第2話

 その日は夜間帯のバイトが急病で休んだ旨を聞き、いつも夕方の五時に終わる仕事を九時まで行った。家に帰ったところで騒々しい父の鼾を聞きながら布団に篭るしかない。バイトが来ないことは悠太にとって良い知らせであった。

「端場くん、今日は助かったよ。これ少ないけどもらってよ」

 店長が差し出したのは薄い茶封筒だった。そこに残業分の賃金が入っているのかと思ったが、それとは別に店長が気持ちで悠太に手渡したものだった。

「いや、受け取れませんよ。残業代だけで結構ですから」

「いやいや、そう言わずにさ」

 店長は悠太の手に茶封筒を無理やり握らせた。仕方なく悠太はそれを受け取り、頭を下げた。

 茶封筒の中には五千円札が一枚入っていた。気持ちという割には金額が高い。悠太は驚きを隠せなかった。

 父親の痩せ細った背中を思い出す。今日くらいは父親にいいものを食べさせよう。そう思い、閉店間際のスーパーで売れ残り、安くなっている幕の内弁当を二つ買う。

 その弁当を帰りの道中で冷めないように電子レンジで温める。温めた弁当は容器が変形するほど熱くなり、ご飯の上に乗せられた海苔は小さくなっていた。それでも久しぶりに見る真面な食べ物は美味そうだった。悠太は自然と落ちる涎も気にならなかった。

 雪は朝よりも大きな粒となり、せっかく余計に温めてきた弁当を白く染めていた。悠太は小走りで家へと向かった。父が腹をすかせて待っているはずの家に。

 アパートに着くと鍵がかかっていた。父が家にいる際、鍵はかけない。悠太は不安を覚えながら、財布から合鍵を出し静かにドアノブを引いた。電気もついていない室内には滞留する冷気だけが蔓延っていた。父が朝雪を眺めていた窓から月に反射した白い雪が穏やかな光を送る。人の気配はなかった。

 湿気の溜まったテーブルの上に弁当を置こうとしたとき、何かに手がぶつかった。驚いた悠太は慌てて豆電球に手を伸ばす。オレンジ色の暖かい光が部屋を包んだ瞬間に小さな真新しいラジオが目に入った。その横には日焼けして変色したメモ用紙。父の汚い蚯蚓のような筆跡が残っていた。

 すまない。たったそれだけの文字で悠太は父が借金を残して逃げたことを察した。新しいラジオを置き土産にして。

 不思議と父に対する怒りは湧かなかった。むしろ、蒸発してくれたことで父を気遣う生活が終わりを告げ、一人で自由に生きていく道ができたと楽観的に物事を捉えていた。生活が大きく変わる訳じゃない。悠太は自分の稼ぎを全て父に預けていた。きっとそこから借金を返済していたはずである。

 父の収入は知らなかったが、稼いでいないことは察していた。今まで父が悠太の金を使って返済していたものを自分が変わらず清算していくだけ。大きな変化など、何もなかった。

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鉛の感情 鞍馬寛太 @kuramakanta

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