間違いなく君だったよ

加卓りこ

間違いなく君だったよ


 僕はその夏、人魚に出会ったーー。





「……どこだ、ここ」


 目を開けると眼前に広がる光景に、思わず声が漏れる。

 どこを見渡しても水、水、水。

 自分自身の全身を覆うのも水、見上げれば空があるはずの頭上ですらも水。

 まるで海の底にいるような。

 ……だけど不思議と息は苦しくもなく、水は冷たくもなく、体に水の抵抗もなく。

 むしろどこか心地よささえ感じるような感覚。


 ひとりごちたその疑問は誰かの応えを期待したものではなかったけれど、思いもよらず声が返ってきた。


「海の底ですよ」


 耳に優しく響く鈴のような声だった。

 振り返ると微笑む一人の少女が佇んでいた。

 ……佇む、というか。

 ゆらゆらと浮いている。

 淡い珊瑚色のふわふわの髪が躍り、透き通るような白い肌にほんのり色づく頬と唇が笑みを彩る。

 ただ、目を奪われたのはそれだけではなく、足があるべきところにそれはなく、髪と同じ珊瑚色をした……魚の尾が揺れていた。


「……に、ん、……ぎょ?」


 童話でしか知らないその単語を信じ難くも口にする。

 彼女はふわりと微笑んだ。


「ヒトはそう呼んでいるようですね」


 信じられない光景だったけれど信じざるを得ない状況でもあり。

 二の句を継げないままの僕に人魚の少女は優しく手を取った。

 真珠のような肌、少しだけひんやりとした細い手だった。


「行きましょう」

「……どこへ?」


 彼女は笑み、僕の手を取ったまま泳ぎ出した。

 ゆらゆらと踊るように僕を連れて進み出す。


「あなたはヒトの世界に帰らないと。

 入り口まで案内しますよ、……私もそちらへ用があります」


 彼女は少しだけ淋しげにそう言った。


 隣で優雅に泳ぐ彼女に見惚れる。

 揺れる髪が時折僕の鼻腔をくすぐり、なんとも言えない甘い香りに頬が紅潮するのを感じた。


 さして長くない時間、やがて彼女は泳ぐのをやめてふわりと下に降りた。


「この先がヒトの世界です。あなたは帰らないと」

「……君は?」


 離された手が、指が、名残惜しくて。

 尋ねると彼女は少しだけ困ったように表情を変えた。

 その表情さえも綺麗で、気恥ずかしくなって僕は彼女の顔から視線を逸らす。


 それから瞬きを二度三度した後に、そらした視線の先の尾が、ほんのり透き通っていることに気がついた。

 ゆっくりと視線を上にあげていくにつれ、指先が、肩が、髪の先から、ぽわぽわと小さな泡が浮かんでいる。


「君は」

「私は、こちらの道です」


 言っている間にも彼女の体をどんどん泡が包んでいき、所々……消えている。

 思わず伸ばした手は、彼女に触れることなく、真珠のような肌は泡になった。


「泡になって消える前もう一度だけ、泳ぎたかった。

 ……一緒に泳いでくれて、ありがとう」


 姿はもうなく、鈴のような声だけが耳に響いた。


「待っ……」


 伸ばした手がひやりとした泡に触れた、気がした。

 声を出そうとしたけれど、ものすごい海の流れに引かれ、僕の声も意識もその瞬間に途切れた。






 次に目を覚ましたのは、頭上には青い空が、周りには見知った人たちの顔がある、よく知る光景だった。


「……僕は」


 瞬きをしながら口を開くと、周りから安堵の声が聞こえてきた。




 どうやら僕は溺れて流されていたらしい。

 行方不明扱いで大騒ぎになっていたところ、突然波と一緒に打ち上げられたそうだ。

 何の怪我もなく突然戻ってきた僕に周囲は戸惑ったが、僕自身もわけがわからなかった。


 ……人魚の彼女のことは、夢だったのか想像だったのか、それとも。


 周囲の喧騒の中ぼんやりと考えるうちにふと自身が何かを握り締めていることに気づいた。

 無意識に硬く閉じていた左手をそっと開くと。


「真珠?」


 姉が横から覗き込んで僕の手の中にあるそれを見て言った。


「…………人魚姫の、泡……かな」


 珊瑚色した真珠が、海の波に応じるかのように淡く光ったーー






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

間違いなく君だったよ 加卓りこ @kitamoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ