部屋

Lugh

部屋

 部屋の外に誰かがいるような気がする。階段を上ってくる足音が確かに聞こえた。父親でも、母親でもない。まさか、と思う。

 ドアが開いた。祖父が部屋に入ってくる。予想通りだったが驚いた。何をしに来たのだろう。まじまじと祖父の顔を見る。祖父の顔を見るのは久しぶりだ。シミが大きくなったようで、目尻の辺りがどす黒くなっている。肌の色も悪かった。もともと痩せていたが、さらに痩せて骨がほとんど出っ張っているみたいだ。祖父と前に顔を合わせたのはいつだったか。そんなことを考えながら、どうしたの、と声をかける。祖父は答えない。何かを探すことに夢中になっているようだ。部屋のなかを頻りに見渡していた。こちらを見ようとはしなかった。誰の部屋だと思っているのだろうか。いや、そんなこともわからなくなっているのだ。黙ったまま祖父を眺める。存在を認識してはくれないのか、目が合うことはなかった。面倒を起こされる前に出ていってもらおう。俺はヘッドセットを外して、立ち上がった。

「どうしたの? 何か用があるの?」

 なるべく丁寧に言った。祖父がようやくこちらを見る。口が動く。言葉にはならない。俺はさっきよりも大きな声で一音一音区切って、どうしたの、ともう一度尋ねた。

「どこにやったんだ」

 祖父は困ったような表情だ。

「何を?」

「だから、どこにやったんだ」

 表情とは違って語気は荒かった。祖父は自分の言った言葉に困惑していた。祖父がこんな調子だから、俺も困ってしまう。祖父が言っていることに覚えもない。会話するのだって久しぶりなのだ。とにかく、部屋の外へ連れ出したかった。しかし、俺の言うことは耳に入らない。力づくというのも気が引けた。ただただ祖父のことを見守っているしかできなかった。

「判子をどこにやったか、きいてるんだよ」

 祖父が杖で床を叩く。ほとんど怒鳴っている。スイッチが入ったように、眼鏡の奥の目が炎が燃え上がったかのように光った。祖父のこんな姿を見るのは初めてだ。俺のなかの祖父の姿は、いつも人の後ろのほうにいて、静かににこにこと笑っている。優しい顔ばかりが浮かんだ。狂気の炎を宿した目を見てはいられなかった。

「俺は判子なんか知らないよ。ここに判子はないんじゃないかな」

 俺のことは見えなくなってしまったらしい。俺が喋っているのにも関わらず、ぶつぶつと呟きはじめた。勉強机の引き出しを開けてはなかを覗き込む。判子、だとか、どこだ、だとか、呪詛のように唱える。

 一階から母親の声が聞こえた。父親を呼んでいる。

 俺は祖父の好きにさせることにした。パソコンのほうにだけは近づけさせないようにして、父親が来るのを待った。嵐が過ぎ去るのを待つ気分だった。

 父親が部屋に顔を出した。俺の顔を見る。それから、祖父を見た。親父、と祖父を呼んだ。部屋のなかを歩き回っていた祖父が動きをとめて、父親のほうへ顔を向ける。明らかに俺とは違う反応だった。助かったと俺は思った。

「何してるんだよ、親父」

「判子がないんだよ。おまえ、知らないか。どこにやったかわかるか?」

 祖父は落ち着きを取り戻した。怒鳴り口調ではなくなった。

「何の判子だよ。いつの話をしてるんだよ。ここは一樹の部屋だよ。ここに親父のものがあるわけないだろう」

「一樹の部屋?」

 祖父の目から炎が消えた。そうか、一樹か、と消え入るような声で呟いた。怒鳴り散らしたときとは別人のように小さくなってしまった。父親に連れられて部屋を出ていく。ドアを閉めるとき、父親が済まなそうな顔をこちらに向けた。俺は何も言わなかった。部屋の外から、俺は、俺は、という祖父の声がした。階段を下りていく。扉を閉めても杖をつく音は聞こえた。杖の音が聞こえなくなって、俺は長い息を吐いた。それから、祖父が開けていった引き出しをもとに戻した。

 椅子に座りなおして、ヘッドセットをつけた。」

「中断して申し訳ない」

 スピーカーから声を押し殺した佐藤の笑いが聞こえた。

「俺だってびっくりしてるんだ」

 弁解するように言う。

「酔っぱらった父親が部屋に乱入してくるのは、さすがに笑うざるをえないな」

「父親じゃないよ。入ってきたのは祖父だ。もう、呆けてんだよ。俺のこともわかってなかったみたいだ。薬は飲んでるみたいだけど、たまにああなっちまう。でも、俺の部屋に来たのは初めてだな。昔のこととか、夢のなかのこととか、ごっちゃになっちゃうんだろう。何しでかすかわからないし、怖いな」

 昼と夜の区別がつかなくなるときもあった。夜中にラジオを大音量で流したり、玄関まで行って出かけようとしたり。その度に父親と母親が飛び起きて祖父を説得するのだ。俺はベッドに寝転がって、その様子を聞いている。父親の言葉のほうが、祖父の耳には入るようだった。

「何か探しるみたいだったな。見つかったのか?」

「いいや。あるわけないんだ。判子を探してたけどね。俺には何のことかさっぱりだ。たまたまだろうよ。俺の部屋まで来たのは」

 ふうん、と佐藤の声。佐藤の関心は別のことに移った。

「じいさんも一緒に暮らしてるのは、初耳だったな。一軒家だっていうのは聞いてたけど。でかい家なのか?」

 佐藤がマンション暮らしだと言っていたことを思い出した。

「うちのほうじゃ、標準的な大きさだと思う。一階と二階に別れて暮らしてる二世帯住宅だよ。だから、わざわざ二階まで上がってきたんだ。杖ついてるのに。よっぽど大切な判子だったんだろうな」

「判子は大切さ。もっとも、呆けてしまったら、その大切さまでわからなくなってしまうだろうよ。長生きはしたくないな」

 佐藤は笑いながら言う。前に佐藤は、身体が自分の思う通りに動かなくなったら生きている意味はない、と話していた。

 俺は祖父の年齢まで生きている姿を考えたことはなかった。かといって、死んでいるとも思わない。想像ができないのだ。将来というのは、なってみないとわからない。あしたの自分だってどうなっていることやら。わからないものは考えても仕方なかった。ただ、人生は楽しければいいのだ。

「再開しようか」

 画面に目をやった。オンラインゲームの途中だった。祖父が部屋に入ってきてので、できなくなってしまったが、ゲームは進行していた。

「もう、負けちまったよ」

 佐藤の言う通りだった。さっきまで遊んでいたゲームは終わり、対戦画面から対戦を待つロビー画面へと切り替わっていた。

「誰かが放置していたからな」

「放置したくて、したわけじゃない。それに、いまのゲームはどうせ負けてたよ。ずっと劣勢だった」

 皮肉の籠った佐藤の言い方に、反論するように返した。

「次のゲームで勝てばいいだろう?」

「いつもは勝ってるみたいな言いようだな」

 俺は鼻で笑った。

 遊んでいるのは、二つの勢力に分かれて戦うシューティングゲームだった。もともとこういうゲームに興味はなかったが、佐藤に誘われてはじめた。これも付き合いのうちだろう。ゲームができるだけのスペックを持ったパソコンもあった。ゲームなのだから面白かった。いまでは週に一度のペースで通話をしながら遊んでいる。俺も佐藤もゲームの腕は良くなかった。勝つことよりも負けることのほうが多い。俺は負けても気にしなかったが、佐藤は悔しいらしく、ゲームの上達を目指して練習している。おまえも少しは上手くなってくれ、と言われたがゲームにそこまで熱くなれない。勝っても負けても所詮はゲームなのだ。ゲームに熱中できる佐藤を羨ましいと思うことがあった。

「早くはじまらないかな。マッチングに時間がかかるのが難点だな」

 佐藤がぼやく。

「平日だからな。あんまり人がいないんだろう」

 対戦がはじまるまでの時間は退屈だ。はじまるまで佐藤は大学の話をした。テストの内容や単位の取りやすい教授のことなど、先輩から聞いたという話だ。俺は本棚から抜き取った漫画を読みながら相槌を打っていた。佐藤の話は対戦がはじまるまでつづいた。

 佐藤は大学の友達だった。入学式のときに近くにいて、クラスも一緒だった。佐藤はよく喋る男だ。俺は喋ることよりも話を聞いているほうが性に合った。喋るのに窮することがあるのだ。自分の話が急に無意味なことに思えてしまう。だから、途中で嫌になる。口を噤むと相手に不思議な顔をされた。それも不快だった。どうせ、面白い話ではないのだ。真剣に聞くふりをしなくてもいい。幸運なことに、他人の話を聞くことよりも、自分の話をしたいやつのほうが多かった。人の輪に加わるのも苦手だった俺にとって、佐藤が近くにいてくれたおかげで、遊びやグループワークで困ることはない。いつも大人数で行動するのは煩わしいが。

 ゲームがマッチングした。

「次は勝つぞ」

 佐藤の声には喜びの色があった。俺は漫画を読んでいたページで伏せ、マウスとキーボードに手を置いた。画面が戦場へと移る。


 中学生のころは、よく人と喋った。クラスのなかでも中心にいた。人と話すのが億劫になったのは、高校生になってアルバイトをはじめてからだ。当時はゲームが欲しかった。時給の良いバイトを探していた。高校生だと選択肢は少なかったが、千円を超える求人を見つけて飛びついた。大型ショッピングモールのフードコートの飲食店だった。

 ショッピングモールはできたばかりで、床が反射して天井を映さんとばかりに光っていた。よく磨かれた床は歩く度に音が鳴った。店内のいたるところに、来た人を楽しませるような、驚かせるようなオブジェが配置され、季節ごとに変わって飽きさせない。三階建てで横に長く、真ん中が吹き抜けになっている。日の光を取り入れて解放感がある。フロアは延々とつづいているかのようだった。駐車場も一つ一つが広く、近くに何個も専用の駐車場を構えていた。更地だったところに、心が躍るような建造物が現れた。俺はここで働くことを楽しみにしていた。

 平日は穏やかだった。忙しいのは昼どきだけで、あとはまばらに客がやってくるだけだ。ショッピングモールの入り口には広場があって、家族連れが子どもを遊ばせているのをよく目にした。週末になると広場はイベント会場へと変わる。毎週イベントを催して人を集めた。芸能人やアイドル、歌手を呼んで、そのファンが押し寄せる。ショッピングモールは大変な混雑となる。忙しいのが一日中つづいた。

「ありがとうございました」

 返却口越しにかけた俺の声は宙を舞い上がって消えていく。食べ終わった皿を返しに来た客はこちらを見向きもしなかった。客の後ろ姿を見送る。人混みのなかへと紛れて見えなくなった。視線を落とした。シンクのなかから皿を引っ張り出し、食洗器へ突っ込む。すでに手はふやけて白くなっていた。食洗器を回しても回しても、返却口から、シンクから食器がなくなることはない。次から次へと運ばれてくるのだ。フードコートは人で溢れかえっていた。そんなに席があるものなのか。心のなかで愚痴をこぼす。レジのほうへ目をやると、店を囲うようにして客が並んでいた。そっと洗い場のほうへ目を戻す。また返却口に食器が増えていた。ありがとうございました。従業員の一人が言うと、みんなで言う。誰に向かって言っているのか、わからなくなる。ただ、身を切るようにして発するのだった。

 客全員が反応しないわけではない。ごちそうさまでした、とか美味しかったです、とか、軽く頭を下げてくれたり、反応してくれる客もいる。自分がつくったわけではないが、嬉しくなる。客の声が少しでも聞きたくて、極力明るい声で、ありがとうございましたと言うのだった。大半は空振りに終わるだが。

「佐伯君、お盆。お盆持ってきて」

 店長が金切り声をあげる。俺は返事をして、急いで盆を洗う。皿だけではなく、箸や調理器具もタイミングよく洗わなければいけない。

 盆をまとめて店長のもとへ持っていった。

「あと、箸と皿も」

「はい」

 噛みつくように返事をした。店長は忙しいとイライラする。イライラした口調で言われると、当たり前のことでも理不尽なことを言われた気がした。店長の苛立ちは店全体に蔓延した。雰囲気が悪くなり、つまらないミスも多くなった。俺は逃げるように洗い場へ行き、皿を運んだ。

 皿を運んでいる途中で、副店長の三山さんと目が合った。三山さんは調理しながら微笑む。俺も微笑もうとして口角を上げる。上手くいなかったに違いない。三山さんが声を出して笑った。笑い声で少しだけ店の空気が和んだ。束の間、洗い場に戻って溜まった皿を洗う作業に没頭する。

 五時間洗い場を回して、一時間の休憩をもらった。食欲は湧かなかった。くたびれて休憩室のテーブルに突っ伏した。しばらく顔を伏せていると、頬に冷たいものが当たった。驚いて顔を上げる。

「これ飲む?」

 三山さんだった。子どものように笑って。ペットボトルのお茶を渡してくれる。

「おなか空かないの? まかない食べてなかったけど」

 パイプ椅子を引いて、三山さんが隣に座った。足を組み、ビニール袋からもう一本お茶を取り出した。

「疲れて、食欲ないんです」

「食欲なくても何か腹に入れておいたほうがいいぞ。身体がもたない。前に一度、俺は何も食べないで倒れかけたことがある」

 こんなんで良ければ、とビニール袋からおにぎりも渡してくれた。俺は礼を言って受け取る。一口齧る。腹は受けつけてくれない。それでも、むりやり少しずつ口に入れた。

「疲れたか?」

 頷いて返事をする。

「忙しかったもんな。店長はイライラしてるし。でもな、あんまり店長のこと、悪く思わないでくれ。佐伯が一生懸命洗い場やってると同じように、店長も一生懸命人に指示出してるんだ」

 三山さんが真面目な顔をして言うものだから、俺は吹き出してしまった。

「何かおかしいか?」

 真面目な顔で覗き込んでくる。

「だって変ですよ。副店長のほうが店長よりも年齢も役職も低いのに。庇うようなこと言うなんて」

 たしかにな、と三山さんも苦笑する。

「店長のほうが俺より年齢も立場も上だけど、作業をするっていう面ではあんまり関係ないと思うんだ。一人ひとりの作業がどれも大切な仕事。欠けちゃいけない。そこには上も下もない。お店ってことを考えたら店長が一番偉い。でも、仕事をするうえでは、みんな対等な仲間だよ」

 俺はそう思ってる、とお茶を飲んでから三山さんはつけ加えた。三山さんのほうに目をやった。三山さんは恥ずかしそうにして、頬を人差し指でかいていた。

「高校生にこういうこと言うのもあれだけどな。どうせ働くなら、楽しく働いてほしいから。嫌なことあったら言ってくれ。俺じゃなくてもいい。学生少ないから、話しにくいかもしれないけど」

「ありがとうございます」

 ふと、温かい気持ちになった。

「夜も頑張ろうな」

 三山さんは立ち上がって椅子を戻す。それから、俺の肩を叩いた。休憩室を出ていく。

「おにぎり、ごちそうさまでした」

 まだ半分くらい残っているおにぎりを置いて、頭を軽く下げた。三山さんは振り返らないまま手を振った。

 残りのおにぎりを一口に頬張る。よく噛んで飲み込んだ。一人前として認めてもらったような気がして、俺は誇らしかった。三山さんのために頑張ろうと思えた。

 そんな三山さんが異動になった。あとから聞いた話だが、店長が飛ばしたらしい。あれこれと口を出す三山さんを疎ましく思っていたそうだ。パートの主婦たちが話していたのが耳に入った。俺はそのときも洗い場だった。聞きながら手が震えていた。何かしなくてはと思い、シンクのなかに手を入れた。皿に触れる。指先に力が入らない。皿が掴めなかった。指の先からすうっと冷たいものが身体のなかに流れ込んできた。

 三山さんがいなくなっても、何も変わらなかった。休みの日には客がたくさん来て、返却口に皿を置いていく。俺は機械的に処理する。三山さんがいたころよりも、片づける早さは上がった。店長から文句を言われたくなくて必死だった。相変わらず店長は忙しくなるとイライラした。新しくやってきた副店長ともうまくいっていなかった。店の雰囲気はいつも悪かった。働く人は絶えず誰かの陰口を叩く。仲間なんていないじゃないか。俺は心のなかで嘲笑った。店長のことを。そして、自分のことを。

 高校二年の冬までアルバイトをつづけた。受験を理由に辞めた。店長はもう少しつづけてほしいと言ったが、決意は揺るがない。途中で辞めようかと何度も思った。つづけたのは意地だった。三山さんの代わりに、見ていてやろうと思ったのだ。


 バイトで稼いだ金で買ったゲームは、いまや部屋の隅で埃を被っている。どうしてそんなに欲しかったのか、いまではわからない。

 ゲームが終わりかけていた。

「勝てないなあ。きょうはもうだめだ」

 スピーカーの向こうで溜息と机を叩く音がした。画面には敗北という文字が大きく浮かび上がる。

「きょうはもう、やめにしよう」

「残念だったな。勝てなくて」

「おまえがもう少し上手くなってくれればな」

「他人に求めちゃいかんよ」

 ちぇ、と舌打ちするのが聞こえた。ゲームを消して時間を確認する。午前二時を過ぎていた。欠伸が出る。頭の上で腕を組んで伸ばした。骨が鳴った。

「じいさんは大丈夫なのか?」

 ゲーム中にも祖父のことを気にしていたのかと思うと笑みが零れた。案外佐藤にも優しいところがある。

「親の声はしないし、もう眠ったんじゃないかな」

 少し間が空いた。

「うちのじいさん、ばあさんは俺が幼いときに亡くなっちまって、記憶がぜんぜんないんだよ。だから、少しだけ羨ましい」

 窓の外から冷たい風が部屋のなかに入り込んだ。

「さっきみたいなこともあるけどな。それに、呆けてくると人のことがわからなくなる。不審者を見るような目をされるんだぜ」

 俺は茶化すように言った。

「そういうこともあるかもしれない。だけどよ、そういうのを許せるっていうか、認められるのも家族なんじゃないか。俺にはまだわからないけど。面倒なことを面倒だと思わないというか」

 そうかもな、と返すしかなかった。通話を切りたくなっていた。

「呆けは治らないっていうし、長生きすることが幸せだとは思わないけど、少しでも長い時間、じいさんと一緒にいられるといいな」

 俺は黙り込んだ。佐藤も何も言わなくなった。沈黙がつづいた。

「俺、もう寝るよ。おやすみ」

 そう言って、佐藤が通話を切った。俺はすぐさまパソコンをシャットダウンした。

 ベッドに飛び込む。ベッドが軋んだ。十年前から使っている折り畳みベッドだった。買った当時は身体の二回りも大きかったのに、いまでは足がはみ出しそうだ。タイヤは動かなくなり、クッションは破れてはみ出していた。家具屋で見つけた。ほかのベッドが十万や十五万するのに対して、この折り畳みベッドは一万円しなかった。親はほかのベッドを勧めた。俺は譲らなかった。いまでも気に入っている。母親は部屋を掃除する度に、新しいの買ったら、と言う。まだ寝れるから、と俺は返す。買い替えるつもりなんてなかった。

 後頭部で手を組み、目を瞑った。眠れなかった。祖父のことが頭を過る。いつだったか、祖父と二人きりで寿司を食べた。父親と母親は友達の劇を見にいくと言って家を留守にしたのだ。俺は学校の帰りにスーパーに寄って寿司を買った。祖父の食べたいものなんてわからなかった。寿司なら食べてくれるだろうと思ったのだ。

 祖父は嬉しそうに寿司を食べてくれた。風呂上りで肌はつやつやしていた。珍しく祖父はよく喋った。学校はどうだ、友達はどうだ、授業はどうだ、遊びは楽しいか。たくさんの言葉を俺に投げかけた。しかし、俺は面倒に思って曖昧な答えしかなかった。食べ終わると、俺はごみを片づけ、急いで自分の部屋に行ってしまった。祖父と交わした最後のまともな会話かもしれない。寿司は美味かった。祖父も美味いと思ってくれただろうか。

 目をひらいた。ベッドから起きる。音がなるべく鳴らないように歩いた。音を殺して階段を下りる。一階は暗かった。廊下の手すりを頼りに祖父の寝室へと向かう。一階の居間にも玄関にも手すりはあった。祖父の足腰が弱くなってからつけられたものだった。居間を抜けて、寝室にたどり着いた。静かに扉を開けた。

 祖父の小さな鼾が聞こえた。窓から月明りが差し込む。祖父の顔を白く映し出した。気持ち良さそうに寝ている。捲れた布団から細い腕が見えた。袖がぶかぶかだった。手の甲は骨が浮き出ている。シミだらけだった手を思い出す。しばらく祖父を眺めていた。ときどき、祖父の呼吸が詰まった。どれくらい立っていたのだろうか。俺は祖父の布団を掛けなおすと寝室から出た。脈を打っているのがよく聞こえた。背中は汗をかいていた。自分の部屋まで戻り、ベッドに倒れこんだ。今度は目を瞑ってすぐに眠りに落ちた。眠りが浅かったのか、普段は見ないのだが、夢を見た。

 ベッドの上にいて部屋から出ようとするのだが、身体が動かない。金縛りにあったかのようだ。指一本動かすことができない。もがくこともできない。そのうち、身体がどんどん小さくなっていく。身体が小さくなった分、布団が重くのしかかってきた。苦しい。部屋から出たいという想いだけがある。どうして出たいのかはわからない。扉が見えた。だが、扉も遠ざかっていってしまった。俺はもがきつづける。

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