雪を溶く熱 PP

文月(ふづき)詩織

ペンギン失格

 薄く燃える幻想的な太陽を雪雲が覆い、白いものが舞い始めた。


 石造りの家に寝そべっていた美冬は、唐突に訪れた秋人を怪訝そうに見上げた。


 過ぎた日々の思い出が込み上げて来た。愛も、嫉妬も、怒りも、今となっては懐かしい。


 秋人が旅立ちを告げると、美冬は静かに目を閉じた。



*****



 秋人が産声を上げたのは知る人しか知らぬ田舎町であった。

 生まれてすぐに親戚たちの愛と関心を一身に集め、十を過ぎる頃には教師たちに二人に一人の頭脳の持ち主であると言わしめ、十八になる頃には名も知られぬ大学への進学を成し遂げ、二十二の若さで自宅へ堂々たる帰還を果たして万年床に一人帝国を建国した。

 一日一枚のピザとポテチと少しの肉を食べ、東に病気の子供があれば代わりにアイスを食べてやり、西に疲れた母があれば睡眠を代行する。


 日々は飽和していた。それなのに何かが足りない。


 美冬と出会ったのは、そんなある日のことだった。ふと窓から外を見下ろした先、百合の花のような麗しい姿に、秋人の視線は惹き付けられた。

 その瞬間に、秋人は己に欠落していたものを自覚した。生まれ落ちた時には確かにこの身に満ちていたはずのもの。


 そう、愛である。


 恋が秋人を突き動かした。玉座と定めた万年床を離れ、四畳半の涅槃ねはんを脱出して、彼女と出かけるようになった。前を行く彼女と二メートルの社会的距離を保ち、マスクを着用の上で息を潜めていなければならなかったが、それでも楽しかった。


「見て見て、ペンギン! 可愛い!」


 頻繁にペンギンを脱走させると評判の小さな水族館で、秋人と逆隣に立つ男に向けられた無邪気な笑顔は、サングラス越しにも眩しかった。


 彼女との距離が次第に縮まり、時折目が合うようになり、やがて秋人は愛の残酷さを知ることとなった。


 二人の間に国家権力が介入してきたのである。


 警察に彼女との別れを強要された夜、秋人は些か深酒をした。二人で並んで見たペンギンの姿と彼女の笑顔とが走馬灯のように儚く流れた。


――ああ、私はペンギンになりたい。

――あんなにも無邪気で無防備な愛情を注がれる生物になれたなら……。


 そしてふと気が付けば、秋人はペンギンになっていた。



*****



 ピギャアとこの世に生まれて以来、長らく混乱していた秋人だったが、石造りの巣で親の尻に敷かれて周囲の景色を眺めるうちに、それなりに状況を理解した。


 つまり自分はペンギンである。しかもあろうことか野生である。


 これは転生という奴ではなかろうか。突拍子もない想像は、奇妙なほどストンと胸に落ちた。いくら時間が経っても夜が来ないのは、ここが異世界だからなのだろう。


 だとすれば自分は死んでしまったのだ。

 恋は死に至る病であったのか……。


 受け入れがたいことだったが、寝ても覚めてもペンギンが続けば受け入れざるを得なかった。

 

 受け入れたところでどうにもならなかった。


 生前に身に付けた知識や技能で周囲からの安易な礼賛らいさんを受けて気楽に生きられるのが近年の転生における良識である。何の長所もない輩には神だの悪魔だのが付加価値を与えて然るべきなのである。


 しかし秋人は目下のところ何ら特別な力を持たないただの子ペンギンであり、母なのか父なのかも解らない親の尻に敷かれてぢっとしている以外にない。何者かに力を授けられたわけでもなければ、ペンギンに詳しいわけでもない。なんの技能も持っていないし、そもそもこのフリッパーで何ができようか。


 こんなことになると解っていたら、前世はあらゆる能力をペンギン研究に捧げただろうに!


 なまじ残る前世の記憶が秋人のペンギン性を著しく制限しているらしい。秋人はペンギンの常識やペンギン的感性に欠けたペンギン不適合者であった。親が吐き戻してくれる餌は秋人の食欲をそそらなかったし、長らく姿を見せなかったもう一方の親(性別不明)が戻っても何の感動も覚えなかったし、親の尻の下で動かずにいるのが退屈で仕方がなかった。


 卵からの脱出を果たして以降ずっとくちばしを突き合わして過ごしている向かいの巣の子ペンギンは、そんな秋人を冷めた目で見つめていた。


「あなたにペンギンの心はないの?」


 そんな非難をされているような気がしたが、無いとしか答えようがなかった。人間だもの。


 やがて秋人は親の下から解放され、同じ年頃の子ペンギンたちと共に過ごすようになった。


 両親が甲斐甲斐しく運んでくる食事を嫌々食べ、巨大なカモメの襲撃を受けておろおろ歩き、波に乗って襲撃してきたシャチに「えら呼吸は陸に上がるな、恥知らず!」と罵声を浴びせて潮吹きをされた。


――人間っていいな。


 換毛期を迎える頃には、秋人はそんな溜息を零すようになっていた。秋人はペンギンを舐めていた。ちやほやと甘やかされているだけのように見えたペンギン達にも、相応の苦労があったのだ。生きるというのはかくも難しい。


 いやいや、待て待て。


 人間社会のペンギンは、やはり気楽に生きていたのではないか?

 ンクァックアーなどとほざいてフリッパーを前後させておけば餌が貰える気楽な身分ではなかったか?


 何と恨めしい……いや、羨ましい!


 詰まるところ秋人の失敗はペンギン社会のペンギンとして生まれてしまったことなのである。人間社会の人間として失敗した秋人がペンギン社会のペンギンとして成功するはずもなかった。秋人が目指すべきは人間社会のペンギンであったのだ。


 大人になったら旅に出よう。

 そして人間に養ってもらうのだ。それもできれば、綺麗なお姉さんに!


 目標は人生を豊かにする。ペンギンもまた然り。


 ふかふかの幼毛から撥水性はっすいせいの高い大人の毛に換わると、水泳の練習が始まった。生前日本人であった強みで、秋人は泳ぎに関して他の子ペンギンに先んじた。ようやく転生ボーナスが機能したかと喜んだが、すぐに他の子ペンギンに抜かれてしまった。


 やはりペンギン社会に秋人の居場所はない。秋人は確信をますます深くした。


 すぐにもこの理不尽を脱して新世界へと旅立つ心算だった秋人は、思わぬ障害に直面する。


 そう、愛である。


 体はペンギンでも心は人間。秋人はペンギンの雌になど興味を持っていなかった。

 ところが恋の季節、秋人の心は容易く一羽のペンギンの虜になった。


 それは秋人がまだ親の尻に敷かれていた頃、嘴を突き合わせて育ったあの雛であった。


 鱗のような艶のあるモノクロの毛に、たっぷりと蓄えられた皮下脂肪、鋭く光る野生の目、ちょろりと突き出すプリチィな尾。秋人は彼女を美冬と呼んだ。


 家だ。彼女と甘い時を過ごすための、大きく丈夫な家を造らなければ。


 恋が秋人を突き動かした。怠けることばかり考えていた秋人はてちてち勤勉に岩場を歩き回り、石を拾った。ここぞという場所に置いて、また探しに出る。


 ぽてぽててちてち、一つ一つ丁寧に、誠実に、ただ石を積み上げる。


 それは果てしない作業だった。多くのペンギンが秋人同様、無心に石を拾って歩いている。


 愛がそうさせるのである。愛は求めるものではなく、与えるものなのだ。悟りの扉が静かに開く。


 作業はなかなかはかどらない。他のペンギンたちが立派な石垣を完成させつつあるというのに、秋人の家の建設は進まない。大器晩成型なのだと己の仕事ぶりを評価しつつ、ひたむきに石を積み上げる。


 ある日、営巣地から遥か離れた場所でようやく見つけた小石をくわえて帰った秋人は、信じられないものを目撃した。


 周辺で営巣するペンギンどもが、寄ってたかって建築途上の秋人の巣から石を運び出しているではないか。驚きの余り開いた口から小石が零れて音を立てる。ペンギンたちは一斉に秋人を振り返り、何事もなかったかのようにそれぞれの巣に帰って行った。


 積んでも積んでも一向に出来上がらない我が家。みるみる完成に近づいていく周囲の家。


 こういうことだったのか。


 怒り心頭に発した秋人は大きくフリッパーを広げ、天高く鳴いた。


ンクァックアーてめえらそれでも人間かあああ!!!!」


 ペンギンたちは秋人の義憤に「人間とは何ぞや」と哲学めいた問いを投げかけると、巣作りの次の段階へと移行していった。


 清純を弄ばれた秋人は、美冬と泥棒ペンギンとが結ばれるのを涙で見守るほかなかった。


 ああ、生命とはなんと利己的なのか。


 かつて人間社会から逃げ出した秋人はペンギン社会にもまた絶望し、再び決意する。美冬(ペンギン)に似た人間のお姉さんに養ってもらおう、と。


 こうして旅立ちを決意した彼は、人間らしく周到に計画を立てた。付近の海で魚介をしこたま食いだめ、このどこだか解らない場所の、種類も解らないペンギンの群れから離脱し、どこかの人間の街に向かってひたすら泳ごう。


 ところでこの異世界に人間はいるのだろうか? もしかしたらここはペンギンの惑星で、探したところで人などいないかもしれない。

 冒険の中で海を徘徊するモンスターアザラシに食われてしまうかもしれない。シャチに襲われてはひとたまりもないし、沖に出ればもっと恐ろしいモンスターだっているかもしれない。秋人に異世界転生ボーナスはないのである。


 だが、と秋人は空を見上げた。


 薄く燃える太陽が淡く染める夜空に雪雲がたなびく。間もなく雪が降り始めるだろう。不穏な気配を察して、秋人は奮い立つ。


 男に生まれたからには、人生に一度、命懸けの冒険という奴をせねばなるまい。ペンギンもまた然り。


 何か悟ったような気になった秋人は、泥棒ペンギンとの間に生まれた卵を抱く美冬を訪い、一顧いっこだにされず、未練たらしくも彼女を横目に一晩の間心変わりを待ち、徒労を悟るとようやく海に向かって歩き出した。


 無駄に長い時間をかけて海に辿り着き、振り返れば、遠くに一羽のペンギンの姿が見えた。


 美冬だ。すっと背筋を伸ばして立って、名残を惜しむように秋人を見つめていた。その目に涙が光ったように見えた。

 それで十分だった。秋人はペンギン的な腹をきりりと引き締めて彼女を見上げた。


クックアドゥールドゥドゥ行って来るぜ!」


 気合十分にそう言って、果てしなく広がる海に身を投げ、を後にした。


 ヒョウアザラシに追いかけられた彼が南極に再上陸するまで、一時間を切っている。





~雪を解く熱 Polar Penguin~ 了

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