滑走路の桜の向こう

尾八原ジュージ

滑走路の桜の向こう

 君と付き合い始めた頃、武蔵境駅はまだ高架化工事をしていたな、なんて思いながら、僕はひとり電車を降りた。


 土曜日の明るい昼下がりだった。外気は思ったよりも暖かい。日付はまだ五月の末だが、早くも本格的な夏の気配を感じる。もっとも僕にとっては、武蔵境は桜の頃に訪れる場所と決まっているから、余計に暑く感じられるのかもしれない。


 当たり前だけど、工事中で使いにくかったあの頃と比べると、武蔵境駅はずいぶんきれいになったし、利用しやすくもなった。


 僕は一旦壁際に寄ると、君にメールを打った。


『武蔵境到着。バス停に向かいます』


 送信する。その直後、僕のスマートフォンが振動した。僕は画面の通知をちょっと確かめ、ポケットにしまった。


 若い女の子が2人、僕を追い抜いてJRの改札に向かう。マスクの下から笑いさざめく声が聞こえる。彼女たちの後姿を見送りながら、僕もICカードを取り出した。


 改札を抜け、南口に出る。


 駅前のイトーヨーカドーは、なんだかずっと変わっていないような気がする。「あそこに巨大なハトがいるよ!」と、屋上の看板を指さしながら言った君の声が、僕の耳の奥で10年越しに響いた。


 南口にはいくつかのバス停があり、行先の違うバスが出たり入ったりしている。僕は少しの間ウロウロと、目的のバス停を探した。丸一年以上も来ないとすっかり忘れてしまう。


 さて、国際基督教大学へ行くバスは、この中のどれだっただろうか。



 

 無事に探し当てたバスに乗り込むと、僕は降車口に近い席の窓側に座った。さっき見かけた女の子たちが、一番後ろの座席に座っていた。髪の長い方の子が、付き合い始めた頃の君に似ているな、と僕はふと思った。


 車内はいつもより空いていた。やっぱり新型コロナウィルス流行の影響だろう。僕を含め、街ゆく人もほとんど皆マスクをつけている。緊急事態宣言が解除され、街に活気が戻ってきている感じはするが、流行の第二波にも注意しなければならないだろう。


 僕はまたメールを送った。


『ICU行きバスに乗りました』


 送信後、また少しして僕のスマホが何かを受信した。どうせ決まりきった内容のメールだろう。僕は画面を見ようともしなかった。


 バスが走り出した。目的地までは10分ほどだろう。


 スマホをしまい、窓から武蔵野赤十字病院を横目に見ながら、僕は君のことを考えた。


 初めて出会ったとき、君は国際基督教大学の一年生だった。僕は、自分の志望する学部がなかった国際基督教大学、略称ICUのことはほとんど知らなかった。ただ高校で聞きかじった情報から、英語がペラペラでないと入学できないんだろうな、と思っていた。


 そう言うと、君は大きな口を開けて笑った。


「そんなことないよ! 私、英語は全然へたくそだもん」


 それが事実だったのか謙遜だったのか。どっちにせよ僕はその後、君が英語を駆使する場面を見ることはなかった。


「ICUはね、今の時期は滑走路の桜がすごいんだよ。絶対見た方がいいよ」


 春休みにデートしたとき、君は僕にそう教えてくれた。


「大学の中に滑走路があるの?」


「ほんとに飛行機が飛ぶわけじゃないけどね」


 ICUの構内には、正門から大学礼拝堂前のロータリーまでを結ぶ「マクリーン通り」という広い道路がある。およそ600m、まっすぐに伸びるその道は、通称「滑走路」と呼ばれているそうだ。両側にソメイヨシノがずらりと植えられていて、春になると一斉に花を咲かせる。それはまるで、桜のトンネルのようだという。


 確かあれは、3月の最後の土曜日だった。僕たちは武蔵境駅からバスに乗って、正門前の「国際基督教大学入口」で下車し、そこから長い桜並木の間を歩いた。白く曇った空の下に桜が咲き誇り、薄いピンク色の花群が僕らの頭上を覆っていた。まるで夢のようだった。


 僕がすごいな、と呆けた顔で言うと、


「でしょ」


 と君は自慢げに応えて笑った。


 桜並木の終わりに植え込みのあるロータリーがあって、その向こうが大学礼拝堂だ。飾り気のない灰色の壁面に、大きな十字架が掲げられている。


「あ、結婚式」


 君が呟いた途端、礼拝堂の正面入り口が開いて、大輪の白薔薇のようなドレス姿の花嫁が、花婿に手を引かれて姿を現した。


 参列者が拍手を送る。そのすぐ横の道路を、自転車に乗った普段着の学生が、何事もないかのように走り去っていった。ハレとケがひとつの風景の中に同居する、なんだか不思議な、でも限りなく平和な光景だと思った。


 ふとそうしたい感情にかられて、僕は右手を伸ばし、隣に立っている君の左手をつかんだ。君は指先で僕の手を握り返してきた。僕はこのとき、いつかきっと君にプロポーズしようと心に決めたのだった。


 次の年も、その次の年も、僕は君と滑走路の桜を見にいった。そして君が大学を卒業した年の、あの三月がやってきた。




 バスがカーブを切る。後ろから、女の子たちのくすくす笑いが聞こえた。若い女の子はよく笑うものだ。


 僕はまたメールを打った。


『今どこ?』


 すぐにメールの着信があった。画面に通知が表示される。


 受信したメールの送信元は「Mail Delivery Subsystem」となっている。


 僕はアプリを閉じて、ため息をつきながら窓の外を見た。流れていく景色を眺めながら、自分はいったい何をしているんだろう、と自問自答した。




 あの日、例年どおり桜を見に行こうと誘い合わせて、僕は武蔵境駅の南口で君を待っていた。


 なかなか来ない。僕は携帯の画面を何度も見たり、駅から出てくる人の中から君を探そうとしたりした。


 30分が過ぎ、1時間が過ぎたが、君はまだ現れなかった。


 君は滅多に遅刻をするような人ではない。僕の胸はだんだん不安で押しつぶされそうになってきた。何かあったのではないかと考えると、焦燥感でこめかみがジンジンした。僕は君から電話がかかってくることを、一所懸命にイメージした。


『ごめん! 寝過ごしちゃった! 入社前の内定者の集まりがあってさ、すっごく緊張して疲れちゃったの。本当にごめん! すぐ行くね!』


 そんな電話が来たらいいな、と僕は思った。そんなことなら、すぐに笑って許すのに。


 でも、僕の携帯が鳴ることはなかった。


 待ち合わせ時間から2時間が経ち、僕はようやくその場を離れることにした。先日住所を教えてもらったばかりの、君の新居に出向こうと思ったのだ。


 君にメールを送ってから、僕は武蔵境駅の改札の中に引き返した。その瞬間ふと、僕の胸の中にあった「厭な予感」が、実体を持ち始めたような気がした。


 もしもあの日、僕がずっとずっと武蔵境駅南口で君を待っていたら、君は死なずに済んだのだろうか。


 そんな馬鹿みたいなことを今でも考えてしまう。あの日、君は僕との待ち合わせに向かう途中で、事故に遭って帰らぬ人となったのだ。


 もう10年が経つ。


 僕はこの10年、毎年春が来ると滑走路の桜を見に行った。でも今年は新型コロナウィルス流行の影響で、満開の桜を見ることができなかったのだ。僕の職場は病院で、スタッフの不要不急の外出は、厳しく制限されていた。


 こんなとき、君なら絶対にお花見になど行かないだろう。桜は来年も咲くよ。それより病院に来る人たちのことを考えて。きっとそう言う。だから今年は君に従って、満開の桜を見るのは諦めた。花の季節は家に閉じ籠り、緊急事態宣言が解除されるのを待って、ようやくここに来ることができたのだ。


 バスは天文台通りにさしかかった。2人の女の子も、他の乗客たちも途中でバスを降り、いつの間にか車内は僕と運転手だけになっていた。


『次は「国際基督教大学入口」。お降りの方はブザーでお知らせください』


 僕はブザーを押した。バスが止まり、ドアが開く。


 終点はここではなく、正門の奥にある「国際基督教大学」というバス停だ。バスは僕だけを正門の前に残し、大学の構内へと、あの滑走路を走り去っていく。


 僕はまたメールを打った。


『ICU到着。今正門前』


 もう解約されて久しい、今は存在していない君のメールアドレスに宛てて送信する。またすぐに僕のスマホが振動する。エラーメールが届いたのだ。


 万が一にも、君に届くわけがない。


 僕は正門から少し後ろに下がり、守衛室の向こうにまっすぐに続く道の奥を見つめた。すっかり花弁を落とし、鮮やかな緑の葉を繁らせた桜並木が、ずっと奥まで続いている。


 僕はこの10年、滑走路の奥に行ったことはない。


 ただその入口に立って、桜並木の向こうに立っている君のことを、全力で想像する。


 そうしていると、君が滑走路の向こう、礼拝堂の前あたりに立っているような気がしてくる。ここからは見えないけれど、そこにきっと君はいるんだ、という空想が、ほんの少しの間僕を温めてくれる。


 君がいないことが悲しくて、寂しくて、悔しい。


 でも、月日が経つうちに、僕はだんだん穏やかな気持ちで桜を見られるようになってきた。それと同時に、君との思い出が少しずつ、時間の向こうへ遠ざかっていくのを感じる。それがいいことなのか悪いことなのか、僕にはわからない。


 僕はメールを打つ。


『葉桜もきれいだね』


 送信して、しばらく画面を眺めていたが、エラーメールはなかなか届かなかった。メールサーバーの障害などが原因で、たまにこういうことがあるそうだ。


 それとも、万にひとつくらいは、君に届いていたりするのだろうか。


 僕はスマホをポケットにしまって、滑走路の奥を眺めた。「でしょ」と言って笑った君の声が、時を超えて僕の耳の奥で響いた。


 

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