに表情を緩めた。

「あんたは僕の恩人だから。何かあればいつでもご相談を。俺は誰かから恩を受けたら返す主義だ、何かあったらあんたの力になると約束する」

 そういって、憑代は自分の胸を軽く叩いてみせた。

 まるで命を救ってもらったかのような言葉だ。車に轢かれる前に安全なところへ運び、食料を提供したという点では確かに命を救ったのかもしれない。

 だが、千雨からすると困っていた人を助けたくらいの感覚で、他人の命を救った感覚はあまりない。故に、憑代の言葉は大げさなように感じられ、ぴんとこなかった。

「はあ……別に、恩返しをされるほどのことはしてませんけど……」

「あんたからすると、大したことじゃないのかもしれない。あるいは、困っている人を助けるのは当然くらいの感覚なのかもしれない。けど、僕にとってはとても大きなことだ」

 だから、いつか恩返しをさせてほしい。

 そこまで言われると、無理に断るのも少々申し訳ないように感じた。やはり、まだぴんとこないのが正直なところだが――何かあったときに力になってくれるのなら、覚えておいて損はないかもしれない。

 もっとも、その『いつか』がいつになるかはわからない。そもそも本当にその『いつか』がくるのかもわからないが。

 受け取った名刺をもう一度確認してから、千雨は学生鞄の中にしまった。

「それじゃあ、僕はこれで。今日は本当に助かった、帰り道には気をつけてくれ」

「あ、いえ。次は財布を落とさないように気をつけてくださいね」

「はは、もちろん」

 苦く笑い、憑代は最後に手を振ってから店の扉を開け、中に入っていった。

 その場に一人きりになった千雨は、深く息を吐き出して来た道を引き返しはじめた。歩き慣れた道を辿って、自宅に向かいながらもう一度頭の中に憑代の姿を思い浮かべた。

 暮らしが便利になっていくにつれて欧米化が進み、着物を着ている人はほとんど見かけなくなった今の時代に着物と袴という古風な姿。人形のように綺麗に整った顔立ちと、真っ白な髪に紅玉のような赤い瞳。まるで空想の世界から抜け出してきたかのような人物だった。

「なんだったんだろう、あの人……」

 不思議な雰囲気の人だった。見た目はもちろん、まとう雰囲気や全てが不思議だと感じる人だった。

 おかしな短い夢でも見ていたような気分だが、憑代の存在や彼と出会ったことは夢や幻ではなく、まぎれもない現実だ。千雨が受け取った名刺がそれをはっきりと物語っている。

「仕事もなんだかよくわからない名前のお仕事みたいだし……漫画みたいだったな」

 呟かれた小さな声は、すっかり夕暮れの色に染まった空に溶けて消えていく。

 いろいろと気になることはあるし、考えたくなることはある。だが、とりあえずは安心できる家に帰ろう。あまり遅くなったら家族が心配してしまう。

 頭の中を日常へと切り替えて、千雨は非日常の名残を振り払うように自宅へと続く道を駆け出した。





 憑代を運んだ公園の近くまで戻り、横の道に入って進んでいく。少し進んでいけば見えてくるオートロック式のマンションの三階にある一室が、千雨の家だ。

 玄関からマンションの中に入り、千雨は壁に取り付けられたパネルに暗証番号を入力した。ロックを解除してエントランスを通り抜け、その先にあるエレベーターで三階へと移動する。三階の一番奥にある部屋が、千雨たち春咲家が住んでいる場所だ。

「ただいまー」

 大きめの声で室内に呼びかけながら、千雨は自宅へと入った。

 感じ慣れた自宅の香りが鼻をくすぐり、千雨の心をリラックスさせる。ついさっき非日常の世界を少しだけ体験したからだろうか、日常に帰ってきたような気分だ。

「あ、おかえりなさい。千雨ちゃん」

 そんな千雨を出迎えたのは、春咲家ではもうすっかり馴染みの顔になった女性だ。

 柔らかな栗色の髪に異国の血を思わせる青い瞳をした彼女へ笑顔を向け、千雨は返事をする。

絵美理えみりさん! 今日も遊びに来てくれてたんですね!」

陽也はるや君、今日も授業を頑張りすぎちゃったみたいで。ちょっと心配だったから、お邪魔しちゃった」

「えっ、また? 兄さん、最近疲れやすいのかな」

 玄関で靴を脱ぎながら、千雨は首を傾げる。

 彼女――羽井絵美理はねい えみりは、千雨の兄である春咲陽也の恋人だ。同じ大学に通っており、千雨にとっては優しい姉のような存在だ。自分のことを疎かにしがちな陽也のことを気にかけてくれるため、本当にありがたい。

 絵美理は思わず聞き返した千雨へ頷いてみせ、困ったように苦笑いを浮かべた。

「もしかしたらそうなのかも。心配だから、あんまり無理してほしくないんだけど……」

「うーん……兄さん、昔から無理しがちだからなぁ……。私からも言っておくけど、絵美理さんからも一言二言、無理しないように言ってもらえますか?」

「わかった。私も心配だから、あんまり無理しないでって言ってみるね」

「お願いします」

 絵美理と二人並んで、廊下を歩きながら言葉を交わす。

 絵美理の話からすると、陽也は彼女と一緒に帰ってきたのだろう。なら、今頃は自室にいるはずだ。先に鞄を置いて着替えたら、あとで声をかけてみることにしよう。

 千雨は頭の中で、自宅での行動の予定をどんどん立てていく。

 すぐ隣で絵美理はその様子を穏やかな表情で眺めていたが、キッチンの近くまで来たところで足を止めた。

「千雨ちゃん、ご飯作っておくから後で陽也君に声かけてくれる? 食べれそうだったら食べてほしいし」

「えっ、今日も作ってくれるんですか? ありがとうございます! 絵美理さんのご飯美味しいから楽しみ」

「そんなに褒めても何も出ないよ。今日のデザートは何がいい?」

「出てる出てる。絵美理さんが作るプリン、すっごく美味しかったからプリンがいいです」

 くすくす、笑いながら冗談交じりの会話をしてから千雨は階段を駆け上がっていった。

 何度か絵美理の手料理を食べたことがあるが、そのどれもがとても美味しかった。千雨はもちろん、陽也もとても幸せそうな顔をして食べていたのを覚えている。

 現在、春咲家には父と母がいない。父は仕事の都合で海外へ出張に行っており、母は彼を支えるためについていった。あまり母の料理を食べたことがない千雨にとって、絵美理の作る料理は母の料理のようで、とても気に入っていた。

 もし、陽也が絵美理と結婚したら毎日あの味を食べられるのだろう。想像すると、ほんのちょっとだけ羨ましかった。

 弾んだ足取りで二階の廊下を進み、自分の部屋に繋がる扉を開ける。制服を脱ぎ、ブレザーの上着やスカートはハンガーにかけてクローゼットにしまっておく。お気に入りのルームウェアに手早く着替え、千雨は隣にある陽也の部屋の前へ移動した。

 数回深呼吸をして、目の前にそびえ立つブラウンの扉を軽くノックする。

「兄さん、ただいま。絵美理さんから大体の話は聞いたけど、大丈夫?」

 ノックとともに室内にいるであろう兄へと呼びかけた。

 数分の短い間のあと、がちゃりと音がして扉が開かれた。

 顔を出した陽也はまだ疲れが残った顔をしていたが、自分を見上げる千雨の姿を見ると表情をやわらげた。

「おかえり、千雨。心配かけて悪いな、休んだからもう大丈夫だ」

「本当に? 兄さんはそういって無理をするから、正直素直に信じられない」

「大丈夫大丈夫。そんなに疑うなって」

 苦笑いを浮かべ、陽也はぐしゃぐしゃと千雨の頭を少し乱暴に撫でた。

 大人しくされるがままになりながら、千雨は改めて目の前にいる兄の姿を観察した。

 短めに切られた黒髪はボサボサで、目の下にはうっすらとだがクマがある。表情にもあまり覇気がなく、見ただけで十分疲れ切っているとわかってしまう。

 千雨が高校生になったばかりの頃は、こんな状態ではなかった。いつも活気のある表情をして、もっと毎日を元気に過ごしていた。

 ところが、気がついた頃には今のような状態になってしまい、大学から帰ってくる頃にはいつも疲れ切った状態になってしまっている。

 どこか悪くしたのではと心配になり、病院に行って検査してもらったこともあるが、特に異常は見当たらなかったため、はっきりとした原因はわからないままだ。

「本当に、あんまり無理しないでね。無理したら怒るからね」

「わかったわかった。で、何か用か? それとも声をかけに来ただけか?」

「あ、そうだった。あのね、今日も絵美理さんがご飯作ってくれるって。食べれそう?」

 陽也の部屋にやってきた理由を思い出し、千雨はそう尋ねた。

 瞬間、陽也の表情がぱっと明るくなる。

「おっ本当か? 絵美理の料理は美味いんだよな、楽しみだ。食べるって言っておいてくれ、俺はもうちょっとしたら下に降りるから」

「わかった」

 陽也の返事に内心ほっとしつつ、頷いて返事をする。

 そのまま彼の部屋の前を離れようとしたところで、ふと、千雨の視界に一枚の絵が入った。

 扉を開けると見える位置に飾られた、大きめの一枚の絵。陽也の後ろにあるそれをじっと見つめながら、口を開いた。

「兄さん、あの絵、まだ飾ってるの?」

「うん? ああ、この絵か。気に入ってるからな、もうちょっとの間飾ってるつもりだ」

 そういって、陽也も振り返って飾られた絵を見た。

 駅前のフリーマーケットを覗いていたときに陽也が見つけてきた、ふわふわした長い金糸の髪に翡翠色の瞳をした女性が描かれた一枚の絵。一体誰がどういう目的で描いたのかわからないものだが、陽也はこれをとても気に入っているようで購入した日からずっと飾っている。

 描かれている女性の外見や背景から海外の画家が描いたものだと思われるそれは、とても美しい。しかし、あまりにも綺麗に見えるからか、千雨はなんとなくこの絵が不気味に見えてしまい、あまり好きではなかった。

「兄さん、本当に気に入ってるよね。確かすごく安い値段で買ったんだっけ?」

「ああ。確か……五千円だったかな。絵ってもっと高いイメージがあったから、これを譲ってくれた人から値段を聞いたときは驚いたな」

「ありえない値段だと思うんだけどなぁ……これ譲ってくれた人、本当にその値段でよかったのかな」

 気になって一度調べてみたが、絵画の大体の値段は万単位だったはずだ。

 それがフリーマーケットで五千円という値段は、あまりにも相場を無視した値段だ。当時値段を教えてもらったときは驚いたが、改めて聞いてもやはり驚いてしまう。

 有名な絵画の偽物という可能性も考えたが、陽也が購入した絵画はいくら調べても情報が出てこなかった。

 故に、購入してからそれなりの日数が経過した今でも、この絵画の正体は不明のままだ。

「まあいいじゃないか。良いものを破格の値段で手に入れられたんだから」

「破格の値段っていうよりは、相場を無視した値段だと思うけど……まあいっか。絵美理さんのご飯、食べるつもりなら早く降りてきてね」

 その言葉を最後に、千雨は陽也に背中を向けて階段を降りていった。

 背後で陽也の「わかってるって」という声が聞こえ、扉が閉まる音がする。

 階段を駆け下りて、絵美理が料理をしているであろうキッチンへと向かいながら、千雨は兄の部屋に飾られていた絵をもう一度思い出した。

 不気味なほどに美しく描かれた女性の絵。正体のわからない、無名の画家が描いたと思われる一枚の絵画。それ以外の何かではないはずだ。

 けれど。

 陽也と話している間、千雨があの絵を改めて見てから、ずっと。

 あの、翡翠色の瞳から。

(……視線を、感じたような気がしたんだけど……)

 ただキャンバスに描かれただけの、本物ではない目。

 しかし、あの目がまるで本物になり、こちらをじっと見つめてきているような気がした。

 あの場にいた陽也は特に何も気にしていなかったため、千雨の気のせいである可能性は高い。もともと、あの絵が不気味に見えていたので、そこからくる思い込みだろう。

 頭ではわかっているつもりだが、どうにも嫌な感じがして、千雨は自分の両腕をさすった。

(大丈夫、考えすぎてるだけ。気のせい気のせい……)

 心の中で自分に繰り返し言い聞かせ、千雨は両腕をさすっていた手を下ろした。

 苦手意識からくる気のせいだ。いつもあの絵を見ているだろう陽也は何も言っていなかった。それが何よりの証拠だ。

 繰り返し自分に言い聞かせながら、千雨は絵美理に陽也の返事を伝えるためにキッチンへ足を踏み入れる。

 足音と気配に反応してこちらを振り返った絵美理の笑顔が、本当にありがたかった。

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