ありふれた体験

鼓ブリキ

 その日は休日だった。私はいつも通りの時間に起きて朝食を摂った後、二度寝を決め込む事にした。

 万年床に寝そべり、片手にはスマホ。充電切れにならないよう、ケーブルを接続済み。甘美なる怠惰であった。

 習慣になりつつある動作で動画投稿サイトを開き、目についた動画を一つ選ぶ。再生ボタンを押した。






 ――どうやら寝落ちしてしまったらしい。ふと気が付くと動画は終盤に差し掛かっていた。

 もう一度最初から再生し直そうとしたが、出来なかった。手が動かない。いや、それだけではない。手の感覚そのものがない。本来なら布団の感触を脳髄に送って寄越すはずの、手が。


 まるで自分が目と耳と脳だけの存在になってしまったかのような感覚。これは夢だ、手がなくなるなんてあるわけないと己を鼓舞し必死に手を動かそうと意識を向けても無駄だった。

 私は視線さえ自由に出来なかった。目の前のスマホでは、ゲームのプログラムの穴を点いて本来の道ではない道を車が走っていた。奇妙な符合を感じた。

「ご視聴ありがとうございました」合成音声の呑気な声がそう言って、画面が停止する、はずだった。動画は停止する寸前に暗転した。この動画は何度も見たものだが、そんな挙動をするのは初めて見た。

 そこに映っていたものは、多分顔だったと思う。橙色の丸いそれはひどくぼやけた輪郭しか持たず、しかし私はがこちらを見ていると理解した。

 が何事か語りかけてきた。

「――」

 ピッチを弄ったような、ひどく間延びした言葉。何を言っているのか皆目見当もつかない。しかしそこには確かにあったのだ、途方もない悪意、私にだけ向けられたそれ。

 奮闘空しく、私は文字通り手も足も出ないままぼんやりと画面を見つめた。





 意識が明確に覚醒する。私はスマホを持っていた右手を見遣った。視線はスムーズに動いた。長い充電ケーブルが腕に絡んでいる。手の中には真っ暗な画面。記憶を探ると、先程の体験が生々しく蘇った。しかし、それは昔よくあった、悪夢の生々しさだった。




 恐らくこの体験は、金縛りの一種なのだろう。覚醒しかけている脳髄と、眠ったままの肉体の齟齬からくる現象。ネットで検索すれば原因も対処法もわんさか出て来る。

 しかし――と私は思う。動画の最後に現れた、悪意の籠もった言葉を投げかけたあの顔(らしきもの)。

 もしあれが、私の脳が作り出したものだとしたら。



 私の無意識には一体、何が眠っているのだろう?





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ありふれた体験 鼓ブリキ @blechmitmilch

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ