雨矢健太郎




 その日の朝わたしは通勤快速に乗る筈だったが突如として何もかもが嫌になった。


 別におかしなことではない。


 この現代社会で生きていれば何もかも嫌にならない方がおかしいのだ。もちろんそうは思わない人もいるだろう、でもそっちの方が特殊だとわたしは思う。


 快速という名前も気に入らなかった。


 快適な速度。わたしにとってそれはのろのろと永遠に蛇行し散歩中の犬にまで抜かれ職場へと送り届けることを放棄するものだ。一刻も早く職場へ辿り着かせようとする速度なんて快適である訳がない。


 駅で不審人物が現れ、出発の時間が遅れたりするとわたしは嬉しくなる。遅延証明書を貰い意気揚々と会社を遅刻することが出来るのだ。だが毎日、不審者が不審な行動をしてくれるわけでもないので大抵はいつも通り各駅をすっ飛ばして職場の最寄駅へと辿り着いてしまう。非常に残念。


 わたしは毎日、我慢ばっかりしていた。


 我慢のし過ぎだと思う。


 これ以上、我慢したら死ぬ。


 内側から破裂して死ぬことほど馬鹿らしいことはない。


 何もかも嫌になったわたしはぼんやりと自分が乗るべき電車が遠ざかって行くのを他人事のように見つめていた。上半身を乗り出した車掌がこちらの事情など察することなく目の前を横切った。


 自分が何故そうしているのかよくわからないのにそうしていた。


 わたしは暫く呆然と立ち尽くしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかないので携帯で時刻を確認した。


 「六時四十分………か」


 もう間に合わない。


 (これを逃したらまずいぞ………)そう思っていたのに足は一歩も動かなかった。


 自分が今、電車に乗らなかった理由を考えようとした。だがわたしは生まれてから今日までの間、何かを真剣に考えたことなんて無い気がしていた。学校でも、仕事でも、考える場面はたくさんあった。けれどそれはなんというか考えるふりでしかなかったのではないか? その証拠にこんな時わたしは自分が何を考えるべきなのかがさっぱりわからない。


 立ち尽くす自分の背中の方にやって来た電車にするりと身体を滑り込ませてみた。


 (一体、何がしたいのか?)


 よくわからない。


 乗り込んだ本来、乗るべきではない電車。それは動き出し逆方向へと進んだ。扉、付近でぼんやりと凭れ掛かるようにしてわたしは立っていた。


 車窓から見える移りゆく街並み。そこに建つ家々。不思議だ。あのそれぞれに人が住んでいてそのそれぞれの人生ってやつがあるなんて………きっと永遠にわたしとは関わり合いがないのだろう。それはとても寂しいこと。みんな本当のことはけして口にはしない。それが習慣となっていつも無駄な話しばかりが繰り返し溢れている。


 再び車内へと視線を戻すと皆、俯いて自分の携帯をいじっていた。


 わたしは、疲れていた。


 もう何も考えたくはなかった。


 やりがいのない仕事だ。


 自分でなくてはならない、なんてことはない。ただの歯車で、壊れたら次の部品と交換するだけ。その際だってきっとスムーズに移行するのだろう。


 何かが間違っている。でもその何かがなんなのかがわからなかった。みんなは疑問に思わないのだろうか? それとももう諦めてしまったのか?


 聞き覚えの無い駅でわたしは乗った時と同じようふらりと降りた。そして歩いた。なるべく人気の無い方へ行こうと思った。東京はいつも人で溢れている。でも今は誰とも会いたくない気分。そして海へ行くにはわたしは似合わなすぎる。


 近くの森へと行ってみることにした。何度かポケットの携帯が振動しやばいよやばいよっ的なことを伝えていたが無視した。わたしは歩いた。歩く。歩く。心を無にして。自動販売機の横に設置してあった屑籠に携帯を投げ捨てる場面が思い浮かんだ。わたしはもう駄目なのかもしれない。


 人は簡単に駄目になる。


 それはあまり理由も無いように思える。何故ならわたしたちは物語の中の登場人物ではない。理路整然と第三者にわかりやすくある必要が無い。昨夜、遅くに入った閉店間際のスーパーマーケットでは髪の長い女性がいきなり怒鳴り声をあげた。彼女の周りには誰もいなかった。


 わたしはぼんやりと思う。


 (あの女の人は今頃、何をやっているのだろう?)


 普段、乗らない電車に乗って森にでも向かっていればいいな。心底、そう思う。


 梅雨の湿気がまだ残る不快な日本の夏だったが、辿り着いた場所は涼しく、また人もまばらで時折、犬を連れて歩く近隣住民などとすれ違う程度だった。


 このままお腹も減らずに永遠にこの場所に留まることが出来たらいいのに。


 風と戯れるよう、そよそよと木の葉たちは優しく揺れ、そこから射し込む光は流れるように模様を変えわたしの目を楽しませてくれた。


 目を閉じ、また目を開けるまでが楽しい。さっきまでそこにあった景色がまた目の前に用意されていることが嬉しいのだ。だからわたしは好きな食べ物を最後まで取っておく子供のように長い間、目を瞑るのだった。


 静寂が辺りを包み込む。


 わたしはもうさっきここに来た時のよそ者のわたしではなかった。自然の一部だった。何も考えなくて良かった。その必要は無かった。ただそこにいるだけで正解を選び取っていた。ずっと忘れていた。それはとても簡単なことだったのに。


 大切なことが少しだけわかって、そしてそれで全てわかったことになるのだ。


 わたしの内側に巣食っていた邪気もひとまずは霧散したようだ。やがて存在をすっかり忘れていた携帯が振動した。


 ゆっくりと画面を開く。


 「今、何処にいるんですか?」


 森。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨矢健太郎 @tkmdajgtma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る