ダークブルー

中村ハル

第1話

 奮発して購入した万年筆のインクが、出ない。

 僕は鈍い銀色に光るかたまりを机の上に転がして、溜息を吐いた。少し重たい万年筆は純銀製で、へリボーンの柄が刻まれている。

 それを見つけたのは、ぷらぷらと流れていたネットの中。特に万年筆を探していた訳ではない。暗くした部屋の中で眼底を射る光に溺れながら、真夜中までスマホの画面を闇雲に指で叩いていたら出てきたのだ。その美しさに惹かれて、ついぽちっと購入してしまった。

 元々、文房具に興味があった訳ではない。だから、相場など知らなかったし、ボールペンと同じような感覚だったのだ。コンディションがどうだとか、コンバータが何だとか、そんな知識すら持ち合わせていなかったので、丁寧に梱包された箱に入っていたインクカートリッジを、説明書をちらっと見ただけで取り付けてみた。がりがりと紙にペン先を擦りつけてみたが、一向にインクがにじみ出てくる気配はない。

 そこに来て、漸く、何やらお手軽に扱える代物ではなかったことに気付いた。いや、多分、新品だったのならばカートリッジをセットすればすぐに使えたのだろう。

 だが、僕が手に入れたのは生憎中古品だ。さっきスマホで調べてみたところ、しばらく使用していない万年筆は、インクが詰まって文字が書けなくなることがあるという。元の持ち主が手入れを怠ったのに違いない。

「なんだよ、せっかく高いお金を出して買ったのに。これじゃあ、何の役にも立たないじゃないか」

 ぼやいてみたが今更どうにもならない。万年筆を手に取り、またペン先を何度も紙に擦りつけたり、振ったりする。メンテナンスに出すなり、自分で調べてどうにかするなりすればいいのだが、今、使いたいのだ。この役立たず。

「アラジンのランプみたいに、万年筆の精でも出てくればいいのに」

 莫迦みたいな事を口走りながら、汚れてくすんだ銀のボディを指先で擦る。ははっ、と乾いた声で自嘲する目の前で、紙に乗せていたペン先から、青い色がにじみ出た。

 驚いて万年筆を滑らせると、するすると、線が走る。やっとインクが、と喜んだのも束の間、頼りなかった線はみるみる広がり、ペン先から溢れるように青い雫が零れた。

「わ、ちょ」

 慌てて万年筆を持ち上げれば、ばたばたとその勢いは止まらず、焦る僕の目の前で、インクは水の如くばしゃりと弾けて膨れ上がった。

 床まで飛び散った青いインクのその中から現れ出でたのは、ひとりの男だ。まるで僕が願ったとおり、アラジンの魔法のランプの精だ。

「……」

 けれど、僕の目の前に立っているのは華々しい魔人ではなく、なんだかしみったれた男だった。無精髭が生えて、冴えない色の、けれどどことなく質の良さそうな、着古してくたっと心地よさそうな服を身につけている。

「……あんた、誰」

「……万年筆の、精?」

 何故だか疑問形で男がぼそりと答えた。

「は?」

「俺だってこんな風に名乗りたくない。お前がそう望んだんだ」

「て、ことは」

 男が心底厭そうな顔で僕を見てから、机の上の箱を指さす。

「お前、この万年筆を買った時に、説明書を読まなかったのか。付いてただろ」

「説明書。そんなモノ、読まないよ。万年筆なんて、カートリッジを入れたらすぐに使えるものだろ」

「あー、これだから、まったく」

 がりがりと片手でパサついた前髪を掻き乱す男に、僕は身を乗り出した。

「それで、あんた、万年筆の精なの?」

「いかにも」

「願い事とか、聞いてくれんの」

「だから、説明書を……まあ、いい。俺が出てきたんだから、自分で言うか」

 机に転がっていた万年筆を手に取り、男はそれを眼前に持ち上げてみせる。

「この万年筆には、魔力がある。手にした者の願いを、一度だけ、叶えてくれる。だから、願い事は充分に考えてから願わねばならない」

「ちょっと待って。それ、期限とかあるの」

「期限はない。手放すまでだ。それまでに願えば叶えられる」

「うー……真面目なやつでもいいの」

「願いに真面目不真面目なんてあるのか」

「そうじゃなくて、シリアスなやつ」

「別に構わないが、人の不幸を願うのはなしだ。それは俺の倫理観に悖る。それと、お前の場合」

「ねえ、ちょっと、今の君の持ち主は僕でしょ。仮にもご主人に向かって、その『お前』って呼び方……おっと、危ない。これ、正せ、って言ったら願い事だろ」

「そうだな。だが……」

「そうやって省エネな願いを聞き出そうってんだろ、そうはいかない。僕には、重大な願いがあるんだ」

「そうか。でも、残念だが」

 がっしりと肩を掴まれた。

「ん?」

「お前の願いは、叶えられた」

「は?」

「俺」

 と、魔人がやけに美しい鼻梁を指さす。僕は意味が分からずに、小首を傾げた。厭な予感がする。

「お前、願っただろ。『万年筆の精でも出てくればいいのに』」

「え?」

「だから俺が出た」

「嘘」

「嘘をついて何の得がある。俺は魔力を持つ万年筆であって、魔人を封じた万年筆ではない。すなわち、俺は万年筆に閉じ込められた魔力のある魔人ではなく、魔力のある万年筆がお前の願いを体現した姿だ。万年筆以外のナニモノでもない」

「ちょっ」

 狼狽える僕に、勝ち誇ったような視線が向けられる。しみったれた格好の割に、その眼光は静謐で、知性すら感じるのが腹立たしい。どこか由緒正しきお屋敷に仕える、執事みたいだ。海外ドラマのイメージでしかないけど。

「こう願えばよかったんだ。『万年筆に閉じ込められた、魔力のある精霊が出たらいいのに』と」

「出たの?」

「出したさ、世界中を探して。願いを叶えるのが俺の存在意義だからな」

「もう出ない?」

「この万年筆に閉じ込められてるインクの精なら特別に出してもいいが、魔力はない」

「じゃあ、いい」

「そうか」

 万年筆が不服そうに揺れた気がするが、気の所為だろう。僕は目眩を覚えて、机に手を突く。なにやら、どっと疲れが湧き上がる。

「もう戻って」

「願いは一度だけだ」

「それも駄目なの?」

「お前が中途半端に願うから、俺は帰れない」

「願いを叶えたら帰るもんじゃないの」

 僕は机の上の、万年筆の跡の残る紙を見つめた。インクの出ないペン先で無神経に引っ掻いた線が、何本も、ささくれた傷のように残っている。綺麗な紙だった。普段だったら絶対に買わない、高くて美しい厚手の紙。たった一枚だけ、人生に一度きりの手紙を書くために買った淡いクリーム色の用紙は、でたらめに走った傷と、零れたインクで汚れてしまった。

 胸が苦しくて、泣きたくなる。

「いいか、相棒」

「ご主人様、だろ」

 なげやりにぶつけた声に、静かで低い言葉が返る。

「万年筆の手入れも出来ないくせに、主人面をするな。万年筆は使い手と対等であり、万年筆とは、持ち主を幸福にするためにある。使い手が万年筆を操り、願いや思いを記す、そうだろう」

「でも、インクなんて出ないじゃないか」

「メンテナンス不良でインクが詰まっているだけだ。まったく、仕方がないな。教えてやるから覚えてくれ」

「……いいよ、もう、いいんだ。僕にはもう、必要がないから」

 零れてしまったインクは二度とは瓶に戻らず、破れた用紙は散り散りになるだけ。

「大体、その姿なら、自分でメンテナンスくらい出来るだろう」

 差し出された銀色の万年筆を押しやって、僕は下を向いた。身体があるなら、主人など必要もないだろうに。

「いかにも、手入れくらい自分で出来る。だが、主人に相応しいように、仕込んでやる。それまでは相棒だ」

 男の手が、無残な状態の紙の上に、万年筆をそっと置く。ことりと小さな音が耳に響いた。傷とインクで汚れた紙と、文字も書けない万年筆の銀色が、僕の目にのしかかる。

「出て行ってくれ」

「いかないさ。俺の本体はそこだ」

「じゃあ、これ持って、どこかへ消えろ」

 くしゃりと紙ごと万年筆を掴んで、男の胸に押しつける。机の端から空の箱と説明書が床に落ちて、撥ねた。

「出て行け。僕はもう、いらないんだ」

「そうはいかない」

「願いは一度しか叶わないんだろ!」

 僕の願いは、この紙に、たったひとつの思いを書き綴ること。でもそれは、もう二度と、叶わない。いつもそうだ、いつも、いつだって、僕の願いは引き裂かれて、汚された。

 崩れ落ちそうな僕の手を、大きくて強い指が掴む。それは冷たく、そして不思議に温かかった。

「お前の、一番の願いを叶えていない」

 静かな声が、インクが滲むように耳の奥に滑り込む。頭の中が、青い色に染まっていく。

「あの時、願っただろう。『万年筆の精でも出てきたらいいのに』その後に、お前は口に出さずに、続けたはずだ」

 真っ直ぐに、指先が、僕の胸の真ん中を指し示す。青いインクは身体の中の水に滲んで、胸の底に広がっていく。波紋を描き、ゆらゆらと、不思議な模様を形作る。

 そうだ。僕は、あの時、願ったのだ。もしも、万年筆の精でも出てきたら、その時は。握りしめてくしゃくしゃになった紙が、床に落ちた。銀色の万年筆だけが手の中に残る。

「だから、死にたくなくなるまで、傍にいてやるよ」

 乾いていたはずのインクは溶けて解けて、僕の瞼から、青い雫となって零れ落ちた。

 僕はあの紙に、銀の万年筆で。

 遺書を書こうとしていた。

 死ぬ前だからせめてと思って、普段買わない美しい紙を選び、それでも思い切れずにスマホを握りしめてネットを彷徨った。掌の中の四角い真っ暗な闇の中で目に飛び込んできた、この銀の万年筆を買ったのだ。眩しく強く煌めくそれがあれば、僕は思いを遂げられるはず、そう信じて。

 でも本当は、誰かに助けて欲しかったのだ。どうして生きていいのか、わからないまま、それでもいいのだと踏みとどまれる小さな重しが欲しかった。闇を照らす小さな光が欲しかった。

 止めどなく降り落ちる青い涙は、僕の頬に、腕に、服に、淡い染みを付けていく。

「言っただろ、俺の役割は、持ち主の幸せを手伝うことだ」

 手の中にある銀の万年筆の重さの分だけ、僕はまだここに留まれそうだった。



 僕は銀磨きのクロスを動かす手を止めて、万年筆を光にかざす。

「これでどう?」

「よくできました」

 満足げな顔で、男が拍手をしてみせる。

 あの日から毎日、男の講釈は続けられ、僕は万年筆とインクの基礎を、みっちりと叩き込まれている。

「これでご主人様、って呼ぶ気になった?」

「いえ、全然。まだ覚えることは山のようにありますからね」

 冷たく青い声音が、柔らかく笑いを含んで答える。でも、その口調はかなり丁寧になっているから、可笑しい。

 僕はそっと、掌の上の光を見つめた。

 磨き上がった万年筆は美しい銀色に輝き、万年筆の精は、それに合わせて立派な執事の服となった。

「それさ、本体が汚れたら元に戻るの?」

「こっちが元です。メンテナンスを怠ると、あの姿になる」

「休みたい時はどうするの」

「忘れましたか。インクを抜いてください」

「あー、冗談だって、覚えてるよ」

 鋭くなった眼光に、慌てて手を振って、僕は笑った。

 文具沼は、深いのだ。その上、覚えることは山よりも高く積み上がり、僕がこの地に留まるために負った背中の荷物は、次第に多くなるばかり。もう、白く寂しい紙の上に、投げ出されることはないのかもしれない。

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