部活の小生意気な後輩の話

室園ともえ

小生意気な後輩

「私たちの一年ちょうせんは、今、始まったばかりだ」


 あの誓いを忘れることはないだろう。


 これからも、この先も。


 ───


「頼むっ……! 負けるな!」


 各校の応援歌とプールを泳ぐ選手達の水しぶきの音が会場に鳴り響く。

 そんな中、俺はセンターコースを泳いでいる部活の後輩の女子を一人で観客席から応援していた。


「いける! これなら一位だ!」


 俺の後輩──井口真由いのくちまゆが泳いでいる競技は400m個人メドレー。バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールの順で100mずつ泳ぐ種目だ。それゆえ体力、技術共に高いレベルを求められる。彼女はそれらの種目一つ一つを完璧に泳ぎ、残り数メートルに差し掛かっている。


 ───そして、彼女は一位で泳ぎきった。


 しかもそのタイムは全国大会標準記録を切っている。すなわち全国大会への挑戦権を獲得したのだ。


「やった……!!」


 全国大会への切符を手にしたのは彼女なのだが、それが自分の事のように嬉しい。プールを観客席から見下ろすと、コースロープに寄りかかりながら俺に向かって、まるで疲れを感じさせないような満面の笑みを浮かべて、ダブルピースをしている真由の姿があった。


「……こうしちゃいられないな」


 俺は観客席から急いで彼女のいる待機所へと向かった。少しでも早く「おめでとう」と言いたい。「さすが俺の弟子だ」って褒めちぎってやりたい。そんな気持ちが心の奥底から溢れるように湧き出てきた。


 待機所に着くと落ち着かない雰囲気でソワソワしている真由がいた。赤みがかった明るい茶髪をくるくるといじりながら、辺りを見渡している。


「おつかれ井口」


 声をかけると、真由はカラメル色の両目を見開き、嬉しそうに口元を緩ませる。


「えへへ〜。川口先輩もお疲れ様です」

「俺は大して疲れてねぇよ。……予選落ちだしな」


 本当は俺も本選に出場できたかもしれなかったのだが、予選で僅差で負けてしまった。もし勝てたとしても、おそらくいい結果にはならないだろうが。


「あ……そういうつもりは……」

「別に気にすんな。来年また頑張るさ」

「……今度は一緒に行きましょうね」

「待ってろよ。すぐに追いついてやる」


 また来年になればチャンスはある。今よりもっと上手くなって今度は俺も全国大会への切符を手に入れるために。そして、


 ───を果たすために。


 ───


 一年後


 俺たちは互いに切磋琢磨し、確実に成長していった。井口も全国大会では全くと言っていいほど実力が通用せずに予選落ちしてしまったが、それにより俺も井口も闘争心に火がつき、去年より大幅にタイムを縮めることが出来た。


 お互いベストを尽くすことが出来れば、全国大会に届くほどに。


「とうとう来ましたね」

「あぁ。今年こそは本線突破してやる」

「まぁ私は余裕ですけど」

「お、俺だって余裕だ」

「動揺しすぎですよ。……そうじゃないと困ります」


 いつものように井口にからかわれる。一応俺は水泳を基礎から教えた師匠であり先輩なのだが……あんなに内気だった一昨年のことが嘘のようだ。


「……まずは俺の番だな」


 俺の種目は200mバタフライと400m個人メドレー。開会式後意外とすぐに予選が始まる。


「頑張ってください。予選落ちなんてしないでくださいよ?」

「するわけねぇよ。ぶっちぎりで予選通過してやる」


 水泳の大会のコース順はセンターコース、つまり四番に近いほどエントリータイムが早いという特徴がある。俺は最終組の3番。予選通過はほぼ確定だがやるからには全力で泳ぐ。狙うはもちろん1位だ。


「じゃあ私先に観客席取ってきますね」

「おう。ありがとな」


 井口は軽く会釈すると観客席の方へ向かっていった。


「よし。アップしに行くか」


 その後は各自アップをして、自分の種目が来るまで体を温めておく。当然俺も万全の状態で種目に望むためアップをしておく。


 手早く着替えを済ませ更衣室を出ると1番手前のコースで準備運動をしている井口の姿があった。


「……お前早くね」

「先輩が遅すぎるんです」

「いや、さっき別れてから真っ先にここに来たんだが」

「くだらない言い訳はいいです」


 事実を言ったはずなのにあっさりと返されてしまった。圧倒的理不尽。


「あ、先輩お願いします」

「……何をだ?」

「いつもみたいに私に課題をください」

「そういや……しばらく出してねぇな」


 部活でたまたま同じ種目を泳いでいた時、あまりにも初心者じみた泳ぎ方をしていた井口を見かねて俺は毎日、課題を出していたのだ。


 最初は基礎的なことから教えていたつもりだったが、真由は俺を圧倒するセンスを持っていて、少し教えただけでメキメキと上達した。いつの間にか俺よりも上手くなっているほどに。


 別に嫉妬はしていない。というよりむしろ尊敬している。


 だから井口は俺の事を「師匠」と呼び、俺は井口の事を「弟子」と呼んでいる。


「だけどそれこの前も言っただろ。もう俺がお前に教えることなんて何もないって」

「じゃあしてほしいこととか」


 してほしいことか……。まぁないこともないんだが。


「なら全力で俺を応援してくれ」


 何故か少しだけ眉をひそめ残念そうな顔をする井口。……期待はずれだったか?


「こういう時は普通『俺と一緒に全国大会に来てくれ』とか言うところですよ」

「……青春ドラマの見過ぎだ。それより早くアップするぞ」

「ちぇ〜」


 くだらないやり取りをしているうちに更衣室かは続々と他の選手が出てきてアップを始めていた。俺と井口も一旦会話を切り上げ、アップに集中することにした。


 ───


 ……そうして、俺の種目の番になった。


「やべぇ……緊張する……」


 俺が泳ぐのは2二組目。ついさっきまでアップをして濡れていたはずの肌はいつの間にか乾燥していて水の感覚が無くなっていた。


 緊張して徐々に呼吸が荒くなっていくのがわかる。横を見ると俺よりずっと体格が引き締まっている選手がいた。名前は知らないが県大会のセンターコースを取れるぐらいだ。きっと相当な実力があるのだろう。


 ……俺が、勝てるのだろうか。


 近くに置いてある水場で緊張で火照ってきた体を冷やしておきたいのだが金縛りのようになってしまったようでピクリとも動かない。


 ……負けしまったら、どうしよう。


 どんどん思考が悪い方へと働いてしまう。

 心臓が鳴り止まない。


『三コース、川口俊介』


 いつの間にか俺の名前が呼ばれている。一時遅れてしまい慌てて一礼する。緊張しているせいで壊れかけのロボットのような動きになってしまった。


 ふと横を見るとキャップとゴーグルをまだつけていないことに気づいた。慌ててつけ始めるが緊張で手が震えて動かない。


 ……去年はこんなことなかったはずなのに。


『三コース、準備をしてください』


 キャップとゴーグルをつけ終わると、もう他の選手はスタートの用意をしていた。急がないと失格になってしまう。


 足に力が入らない。深呼吸しようにも喉に空気が届いている気がしない。全身から血の気が引いていく。


 で……でも、



「バッカヤローーーー!!!!」




 沈黙の中会場に罵声が響き渡る。その声のする方を見るとそこには顔を真っ赤にしてうっすらと涙を浮かべている、井口がいた。


「何緊張してんの! それでも私の憧れた師匠のつもり!? 私の……私の好きな先輩はそんな腰抜けなんかじゃない!!」


 井口は周りの視線に目もくれず再び大声で俺に向かって呼びかけてくる。


「さっさと予選なんか突破して私と一緒に全国大会行くんでしょ!!」


 井口はそう叫ぶとそのまま観客席に膝から崩れ落ちた。下手に悪目立ちしたがるようなキャラじゃないのに。


 ……情けねぇな……俺。


 バチンと自分の両頬を力いっぱい叩く。そして飛び込み台に立ち、スタートの用意をする。本当は俺も大声で答えた方がいいのだが、さすがに悪目立ちしすぎている。まずは目の前の予選という壁を突破する。これが第一だ。


『三コース、準備はよろしいでしょうか』


 アナウンスが気を使ってくれたのか俺に再び呼びかけてきた。


「ご迷惑をお掛けしました!」


 会場の全体に響き渡るほどの大声で謝罪をすると観客席と他のコースから笑いが起きた。


 ……これ黒歴史案件じゃん。


『take your marks』


 再びアナウンスが鳴った。


 俺はここで一位を取る。それだけでいい。緊張して後輩に大恥かかせたぶんきっちり結果出さないと井口に合わせる顔がない。


 ピッ!


 ホイッスルの音と共に種目がスタートする。



 ───まずは絶対に予選通過してやる!



 ───


 午前の予選が終わり、午後からの本線に向けて各々が集中し始めている中、俺と井口は入口近くで座り込んでいた。


「……負けちゃいましたね」

「……お前も予選落ちじゃねぇか」

「誰かさんのせいで心臓バクバクだったんですから」

「……ほんとすまねぇ」


 結果は俺も井口も予選落ち。あれでけ悪目立ちして勝てたのならまだしもあっさりと予選で落ちてしまった。自分なりに努力はしたつもりだったのだが、それは他の選手も同じでかなりの人数が自己ベストを出していたらしい。


 ……それでも負けた理由の大半は俺にあるのだが。


「……最後の大会がこんなので終わるなんて後味悪すぎだな」

「……私は満足ですけど」

「なんでだよ。せっかくの努力が無駄になったんだぞ?」

「それはそうかもしれませんが……でも」

「……?」

「私の気持ちは伝えることができましたし」


 気持ち……? いつ伝えられただろうか。


 その時、ふと脳裏に先程の出来事がフラッシュバックした。


『私の……私の好きな先輩はそんな腰抜けなんかじゃない!!』


「なぁ井口」


「俺が緊張してた時に言ってた……あれって本当だったのか?」


 俺がそう聞くと井口は顔全体を茹でたこのように赤くして鋭い目で睨んできた。なるほど……そういうことか。


「……覚えてるか? 去年俺がした約束」

「覚えてますよ。先輩が全国大会行けたら私がなんでも言うこと聞くってやつですよね」

「あぁ。今回は結局お互い行けなかったけどもう最後なんだ。ひとつくらいわがまま言ってもいいか」

「もう何されても私驚きませんから」


 そういう時井口は小柄な体格に似合わないほどどっしりと構えて目を閉じた。


 さて、今度は俺の番だ。


 ……俺は、お前がいたからここまで来れたんだ。最初は俺が教えてたはずなのに、どんどん上手くなって、俺を追い越していってしまった。初めて誰かに負ける悔しさを味わって、追いつくために俺は必死で頑張ってこれたんだ。でも全部楽しかったんだ。ずっと一緒にいたいってぐらいに。


 だから、これからもずっと傍に───


 それを言葉にして伝える。それだけ。覚悟を決めろ。


「お、俺はお前のことが……っ」


 好きだと言おうとしたのだが声が出ない。しかしほんのりと甘い香りと唇に柔らかな感触がする。気づくとさっきまで隣で目を閉じていた井口が俺に……キスをしていた。


「い、今から大事なことをだな!」

「もう知ってますよ」

「な、なんで」

「私に教えてる時に胸ばっかり見てるし、ずっと目線合わせてるとすぐ逸らしちゃいますし、それから……」

「あーー! もういいから!」


 胸は不可抗力だし仕方ない。目線は恥ずかしいからムリ。……バレてたのかよ。


「ちょっと前から薄々感じてましたよ」

「それでもちゃんと伝えたいんだよ」

「じゃあ返事は……」

「もちろん、喜んで」


 さっきの緊張の比になんかならないほど心臓がバクバクしている。全身が火照って顔が熱くなっていくのが嫌という程わかった。


 ふと井口を見ると、顔は真っ赤のままどこか不満げな顔だ。また何か期待はずれなことを言ってしまったのだろうか。しかし細々と何かを呟いているのが聞こえる。


「何か不満だったか」

「……先輩ってほんと遅いですよね」

「それってどういう意味だ?」

「……水泳のタイムの話です」


 消えそうな声で「鈍感」といいながら軽く腹を小突かれた。でも力はこもってない。


「これからもよろしくな。真由」

「……ばか」

「ぐほぉ!?」


 せっかく彼女になったのだから名前呼びぐらいいいだろうと思ったのだが何故か今度は脇腹に渾身の右ストレートが飛んできた。


「そういう所ですよ。俊介くん」


 真由にそう呼ばれて、今日一番心臓がうるさく鳴り響いた。


 ほんと……情けない先輩だよな、俺。


 でも待ってろよ。すぐに追いついてやるからな。


 お前の横に並んでいられる男になってやる。



 ───その時の空は、やけに蒼く見えた。

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